第陸話:怒りを抱き、救いをねがう
あれから、小野川部屋の親方が直々に宿舎へと訪れた。
奉公所へ届けでた際、わたしたちが壬生浪士組だと発覚したらしい。
顔を青くして金五十両と酒樽を持ちやってきた親方に、近藤先生は持ち前の人のよさで和解を申しでた。
その二月後、京都で開催された相撲興行の際には、大阪相撲の力士も参加することとなった。壬生浪士組の面々も、もちろん手伝いに向かう。
「相撲かー、数少ねぇ娯楽だよな」
「そうですね、ここもいつもよりずいぶん活気がありますし」
平助と並んで旗を運んでいると、不意にとなりから声がかかった。
大阪に行っていたとき以外は、自然とほとんどの行動をともにしている彼は、わたしにとってずいぶん心を開いた存在となった。
“沖田総司”としての笑顔か、“わたし自身”の笑顔かは定かではないが、もれる笑顔も自然なものだ。
「そうだ。おまえ、もう会ったっけ?」
「誰のことです?」
「今日、あの医者も呼ばれてるはずだけど」
「ええ、聞いてませんよ!」
例の医者といえば、あの珠つきの髪紐をした医者だろう。
近藤先生のことだ。わたしを助けてくれたお礼にと呼んでくれたのだろう。
のちほど山南さんに確認してみよう。きっと知っているはずだ。
ずり落ちた旗を持ち直し、小柄な身体で軽々と旗を運ぶ平助をみる。
彼の歩幅に合わせるのはきらいじゃない。
旗を運び終え、平助とも別れた。ひとり山南さんを探そうかとも思ったが、よく考えてみればいまは山南さんも対処に追われているだろう。
人波から外れ縁側に座ってひと息つく。遠目からみると、やはりみな浮き足立っていた。
「こないなところで、なにしてはるんです?」
「あ、あなたは……」
気配もほとんどなく現れた人物に、思わず右手が腰に伸びる。勢いよく振り向くと、そこには彼がいた。
殺気がもれてしまっていたのか苦笑いで両手を上げた彼に、ゆっくりと右手を降ろした。
すっかり目を丸くしていたのだろう。彼は人のよい笑みを浮かべた。
縁側へ腰かけとなりを促すと、彼は音も立てずに座る。その所作に、ただ者ではないなにかを感じた。
「あのときは、助かりました」
「いやいや。人助けも医者の性分やから」
「ところであなた、名はなんと?」
「あのとき名乗ってへんかったっけ。山崎や」
本家は大阪だが、祝言を上げたことをきっかけに京にでてきたらしい。
これでも意外と歳はいっているという彼は、医者の皮をぬぐとずいぶんと気さくな印象だ。
「あのときの女性が、御新造さんですか?」
「いや、あの人はよそから手伝いにきてくれてんねん。ひとりやとなかなか回らんことも多くてな」
一瞬哀しげにゆらいだ瞳に、訊いてはいけないことだったかと後悔するがあとの祭り。
哀しみを隠してほほえむ彼は痛々しくみえた。
謝るのも、深く訊くのもまちがっている気がする。そのまま流すほかなく、そして会話はとぎれてしまった。
「そない顔せんでや。ま、あいつのことはいまでも忘れてへんけど、それでええねん」
空気に合わない明るすぎる声は、わたしの顔を上げさせるには充分だ。
子どものように笑ってみせる彼に思わず笑みがこぼれた。これで齢三十とは、とても信じられない。
「総司ー! そろそろはじまるぞー!」
わたしたちの小さく笑う声は、平助の大声にかき消された。
少し遠くで手招きする彼は上背の印象をなくしてもやはり幼い。
いま行きます。と声を上げ、山崎さんとともにそちらへ向かう。
お互い初めて会ったとは思えぬほどすぐに打ち解け、ふたりの気さくさが羨ましくなる。
会場へつくと山崎さんはいつの間にか消えてしまい、代わりに助勤たちに捕まった。
