コンフリクト
リキュールの買い出しという 簡単なお使いのはずが、とんでもない事態に発展するとは、ギョウメイは思ってもみなかった。
息せき切って駆け出したのはよいけれど、りょうは すぐに後悔した。
アルコールを摂取して走れば どうなるかなんて分かっていたはずだったのに。
奇子さんは 一応 弱めに作ってくれたのだろうけれど、『アイオープナー』の効果はてきめん、りょうの脚はもつれ 気分が悪くなってきた。
(私って、なんてバカ!)
位相がずれるまでの残り時間は あまり無いが、それでも 脚を止め 息を整えずにはいられなかった。
屋上からの眺めから、『ジル・ガメーシュ』の現在の所在地を 歌舞伎町(らしき所)の一角だと りょうは見当をつけていた。
今まで 走ってきた風景を見ると りょうが慣れ親しんだ世界と寸分たがわぬようにも思えるが、微妙に違うようにも思える。
その違和感が 位相がずれた世界のせいなのか、元々 店舗の入れ替わり立ち代わりの変化が激しい街だからなのかなんて 判別のしようがない。
道行く人だって、微妙に りょうの知っている世界の人とは違う雰囲気を漂わせているようにも思えたが、それも気のせいかもしれない。
(本当に ここは、私の知っている新宿ではないのだろうか?)
そんな考えが 頭をもたげかけた時、奇子さんが 手渡してくれた地図のことを思い出した。
まずは ギョウメイが行ったはずの酒屋さんを見つけねば。
りょうは、四つ折りになった地図を カサカサと広げる。 概ねの位置は教えてもらっていたから すぐに目的の酒屋さんへ 辿り着けると思っていたが その考えは甘かった。
奇子さんが 手渡してくれた折り畳まれていた紙片は どう見ても地図と言えるような物ではなかったからだ。
それは、縦横10センチ程の正方形をした なんの変哲もない白紙だったのだ。
いや、正確には その中央に なにやら 漢字の『飛』という字に似ていないこともない不思議な文字が小さく書いてある。
「なにこれ!? 」
だが それは、よく見ると 見覚えがあるものだった。
(梵字…よね、これ?)
奇子さんが 魔女だと…、いや 賢女さまだと自称しているのは 勿論 知っていたが、まさか その知識が 洋の東西を問わないとは思わなかった。
たしか、これは 阿弥陀如来を表す『キリーク』という梵字だと思い至ると同時に 頭の中に ある言葉が浮かび上がってきた。 それは、まるで 奇子さんの声が脳内で再生されるかのように。
りょうは その言葉を 口に出して唱えてみた。
「オン アミリタ テイゼイカラ ウン 」
そう、これは御真言だ。
御真言は 三度 唱えねばならない。
「オン アミリタ テイゼイカラ ウン 」
「オン アミリタ テイゼイカラ ウン 」
すると、手の中にあった その紙片が、まるで 目に見えない誰かの手によるかのように 瞬時に折り畳まれ、一匹の折り紙細工の犬になった。
『キリーク』は阿弥陀如来を表し、同時に 戌年の守護尊でもあったっけ。
りょうが そう考えていると、その折り紙細工の犬は 掌から ピョンと飛び出し アスファルトの路面を駆け出して行った。
(え? え? え? まさか、跡をついてこいって言うの?)
