2-1 こうなったというのも(来るまえ)
「あの、今何て言いましたか」
「普段なら問い返すのは厳禁ですが、今回は例外です」
寮監の声は静かだった。
「ルイーゼロッテ・ケルデン、あなたのお母様が緊急に入院されたという知らせが入りました。政府の特別の配慮によって、休暇及び外泊許可を出します。すぐにハルシャー市民病院へと向かいなさい」
あたしはその頃十二歳で、中央政府直属の全寮制中等学校の五年だった。
*
夜行列車で六時間掛けてやっとたどり着いたハルシャー市駅から、更にエレカで十五分。山の向こうから昇る朝の光が目に痛かった。
「朝早くすみません」
当直の、顔見知りのナースにあいさつ。
「まあロッテちゃん! …ああ、聞いたのね。でもまだ早すぎるわ。こっちでお茶呑んで行きなさいな。お母さんは逃げないわ」
「…あの、ママは本当に、入院、したんですか? …間違いじゃ、なく?」
あたしはこの時まだ、情報ミスではないか、と疑っていた。ママはこの病院のナースだ。単なる情報ミスだと信じたかった。
彼女はとにかく当直室に入る様に促した。
「お腹空いてない? よかったら食べて」
そう言いながら、テーブルの上の皿を指す。夜食だろう、目の詰んだチョコレートケーキが置かれていた。
さすがにあたしもお腹が空いていたので、言われた通りにぱくついた。口全体に広がるチョコの甘い味。ねっとりした舌触り。飲み込むのが少し苦労する程に重い生地。ゆっくりゆっくりあたしはそれを口の中で噛み砕いた。
「ミルクが無くて何だけど」
と彼女はお茶を渡してくれた。それを口にしてやっと普通に飲み込むことができた。体中に、じゅわぁ、とエネルギーが広がった様に思えた。
「まだ五時半だからね。一時間くらい待ってちょうだい。七時に朝食だから、六時半には一応皆だんだん起きてくると思うの」
「あの、ママはやっぱり…」
「…ええ。一昨日、急に倒れて」
手が震えた。
「で… も大丈夫よ、ロッテちゃん。ほら、皆、マリアのことは大切だから、大部屋じゃなくて、個室に入ってもらってるから…ねえ、もっと食べて。顔色、良くないわよ」
「ありがとう…」
結局あたしは、チョコレートケーキを一本の半分と紅茶を三杯たいらげてしまった。
*
「ママ!」
「…まあロッテ。どうしたの、…ああ、呼んでくれたのね。ごめんね、心配かけた?」
「かけた! すごく、かけた!」
そう言ってあたしはママに飛びついた。
「大したことじゃあないのよ。…ただちょっと疲れがたまっただけだと思うの」
「だったらいいけど… ママ、無理するから」
そうなのだ。あたしのママ――― マリアルイーゼ・ケルデンは、そういうタイプだった。特に、あたしが寮に入ってからの二年間と来たら、会いに来るたびに痩せて行く様で、気が気ではなかった。
「ねえママ、あたしのことだったら、大丈夫だから、気にしないで。もっと楽に、自分の分だけ稼げばいいのよ」
「そういうことを子供が言うものじゃあないわ、ロッテ」
ママはあたしが小賢しく意見すると、いつもこの調子ではねつけた。違うの、そうじゃない。ママが心配だから。
そう言ってもこのひとの頑固さはあたしが一番良く知っていた。だからあたしができるのは、早く、少しでも早く、中等を卒業して、中央大にストレートで入って、政府のどっかに確実な職を見付けることだった。
卒業まであと一年ある。でもそれを待ってはいられない。また特別コースで単位を稼がなくちゃ、とあたしはその時心の片隅でその時思った。
何せママには身寄りは無い。三年前まではママの実家―――おじいちゃんとおばあちゃん夫婦が居た。もう居ない。あちこち所々で起きていたテロの「哀しむべき犠牲者」になって、二人揃って天国に召されてしまった。
おじいちゃんは医者だった。昔は小さな医院をやっていたらしいけど、パパが死んで以来、閉めてしまったらしい。
金儲けとは縁の無かったこのひと達がママに遺したものは家だけだった。あたし達はその家を売ったお金と、ママのナースとしての給料だけでつつましく暮らしていた。
つつましく――― 生活は楽じゃなかった。
だからあたしは、学校から政府直属の学校へ進学を推薦された時、一も二もなくぽん、と飛びついた。何せ全寮制、学費も食費も政府持ちだというのだ。
ママは「離れるのは淋しい」と反対したけど、あたしは押し切った。少し我慢して。ほんの何年か。そうしたら、今よりもっと楽な生活をさせてあげる。
だけど。やせた手が毛布から出ていた。あたしはその手の白さを、しわを、薬品しみを、―――そして細さを見てぞく、とした。
あたしは間違ってた?
