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お春  作者: 生川 恵愛
第壱章
9/27

第捌話:覚悟の禁令

「禁令……?」

「ああ、いつまでも烏合の衆じゃあいられねぇからな」


 暑さが少しずつ治まってきたある朝。前川邸にいる助勤以上が全員集まっている朝餉の刻を利用して、土方さんはずいぶん乱暴な報告を持ってきた。

 御門の警護をしたあの日から変わらず、土方さんの瞳の奥はくすぶるように鈍色に光っている。

 なにを企んでいるのかと思いきや、突然禁令とはみながおどろくのもむりはないだろう。

 助けを求めるように近藤先生に目線を向けると、局長の顔で「わたしも承知している」といった。山南さんもおなじようだ。

 禁令書をみせられたわたしたちはただただ突然のそれに困惑していた。源さんにすら知らされていなかったそれは、土方さんの覚悟にみえる。

 だが、近藤先生も承知しているのなら、受け入れるしかない。

 最初に受け入れたのは、源さんと一くん。そしてわたしが続く。それからはあっという間に助勤の面々は受け入れはじめた。


 一、士道ニ背キ間敷

 一、局ヲ脱スルヲ不許

 一、勝手ニ金策致不可

 一、勝手ニ訴訟取扱不可

 右条々相背候者切腹申付ベク候也


 四ヶ条からなるその禁令の基準は、いやに曖昧だ。

 しかもその判断基準はすべて、局長や副長に委ねられるというのだから、土方さんがなんのために創ったのかわかる気がした。

 彼のいった、万が一のこと。それがいま、迫っているのだろうか。

 突然の禁令に、隊士たちは混乱していた。それでも、切腹の二文字に連中の腹も決まる。


「あれ。新見さんではありませんか?」

「めずらしいですね、新見副長がこちらへ赴くなど」


 近ごろの騒ぎですっかり過保護になってしまった平助と、山南さんの息抜きに付き合っていた。

 山南さんの部屋の前で、源さんに茶を淹れてもらい、平助が買ってきた団子を食べる。

 斬り合いなどどこにもないような平和は雰囲気を壊したのは、前川邸に足を踏み入れる新見さんの姿だった。

 禁令の件できたのかと思いきや、すでに芹沢さんたちにも承諾は得ているという。

 山南さんもわからないというのだから、わたしや平助など首を傾げるほかない。

 新見さんはわたしたちには気づいていないのか、気づかないふりなのか。ちらりとも目線が合うこともなく、奥へと消えていった。

 少しして茶を飲み終えた山南さんは、ひと足先に奥へ消えていく。なにやらむずかしい表情をしていたようだが、なにもいえなかった。

 新見さんのことを考えるひまもなく、夕刻の巡察へ向かう。

 平助との巡察はあの最初のとき以来。またなにか起こるのではないかと内心冷や汗をかいていたが、いやな予想は裏切られぶじに屯所へ戻ってくることができた。


「……沖田はん」


 前川邸に入ろうとするわたしたちを引き留める声がかかる。お梅さんだ。

 わたしとお梅さんの間に平助が身体をすべらせる。

 殺気とまではいかないが、それでも嫌悪感を丸だしにした彼に、お梅さんは数度まばたきをすると吹きだした。

 呆気にとられた平助だが、いまにも噛みつきそうな雰囲気はそのままだ。


「ふふ……あはは。こないな態度とられたん、はじめてや! ああ、おかしい。藤堂はん……やったっけ? 堪忍ね。沖田はんお借りするわ」

「……断るっていったら?」

「べつにとって喰おう思てるわけやないんよ? 話がしたいだけやから……あ、声聴こえへんとこまでなら、ついてきてもろてもかまへんよ」


 お梅さんのそのひとことに、平助はしぶしぶうなずいた。

 先を行く彼女の行き先は壬生寺だ。

 陽が沈みはじめ茜色に染まるそこは、いつも以上に人気がなかった。

 参拝客用にと設置されている長椅子に腰かける。

 少し離れたところに立っている平助を横目に、お梅さんに目線を送る。


「先生は……先生は、あの人に殺されてまうんやろか」

「──はい?」


 まさに寝耳に水。誰が誰に殺されるというのか。

 あの芹沢さんが誰かに殺されるなど、考えもしていなかった。だが、お梅さんのいうあの人というのは誰かわかる。

 ──土方さんしか、いない。

 どうしてそう思うのか。そう訊いてもお梅さんはなかなか口を開かなかった。

 代わりにもらしたのは、ただひとこと。


「もし……。もしほんまに、先生が殺されてまうんなら、うちも一緒に殺してほしいんや。先生がおらんのなら、どこにも居場所なんてあらへん」


 刀を持つわたしですら、きっと死ぬときは恐ろしいというのに。総司ですらあのときは恐怖に支配されていたというのに。

 彼女の瞳はいまさらどうこうできはしないと諦めてしまうほど、まっすぐに覚悟を決めていた。

 いつも、総司のように笑っていたいと思うのに、すっかりくせになってしまったため息が、耐えきれずに鼻孔からもれる。

 人を殺すなんて、そんな約束はできないし、したくない。

 もし約束してしまえば、わたしが初めて殺める人はこの人になってしまう。


「自分じゃ、死なれへん。……沖田はんしか頼れへんの」


 何度も何度もくりかえされる懇願。わたしは決してうなずくことはなかった。

 いつの間にか空には星がまたたき、月明かりに平助がこちらを伺っている。


「もう、終わりです。八木邸までお送ります」


 立ち上がったわたしをみつめる瞳は、哀しげにゆらいでいた。

 わたしの姿がみえたのか、平助はこちらへ駆けてきた。ひとことも話さなくなったお梅さんを八木家の御新造さんへ預けると、夕餉がはじまっているだろう前川邸へ入る。

 食欲なんてものはないけれど、食べなければ弱ってしまう。

 なにも訊いてはこない平助に感謝しつつ、少し冷めた夕餉に箸をつける。

 お梅さんの言葉を心中くりかえしながらも、わたしはあの芹沢さんが殺されるなんてありえないと、頭を振った。

 あのときわたしたちがみかけた新見さんは、近藤さんに呼ばれていた。と、平助はどこからか聴いてきた。

 こういってはなんだが、わたしは新見さんのことはあまりよく知らない。顔をみることはあっても、話したことは数えるほどしかなかった。

 芹沢さんを訪ねてもあまり八木邸にいることもなく、みかけてもすれちがうのみ。

 ただ、一度市内でみかけた新見さんは、どうやら民家に隊費を要求していたようだった。

 酔って暴れる芹沢さんとはまたちがい、新見さんは常に乱暴な所作な女好き。はっきりいって、芹沢さんのように学のある男が、新見さんを腹心として傍に置いている理由がわからずにいた。

