廃墟の屋敷
夜も更けた頃、由紀はパジャマから私服に着替えると、携帯電話をポケットに入れた。そして予め用意しておいた細い懐中電灯を手に、ひっそりとアパートを出た。
六月とはいえ外は肌寒く、夜の気配が色濃く漂っていた。外灯がぽつりぽつりと灯る道を、由紀は懐中電灯を握りしめて足早に進む。こんな時間に出歩いていることを思えば心細く、悪いことをしている自覚があるだけに後ろめたい。
遠くから聞こえる救急車のサイレンに、不安を煽り立てられる。いっそのこと、このまま家に戻って、温かなベットに潜り込みたい。そう出来たら、どんなにいいだろう。しかし、約束をした以上、由紀には学校へ行くしかなかった。
学校が見えてきた。すでに何人か集まっているようだ。懐中電灯の明かりがちらちらと見える。
「よし、ちゃんと来たな」
「……うん。遅くなってごめんなさい。私が最後かな?」
腕を組む克樹に尋ねると、敦美が苛立たしそうに靴先でコンクリートの地面を叩いた。
「それがさ、小林がまだ来てないのよ」
「逃げたんじゃねぇ?」
「自分から来るって言ったのに? それはないでしょ。せっかく人数揃えたんだから、もう少しだけ待ってみましょ」
好き勝手なことを話している四人の輪に入れず、由紀は目を伏せた。慎太に早く来てほしいような、ずっと来てほしくないような、何とも言えない微妙な気持ちだ。慎太が参加した意味が気がかりで、ずっと心が揺らいでいる。
「悪い。待たせた」
俯いてぼんやりしていた由紀は、その声にはっと顔を上げる。静かな表情で慎太が佇んでいた。これで全員が集まってしまった。
「遅せぇよ。逃げたのかと思ったぜ?」
「……行くんだろ? 早く済ませよう」
慎太の目は暗い夜道の中を見通すように、強い感情を湛えていた。しかし、それ以外は読み取れず、由紀はこの先の不安を誤魔化すように、ぎこちなく微笑むしかなかった。
「じゃあ、行くぞ!」
克樹が声を上げる。それを合図に六人はぞろぞろと歩き出す。慎太が由紀の隣にくる。彼は左手首の黒い数珠を気にするように、視線を落としていた。
由紀はひんやりと冷たい懐中電灯を、きつく胸元で握りしめた。
真夜中の肝試しが、始まった。
南京錠と鎖で硬く閉ざされた門は、まるで由紀達を拒むようだった。かつては大富豪が住んでいた屋敷は、多額の借金で離散したとも自殺して死んだとも聞く。その真偽のほどは定かではない。
「さすが噂の幽霊屋敷だな。雰囲気抜群だぜ」
克樹の言葉に、誰かがごくりと息を飲む音が聞こえた。門の上に見える屋敷は光がなく、不気味なほど静かだ。まだ足を踏み入れてもいないのに、見ているだけで鳥肌が立ってくる。
「どっから入るんだ? 高い門を乗り越えるのは女じゃ難しいだろ」
「大丈夫だ。前から入るのは無理でも、横からなら入れる。右側の壁にでかい穴が空いてるってよ」
壁沿いに右へ進んでいくと、一か所大きく崩れており、人が通れそうな大きな裂け目が出来ていた。長い年月の重みに耐えかねて崩れた壁は、横から見ると繊維のような藁が飛び出していた。六人は身を屈めて、一人ずつその道を通る。
「…………っ」
家の敷地に踏み込んだ瞬間、異臭がした。
まるで果実を腐らせたような、ねっとりと甘い匂いが身体に纏わりつくのを感じて、由紀は息を飲んだ。しかし、一瞬感じたそれはすぐに霧散する。鼻をきかせても、もうあの甘い匂いはどこにもなかった。
懐中電灯の光を頼りに、雑草の生い茂る庭をかき分けながら歩いている皆には、変わった様子はない。あれだけの異臭に気付かなかったのだろうか。
「どうした? ぼんやりしてると置いてかれるぞ」
一番後ろを歩いていた慎太が隣に並ぶ。懐中電灯の明かりが遠い。いつの間にか前と随分離れてしまっていたようだ。由紀は草を踏みしめる速度を上げながら、口の中で不可思議な疑問を転がす。彼なら信じてくれるだろうか。言葉を慎重に選んで、切り出した。
「さっき変な匂いがした気がして……」
「匂い? どんなやつ?」
「鼻につくような甘ったるい腐臭。小林君は気付かなかった?」
「いや、オレには────」
一瞬、風が吹き抜けた。慎太の口が動くが声は届かずに消える。由紀は乱れた髪を手櫛で整えて、彼に尋ねる。
「ごめん、聞こえなかった。なんて言ったの?」
「わからなかった、って。それよりも、その臭いが気になる。岡本が感じたの、たぶん幻臭だ。昔実際にしていた匂いを感じ取ったんだろ。それがするってことは、ここ本当に良くない」
「ゲンシュウ? 幻覚の匂いみたいな感じ?」
「簡単に言えばそう」
「でも、どうして私が? 私今まで幽霊とか見たことないよ。気のせいってことはない?」
「ないだろ。そのくらいは普通に起きそうな理由がある。実際に大きな事件があったらしい。五十年以上前の話だけど、家の寺で葬儀したって聞いた」
ぞっとする話だ。詳しくその事件について聞きたかったが、タイミング悪く玄関前に着いてしまう。
門前と違い、玄関は随分と荒らされていた。人の出入りがあった証拠に、スプレーによる落書きが複数あり、横に滑らせて開く二枚の戸は両方とも倒れてぽっかりと黒い口を開けていた。
先頭に立った克樹が振り返って、全員に告げる。
「広そうだから、はぐれるなよ。はぐれたら置いてくからな。雄也、デジカメ持ってきたんだろ? ちゃんと撮れよ」
「任せとけって。心霊写真が撮れたら雑誌に投稿するんだ。賞金は二人で山分けってことで」
ズボンのポケットからデジカメを取り出した雄也に、敦美が不満そうな声を出す。
「えー、なにそれズルイわよ。じゃあ、アタシ達も携帯で撮ろうか?」
「携帯に画像残すの嫌なんだけど。呪われそうじゃない?」
「じゃあ、アタシが撮れても山分けはなしだからね。佳代子、あんた後で文句言わないでよ?」
戸を踏みつけて四人は玄関から室内へ土足で上がり込んでいく。