春から初夏
M―36.4
うーん、いい天気。風はまだ少し冷たいけれど、日差しはあったかくて気持ちいい。
土手沿いに咲いている桜の花びらが風に舞っている。その一片が制服の袖にぴたりとくっついて、私は笑みをこぼしながらそれを風の中に戻した。
一年の始まりでもあり、新しい学校での生活の始まりでもある今日この日に相応しい、晴天の春の朝。
私も今日から高校三年生かぁ。
急に決まった転校。不安と期待で、ううん、ほとんど不安で胸がいっぱいだ。新しい学校はどんなところだろう? 上手く馴染めるかな? ああ、緊張する!
神様神様、高校生活最後なんです。どうかハッピーに過ごせますように、ほんとにほんとにお願いします!
普段は全く信じてない、都合の良いときにだけ登場してもらう神様に心の中で手を合わせ、私は高校最後の一年を送ることになるN高等学校の校門をくぐった。
S―36.0
今日から三年か。俺はぼんやりと教室の窓から校庭を眺めながら欠伸を噛み殺した。
学校生活なんて退屈以外の何物でもない。適当に授業を聞いていても成績はトップクラスだし、スポーツも大抵のものは問題なくこなせる。自分でいうのもなんだけれど、顔の造形も人並み以上だから女子からの人気も高い。反抗することもないから先生受けもいいし、付き合いが悪いわけでもないから男子の敵もいない。
そんな完璧な人間ならさぞかし充実した学校生活を送れるはずだろうと思うかもしれないけれど、実際俺は退屈しまくっている。
その原因は、多分、っていうか間違いなく俺の趣味にある。
誰にも秘密の、誰とも共有しない、俺だけの趣味。
視界の端っこにチラチラとこっちを見るクラスの女子の顔が入り込んでくる。この学校は三年間クラス替えがないから、当然あの子と同じクラスなのも三年目になる。
だけど、俺はあの子の名前を知らない。いや、聞いたことは何回もあるけど、その度にすぐに忘れる。興味がないことに記憶したくないんだよね。だって、もったいないだろ。脳は有限なのに。
チャイムが鳴っても俺は視線を校庭から動かさなかった。
しばらくして担任が教室に入って来て、今日の予定とか新学期が始まるにあたっての注意事項とか、お決まりの退屈な話も適当に聞き流していた。
ああ、つまらないつまらない。
「お前ら静かにしろ。今から転校生を紹介する」
こんなにつまらない学校生活なんて、由々しき事態だな。
「自己紹介を頼む」
「O市から引っ越してきました最上舞香です。今日から一年間、どうぞよろしくお願いします」
……前言撤回。すごく充実した一年になりそうだよ。ついさっきまでのつまらなかった気持ちが嘘みたいだ。
俺は教壇に立つ転校生を食い入るように見つめた。
M―36.3
今日で一週間か。あっという間であんまり記憶がないけど、ちょっとは馴染めたと思う。
クラスの子は、皆いい子で親切だし、本当に良かった。無視とか仲間外れとかされたらどうしようって、すっごく心配だったんだよね。
担任の先生――竹中先生は仏頂面のおじさんで、ちょっと取っつきにくい雰囲気だけど、質問にはちゃんと答えてくれる。めんどくさがりを装ってるけど、本当は面倒見がいいんじゃないかな。っていうのは、私の勝手な予想だけど。
とりあえず平穏な一年を過せそうかな。
……なーんてのは真っ赤な嘘。全っ然平穏には過ごせなさそう。
なんでかっていうとね、なんでかっていうとね、一目惚れしちゃったんですよ! クラスの男子に! もー、どうしようって感じ!
名前は、冴える月って書いて冴月くん。下の名前は多分“ソウ”。クラスの誰かが呼んでたんだよね。どんな漢字書くんだろ?
冴月ソウ。もう名前からして恰好いいと思わない? でも恰好いいのは名前だけじゃないんだって。
180cmくらいある身長も、細身だけどガリガリじゃない体型も、サラサラの髪も、切れ長の目も、優しそうなんだけどちょっと物憂げな表情も、もうとにかく全部が格好いいの。
視界にちょぴっと入るだけで、心拍数が跳ねあがるくらい格好いい。
問題は、恰好良すぎて何かの拍子に視線が合いそうになると、瞬間的に顔を向きを変えてしまうことなんだよね。緊張して視線が合わせられないとか、どんだけ小心者なんだ私……。
同じクラスなんだし、これから話す機会もあるよね? いきなり話しかけられても、変な声が出ないように気を付けないと。
目指せ、平常心!
S―35.8
五月もGWが終わって、だんだん気温が高くなってきた。
抜き打ちで古文の小テストがあったけど、もちろん解答欄は全部埋めた。
まだ十分くらい時間が余ってるから、俺はいつものように窓の外を眺めてる。
それにしても、昔の貴族は誰かに好意を示すのも大変だよね。いちいち自分の想いを歌にして相手に送ったりさ。
当時の常識と言われればそれまでなんだけど、どうもね。歌が下手だったら相手にされないのもおかしいと思うし。
まあでも、基本御簾越でしか会わないから、相手を判断する基準が、ぼんやりとした体型と声と人の噂くらいしかないのか。だから歌の上手い下手も貴重な判断基準になったのかもね。
好きな人を想って歌を詠むのは雅かなって気もするけど、俺は現代に生まれてよかったと思う。
だって、好きな相手のことは歌の出来栄えよりも顔や性格で判断したいからね。
うーん、最上さんは何が趣味なんだろ? 早く仲良くなりたいな。
M―36.5
きゃー! きゃー! きゃーー! 嘘みたい嘘みたい嘘みたい! 冴月くんに話しかけられちゃった!
休憩時間に自分の机でスマホ触ってたら、ふっ、と影が差して。なんだろと思って顔を上げたら、冴月くんの端正なお顔がすぐそこにあるじゃありませんか!
私はもうドッキドキしながら、「な、何か?」って訊いた。ほんとはもっと気の利いたことを言いたかったんだけど、というか実際顔を上げてから口を開くまでの三秒間に千文字くらいの言葉が頭の中をよぎったんだけど、出てきた言葉はたったの四文字。……情けない。
冴月くんは、長くて綺麗な指で机の上にあった私のペンケース――につけてたストラップ――を指して、「そのバンド俺も好きなんだ」って言って自分の席に戻っていった。
好きなんだ。
好きなんだ。
好きなんだ……。
頭の中でもう何百回もリピートされてるこの言葉。
いや、ねえ、だって仕方ないでしょ。あの冴月くんから好きだって言われたのよ?
いやいやお前のことを好きって言ったわけじゃないし、って突っ込まれるところだけど、そんなの関係ないもんね。
ああもう、この思い出があれば暑い夏も乗り切れそうな気がする。
ありがとう冴月くん。私も好きだよ冴月くん。でもこのストラップは貰ったもので私はファンってわけじゃないんだ冴月くん。でも冴月くんが好きなら私も好きになるよ冴月くん。
よぉっし、帰ったらCD借りに行かなきゃ!