 頭をめぐるさまざまな考えは、ひとつ減ったと思えばまたひとつ増える。

 総司の傍にいたころは、総司のことだけをかんがえていればよかった。いまは生きるということは悩むことだと、そしてそれは幸せでもあり、辛いことだと知った。

 少し頭を冷やすためにと縁側へでる。大部屋からは隊士たちの声が聴こえ、決して静かだとはいえない宵。

 下ろした髪をなでる夜風は心地よく、わたしの熱を少しずつ奪ってくれるようだ。

 どれほどの刻、月をみあげていただろうか。自室の障子が開き、平助が羽織を手にとなりに腰かけた。


「風邪引くぞ?」

「……ありがとう、平助」


 みあげた平助は月明かりに照らされ、もとよりの美少年に拍車をかけていた。

 肩にかけられた羽織はわたしのものより少し小さくて、しかしなぜかとても温かい。羽織を掴み胸もとへたぐり寄せた。

 総司ではなく、わたしとして初めて会ったあの日。なぜあのように大胆な行動にでたのか、いまのわたしにはわからなかった。

 いまではさらしに潰しているこれに違和もない。総司とはちがう証だと、どこかで理解しているのだ。

 そっと平助の表情を伺う。少し低い位置にある彼の顔はとてもうつくしくみえる。

 口は悪いがいつも傍にいて気遣ってくれる彼は、こんなにもうつくしかったのだろうか。

 澄んだ星空の下、彼の姿はまさに白梅だった。

 いつの間にか大部屋から聴こえていた隊士の声も静まり、虫の鳴き声だけがひびく。

 佐々木くんやあぐりさんのこと。芹沢さんが謀ったことは、きっとまちがいないだろう。

 それでもあの日、御門にてみせた雄々しさはわすれられない。なにも知らない隊士たちの中には、少なからず尊敬を抱く者も現れただろう。

 もとよりなついていた総司の心のうちを、わたしは知っている。その狭間でゆれてしまうことは、覚悟が足りないのだろうか。

 土方さんはきっと、あの禁令で膿をだそうとしている。その膿が間者だけならよいのだけれど。

 隊務を怠るばかりと聴く新見さんを抑制するだけなら、隊の規律を護るためには必要なことだ。

 だが、土方さんがそれで済むとは思えなかった。

 翌朝。朝餉ののち、近藤先生たちは芹沢さんのもとへ向かった。

 昨夜も寅の刻(午前四時)ごろに屯所へ戻ったという新見さんの説得に向かったのだ。

 これまで幾度も近藤先生のみならず、芹沢さんにも叱咤されているというのに、新見さんは少しも変わることはなかった。


「近藤さん。新見がいままでとおなじようなことをくりかえすってぇなら、禁令の最初の“生贄”になってもらうことになる」


 門へ向かう途中。土方さんが声をひそめて近藤先生につぶやいたそれは、近くにいたわたしにも聴こえてしまった。山南さんの声もかすかに耳をかすめる。

 思わず障子を開けたわたしに一瞥やることすらなく、前川邸をあとにした三人に、じわりと冷や汗が背中をなでた。

 それから数度、三人そろって八木邸へ向かっていたところをみると、新見さんに改心はみられないらしい。

 蝉の鳴き声がやんだころ。新見さんは祇園の料亭山緒にて、詰腹した。


「土方さん……!」


 変わり果てた新見さんを目にしたわたしは、すぐさま土方さんのもとへ向かった。

 あのとき聴いたあの言葉は、やはりこういうことだったのか。

 生命以外になにか方法はなかったのかと考えてしまう。土方さんには甘いといわれるだろう。


「なんだ。さわがしいな」

「あなたは……このために禁令なんて創ったんですか!」


 人気のない廊下。山南さんと歩く土方さんの背中に声を放つと、ふたりはおなじように振り向いた。

 真実を、教えてほしかった。どんなにうしろ暗いことでも構わない。真実が知りたい。

 彼は腕を組み、なんでもないように、そうだ。と、口を開いた。

 山南さんはただなにもいわず、わたしをみつめるだけだ。案じているような、憂いているようなその瞳には息がつまる。


「──この組の局長は、ひとりで充分だ」

「……っ、土方さん!」


 呼びとめるわたしの声をそのままに、土方さんは踵を返した。山南さんはしばしの間わたしをみつめていたが、すぐに土方さんのあとを追った。

 お梅さんの言葉は杞憂などではなかった。知る由もないはずの芹沢さんの死を、彼女は予見していたのだ。

 握りしめた手のひらに、爪が刺さる。噛んだ唇は血を流し、口の中にいやな味が広がった。

 それでも、追いかけることもできずに、ただ立ち尽くしている姿はさぞかし滑稽だろう。

 新見さんは、土方さんの創った禁令によって罰せられた。次は確実に芹沢さんの番だ。だが彼はそう簡単に腹など切らないだろう。

 新見さんが亡くなった翌日。ひとり八木邸を訪れていた。お梅さんと芹沢さんに会うためだ。


