第四章 聖銀の祭壇
ディレイアは夢を見ていた。それが夢だと気がつくまで少しだけ時間がかかった。
その夢はディレイアの記憶の中にあって、今でも思い出す度に幸せと不幸せを運んでくるものだった。
(……お母さん……)
ディレイアは森の中に立てられた小さな小屋の扉を開け、小さな足を懸命に動かしそこに待つ愛しい人の胸に飛び込んだ。
「どうしたの? 何か見つけたのかしら?」
母はそうやって笑うと、優しくディレイアの髪をなでつけた。その時は腰まで伸びていた彼女の紅髪は、透き通るような母の手に喜びを表すかのように、漏れ出る光の中で淡く輝いていた。
「えへへ。お母さんがいるから嬉しいんだよ」
まるで花が開くかのような笑顔で幼いディレイアは母親を見上げた。
「まあ、私もよ、レ----。私もあなたが居てくれて嬉しいわ」
ディレイアは母が自分の名を呼ぶ事が好きだった。今は捨ててしまったその名を耳にして、ディレイアの胸には甘美な喜びと、小さな痛みを感じる。
母は幼いディレイアを床に下ろすと、もう一度頭をなでて、御夕飯にしましょうと椅子に腰をかけた。
「うん。私、お腹ぺこぺこ」
自分を私と呼ぶ幼いディレイアは、少し背の高い椅子によじ登るように腰を下ろすと用意されたナイフとフォークをつかんで母の料理が運ばれてくるのを待ちきれない様子で足をぶらぶらとさせた。
(私はお母さんがいてくれて幸せだった。だけど、お母さんは? お母さんは私が居て幸せだった?)
その風景はまるで風に流される紙の一片のように、その風景を切り取り急激にディレイアの前から姿を消した。
(ボクはこの先を知っている、だけど"私"は知らない。ボクも"私"もお母さんがどんな気持ちだったのか知らない)
ヒタヒタという水の雫が漏れる音を耳にして、ディレイアはゆっくりとまぶたを開いた。
「ここは? ボクは?」
身体を起こそうとしたディレイアは、体中を走る痛みに思わず悲鳴を上げてうずくまった。
痛みのためにはっきりとしてくる記憶に歯の奥をかみしめ、身体を突き刺さる感覚をどうにか耐えながら視界を埋め尽くす闇の中に何とか壁の感触を探し出し、ディレイアはゆっくりと立ち上がった。
意識の中に舞い込んでくる、夢の中の幼い自分をディレイアは何とかして打ち払うと、見えない手を何とか掲げてその指先に意識を集中した。
「……一握の光よあれ……」
まるで絨毯についた一つの染みのように、闇に包まれた空間に一つの小さな光が生まれた。
古代魔術を源流とするその呪文は最も単純なものであり、現在も使う者はおおい。ディレイアは以前働いていた宿屋で出会った魔術師に感謝すると、その光を様々な方向に向けて自分が何処にいるのか確かめた。
「広い洞穴。自然に出来たものにしては随分と整備されているように見えるな」
上を見上げると、その遙か頭上に針の先ほどの光が見える。どうやら自分はあそこから落ちて来たのだと知ると、よく無事だったものだと自分の頑丈さに呆れながらも驚き、ディレイアは身体から離れてしまった荷物を探した。
リュックも剣もすぐに見つかった。しかし、それらを詳しく調べてディレイアは溜息をついた。
「殆ど使い物にならないや。最悪だ」
リュックのそこからしみ出した液体は、魔物よけと怪我の消毒のために入れておいた蒸留酒だということにはすぐ気がついた。中で割れてしまい中身がこぼれてしまっていた。
お気に入りの鉄製の食器もベコベコになって役に立たないし、蒸留酒に浸されふやけてしまった包帯に換えのために数セット用意してあった白い下着にも茶色い染みがこびり付いてしまっている。
ディレイアを更に落胆させたのは、旅を初めたてで買った剣が鞘の中で曲がってしまい抜けなくなっていたことだった。こうなればもう鞘を割って中身を取り出すしか無く、取り出したとしてもここまで曲がってしまっていてはまともに振ることは出来ないだろう。
「お金もないのに、どうしよう」
剣は骨董品屋で買った中古の安物で、買った当時は錆びも入っていたが、それでも当時のディレイアにとってはけっして安い買い物ではなく、それは今になっても同じ事だった。
「これじゃ、戦えないよ」
ディレイアは仕方ないといいつつも涙目になりそうなまぶたを拭い、とりあえず虚仮威しだけにはなりそうな剣をベルトとズボンの間に差し入れた。
「お腹も空いたな」
ディレイアはリュックを探って非常食としてとって置いた干し肉を取り出し口に含んだ。干し肉は漏れ出した蒸留酒に浸されていたようで、肉の臭みは確かに消えているがその代わりに酒の独特な風味とアルコールの刺激臭が咽を貫き、思わずむせてしまった。
「うう、ボクって不幸」
思えば好奇心で爆破の魔導結晶に手を出したのがけちのつけ始めだったとディレイアは後悔したが、今更何を言っても過去は帰ってこないと思い立ち、放っておけばあふれてくる涙の雫を強引にぬぐい去って、とりあえず行動を開始しようと思い立った。
本来なら、むやみに歩き回るのは良くないことだったが、ディレイアはどうもここにいるといてもたってもいられない感じがした。
何故か、心が沸き立つというのか、ざわめくと言うべきか。
指先の光を掲げて歩き出すディレイアの歩調は何かに引き寄せられるようにどんどんと早まっていく。
「何だろう、胸がドキドキする」
早まる歩調に同調するようにディレイアの心臓は次第に早鐘を強くしていくようだった。
(これは、緊張? 期待? それとも焦りなのかな?)
