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異世界に行けない・チートはない・俺は死ねない

作者: quiet

 昔から、俺は物語の訪れを待っている。



 窓の外は春だった。窓の内も春だった。教室には古典教師の声だけが静かに響いていて、ペンを走らせる音すらほとんどしない。窓際後列から見渡す教室で、頭を上げている生徒は数えるほどもいない。


 頭を上げている生徒が授業を聞いているかといえば必ずしもそうではなく、少なくとも俺は違った。教室の中に満ちる陽気と外に流れる陽気をぼうっと眺めていた。机の端に重ねた国語辞典、漢和辞典、英和辞典。その陰に点けっぱなしのスマホ。見るでもなくその画面を指で上下させる。


 授業に飽きるころ、俺はネットで小説を読み始める。今はそれにも飽きて呆けている。

 よく読むそれらの小説の筋書き。死ぬ。異世界に行く。反則チートじみた能力で活躍する。そんな感じ。


 「そういうの好きなの?」と聞かれれば、答えは「それなりに」。正直なところ、低価格で暇を潰せればなんでもいいんじゃないかと思っているけれど、代わりに学校の図書室や公立図書館で本を借りようという気は起きないんだから、まあ、好きってことなんじゃないだろうか。国語の教科書を読んだりするのも嫌いではないので、手間の問題かもしれない。



 かつん、とチョークが黒板を叩く音がした。起きている生徒がみな教壇に目を向けた。先生が「僕はあまり絵が得意ではないんだけれど」と呟きながら、犬の絵を描いた。結構上手いじゃないか、と思って手元の教科書に目をやると、犬は登場していなかった。たぶんあれは牛なんだろうと思った。教室からいくつか秘密めいた笑いが漏れた。それは先生のものだったり、俺のものだったりした。寝ている生徒は起きなかった。


 そして授業は静かに進行を始める。また俺は教室でひとり春の陽気の膜に閉じこもる。じっと外を見つめる。

 春は窒息の季節だと思う。多くのものが満たされるからこそ、ぽっかりと欠落している部分が目立つ。俺はその欠落の名を、生命と呼ぶのだと知っている。


 どれだけ時間が穏やかに進んだとしても、生命は刻一刻と削りとられていく。小さな川がその流れの中で小石を丸めていくように。


 時間がない。満たされた焦燥があった。手元のスマホをスクロールした。どこか遠いところに行きたいと思った。自分はここにいるべきじゃないと思った。やるべきことがあると思った。それが何かは知らなかった。


 どこか遠くに帰りたい。俺の生命の意味が見つかる場所へ。異世界だってどこだって。



 俺は、俺の物語が欲しい。



 この日、初めて学校をサボった。



*



 不思議なもので、腹が痛いと言って学校を抜け出すと、本当に腹が痛いような気もしてくる。

 律儀ではあるが、損な性分であると思った。それとも、罪悪感を減じるための小狡い自己防衛機能だろうか。


 だらだらと歩いていた。学校前のバスは二十分後に来るはずだった。停留所で落ち着かない時間を過ごすくらいなら、歩いた方がいいと思った。


 そして歩きながら考えていた。果たして俺はなぜ学校をサボったのだろう、と。

 衝動、と。言ってしまえばそれまでの話でもあるけれど、衝動というジャンプ台の下には、何らかの土台があるはずだ。


 ――漠然とした焦燥。


 結局のところはこれに尽きるのだと思う。漠然とした焦燥が、思考の半分以上を占めている。いつだって。

 生命は限られている。少年として過ごせる時間はもっと。最近は、どちらにもはっきりとした終わりが存在していて、そしてそれが平等に俺にも訪れるということがわかってきた。


 死ぬのが怖い、と。大人が聞けば笑うだろうか。まだまだ未来のある身で何を、と。子供が聞けば笑うだろうか。俺たちまだそんなこと考えるような年じゃないだろ、と。けれども俺は怖い。死ぬのが怖い。終わるのが怖い。何も始まらないままに終わってしまうのがどうしようもなく怖い。


 終わるのが怖くて学校を抜け出した。焦りが足を動かした。街を歩いていた。何もなかった。


 学校は檻ではない。その外に出たからって劇的な何かが突然見つかったりするわけじゃない。あるいは檻はもっと大きなものなのかもしれない。俺は檻の中から永遠に出られないのかもしれない。春の悲観は胸に落ちる。