「沖田はん……めずらしいこともあるもんやね」

「……お梅さん、痩せました?」


 数日ぶりにみた彼女は、ずいぶんとやつれていた。心労が溜まっているのだろうか。つい同情的な瞳でみてしまう。

 芹沢さんの自室だという場所へ案内してもらうと、障子を挟んで酒の香りが漂ってきた。

 近ごろはほんとうに一日中呑んでいるのだと、お梅さんは哀しげにほほえんだ。


「芹沢さん……沖田です。よろしいですか?」

「ああ、入れ」


 障子を開けるとそれだけで酔ってしまいそうなほど、強烈な香りがした。

 酒壺が辺り構わず放ってあり、いつから、どれほど呑んでいるのかもわからない。

 芹沢さんはわたしの表情をみるとひとつ可笑しげに笑い、とても酒を煽っているとは思えない、しっかりとした所作で立ち上がった。


「酒は苦手だったな……。外へでるか」

「──すみません」


 いままでみてきたどんな彼よりもやさしい声だった。

 心配そうに見送るお梅さんにうしろ髪引かれながら市内へでる。芹沢さんの勧めで入った料理屋で奥の座敷を頼むと、さすが筆頭局長。あっという間に上座に座った。

 ここでも酒を煽り、しかし全く顔色の変わらない彼をみつめながら箸を置いた。

 食欲など皆無だ。


「芹沢さん……」

「“逃げろ”って、いいてぇんだろ?」


 あのとき赤鬼を連想させた同人物だとは思えない、やさしくもきびしい表情。たとえるなら、そう。山南さんのようだ。

 眼をじっと射抜かれ動けないわたしから目を逸らした芹沢さんは、またひと息に酒を煽った。

 彼は、彼女とおなじように予見しているのだろうか。自分が殺されようとしていることが。

 なにもいえず唇を噛むことしかできないわたしは、総司にはなれないのだろうか。


「土方だろう、おれを喰おうとしてるのは。あいつはあいつなりに、自分の信念で動いてんだ。そのために邪魔者おれたちを排除しようとしてる。最初からわかってたことだ」


 うつむいたわたしに、芹沢さんは覚悟を決めさせようとしているのだろう。話していることはずいぶんと残酷なのに、声は明るい。

 ゆるゆると顔をあげたわたしがみたのは、やさしくほほえむ芹沢さんの姿だった。

 みたこともないその表情は、死を覚悟しているというよりは、受け入れているようにみえる。

 いまにも消えてしまいそうな儚い笑みに、刻がとまってしまった。

 前川邸へ戻るまで、わたしはふらふらと歩いていたように思う。

 目的地はあるけれど、道はみえていないような……そんな感覚。正直なところ、どこをどう歩いて戻ってきたのか記憶にない。


「総司! おまえ、どこ行ってたんだよ!」

「平助……?」


 いつの間にやら前川邸についていたわたしにそれを気づかせたのは、平助の怒号だった。

 なにもいわずにでてきたので案じていたのだろう。額ににじませた汗に謝罪の言葉がこぼれる。

 誰にも知られることのなかったわたしという存在を、案じてくれる存在。それはありえないと思っていた幸福だ。

 昔は互いに互いを案じていた、わたしと総司の関係性。それは総司が家をでたあの日に変わった。ただ一方的にわたしが彼を案じていた。

 幾年流れて、わたしはいまこうして思いを向けられているのだろうか。

 となりを歩む平助の存在を感じながら、心で芹沢さんの言葉を思いだしていた。

 わたしは怖い。生命尽きる瞬間が。誰のものであっても恐ろしい。

 それが自分ともなれば──その予感があるとすれば、それはきっと声を張り上げたいほどの恐怖だろう。

 彼はそれを受け入れている。そして彼女も悩みながらも受け入れ、おなじ道を歩もうとしている。

 何度も決めているはずの覚悟が、風に吹かれた水の如くゆらぐ。

 人を斬る瞬間。わたしはそれに立ち会いたくはないのだと、自覚してしまった。


「平助、起きてますか?」


 せんべい布団の中で寝返りを打つ。となりに眠る平助の影は動いてはいない。

 ぽつりと、声とも呼べない声で呼びかける。小さく動いた布団は中からめくられ、浴衣姿の彼はわたしの傍に胡座をかいた。


「寝れねぇのか?」

「……芹沢さんの言葉が、頭から離れなくて」


 受け入れているあの言葉。菩薩のような表情。ただ一度みせたそれは、いままでの彼の印象を覆すものだ。

 ほんとうに彼が佐々木くんたちを殺める指示をだしたのか。それすら疑問に思うほど。

 帰り道。ひたすらに頭をめぐっていた思いに応えはみつからない。

 やはりお梅さんのねがい通りに芹沢さんを救うこともできないし、お梅さんを殺したくもない。

 その反面、あぐりさんのことを思うと、愛する人を殺されたお梅さんが果たして生きていけるのか。あぐりさんとおなじ道を歩むのならいっそわたしの手で──そう考えているのも、偽りではないのだ。

