誰を犠牲にしても
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由紀と慎太は、階段から一番離れた場所に目当ての部屋を見つけた。純日本を思わせる家屋の中で、そこだけは西洋製の扉が取り付けられていた。
重厚な扉は奇跡的に壊れた様子もない。そっとドアノブを回せば、軽い音を立てて部屋が開く。慎太が先に中に入り、周囲の安全を確認してから由紀を手招いてくれた。
室内の正面には登れないほど高い位置に上窓があり、夜空が覗いている。懐中電灯がなくとも見える程度には明るい。この部屋だけは西洋の文化が取り入れられているようだ。
広いデスクには埃をかぶった紙の束が重なり、後ろには巨大な書棚もある。もしかしたら、主の書斎だったのかもしれない。
由紀はカーペットの床にへたり込んで、弾む息を整える。ここまでずっと息を殺すように駆けて来たので、呼吸が限界だった。
慎太はドアに鍵をかけると、耳を押し付けて外の様子を探っている。
「二階には来ないみたいだ。大丈夫か? 悪い、急ぎ過ぎた」
表情は変わらずなくても、慎太が気にかけてくれているのが伝わる。乱れた呼吸を整えて、由紀はぐったりと首を振った。廊下から離れたことで、張りつめた神経が緩む。
「ううん。ありがとう、小林君。小林君が引っ張ってくれたから、逃げられたんだよ。私一人じゃ、きっと捕まってた。皆とは別れちゃったし、ね」
声が震えて、言葉に詰まる。克樹の叫び声が、耳に蘇る。必死に伸ばされた手が、忘れられなかった。由紀は正しく理解していた。慎太に引っ張られたから、助けられなかったのではない。自分が巻き込まれたくなかったから、死にたくなかったから、彼を見捨てて逃げたのだ。
由紀はずっと繋がれている手を持ち上げて、そっと額を寄せる。
「私、きっと地獄に落ちるね。斉藤君のことを見捨てたかったわけじゃない。だけど、自分とはかりにかけた時ね、小林君の手を振り払えなかった」
「たとえ岡本がそれを望んだとしても、オレは絶対に手を離さなかった」
間髪いれずに返された答えに、由紀は顔を上げた。慎太の感情を宿した深い目が、瞬きもせずに見つめている。
「どうしてそこまで……?」
「他の誰が犠牲になっても、岡本だけは死なせたくなかったから」
はっきりと告げられた言葉には濁りがなかった。まるで、最初からそうすることを決めていたのかのように。由紀は慎太の目を避けて、戸惑いに顔を伏せた。純粋な好意と呼ぶには、あまりにも重い感情だ。なぜ、どうしてと、言葉ばかりが頭を巡る。そこまでの気持ちを向けられるほど、何かを彼にしてあげた記憶がなかったのだ。
「私にそんな価値があるとは思えないよ」
「少なくとも、オレにはある」
反論を許さない強さで言葉を切ると、慎太は室内を見回した。
「とにかく、ここから逃げるのが先決。化け物相手に効くかわからないけど、武器になりそうなものを探そう。オレが扉側を探すから、岡本はデスクの方を探して」
「……うん、わかった」
するりと手が離されて、慎太が扉付近にある本棚や美術品の置かれたケースを探っていく。由紀もそれに倣って、部屋の奥へ向かう。正面の壁に、額縁がかけられている。
埃まみれの薄いガラスを指で拭うと、白黒の古い写真が見えてきた。家族で撮ったのだろうか。両親と思われる男女の間には子供が五人いて、一緒に笑っている。何となく写真を眺めていた由紀は、あることに気付いて壁から額を強引に外した。
机を迂回して慎太に駆け寄ると、額縁を差し出す。
「小林君、この写真」
「これは、あの女か?」
優しく微笑む母親の顔は、克樹を襲ったあの女のものだった。
「やっぱりそうだよね。どういうことなんだろう? この人達はこの家で暮らしていたんだろうけど、それがなんであんな風になってしまったのかな」