 隣の車道を大きなトラックが通り過ぎた。髪が大きく揺れた。排気ガスの臭いがして、鼻口を手で覆った。顔をしかめた。

 遠ざかっていくトラックを眺めていると、ふと普段とは違う道が目に留まった。


 川に沿う遊歩道。

 焦燥が生やした足が、遠道を選ぶのは不思議なものだ。

 そんなことを考えながら、俺は浮遊するようにその道へと足を踏み入れていった。



*



 陽の光が水を温めている。そして反射光は遊歩道とそこを歩く俺のことを。


 こんな道があったんだ、とかすかに驚いた。遊歩道を歩くのは俺しかいない。春のうちはここを通学路にしてもよいかもしれないと思った。それとも、俺が知らなかっただけで、通学時間帯には人通りも多くなるのだろうか。


 水の流れを眺めていると、無意識のうちに右手がポケットに入れたスマホを押さえていることに気が付いた。水辺と高所で携帯電話を取り出すのが苦手だ。手が滑れば取り返しのつかない事態が発生する気がする。だから俺は景色の写真なんてほとんどアルバムに収めたことがないのだが、しかし好ましい景観の中でシャッターの音を響かせること自体を無粋に思っている節もあり、それほど困った点ではない。


 綺麗だな、と思った。水の流れに足を従わせて歩いた。せせらぐ音と鳥の羽ばたきが耳に残り、少し向こうの方で自動車の通る音がする。


 振り返って学校の方を見ると、そこには生活があった。

 いつもの自分がいるはずの空間には、透明な愛情が空気に溶けて満ちていた。俺は今それを外側から――、と考えたところで、肌に柔らかい陽射しがそれでも自分は内側にいるのだと思い直させた。


 生活と日常はどこまでも広がっている。それを幸福と理解することはできても、己のすべてと割り切ることはできなかった。迷いがあった。その迷いの名前は期待と言った。


 いずれ、自分のための、自分だけの物語が始まると、昔は信じていた。今でも心のどこかで。

 どこか遠くの、『自分が居るべき場所』に『自分のやるべきこと』があって。そんなドラマを期待していた。俺は俺の人生を特別なものだと信じていた。願っていた。祈っていた。


 たまに、不思議に思うことがある。他の人間はこんなことを考えていないのだろうか、と。もしも俺以外の誰もそんなことを考えていなくて、ただ静かに朽ちていくことを意味と呼んで疑いもしないのなら、この世界には『退廃』と書いたラベルを貼り付けるべきだ。



 ばしゃん、と音がして川の方に視線を戻した。一羽の真っ白な水鳥が着水していた。鮮明な色彩が、池に泳ぐ金色の鯉を見たときと同じような不思議な感覚を呼び起こす。生き物は自らの意思で動く。それはときにある種の視覚的な迫力をもたらす。場所が静かであればあるほど、時の流れが緩やかであればあるほどそれはわかりやすい。


 口笛を吹いた。少し前に流行ったドラマのタイアップ曲。サビしか覚えていなかった。吹いているうちに唇が乾いてやめた。音楽だけが胸のうちでぐるぐると回っていた。


 焦燥と諦観は同居する。

 今すぐ物語が始まってほしいという焦燥。人生に物語はないという諦観。ふたつの感情の均衡の中で生み出される感情が恐怖である。



「……死にたくない」


 ほろっ、と言葉が漏れた瞬間、胸の奥を熱湯がかき回すような、脳を茹で上げるような虚しさが湧いて出てきた。生温かい、不快な涙が目に溜まるのを感じた。


 限界だった。


 うっすらと視界の端に見えていた限界を、口に出してしまった瞬間に、無限の空虚が到来した。


 俺は死ぬ。

 異世界には行けない。どこへも行けずに俺は死ぬ。

 チートはない。特別な何かを与えられることもなく俺は死ぬ。

 人生に意味はない。ただ無意味に俺は死ぬ。


 人生は終わるのだ。始まらないうちにも。



 さよならだった。春満ちた陽気が、心中の虚空を無残に際立たせていた。光の粒は万物に平等に降り注ぎ、ただ俺を一層みじめにさせた。


 これから何をしよう、と思った。何も思いつかなかった。家に帰りたいとも思わなかった。学校に戻りたいとも思わなかった。どこか遠いところへ、なんてもう欠片ほども思えなかった。ただ虚しくて、気持ちが悪かった。虚無に対する生理的嫌悪感だけがあった。