相撲興行は滞りなく行われ、終始対応に追われていた近藤先生たちも、なんだかんだとたのしんでいたらしい。終わったころには晴れやかな表情を浮かべていた。
招いた方々をお見送りし、ようやくひと心地ついた近藤先生、山南さん、土方さんが、 それぞれの自室に引っ込んでいく。
ともに見送っていたはずの芹沢さんと新見さんは、気がついたときにはすでに八木邸へ入っていくところだった。
助勤以下もそれぞれ集まって談笑している。かくいうわたしも、平助とともに自室へ戻る途中だ。
「たまにはこういうのもいいもんだよなー」
頭の後ろで指を組み、わざと足を大きく上げて歩く様子は子どもといわれても仕方ないと思う。
芹沢さんたちがあまりにも早く引っ込んだため、ふしぎに思い八木邸の方へ目を向けると、鮮やかな着物をまとった女性が入っていくのがみえた。
たしか、芹沢さんの愛妾だったか。総司はあのむせるほどの白粉の匂いが苦手だとかいっていた。
距離も離れているし、まじまじとみていたわけではないはずだが、女がこちらを振り向き笑った気がした。
「なんだよ、あの人、気になるのか?」
「ああ、いや……そういうわけではないんですけど」
ごまかしきれてはいないと思う。それでもいま感じた違和とも呼べないなにかを話す気にはなれなかった。
気になっているさまを隠さぬまま、いつの間にか立ち止まっていたわたしたちの歩みは進みはじめた。
夕刻から巡察当番のわたしは、すばやく用意を済ませ、門前に立っていた。今回は気心の知れた一くんとともに行く。
一くんとの巡察は余計なことは話さないからか、こうしてなにかしこりのあるときにはうってつけだ。反対に、今日のようになにか高揚するできごとがあった日の左之さんとの巡察は、とくにうるさくて仕方がない。
彼を待つ間、無意識に斜向かいにある八木邸を眺めていた。
誰かでてくることはないだろう。なにが気になるというわけでもないはずだが、なぜだか目は離せなかった。
「待たせた」
「いえ。行きましょうか」
一くんの声で我に返る。取り繕う笑みは、わたしには不似合いだとは承知している。
ただ淡々と巡察に専念するこの刻は、いまのわたしには必要な気がした。
芹沢さんの愛妾──たしかお梅といった。彼女が振り向いた所作が頭から離れない。
頭を振りそれを払おうとしていたそのとき。「堪忍してください」と女性の声が聴こえた。
頭を下げている町娘。怒り心頭の浪人風の男はふたりか。遠巻きに伺っている野次馬たちはそれぞれに肩をよせ合っている。
場所を特定した瞬間、わたしは走りだした。後ろからもうひとつ駆ける音が聴こえる。
「いかがされました?」
「あぁ? あんたらには関係ないだろう!」
「……壬生浪士組です。いかがされましたか?」
声にした瞬間、遠巻きにみていただけの野次馬たちがざわざわと騒ぎはじめた。
一歩うしろで刀に左手をかける一くんを一瞥し、笑顔でもう一度問うと、男は情けない声で一歩下がった。
「い、いや……」
男の目線を追って足もとをみると、無惨に転がった数本の団子がみえた。
近くに包みが落ちているということは、町娘がぶつかった拍子にでも落としてしまったのだろう。
こういってはなんだが、近くにある甘味処の、どこにでもある団子だ。
とはいえ、すっかり甘味の魅力に取りつかれたわたしには、あまりにも哀れにみえた。
「なんともまあ哀れなことになっていますね」
「総司……ちがうだろう」
「おっと、失礼しました」
思わずもれた本音はさておき、ひとつ咳払いをして男たちに向き合った。
この先にある甘味処の大福が美味であると伝えると、男たちは落ちた団子もそのままに、そそくさとその場を去っていった。
