ビジター
繚子は 不思議な女の子だ。
僕は、そんな君をいつしか もっと知りたいと思っていた。
「 アヤコ ・ アストリット・グレーフィン・フォン・ハルデンベルク・アマトリチャーナ…… 」
うっとりした目で 水野さんは その名を数度繰り返しては にやけている。
半地下に『ジル・ガメーシュ』の店舗がある この胡散臭いビルは 地上6階建ての古ぼけた建物で、頻繁に 位相とやらが ずれるお陰なのだろう、 不便すぎて 入居する店舗も人間も『ジル・ガメーシュ』と僕たち以外には居ないため、部屋数だけは 充分にあったので、僕と水野さんは このビルのオーナーでもある奇子さんに それぞれの個室を与えられ、既に この奇妙な生活をはじめて 数週間を過ごしていた。
『ジル・ガメーシュ』の営業時間は 夕方 陽が沈んでから明け方陽が昇るまで。
料理の仕込みは 午後遅くに起き出してくる奇子さんが 全て担当しているものだから、 見習い従業員である僕と水野さんの仕事は もっぱら お店の掃除とグラス磨きくらいで、昼過ぎには こうしてビルの屋上に出て 洗濯物の乾くのを待ちながら 街の景色を眺めているくらいしか やることが無かった。
「えへへ」
水野さんが また にやにやしながら ほくそ笑んでいる。 この大変な状況で 何が そんなに嬉しいのだろう。
「水野さんって、変わってるね」
ふと 口に出してしまい、しまったと思ったけれど、水野さんは 全然 気にせずに その瞳を 真っ直ぐ僕に向けた。
「りょう…で いいよ。 その代わり 私も ギョウメイって呼ぶ♪」
突然 脈絡のない話に飛ぶのが 水野さん…、いや りょうの癖のようだ。
「それは、別に 構わないけど…、今の状況が気にならないの?
何故か分からないけれど 携帯は使えるのに、知り合いには 全然 電話もLINEも繋がらないし メールも宛先不明で届かない」
「うん、それは 困ったことだよね」
そう言いながらも りょう…さんの瞳は 太陽の光を 斜めから透かすようにして 薄茶に輝く蜻蛉玉のようにキラキラと輝いている。 どう見ても 今の状況を楽しんでいるようにしか見えない。
「変だと思うだろうけれど、私ね、魔女って きっと何処かにいるんだと思ってた」
「えーと、それは アニメとかの話じゃなくて?」
「あー、今 バカにしたでしょ!?」
「いや、いや、いや、とんでもない!!
夢見ることは必要だよ」
そう、夢だったら 僕だって ずっと小さい頃から持っている。 でも それは、お伽噺に出てくるようなモノではないのだけど。
「ふーん」
青空に はためく真っ白なシーツと その陰に見え隠れする 彼女の可愛らしい下着を背に りょうさんが 腰に手をあて 不審そうに 僕の目を覗きこむ。
「ま、いいわ。 どちらにせよ、魔女の存在は 実証されたのだから」
「魔女って…、奇子さんのことを言っているなら、今後の付き合いかたのことを考えると 賢女さまと呼んだ方がよいと思うよ」
確かに 怪しげ(過ぎる)女性ではあるが、さすがに 彼女が 魔法の箒に乗って 空を飛ぶとも思えない。
ちょっとスマホで 調べてみたけれど、賢女さまというのは、ヨーロッパ各地で 古来の民間療法などを駆使して 病人などを助けたり、星の運航を読んで 作物の成育や収穫時期の助言をしていたらしい。
それは、どちらかと言うと 魔女やシャーマンと言う伝承にある怪しげな存在よりも 現代で言うなら村の物識りとか博物学者に近いらしかった。
「 アヤコ ・ アストリット・グレーフィン・フォン・ハルデンベルク・アマトリチャーナ。 名前から察するに、どうやら 日本人とドイツ人と もしかしたらイタリア系の血筋を引いているのかもしれないわね」
「りょうさん、あまり 他人の詮索をするのは…」
「さん付けはやめて! ね…、ギョウメイ♪」
うーむ、仕方ない。 そこまで言うなら。
「りょう…、お店のこともだけど、この景色をどう思う?
ここのところ この新宿らしい場所に固定されて、位相がずれる…位相転移ってのかな? それが起こってないけれど、 どう見ても 普通の新宿だよね。
もしかして、店から 離れると危険だって言うのは嘘じゃないのかな。 帰ろうと思えば 帰れるのかも… 」
りょうが 空を見上げて 溜め息をついた。
「帰るって? どうして?」
「そりゃ、当然だろ!? 奇子さんが 帰れないと言っているだけで、ゴローさんは 毎日のように お店に入り浸っているし、少ないけれど 他のお客さんだって チラホラやって来るじゃないか」
「ギョウメイは、奇子さんやゴローさんの言ってることが 信用できないんだ」
りょうの瞳が 急に光を失い、まるで暗い底無し穴のように変わって見えた。
それは、底無しの井戸の底を覗きこんだ時のような不安な色。錆び付いた銅貨の色。
「知ってる? ゴローさんの額の角って、よく見ると 薄い皮膚を通して うっすらと紋様が彫られているのが見えることを」
「紋様?」
「うん、うっすらとだけど、ゴローさんがテーブルの上のグラスを手にとる時、キャンドルの灯に透けて見えるの」
そう言えば、ゴローさんと りょうは とても仲がよくて 他にお客さんがいない時には よく隣に座って話をしていることがある。
勿論、奇子さんは従業員がサボっているのを 良しとはしないけれど、ゴローさんだけは 特別みたいで いつもバーカウンターの向こうで カクテルを飲みながら 見てみない振りをしている。
「紋様って、どんな? りょうは それを読めるの?」
「全部は 読めないけれど、ほんの一つか二つの単語なら…」
「なんて、書いてあるの?」
背筋を ゾクゾクするものが 這い上がってきたけれど、僕は 聞かずにはいられなかった。
「前言撤回」
りょうが 溜め息を吐き出すように言った。
「読めたというのは間違い。
見覚えのある単語だったと言うべきだったわ。
その単語は 人間には発音出来ない種類の言語のモノなの」
「発音出来ない…?」
「そう、発音出来ない…」
晴れ渡った青空のもとでも 見るものに不安さと生物的違和感を感じさせずにいられないコクーンタワーを遠望する屋上の手摺にもたれ掛かった りょうの表情は、最前からと変わらずに笑っていたけれど、それは もう 先程までの 彼女とは別人としか思えない 凍り付いたような笑顔だった。
To be cotinued……
魔女なんて、いないさ。
そう思っていたけれど、僕の日常は 徐々に 闇色に染まっていくのだった。