そんな思いが、背中を走った。
*
「決して、良くないね」
と、ママの上司は言った。だがその直後、顔に笑みを貼り付けた。
「けどこの病院の治療はしっかりしているから、大丈夫だよ」
「治るんですか?」
彼は黙った。笑顔は凍り付いた。正直なひとだ。あたしはもう一押しした。
「治らないんでしょう?」
「君、そういうことを言うもんじゃないよ」
彼は眉を寄せる。目を逸らす。困っている。
「君のママは治る。そう信じなくちゃ」
「でも先生、信じることと事実とは別だと思います」
あたしは容赦なく言った。彼は嫌な顔をした。可愛げのないガキ、と言いたげな顔だ。スキップ組に大人が向ける目だ。あいにくあたしはそれにはとっても慣れていた。
「…君はそう言えばとても賢い子だったね」
あたしは黙ってうなづいた。
と同時にあたしは自分がガキなことも良ーく理解していた。ガキは無力だ。
「じゃあはっきり言おう。治らない」
やっぱり、という気持ちと、嫌だ、という気持ちがあたしの中で交差した。
「何処がどうという訳じゃない。ただひどく弱ってしまってる。できるだけのことは病院はするよ。皆、君のママを大好きだし」
ええあたしも大好きです。世界中の誰よりも、あたし以上のひとは居ないでしょう。
「だから個室を用意したんだ。彼女の長年の勤めに報いたいと、皆思ったんだ。…立派な部屋でないのは残念だが」
「それはいいです」
あたしは首を振った。どんな部屋だって個室であるなら文句は言わない。あたしは顔を上げ、真っ直ぐ彼の方を向いた。
「お願いします。ママに、できるだけのことを、して下さい。何でもします。費用が必要だったら、今すぐ学校を辞めてもいいです、この病院で働きますから」
「おいおい」
彼は苦笑した。
「大丈夫だよ。…そんなことはしなくとも」
そして彼の最後の言葉から判ったことがもう一つ増えた。
ママは二年は保たない。
*
それからというもの、あたしは毎週末、ハルシャー市へ通った。
「大変でしょ、無理しないで」
ママは手みやげの林檎をむくあたしに、笑って言った。
「無理してないわよ。だいたいあたしは周りからたまには休めって言われてるんだから。お前は頭良すぎる、十二歳は遊べ、って」
あたしはそう言いながら、うさぎ林檎を一つ、ママに突き出した。あらあら、とママはそれを受け取る。
「あたしホントに頭いいんだから。成績いいんだから。宿題だって、列車の中でちょいちょいちょい、だからねー」
「でも六時間も」
「あたし若いのよ」
「そうね… あ、ロッテ、ちょっと」
何、という間も無く、ママはあたしの髪に手をやった。
「解けてるわ」
有無を言わせぬ勢いで、ママはあたしの椅子をくるりと回し、五本はあるピンをさっと抜いた。
「ほらやっぱり解けてる」
「一つにするのって、やりにくいんだもの」
「ロッテの髪は絡まり易いからね」
ふふ、と言うとママは解けかけたあたしの三つ編みをやり直す。いい気持ち。ママが編むと、きつくないのに解けない。だから垂らしたままでも大丈夫。
だけどあたしがやると、どうしてもあちこちから髪がはみ出て、一日の授業が終わる頃には滅茶苦茶になってる。
「じゃあ切ればいいじゃないか、ソバカスガリチビには似合いもしねーのに」クラスの男子は言う。そのたびにあたしは「言う方がガキなんだよー」と言い返す。
切るのはやだ。あたしがママと似てるとこなんて、チョコレートケーキと同じ色の、この髪くらいしかないのだ。
その髪も、ママはまっすぐ、さらさらなのに、あたしは猫っ毛。顔立ちも違う。ママの子供の頃の写真をおばあちゃんから見せてもらったことがあるけど、それにも似てない。似ていたらいいな、と思うけど、事実はどうしようもない。
もしこの先ママの具合が悪くなって、輸血が必要になっても、ママはO型であたしはABだから、血をあげることもできない。
だからどうしても、この髪だけは、伸ばしていたいのだ。
「はいできました。どうする? また上で止めておく?」
「ううん、そのまま垂らしておく」
「その方が似合うものね」
「そう?」
そうよ、とママは笑った。
*
半年位、ママは良くも悪くもない状態が続いた。
「気力がね」
婦長さんはため息混じりに言った。
「結局はそれなのよ。ロッテのママは。あなたと違って、足りなさすぎ」
「あたしの元気を分けられればいいのに」
「そうね、半分でもいいわ。それで治ってしまうのに」
彼女はそう言って、あたしの肩を抱いた。
「パパが居れば、こんなことならなかったのかなあ」
「そうね… マリアルイーゼはケルデン先生のこと本当に愛してたから」
それは初耳だった。いや違う。知ってはいたけど、このひとの口からその類の話を聞くのが初めてだった。
「婦長さん、パパを知ってるの?」
「まあね。ケルデン先生は、私達の間でも人気があったわ。実は私も結構憧れてたのよ」
「婦長さん、それでまさか結婚しないの?」
こら、とあたしは頭をこつんと殴られた。
*
けど正直言って、あたしはパパについて、何も知らなかった。