 下限の月が障子越しにわたしたちを照らす部屋で、ただ心のうちを吐きだしていた。

 新見錦という副長のひとりが亡くなってから幾ばくもしないうちに、平助は土方さんに呼ばれ局長室へ向かった。

 ついに芹沢さんの番がきたのかと、知らず知らずのうちに固唾を呑む。

 いけないとはわかっていたが、局長室の障子がぴったりと閉じたのを確認すると、真横に腰かけて聴き耳をたてた。

 すべてが聴こえるわけではない。だが、芹沢さん、平山さん、平間さん。やるのは。断片的に聴こえた単語に、まちがいないと立ち上がる。

 障子の目の前に立つと、土方さんの声で、もうそれしかない。と聴こえた。

 手にかけたそれを、思いきり左右に開いた。

 土方さん、山南さん。左之さんに、平助、源さん。そして部屋の主でもある近藤先生。部屋にいる面々を見渡すと、許可もなく部屋に入り、うしろ手に障子を閉める。


「なにしにきやがった」

「芹沢さんは、自分があなたに喰われるとわかっています。もし、ほんとうにそのおつもりなら──芹沢さんは、わたしが斬ります」

「おい、総司……!」


 土方さんの眉のしわなどちりほども怖くはない。わたしはそれよりも、自分の中にある感情に逆らう方が恐ろしい。

 ただまっすぐに土方さんをみつめる。この案をだしたのは彼しかいない。

 近藤先生は好んで人を斬るような人ではないし、山南さんもそうだ。ふたりとも、天性のやさしさがある。

 一切の音がすべて消え去ったかのような沈黙。平助の固唾を呑む音が聴こえる気がした。


「“わたし”がまだ人を斬ったことがないからですか? 総司のようで総司ではないからですか? いったはずです。わたしは、総司として生きると。“わたし”の感情はわたしのものですが、本来総司がするであろうことを、他人に託すことはできません」