あまりに斜め上をいく解決の仕方に、一くんはため息をつき、野次馬は呆気にとられたように口を開いていた。
「あ、あの……壬生狼のお方やったんですね。ほんまに、ありがとうございました」
「いえ。実際あそこの大福の方が美味ですし」
「いや、総司、そういうことでは……」
なにかいいたげな一くんの言葉を遮るように、町娘は小さく笑った。
どうやら彼女は先ほど男たちに紹介した甘味処の近くで働いているらしく、あそこの大福の美味さは承知しているらしい。
老夫婦が細々とやっているような小さな店だからこそ、人から人への評判のみで新たな客を掴むのだとか。
そんな店を知っているどころかあの状況下で薦めてしまうとは。と、彼女は笑顔で語った。
斬り合いになることもなく、あっさり片づいた今回の巡察の中で、よい知り合いをみつけた気がした。
総司から受け継いでいない人のつながりに、うれしいようなくすぐったいような、不思議な気持ちになる。
前川邸へ戻ると、門前で思わず立ち止まった。
どこからか、やけに甘い香りが漂う。振り返るとその香りが強くなった。
ちょうど八木邸から、お梅さんがでてきたところだったらしい。わたしたちをみつけると、女らしいほほえみを浮かべて近よってくる。
「……どうしました?」
苦手な素振りをださぬように。そう思えば思うほどにほほは引きつる。
彼女の妖艶な笑みはきっと、あらゆる男を虜にするのだろう。芹沢さんもそこが気に入ったのかと思う。
現に浮いた話もない一くんですら、彼女を直視することすらできずにいるのだ。
「沖田はん、少し、ええやろか」
「……構いませんが」
ちらり、と一くんに視線を向ける。先に戻るといい残し、彼は足早に前川邸へ入っていった。
お梅さんに着いて八木邸へ入る。八木家の御新造さんに茶をもらい縁側に座ると、彼女はなにもいわずに茶をすすっていた。
なにがしたいのか。問うのは至極簡単だが、どうも口にだすのははばかられる。彼女に知られぬよう、そっとため息を吐いた。
「沖田はん、うちのこときらいやろ」
「はい? なんですか、藪から棒に」
「わかるんよ、うち。そういうん、敏感やから」
なんだ、この女は。訝しげにみつめるわたしの目線を受け、たのしげに笑う彼女に、いっそこのまま屯所へ戻ろうかとも思った。
だがそれを許さないのは、彼女の瞳だ。
心を落ち着けようとゆっくり息を吐く。いま、苛立ちを募らせてもなんの意味もない。
「あなたのことは、あまり知りませんから」
「ほな、うちのこと、よう知ってくれはる?」
そっとこちらに伸ばされたうつくしい指先が、わたしのほほをなでた。
男ならそれでよいかもしれないが、わたしにはそれがとてもいやな行為にしか思えず、背が震えた。
なにをかんちがいしたのか笑みを深めて指先をすべらせる。ほほから首筋へ。胸もとへかかる寸前、わたしはその手を払いのけた。
「やめてください!」
予想以上にひびいたその声に、お梅さんが目を丸くする。
こんな表情をしていれば、まるで普通の女なのに。大声をだした気まずさも手伝い、目をそらして小さく謝罪する。
彼女の返事も訊かず、わたしはそこを飛びだした。
動揺か、苛立ちか。はたまた彼女の色香にやられたか。痛いほどに打つ心の臓を着物越しに掴み、自室へと飛び込んだ。
「おい、どうしたんだよ。そんなに慌てて。なんかあったのか?」
駆けていくわたしをみかけたのか、すぐに平助が追ってきた。
息を切らし、冷や汗ともとれるそれをぬぐいもせずには立ちつくす。それでも、平助をみると気持ちが落ち着いていくようだ。
乱れた息が戻っていく。張りつめていた糸が切れたのか、座り込んだわたしの背を彼がさする。