いい医者だった。ハルシャー市民病院でも外科で評判の腕を持っていたのだけど、ママと結婚して、実家の医院を継いでくれたのだという。でもフォート一つ残ってない。怒ったおじいちゃんが捨ててしまったらしい。
「哀しんで、じゃないの?」
あたしはその時おばあちゃんに訊ねた。おばあちゃんは首を横に振った。
「ねえロッテ、もの凄く辛いことがあったら、お前はどうするね?」
「泣く」
実際そうだった。あたしがおばあちゃんにその話を聞いた頃は、スキップ二学年したあたりで、教室でいじめられることも多かったのだ。今となっては、五歳も年上の同級生は大人げない、とそんなことはしない。
だけど一つ二つならいじめの理由となる。
「そうだね。泣いてすっきりするのもいいさ。だけど、泣いてもどうにもならない、と思ってしまった場合は?」
すぐには判らなかった。
「天に向かって、怒るのさ」
おばあちゃんはさらりとそう言った。
―――今ならその気持ちが、判ると思った。
*
この年は九月くらいから物騒な雰囲気になってきていた。
とは言え、昔はもっとひどかったらしい。首府も、あたしが生まれたあたり前後数年はテロによる破壊活動が盛んだったらしい。
今では復旧されている繁華街も、店という店のガラスが壊され、道路がガラスの破片で埋まったというし、新聞社の建物が焼き討ちにあっただの、学生がデモを起こしただの、地下鉄が爆破されただの、首府警備隊が一斉蜂起して公開処刑されただの。
それに比べれば。
もっともあたし個人としては、あたしも何度かハルシャーへ行くのを止められたので「冗談じゃない」のだったけど。
新年休暇には、皆一斉に故郷に帰らされた。中にはスタジアムの新年行事に行きたかったのに、とぼやくヤツも居た。あたしには関係無いことだったが。
それより問題なのは、この年末が「冬」だったことだ。星間共通歴831年の「新年」はこの惑星では今年は「冬」。公転の関係で、年によって季節は違うのだ。ママの容態が急に悪くなっていたのは寒さのせいもある。
部屋に入った途端、力無く眠っているママを見て、あたしは心臓が跳ねた。息をしているのだろうか、と疑って、口の近くにそっと手をかざしたりもした。そしてそのたび、ああまだ生きてる、と安心した。
*
そしてニューイヤーズ・イブ。
さすがにこの時期には、よほど重病の患者さん以外、一時帰宅していた。残っているのはわずかだった。そのわずかの中に、あたし達は居た。
「まあこんなものよね」と婦長さんはからから、と笑った。あたしとママは、残っているナースや先生と一緒に年明けのカウントダウンをしよう、ということになっていた。
ところが。
ニューイヤーズイブ当日。夜になってもお祝いらしい雰囲気にならない病院に、あたしは嫌な予感がして、当直室の扉をノックした。
「…あの…」
「ああロッテちゃん、大変よ」
「え…」
TVの画面の中ではわーわー、と騒ぐ人々。光の塔の建つ大きなスタジアム。そこで行われているはずの盛大な催しが、奇妙なざわつきと共に止まっていた。
「これ、スタジアムの新年祭典ですよね?」
あたしは画面を指さして訊ねた。婦長さんも「ええ」と答えた。
「…何が起きたんですか」
「撃たれたの」
婦長さんはつぶやいた。撃たれたのは、当時の政治指導者と、その側近だという。
「それって」
「…大変なことよ、そう…私達はこれから、警戒態勢に入るから、ロッテちゃん、あなたも部屋のTVをつけて―――」
わかりました、とあたしはうなづいた。
「ママ…」
どうしたの? とママは身体を起こした。
「うるさいかもしれないけど、TVをつけていて、いい?」
「いいけど?」
あたしは備え付けのモニターのスイッチを入れた。ぼんやりと白く光るスタジアムの内部がすっと浮かび上がる。
「何、何が起こっているの? ロッテ」
「ママよく聞いて」
こくん、とママはうなづいた。この頃は立場が逆転していた。ママはあたしの言うことを素直に聞く。あたしはママにいちいち注意をする。
「さっきね、政府の偉い人が殺されたんだって。このスタジアムの中で」
「ええっ」
ママは身体をすくませた。
「でも大丈夫。ここは病院だもの。それに首府とハルシャーは遠いもの」
「…列車で六時間も掛かるんですものね」
そう、確かに夜行列車なら六時間だ――― あたしがいつもそれを使うものだから、ママの中ではハルシャーと首府は離れていた。
だけどハイウエイでエレカだったら、たった二時間だ。端から見れば「目と鼻の先」の街だ。
「ただもしかしたら、緊急ニュースが入るかもしれないから、つけておいてちょうだい、って言われたの。うるさかったらごめんね」
「ううん、大丈夫。せっかくの新年を迎える時に、寝てなんかいられますか」
ママはそう言った。そして興味深そうに、自分の正面に大きく広がるTVスクリーンに映るものをじっと見ている。
結局寝てしまったのはあたしの方だった。つきあって見ているうちに、いつの間にか、椅子の上で、うとうとしてしまったのだ。