 ひと息にすべて吐きだしたその言葉は、どれほどこの頑固者に届いただろう。わたしも頑固者だといわれてしまうだろうが。

 誰ひとり、身じろぎすらしない。睨み合うわたしと土方さんの視界には、互いしか映っていなかった。

 どれほど相手との睨み合いが辛くとも、先に目を逸らしてはいけない。それが、自分にとって譲れないことであればあるほどに。

 それを総司に教えたのはこの人だ。そして、いま目を逸らさないということは、彼にとってもこれは譲れないということだ。

 芹沢さんを斬って、近藤先生を唯一無二の局長にすること──そしてそれにわたしを関わらせたくない。

 言葉はなくとも、互いの意思は伝わっている。それに決着をつけたのは、山南さんだった。


「土方さん、彼女に任せましょう。このも総司とおなじでずいぶんと頑固者のようです。“彼”のことは、土方さん。あなたがよく知っているでしょう?」


 鬼の副長すらも黙らせる仏の笑み。土方さんはひとつ舌打ちをして全員の顔を見渡した。

 それにつられるように平助や左之さん、そしてわたしも目を見合わせる。誰も山南さんの意見に反対する者はいない。

 長く息を吐いた土方さんは、昔総司にみせていた呆れた瞳でわたしをみつめた。


「仕方ねぇ。藤堂、おまえが外れてくれ。平間と平山は山南さんと原田。芹沢はおれとこいつでやる」


 全員がひとつうなずいた。まずは左之さんが立ち上がり、部屋をあとにする。

 わたしをみつめる平助の表情は、すっかり見馴れた案じ顔だった。

 左之さん以外は誰も立ち上がろうとしない。わたしもなにか問いたげな空気に、立ち上がれずにいた。

 近藤先生が傍に置いてある茶に手を伸ばす。すっかり湯気も消えたそれにひと息つくと、ようやく口を開いた。


「なにゆえそこまで固執したのだ?」

「……わたしは、芹沢さんの覚悟を知っています。誰にもみせなかった表情も、みてしまいました」


 いうべきか、いわざるべきか。わたしは一瞬悩んでしまった。

 それでも近藤先生の問いに応えないわけにはいかないし、土方さんにも聴いてほしい。

 わたしはわたしの感情で動くけれど、総司としての役割を捨てることなどしない。山南さんと源さんに教えてもらったことだ。


「それに……芹沢さんは佐々木くんとあぐりさんの仇──そうですよね、土方さん?」


 土方さんへと目線をやったわたしの瞳に映ったのは、一度わずかに動いた彼の眉。

 諦めたように肯定したその言葉に芹沢さんの笑みで弱まった炎が噴きだした。

 だが、仇をとるわけではない。わたしは生涯彼のあの笑みを忘れることはできないだろうから。

 それをわかっているからこそ、あの人は最期だと知っていて、わたしにみせたのだと思う。それが自分にとって都合のよい解釈だとしても、そう思いたかった。

 いずれにせよ、最期の刻にわたしはその場にいるのだ。答えを訊くことはできる。

 決行は二日後の夜。その日は土方さんの提案で、角屋にて宴会が開かれることになっていた。名目は、新見さんを偲ぶもの。

 新見さんの詰腹ののち、すぐに隊士全員に知らされたそれは、このためだったのか。あまりの行動の速さに息を巻く。

 決行日の前日。あのときの総司とおなじように、なかなか寝つくことができなかった。


 島原、角屋。普段なかなかありつけない高価な酒に、隊士たちは我先にと酒に呑まれていた。

 ほんとうに新見さんを偲んでいる隊士などいるのだろうか。おなじ幹部である総司とともにいたわたしですらあまり知らない彼を知る隊士はどれほどいるのだろう。

 おなじように酒を呑むわけにもいかず、ちびちびと盃を口へ運ぶふりをする。

 やれ無礼講だと騒ぐ隊士たちの中で、この宴会のほんとうの意味を知る八人のみが笑えていない。

 平山さんや平間さんは、芹沢さんからなにも聴いていないのだろう。芹沢さんのとなりでありったけの酒池肉林を堪能していた。