「すみません……」
「なんか、あったのか?」
覗き込んできたその瞳はゆれていた。要らぬ心配をかけてしまった。ほほえもうとしても、心は裏腹でうまく笑顔が作れない。
わたしが発せたのは、知られてしまったかもしれない。そのひとことのみだった。
誰に、なにを。そう問う平助の声はいままで以上に焦りの色が込められている。
答えることもできないまま、少しずつ落ち着いたわたしは顔を上げた。
「大丈夫です、きっと。なんとかしてみせます」
「なんとかできんのかよ、そんなんで?」
「してみせますよ。わたしは、沖田総司ですから」
作り笑いを浮かべる自分を滑稽に思う。
正直、もう一度彼女とふたりきりで会うのは危険だとも思う。それでも芹沢さんたちに知られたら一大事だ。
平助に頼ることはしたくなかった。
総司なら自分の不注意で知られてしまった弱みを、他人に任せることはしない。
隊務の中。彼女と会うこともできないまま、しばし悶々とした気持ちを持てあましてすごしていた。
無意識に彼女の存在を避けていたのかもしれない。芹沢さんたちとも会うことはないまま、わたしたちは急な報告におどろきを隠せずにいた。
「こんな、ひどい……」
場所は朱雀千本通り。そこには隊士である佐々木愛次郎の惨殺死体と、先日出逢った町娘が倒れていた。
血はすっかり乾いている。こんな状態で、いつからここにいたのだろうか。
“総司”を知らない相手と友になりたいとねがったから、その天罰か。それにしてもひどすぎる。
名も知らぬ彼女の亡骸は、明らかに犯された跡を残していた。
唇を噛みしめるわたしの傍にきたのは、一くんだった。唯一彼女との接点を知っていた彼は、そっと肩に手を乗せる。
不器用ながらに慰めるつもりなのか。そう思えば自然とほほえむことができた。
「あぐりちゃんやないの……!」
そのとき、野次馬の中から甲高い叫び声がひびく。
うるさかった京雀たちも辺りを見渡し、声の主をみつけると自然と道を開けた。
「……知り合いか」
一くんが問う。年配の女性はあぐりと呼ぶ亡骸に近づくと膝をついた。
ひとつ頷いて涙をぬぐうその女性は、どうやら娘の働いている店の女将だという。よく働き愛想もよい彼女のことを、女性も気に入っていたらしい。
わたしの肩からは、いつの間にか一くんの手は離れていた。女性の傍に片膝をつくと、肩を抱く。
彼女の名すら知らなかったとはいえ、女性の哀しみはよくわかる。
「彼女は、壬生浪士組がお預かりしても?」
唇を噛みしめ、ただうなずくしかできない女性に、そっとほほえんだ。
呼びだした隊士たちに、佐々木くんとあぐりさんの亡骸を運ぶように指示する。
誰がやったとか、理由とか、そんなものはどうでもよかった。ただ、彼女に舌を噛み切らせるまで追いつめたやつは、許せない。
泣きはしない。彼女の無念を晴らすまで。赦しはしない。彼女の無念を晴らしても。
おなじ女としてか、それとも友になれると信じていたからか。それは定かではないが、わたしの心にはいままで感じえなかった復讐の二文字が燃えていた。
佐々木くんが亡くなったことで、隊の空気は重くなっていた。
美男剣士であることもさながら、彼自身が明るく素直で性格であったことが原因だろう。誰もが哀しみの色を浮かべていた。
未だどこの誰が殺したのかはわからないまま。わたしは哀しみとともに現れた燃えるような感情を持てあましていた。
それを制御することに必死だったからか、あまりにも強烈に印象に残ってしまったからか。わたしは、お梅さんの存在をすっかり頭の片隅から追いやってしまっていた。
「総司、おまえ、むりすんなよ」
「むりなんてしてませんよ?」
