忍び寄る恐怖
由紀達は懐中電灯の明かりを頼りに直進の廊下を進み、幽霊が出た曲がり角付近で左に逸れた。荒れ果てた畳部屋を突っ切り、玄関からは左側に続いていた廊下に出る。懐中電灯で前を照らすと、闇を切り取る丸い円の中に壁以外のものが映る。もう一度正面の壁を照らして確かめると、上に続く階段を見つけた。
「階段があるよ、小林君。どうする?」
一度逃げるために通った廊下だが、さっきは逃げるのに必死で見落としたのだろう。壁の一部から二階に続く階段が伸びていた。
「正直、迷うな。一階は見た限り和室しかない。だけど隠れるなら洋室の方がいいんだ。ただ、この家は日本家屋だから、二階も和室だけかもしれない」
「どうして洋室の方がいいの?」
「出入り口を塞ぐにしても、襖よりドアの方が頑丈。……どっちにしても、行ってみないとわからないか」
二人は廊下のまん中で立ち尽くす。自分達のリスクを計算しているのか、慎太は見極めるようにじっと階段を睨んでいる。由紀は周囲を目で警戒して耳をすませる。せめてそのくらいは役に立ちたかった。
後ろの畳み部屋は異常なし。前の階段も特に変わった様子はない。玄関に繋がっている左側の廊下も、懐中電灯で照らしたが大丈夫そうだ。最後によりいっそう緊張しながら幽霊が出た右側を確認する。
十五メートルほど先にある曲がり角まで懐中電灯で照らしてみたが、なにもいない。しかし耳をすますと、なにかが聞こえた気がした。もう一度、今度は手を耳に当てて目を閉じ、音をより多く拾う。すると、ほんの僅かだが断続的に音がしているようだ。それも徐々に近づいてきている。
「小林君、廊下の奥からなにか来る。急ぐ様子がないし、足音にしては人数が少ないから、増本君達じゃないと思う」
「なるべく音を立てないように気をつけて、上に行こう。ひとまずそれでやり過ごす」
慎太は廊下の闇を一瞥すると、階段に顔を戻した。そして由紀の手を引いて手摺がついた階段を慎重に、けれど足早に上がっていく。キシリキシリと小さく鳴る足場は意外としっかりした作りで、底が抜けることはなさそうだった。
踊り場を挟み、階段は折りたたむように二階に向かっている。上まで登り切ると、左右に部屋が見えた。
しかし慎太は二階をそれ以上進む様子がない。階段の周囲にあった柵の傍でしゃがむように手で指示される。音の正体を見破ろうというのか。優奈は錆びついた機械のように頷いた。
密やかな呼吸だけを繰り返して、数十秒か、数分か。はっきりと聞こえるほど音が大きくなってきた。それは重いなにかを引きづりながら歩いているようだ。ガガガ、ガガガと一定の間隔で近づく音に、二人は固く手を繋いで息を詰める。
身ぶるいしそうな冷気が階段下から漂ってくる。吐く息が目に見えて白くなった瞬間、階段の下に青白く光る男が現れた。由紀は男が手に握るものを見て悲鳴を上げそうになった。
長袖のカッターシャツに黒いスラックス姿の男は、俯いた頭を左右に揺らしながら、階段の下を横切っていく。その手に大きな斧を持ちながら。
早く通り過ぎることを由紀は必死に願った。その願いが通じたのか、男は不気味に身体を揺らしながら階段前を通り過ぎる。音は徐々に遠ざかり、完全に届かなるまで長い時間がかかった気がした。
「……行ったな」
「良かった。二階に上がってきたらどうしようかと思ったよ」
一時的なものでも脅威が去ったことを、今は素直に喜びたかった。安堵のあまりに視界が歪む。情けない顔で慎太に笑いかけると、ぽろりと一粒涙が落ちた。泣いている場合じゃないと慌てて拭おうとすれば、慎太が慰めるようにそうっと頭を撫でてくれた。
「無理しなくていい。こんな状況を怖がらない方がおかしいだろ」
「でも、小林君は落ち着いてるのに、私ばっかりこんな、情けないよ」
「オレは少しだけこの世界を知ってるから。昔からうっとうしかった力が、初めて役に立ってるだけ」
「ありがとう。もう泣かないから、絶対に一緒に外に出ようね」
慎太の不器用な気遣いに心が軽くなる。恐怖は依然として身近にある。けれど、彼だけは由紀を最後までけして裏切ることはないだろう。そう信じられた。
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押入れの中から照を発見した敦美達は、少年からここに至るまでの事情を聞いた。照は小学校五年生で、同い年の友達五人で肝試しに来ていたらしい。しかし敦美達も遭遇した女の幽霊に追いかけられて、すぐに三人と逸れてしまったと言う。
「最初は優佳と一緒にお風呂の中に隠れてたんだ。だけど、どんどん足音が近づいて来て……どうしようってなって……オレ、あいつを置いて一人で逃げちゃったんだ」
後悔するように照は項垂れた。敦美は可哀そうになって少年の肩を叩いた。敦美達も克也を置いて逃げてしまったのだ。同じ立場だから、照の罪悪感は敦美にも理解出来た。
「仕方なかったのよ。誰だってあんな化け物に襲われたら怖くて逃げるわ。あんたが悪いわけじゃない」
「でも、優花は今も一人で泣いてるかもしれない。お姉さんお兄さん、お願い。おれと一緒にあいつを迎えに行ってよ」
縋るように見上げられて敦美は困惑した。この場で主導権を握っているのは、認めたくないが雄也なのだ。頼られても助けてはあげられない。ここへ来てから豹変した奴は敦美達をいいように利用しようとしている。腹立ちはあっても、置いて行かれたくない敦美達は逆らえなかった。
佳代子が疲れたように溜息をついた。
「雄也、どうするの?」
「仲間は多い方がいいからな。行くだけ行ってみよう。それで危なそうなら、残念だけど諦めろよ。先に出口が見つかった場合も同じだ。お前だって死にたくないだろ?」
「……うん」
雄也は人の良さそうな顔をして照を諭す。その腹の内では、自分が助かるための計算が忙しくされていることだろう。