 年若い野口さんだけは生かしておけないか。近藤先生の言葉に、土方さんはうなずいていた。

 まだ芹沢さんに染まりきっておらず、人を斬るという行為を愉しんでいるわけでもない。

 彼だけは、壬生浪士組のいち隊士として、近藤先生についていく上で使い道がある。土方さんはそう思っているのだろう。

 彼の瞳は、新見さんを偲んでいる。酒を呑んではいるが、勧められれば呑むという程度。自ら進んで呑んでいるわけでもない。

 近藤先生は隊士たちの輪の中で笑い、源さんは野口さんのとなりへ座すと話を振っている。

 あまり酒が強くはない平山さんがふらついているのをみて、山南さんがそろそろと進言していた。


「芹沢先生、おかえりですか?」

「ああ。こいつがそろそろ限界だ」

「では、下までお送りいたします」


 近藤先生が隊士の輪から声をかける。周りが気にもせずに騒いでいるのも気にすることもなく、芹沢さんたちは座敷をあとにした。

 近藤先生たちはその最後尾を行く。

 空が泣きそうな今宵、月はでていない。灯を多めに用意させていた。

 いよいよだ。これから、わたしたちの夜ははじまる。

 なにも知らず騒ぐ隊士たちの声を聴きながら、そっと瞳を伏せた。


「総司、おまえ大丈夫か?」


 平助が介抱にみせるように近づいてきた。酔ったということにすれば小声で話ができると思ったのだろう。

 苦笑で肯定すると、平助はわたしを支えて立ち上がらせ、座敷をでた。

 障子を閉めると隊士たちの声も、酒の香りも薄くなる。手のひらにかいた汗を袴でぬぐった。


「総司──いや、これは沖田総司としてのおまえにいうんじゃねぇ。絶対に、死ぬな。生きて帰ってこい。……それで、ほんとうの名前を思いだしたら、一番におれに教えろよ」


 わたしたちのいた部屋より、さらに奥。部屋もなく、人気もない場所で、壁に押しつけられた。

 おどろいたわたしの瞳を下からみつめるのは、見馴れた案じ顔でも笑顔でもない。ぞくりと背中がふるえるほど真剣な瞳。

 彼はいつもわたしを案じて、そしてわたしの心を軽くするような言葉をすんなりと吐いてみせる。

 とまらなかった手のひらの汗も、いまの言葉で少し乾いたようだ。


「ありがとう、平助……。昔、総司につけてもらったわたしの名。思いだしたら、呼んでくださいね」

「ああ、もちろんだ! だから、絶対に戻ってこい。絶対にだ」


 わたしを捕らえていた腕を離し、少年のような大げさな笑みを浮かべる。そんな彼につられて、こんな状況ながら笑顔がこぼれた。

 宴会が行われていた部屋の障子が開き、酔った様子の左之さんと介抱を装う山南さんがでてくる。

 それをみたわたしは平助に笑顔でうなずき、角屋をあとにした。


「全員そろったな」


 芹沢さんたちとともに屯所へ戻っていた土方さんと合流。

 顔を見渡しながらの言葉に、わたしたち三人は黙ってうなずいた。彼もひとつうなずいて八木邸へ足を向ける。

 暗闇の中、灯も持たずに走るわたしたちは、きっと心底怪しいものだろう。

 八木邸の灯はとうに消えている。暗闇に紛れたまま、しばらく様子をみていた。


「土方さんよぉ、そろそろいいんじゃねぇの?」


 待ちくたびれたといわんばかりに、左之さんが声を上げた。

 たしかに人が出入りする気配もないし、このまま待機していても刻がすぎるだけだ。

 土方さんはふと空を見上げた。つられて目線を向けると、空はいまにも泣きそうだ。


「いや……そろそろ雨が降る。それから向かおう」

「わたしも、その方がよいかと」


 副長ふたりにいわれ、左之さんはつまらないと槍で地を突いた。

 左之さんのため息が雲になってから四半刻経っただろうか。ぽつり、ぽつりとようやく雨が降りだした。

 一度降りだしたそれは、あっという間に滝のように激しさを増す。

 張り付いた前髪を濡れた手のひらでぬぐい、指示を仰ぐために土方さんへ視線を向けた。

