噂
誰が始めに言い出したのか、今となってはわからない。
親から子に脈々と血が受け継がれるように、その噂はいつでも人の傍らに漂っていた。
──あの日、私達が大きな過ちを犯すまで。
中学二年に進級したばかりの岡本由紀は、新しいクラスメイトに馴染もうと努力していた。仲の良かった友達はバラバラに離れてしまったので、内気な由紀にとって、新たな人間関係を築くのはとても気の重いものだった。二か月が経ち、クラスの中でポツポツとグループが出てきて、焦っていたのだ。だからつい、誘われて乗ってしまったのかもしれない。
「岡本さん。私達、今日肝試しするんだけど。岡本さんも仲間に入らない?」
昼休み、一人で食事をしていた由紀に声をかけてきたのは、きつい顔立ちの新場佳代子だった。物事をはっきり言う性格の彼女は、女子の中ではリーダー格の怖い子だ。今まで関わりが一切なかった彼女が、なぜ自分に声をかけてきたのかわからず、由紀は躊躇いがちに尋ねた。
「……どこに行くの?」
「学校の裏手にある家よ。なんかあの家、変な噂があるじゃない? 克樹が確かめに行こうって。それで人を集めてるのよ」
「ここまで佳代子が説明したんだし。付き合ってくれるでしょ、岡本さん?」
由紀に向かって身を乗り出してきたのは、熊谷敦美だ。彼女の笑み交じりの強引な誘いに一瞬、嫌な予感が過った。
「でも、夜なんだよね? 危ないんじゃない?」
「大丈夫よ。克樹と雄哉も一緒だし、他にもう一人男の子を誘うから」
斉藤克樹と増本雄也はクラスの中でも目立つ存在だった。二人共素行が悪く、先生からの呼び出しはしょっちゅうだ。ガキ大将と子分のような関係で、克樹が言うことに雄也はいつでもはいはい頷いており、その分後ろ楯を利用して、クラスの中で大きな顔をしている部分もあるようだった。
正直に言えば断りたい。しかし断れば、これから先仲間外れにされそうで怖かった。由紀は仕方なく頷いた。
「……わかった。何時頃、どこで集まるの?」
「夜中の十二時に学校の前よ。ちゃんと来てね?」
佳代子に念を押すように言われる。何らかの意図を感じた。本当は彼女も怖いのだろうか。だから、人を集めようとしているのか。
そこまでして行く理由が由紀にはわからなかった。由紀は自分が内気で臆病であることを知っているし、認めている。それを情けないと思うことはあっても、事実を否定して意地を張りたいと思うことはなかったのだ。
「佳代子、参加者捕まえたか?」
他の男子より一回り大きな男子生徒が大股で近づいてきた。話に出ていた克樹である。その後ろには当然のように雄也が続く。
「岡本さんが来てくれるって。あんた達の方は?」
「駄目だ。どいつもこいつも尻込みしやがって、てんで話にならねぇの。このクラスには根性無ししかいねぇのかよ」
わざと大きな声で毒づいた克樹に、誘われたのだろう数人の男子が皆目を逸らす。由紀もその声の大きさに脅えて思わず俯いた。内心思う。本当の根性無しは断れなかった由紀自身だと。
「まぁまぁ、克樹君。そう怒らず。誰もが俺達みたいに勇敢なわけじゃないんだよ。仕方ないから、他のクラスにも声をかけてみよう」
「そうだな──待てよ、あいつにも声をかけてやろうぜ」
嫌な笑みを浮かべた克樹は、由紀の後ろに目を向けている。その視線を追うように振り向けば、一番後ろの席に行き当たった。
「おい小林! お前暇だろ? 今日の夜、学校の裏にある家で肝試しするから付き合えよ」
壮大な口調で命じられたのは小林慎太だ。この町にある一番大きな寺の息子で、いつも一人で物静かに本を読んでいる姿をよく見かけた。
弁当はすでに食べ終わっていたらしく、本を開いていた彼は、無表情な顔を上げて、不機嫌そうに目を細めた。
「パス」
「はっ。なんだよ、寺の息子なのに怖いのか?」
「どうとでも。あの家はよくない。不謹慎なことをすれば罰が当たる」
「あーそうかよ。つまんねぇ奴」
「他の奴探そうぜ」
その時、慎太と目が合った。由紀は困ったようにぎこちなく笑う。それで由紀が誘われて断れなかったことが伝わったのだろう。彼は眉をひそめると、考えるように目を落とした。そして間を置いて再び口を開く。
「待って。やっぱりオレも行く」
突然返事を翻した慎太に、由紀は戸惑う。それは周りも同じだったようで、佳代子と敦美は顔を見合わせている。
教室を出ようとしていた克樹は、椅子に腰がけたままの慎太に歩み寄ると、彼の机を手の平でバンッと叩いた。
「いいぜ。十二時に学校だ。絶対来いよ!」
「わかった」
克樹の脅し付けるような物言いにも慎太は怯む様子がない。そのまま視線を向けられて、由紀は思わず目を逸らしてしまう。自意識過剰かもしれないが、自分のせいで彼を巻き込んでしまった気がした。
初めて慎太と話したのは、一月くらい前の雨が降っていた日だった。放課後、図書室で本を借りた由紀はいつもより遅い時間に学校を出て、帰宅を急いでいた。それで、いつもは通らない裏道を使うことにしたのだ。この裏道は民家が少なく人気がないのであまり好んでは使わないのだが、家に十分早くつけるので急いでいる時は便利だった。
「そっちから帰るの、今日は止めといたほうがいい」
振り向くと黒い傘を差した慎太が、いつの間にか後ろにいた。
驚いて言葉の出てこない由紀をじっと眺めて、彼は落ち着いた様子で再び繰り返したのだ。
「帰るならいつもの道にしなよ。そっちは良くない」
「どういうこと?」
由紀は傘を抱え直すと、慎太に向き合って尋ねた。彼が真剣なことは見ればわかるものの、言っている意味がよく理解出来なかったのだ。
「嫌な感じするから。……別に、信じないならそれでもいいけど」
ふっと目を伏せると、彼はそのまま道を真っ直ぐに進んでいく。過ぎていく横顔には色濃く諦めが浮かんでいるようで、由紀は咄嗟にその背中に向かって叫んでいた。
「あのっ、ありがとう!」
抽象的な表現だったが、心配してくれたのだろう。由紀はそう解釈して、言われたように裏道は使わずに、いつもの道で帰ることにした。
その翌日、朝のホームルームで、学校の近くに通り魔が出たと先生から知らされた。その場所を聞いて背筋が寒くなった。通り魔が出たのは、由紀が進もうとしていた裏道だったのだ。