アルコールが回った頭で りょうは そう毒づいてみたけれど、その間にも 折り紙細工の犬は 行き交う人々の足元を 踏まれないように器用に駆けてゆく。
えーい、仕方がないと覚悟を決めた りょうは 見失うまいと必死に駆け出した。
いくら 折り紙細工とはいえ、犬には違いない。 きっと ギョウメイの匂いの足跡を追って報せてくれようとしていると思ったからだ。
*****
目的の酒屋は アルタ前の広場の脇にある 幅の狭く短い地下連絡路を抜けた辺りの 様々なラーメン屋や居酒屋等の店舗が入り組んで立地する典型的な飲み屋街の一角にあった。
ギョウメイは その酒屋の前で 暫し躊躇していた。
いや、本当に酒屋なのか? どう見ても、酒屋と言うより 昔 生まれ故郷の田舎町の駅前ロータリーにあった、蛇や蠍を漬けた薬酒などを売っている 友達の小学生の間では『蛇屋』と呼ばれていた怪しげな漢方薬屋さんにしか見えない。
店先のショーウィンドーには 大きなガラス瓶に入れられた キングコブラと思われるホルマリン標本や カサカサに乾ききった熊の手などが 誇らしげに展示してあるじゃないか。
だがしかし、店舗の入り口の上に掲げられた金看板には 奇子さんに教えてもらった店名『彩虹酒店』と大書されている。
どうやら 間違いなさそうだ。
ギョウメイは 勇を奮って薄暗い店内に足を踏み入れた。
店内は 表のショーウィンドーに負けず劣らず、ところ狭しと 蛇やコブラのホルマリン漬け標本や爬虫類やマングースの剥製が立ち並んでいる。 そればかりか、マムシ、くじらの胎児、オオサンショウウオの標本など ここは博物館なのかと 思わず見とれてしまうほどだ。
それらの展示物なのか商品なのか分からないインパクト絶大な品々の間や 壁面に設けられた棚に 申し訳程度の ごく普通のブランデーやウィスキーが置かれているのが 唯一 ここは酒屋なのだと主張している要素だった。
もっとも、その中には 蝮や蠍の焼酎漬けもあったのだが、ギョウメイは 敢えて それは見ないようにした。
「何か、お探しかね?」
場違いなほど のんびりとした声がした。
その声に、ギョウメイは 店の奥の これまた妖しげな商品が うず高く積み上げられたカウンターの間に どうやら店主らしい老人の顔があることに ようやく気づいた。
それは、少なく見ても90歳は越えていると思われる豊かな白髭を蓄えた剃髪の…平たく言えば スキンヘッドの老人だった。 もし 口を開かず じっとしていれば、店内に並ぶ剥製や木乃伊と見間違えるほどの…。
「耳が遠いのかね?」
老人が 重ねて問う。
「あ、失礼しました。 実は 『ジル・ガメーシュ』の奇子さんに 使いを頼まれまして…」
ギョウメイは なんとか微笑もうとしたが、自分の顔が引きつって見えないか 心配だった。しかし 老人は そんなことは 意に介さず 淡々と言葉を返した。
「うむ、聞いておるよ。 品物は用意してある」
どうにも この店の雰囲気に落ち着かないギョウメイは 一刻も早く 使いの品物を受け取って 帰りたかったから、意外と 簡単に 用が済みそうなことに 胸を撫で下ろした。
「だが、困ったのう」
老人が 白髭を撫でながら、言葉を濁す。
「何か 問題でも?」
ギョウメイは、ギクリとして聞き返す。
たった今、品物は用意してあると言ったばかりなのに、なんの問題が…?
老人は、よっこらせと 重そうに一升瓶の日本酒が入っているような形状の真っ赤な紙箱を カウンター下から取りだし ギョウメイの目の前に置いた。
「実はの、この酒は とても貴重な物でな…」
老人は またも白髭を撫でながら 言い澱む。
「え? 代金なら ツケがきくと 奇子さんから聞いていますが」
「勿論 それは いつものことだから 大丈夫なのじゃが、問題は それではないのじゃ…」
「どういうことですか!?」
ギョウメイが 問い質そうとすると、入り組んだ陳列棚の陰から 一人の大男が のそりと現れ 二人の会話に割って入ってきた。 その男は 野太いが 妙に丁寧な言葉で言った。
「申し訳ないのですが、その商品を買う権利を 私に譲っていただけないでしょうか?」
その言葉遣いとは 裏腹に その男の言葉には 慇懃無礼な響きが感じられた。
「長年の付き合いじゃし、商売人としての矜持もあるが…。すまんの…、こういう訳じゃ」
老人は 店内の裸電球のオレンジ色の光を頭頂部に反射させながら、ぺこりと頭を下げ謝罪の意を表した。
To be cotinued……
不運の星の下にでも生まれたのか?
新たに現れた人物は、ゴローさんをもしのぐ体格の持ち主だった。