 視界に入った左之さんの瞳は、もうよいだろうと爛々と輝いていた。


「よし、行くぞ。原田と山南さんは平間を頼むぞ」

「ああ、任せとけ!」

「……承知しました」


 土方さんの言葉に、嬉々とする左之さんと、表情が曇る山南さん。正反対のふたりに、ひと悶着なければよいのだが、と思いつつ別れる。

 土方さんとともに芹沢さんの自室へ向かう。障子越しに様子を伺うと、芹沢さんとは別の、もうひとつのいびきが聴こえた。

 ともに戻ったどちらかがいるのだろう。

 となりで土方さんが鯉口を切る音がする。わたしも一度鞘を握りしめ鯉口を切り、頭巾を被りなおした。

 驚愕はその人の持つ本来の力を封じるらしい。土方さんはわたしにひとつ合図をするとともに抜刀し、思いきり障子を開けた。

 脇をすり抜け、芹沢さんとは別の男の首を断ち切る。

 肉を断つ感覚。飛び散る鮮血に、宴会で口に入れたものがでてきそうになるが、なんとか耐える。

 屏風の向こうにいるはずの、芹沢さんかお梅さんの身じろぎが聴こえ、素早く土方さんと合流した。

 このまま殺ってしまうことが、ほんとうによいことなのか──いまになってわたしは迷ってしまう。

 芹沢さんとお梅さんは、幸福そのものの表情でより添って眠っていたから。

 土方さんがすり足をだしたのを感じ、その前にと足を踏みだした。


「すみません……」


 土方さんにすら聴こえないほどの声でつぶやくと、芹沢さんの脇腹めがけて刀を奮う。

 だが運よく寝返りを打った芹沢さんのおかげで狙いは外れ、畳に傷を残した。その音で飛び起きた芹沢さんは、わたしをみると少し笑う。


「土方、おまえが直接くるとはな」


 障子に向かい放たれたその言葉に、土方さんの舌打ちが思いの外ひびく。それを聴いた芹沢さんは抜刀し、笑った。


「おいおい、舌打ちするこたぁねぇだろ。殺れるもんなら殺ってみな。“おまえ”がな」


 わざと土方さんを挑発する物いいに、土方さんは口で応えはせず、刀を構え直す。

 お梅さんを斬らせないためだろうか。わたしに一瞥やると、芹沢さんは障子へ向かっていった。

 土方さんとの鍔迫り合いを制した彼はそのままとなりへ誘導する。

 誘われるままにそちらへ向かう土方さんの背を追うと、背後から左之さんの声が聴こえた。


「あーあー。まだ終わってねぇのかよ?」

「……そこで、彼女が逃げないように見張っててください! 決して殺さないで」


 わけがわからないという左之さんと山南さんをよそに、わたしは斬り合いの音のする部屋へ向かった。

 芹沢さんは、わたしが殺るべき人だ。そして、お梅さんも。

 八木家の親子が寝ている場所で斬り合いなど──そう思いもしたが、この人たちには怪我はさせまいと刀を握る手に力が入る。


「ああああぁぁ──……!」


 芹沢さんがみせたあの笑みを頭の片隅から消すために叫んだ。

 もうこの人は、誰がきたかわかっているんだ。そんな相手にいまさら無言を貫いても仕方ない。

 わたしの太刀筋はすべて彼の鉄扇か刀に受けとめられる。それは土方さんもおなじだった。

 土方さんの歯ぎしりがここまで聴こえるようで、弾き飛ばされた刀に力を込めた。

 思いきり振り上げたそれが捉えたのは、この部屋の鴨居だった。


「くそっ……!」


 総司も吐かなかった汚い言葉が口をつく。

 深々と刺さったそれをどうにかして抜こうとしている間、土方さんは無言で舌打ちをすると芹沢さんへ猛攻撃をしかける。

 それを避けて、受けとめて、また避けて。芹沢さんがこちらに斬りかかる隙を与えないその太刀筋に、焦りは増していく。

 あんな刀さばきをしていては体力は保たない。信頼されていないと思っていたが、案外この人はわたしを案じているのかもしれない。

 ようやく刀が自由になったとき。土方さんの攻撃を抜けだし、芹沢さんはこちらに刀を振り下ろしていた。

 ちょうどうしろに飛び退く形になっていたわたしは、着物の胸もとと袴が少し斬られ、さらしが顕になった。