「……ここに来る前に、ネットで調べた。そうしたら当時の記事が出てきた。よくある話だ。金持ちだった家が事業に失敗して、莫大な借金を背負うことになった。けど、ここからが普通じゃない。一家の大黒柱である父親は絶望して気が狂ったのか、自分達の子供をつぎつぎと手にかけた上、妻を殺害したのちに自殺。それからだ。この家で不可解なことが起こると、噂が出るようになった」
「その噂を聞いたから、斉藤君達は肝試しを考えたんだよね」
「たぶんな。あの女は尋常じゃない死に方をしたんだと思う。ただ死んだだけの霊はあんな力を持たない。この家は異常だよ。恨み辛みが強すぎる」
二人の間に重い沈黙が落ちた。写真に目を落とせば幸せそうな家族の姿がある。一体、この家族にどんな不幸が降りかかったというのだろうか。
手に持っていた額が抜き取られた。慎太は足早に奥へ向かうと、書類が散らばるデスクの上に伏せてそれを置く。
「止めよう。オレ達の手には負えない。オレは人より勘が強いだけだし、岡本が幽霊を見たのは、この家の影響を受けているからだ。こういうのは、関わろうとするだけ引きづられる」
反対する理由はなかった。否応なく巻き込まれたのだから、真実を知りたいと思う気持ちがないわけではない。けれど、それよりも大事なことがある。
「そうだね。この家を一緒に出ることの方が大事だもん。小林君ばかりに負担かけないように、今度は私も頑張るよ」
「あぁ…………」
微笑む由紀の中にはまだ希望が存在した。けして強い輝きを放つものではないけれど、先に進むために何よりも必要なものだった。それはきっと、慎太が傍にいてくれるから存在しえるものだった。
しかし穏やかな空気を、乾いた破裂音が打ち破った。パンッと音がして、デスクに伏せていた額縁が吹き飛んでくる。
「きゃあっ」
「危ない!」
由紀は咄嗟に両耳を押さえて身をかがめた。その上に慎太が庇うように覆いかぶさってくる。
額縁は後ろのドアにぶち当たると、二人の足元に表側を向いて落ちた。しかしそれだけでは終わらない。父親の顔にピキピキと不自然なひび割れが広がっていく。
「岡本、オレから離れないで…………見つかった」
慎太が呻くような声でそう言った瞬間、部屋の中を影が過り、四方の壁を外側からバンバンと叩かれる音が響き出した。悲鳴さえ上げられない。音はまるで二人を非難するように加速していく。
周囲を警戒するように見回した二人は、すぐに次の異変に気付く。壁やドアを叩かれると、粘土に人の両手を押しつけたように手形が浮かぶのだ。
「嘘……っ」
逃げ場所を探して上を見上げた由紀は絶句した。上窓には室内を恨めしそうに見下ろす克樹達の顔があった。どの顔にも生気はなく、両手で窓を叩いている。
「この家の因果に囚われたんだ。ああなったらオレ達のこともわからない」
「捕まれば私達もああなるの……?」
由紀の吐く息が目に見えて白くなっていく。室内の温度が急速に低くなったのだろう。恐ろしさに寒さが重なり、震えが止まらない。勇気が掌から霧散していく。
身を竦めた由紀を見て、慎太は徐に自分の左手首から数珠を外す。それを一度手の平で握りしめると、由紀の手首を取ってそっと通した。
「岡本にやる。ばあちゃんに貰ったお守りで、悪いものを寄せ付けない力がある。これなら、岡本を必ず守れるから」
「そんな貴重なものもらえないよ! 小林君が危なくなっちゃう」
心配になって慎太を見上げると、彼はとても穏やかな顔をしていた。
「オレは大丈夫。目を閉じて。岡本が目を覚ました時には、怖いことは全部終わってる」
冷たい手が由紀の瞼を優しく押さえる。途端に急激な眠気に襲われた。
「なんで、急に、こば、やし、くん……」
「勘が鋭いのは、良いことばかりじゃない。人に忠告して『ありがとう』なんて言われたの、始めてだった。……嬉しかったよ」
慎太の優しい声が、由紀を眠りの淵に誘い込む。意識が沈みこむ寸前、ガラスの割れる音がした。