 あるいは今日、唐突に学校を抜け出したのは、こうした終わりが精神に到来することをどこかで予感していたのかもしれなかった。途方に暮れていた。俺には何もなかった。物語が到来しないことを知った。何もかも無意味に染まった。



 どこにも行けなかった。何もなかった。



*



 前髪が揺れて、春風が寒風に変わり始めていることに気が付いた。

 どのくらいここに立ち止まっていたのだろう。空の雲はすでに流れ去ったように見えた。


 家に帰ろう。そう思った。春の始めはまだ寒い。風邪をひかないうちに帰ろうと。


 そう思った瞬間に、頬にひたり、と小さな感触がした。奇妙に思ってそれを指で掬い取った。

 それは、小さな白い花びらだった。


 ふらふらと、風に逆らうようにして道を進んでいく。帰り道もこちらの方向なのだ。指先に乗せた花びらは、一瞬のうちに背後の彼方へと吹いていった。


 そしてその先に見た。


 桜並木だった。


 ああ、春だから、という納得と。今更いらねえよ、こんなもの、という投げやりな怒りのふたつがあった。

 五十メートルはあるだろうか、ひょっとすると百メートル近いかもしれない、桜のアーチのかかった道を、苦々しく見ていた。


 静物的な美しさがあった。それだけだった。ただ美しいものがそこにあるだけで、そしてそれは俺とは何の関係もなかった。ただ情けない気持ちが増すだけだった。

 早足で通り過ぎようと一歩踏み入れたところで。


 突風が吹いた。


 思わず目を瞑った。前髪の毛先が瞼のあたりをばしばしと叩くかすかな痛み。それからもっと。前髪をかきあげて、目を開いた。



 花嵐だった。



 少し冷たい風が暴力的に吹き荒れて、視界一面が真っ白に染まっている。初めて見た。俺は花の渦の中にいるんだとわかった。


 ――だから、いらねえよ。


 今更こんなものやられたところでどうしようもないって、誰より俺がわかっていて、でもやっぱり、それでも俺は。


 涙が、出て。


 わあっ、と叫んで駆けだした。叫んだ声は風に乗ってどこかに消えた。花の嵐を走り抜けた。破れかぶれに走り抜けた。


 抜けた先で、膝に手をついた。息が荒い。肺が無理矢理広がる感覚がする。けれど、一度火がついてしまった身体の熱はたったこれだけでは引かなくて。


 遊歩道から土手を駆け下りた。河川敷に下りて、鞄を投げ捨てて。もうさっきまでとは違って。何もかもが違って。熱と衝動が俺のすべてを支配していて。



 思いっきり川に飛び込んだ。川底は浅く、身体がぶつかる。着水の音に驚いた水鳥がはばたいて飛び去っていく。制服についていた桜の花びらも、宙を舞ったり、水に浮いたり。


 気持ち良かった。最高だった。

 もうこれが全部だと思った。

 熱量に任せるままに、水面をばしゃばしゃと叩いた。



 美しいものをつくろうと、そう思った。



 俺の人生に物語が訪れず、生命にも存在にも意味が与えられないとしたならば。

 物語をつくろうと思った。意味あるものをつくろうと思った。美しいものをつくろうと、そう思った。自分で。自分自身の手で。

 街に満ちる透明な愛情のように。花の嵐のように。春の川の水のように。


 そして、それが叶わなかったときには。


「そのときは死ぬさ!」


 叫んで、からからと笑った。


 死ねるわけがない。

 死と終わりに怯える俺が、死ぬなんてできるわけがない。どうせ心折れたときは小賢しく人混みに紛れて、何食わぬ顔で生きていくに決まっているのだ。


 けれど、いいじゃないか。

 ダメだったら死ぬ。そんな刹那的な希望を抱いたって。今だけでいいんだ。もう少しだけ。


 異世界に行けない。チートはない。俺は死ねない。


 知ってるよ。そんなもん知ってるけど。それでも今だけ。ほんの今だけでいいから。



 幸せな街。春の嵐に、透き通る川。びしょ濡れの俺。


 この日まだ、俺は間違いなく少年だった。

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[一言] 良かったです!
[良い点] 子供の頃に感じた焦燥感を思い出しました。 [一言] 異世界もチートもない世界でもがいて生きる気持ちを思い出させて頂きました。 情景や心情の描写が凄かったです。 いいお話をありがとうございま…
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