「変わったとは思ってたが、まさか影武者だったとはなぁ! おまえ、なに者だ?」


 先ほどまで攻防していたふたりの視線がわたしに集まる。土方さんが声を上げる前に、さらしに護られたそれに気づいた芹沢さんが口を開いた。

 いま、すべてを話すほどの余裕はない。わたしは黙ったまま刀を構え直すと彼に斬りかかっていった。


「わたしは──わたしは、沖田総司だ!」


 総司として生きると決めた。言葉と刀に込めたそれを、彼は受け取ったらしい。

 刀を受けとめられ、声はださないまま。目と鼻の先にある彼の唇は、おれを殺して生きろ、と動いた。

 その表情はいつかみたあの菩薩のようなほほえみで、頭とは裏腹に視界がにじむ。

 土方さんが刀を振り上げたのを感じると、芹沢さんはそこへ向かいわたしの刀を振り切った。

 思わず振り上げた状態で固まった土方さんの傍へよろける。


「邪魔するなら退いてろ!」

「あの人はわたしが殺ります!」


 何度目かの舌打ちと、怒号。被り気味に放った言葉の強さに、わたし自身もおどろいてしまう。

 これでよいのだと、芹沢さんが笑った気がした。

 にじむ視界はそのまま。唇を噛みしめ奮った刀は芹沢さんの腹を裂いた。

 ぐうと声をもらしよろめいた彼を次に襲ったのは文机だった。

 文机の角にしたたかに背を打ちつけた彼はそのまま八木家の息子、勇之助さんの足もとへ倒れ込む。

 いまだと伸びた土方さんの刀に、負けじとわたしも刀を奮う。土方さんの刀は脇腹に。そして、総司の魂を宿した加州清光は、彼の首を切断していた。

 脇腹を貫いた土方さんの刀は、寝相の悪い勇之助さんの脚をも傷つけ、彼は痛みに声をもらした。

 土方さんの合図ひとつでそこから逃げだしたわたしたちは山南さんたちと合流し、泣き崩れるお梅さんをそのままにそこをあとにした。

 八木家の人々が刀を持った集団を追うはずもないと、土方さんですら油断していたのだろう。


「待って……!」


 ふいに背後からかかった女性の──お梅さんの声に、誰もが足をとめた。

 雨か涙かわからないものに濡れた彼女の瞳は、まっすぐにわたしをみているようにみえる。

 ひとつ落ちた雷に照らされた彼女の表情は、強くも儚く、そして覚悟を決めていた。


「沖田はんやろ……? 先生を殺したん? なら、うちも殺してや……!」


 三人より一歩彼女に近いわたしの破れた着物を、その細い腕でつかまれた。

 逃げようと思えばすぐに振り払えるほどの力なのに、その涙に動くことができない。

 何度も懇願しながらゆらされるままにしていると、そのうちにお梅さんの身体は崩れ落ちた。


「いつまで相手にしてやがる。行くぞ」


 いつの間にかお梅さんとわたしの間に立っていた土方さんが、わたしの肩を押す。

 気絶させた彼女を一瞥して先に足を進めた彼は、きっと最初から余計な犠牲を払いたくはなかったのだろう。

 袴をつかみ、気絶していても尚離すまいとする彼女の首もとに、刀をあてがう。


「総司……これでよいのだろうか」

 ──芹沢さんと、おなじ世界に逝かせてあげましょう


 その声は総司だったのか。はたまたわたしの妄想による幻聴か。思わず問いかけたわたしに届いたのは、哀しい旋律だった。

 噛みちぎらんばかりに唇を噛み、お梅さんの首を斬り落とすと、わたしは八木邸をあとにした。

 結局この日、わたしたちは平山さんと芹沢さん。そしてお梅さんの三人を殺した。すべて、わたしの手で。

 山南さんと左之さんが向かった部屋には平間さんと馴染みの芸妓が寝ていたが、平間さんは隙をついて逃げてしまったらしい。

 平山さんのとなりで寝ていたはずの芸妓も、思えばいつの間にか逃げていた。

 この日、人斬りとなったわたしは、思いの外冷静だった。

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