コツコツと、硬い靴の裏が奏でる音は静寂の闇に包まれた洞窟内に響き渡り、まるで質の悪い音楽のような響きをもって消えていくようだった。
道の先に一塊の光が見え始めた。
ディレイアは立ち止まり、手に持つ光を少し遮りながらそれを見つめた。
「出口かな?」
それはやけに明るい。しかし、太陽の光にしては何か光沢が変だ。
ディレイアはつばを飲み込んで、後ろを振り向いた。
自分以外の足音がしたような気がした。ディレイアは一度、手の光を消すと目を閉じて耳に意識を集中させる。
「……気のせいかな……」
しかし、その耳に伝わる音はどこかで軽い小石が地面に落ちる音と、どこからか流れ出る水の雫の音だけだった。
ディレイアはもう一度踵を返すと、歩き出し、"そこ"に至った。
「え? なに?」
そこに広がる光は太陽のそれに比べると幾分か穏やかで、手に持つ光の明るさになれていたディレイアは急激に広がる空間にあっけにとられ、ただぐるっとそこを見回すより他がなかった。
そこは出口ではなかった。考えてみれば当然でもある。ディレイアが落ちてきた場所は標高が高いといっても山の裾からかなり入った場所であり、彼女が今まで歩いてきた道のりから考えればとうてい山を抜けるほどの距離にはならないはずだった。
方向が分からないため、どうにも言えないが、ひょっとしたら出口を目指すどころか山のもっと奥深くに歩いてきていたのかもしれない。
しかし、そんな危惧や希望などは今のディレイアには全くの無縁であったに違いない。
彼女は驚愕の表情で掲げていた腕を落とし、さっきまで闇を照らしつけていた手先の光を消し去った。
「祭壇?」
その光は、魔光石が生み出す光とはかけ離れていた。そして、それは壁から発せられるものではなく、その中心、何かを祭り上げる簡素な祭壇の奥からわき出してきているように思えた。
木造の小さな祭壇は、まるで王宮を小さく縮めたような姿をしており、普段は閉じられているのであろうその正面の城門はまるで内側から押されたかのような形で開け放たれており、その奥にあるものの姿をさらしていた。
ディレイアがそれに向かってゆっくりと歩み寄っていったのはおそらく無意識のことだったのだろう。
「これが、紋章? ……ボクの紋章だ……」
ディレイアは頬が熱い涙で濡れるのを感じた。それはまるで、何年もあえなかった思い人とようやく再会できたかのような、ただ純粋な喜びだった。
徐々に伸ばされていくディレイアの腕は、後一歩で紋章に指先が届きそうになっていた。
だから、彼女は気づかなかった。そんなディレイアの後ろに忍び寄る黒い影に。
「……あっ……」
それは一瞬だった。まるで無理矢理眠りにつかされるような、自分ではない誰かの腕に意識がつみ取られるような。
うなじに響く衝撃がなんなのか気づく前にディレイアはそのまま床に倒れ込んだ。
「だ、れ?」
倒れ込んだディレイアの意識に呼応するように、その紋章は次第に光を失っていく。だから、ディレイアはそこに立って自分を見下ろしていた影の表情を伺うことが出来なかった。
「ご苦労だったな。眠れ」
それはどこかで聞いたような、まったく聞いた覚えの無いような声だった。まるで自分を物のように見下すその視線だけを感じ取り、ディレイアは再び白い意識の奥深くへと沈み込んでいった。
それより少し時間がたち、警備団長と幾人かの王宮騎士を引き連れたベルディナがその祭壇に足を踏み入れた頃、祭壇に安置されていたはずの紋章はその姿を消していた。
ベルディナは、
「チクショウ!」
と舌打ちし、そこに寝転がっているディレイアを見つけ驚いたような表情を浮かべるが、すぐに眉間にしわを寄せ、騎士の一人に命令した。
「聖銀の祭壇から聖銀の紋章が消失した。大至急国王に伝達しろ。早急に緊急会議を開く。関係者全員に招集をかけろ。」
そして、意識を失っているディレイアに鋭い視線を投げかけ、命令を受領し駆け足で立ち去った騎士とは別の騎士に向かって更に命令した。
「こいつは聖銀の紋章消失の重要参考人だ。とりあえず、牢にぶち込んでおけ。尋問は俺が行う!」
そして、行けというベルディナの言葉に呼応して騎士の何人かがディレイアを担ぎ込み、警備団長と共に祭壇を後にした。
祭壇に一人残されたベルディナは、トーチの光を祭壇へと向けそこにいる誰かに呟くように声を漏らした。
「また、なのか? また、俺に背負えというのか? メイガス。」
誰も答えはしなかった。