「最近……あんまり寝れてねぇだろ」
もともとすぐ目が覚めてしまう平助は、わたしがなかなか眠れていないことに気がついていたようだ。
現場をみてもいないのに、夢にでる。誰かが覆いかぶさっている彼女と、その叫び声。ほほに涙が伝い、こと切れた彼に寄り添い舌を噛み切るその姿が。
ただ一度会っただけの娘に、そこまで感情移入することもないだろう。仕方ないと思わねばならないだろうが、わたしにはそうすることができなかった。
総司、わたしは一体どうすればよいのだろうか。加州清光の中にいる片割れに問うても、彼も応えてはくれない。
ほんとうに、大丈夫ですよ。
そう応えようとしたそのとき。またもや屯所内に慌てた叫び声がひびいた。
佐伯又三郎がの死体が、みつかった。と。
わたしと平助はみつけた隊士数名とともに島原へ向かった。
なぜこうも続けて隊士の死体がみつかるのか。わたしたちの疑問は尽きない。
遅れて到着した土方さんが、隊士に移動を命じはじめる。
わかってはいたことだが、総司として生きるということは、こうして死ととなり合わせだということを改めて実感していた。
「屯所に戻ったらおれの部屋にこい」
土方さんの気配が近づいてくる。ここでなにか話をするつもりかと思ったが、どうやら内密な話らしい。
八日前に殺されたふたりのことが、なにかわかったのだろうか。平助と顔を見合わせ、先に戻りはじめた土方さんの背中を追った。
「昨晩、血に濡れた着物を着て八木邸に入る人影をみたやつがいる」
「……芹沢さんたちって、ことですか」
「ああ。そうとみてまちがいねぇだろうな」
そんな。声にならない音がもれた。
たしかに芹沢さんは酒を呑んでは暴れるし、短気なところもある。だが、彼に佐伯さんを殺す理由があるのか。
いざというときのために、覚悟をしておけ。そのひとことでわたしたちは退室した。
沈んでいるわたしを案じてか。平助の勧めで、遠回りして縁側を通ったのがいけなかったらしい。
前川邸の門前に、見覚えのある女性の姿がみえた。目が合った瞬間、沖田はん。と声がかかる。
平助の表情は口ほどにものをいう。まさか、彼女が原因か。そう問いたげな表情に苦笑をもらす。
案じている平助の視線をよそに、少し待ってほしい、と声を張る。彼女はただうなずいた。
「おい、まさかあの人に女だってこと……!」
「わかりません」
「あの人に知れたら芹沢さんまであっという間に……っ」
「平助、声が大きいですよ」
玄関までの道すがら。平助はよいというのに着いていくと訊かない。
徐々に声が大きくなっていく彼は、ついに玄関先まで着いてきた。それでもまだ口を開く彼の唇を、そっと指でふさいだ。
ひとつ笑顔を残し平助を置いてお梅さんのもとへ向かう。
いまの彼女は前とは大きくちがい、まるで別人のようにしとやかにみえた。壬生寺へ向かうわたしたちの足取りは重たい。
なにかを話そうとするものの、なかなか言葉にならない彼女を待っている間。わたしの指はかすかに震えていた。
女であることを知られてはいまいか。そればかりが頭を駆けめぐる。
お梅さんが口にしたのは、まったく別のことだった。
「あんな、昨日、先生血濡れで帰ってきてん。新見はんも一緒やった」
なぜ、わたしにそんなことを。問おうとしたその唇は、お梅さんの表情にとめられた。
地をみつめてはいるものの、誰かに助けを求めるその弱々しい表情が、一瞬あぐりさんと同化した。
昨晩。新見さんとともに前川邸へ戻ってきた芹沢さんは、やけに苛ついていたという。
お梅さんに理由を話すことはなかったが、苛立ちをそのままに帰れといった芹沢さんに逆らうことはできず部屋をでると、芹沢さんの声が聴こえたそうだ。
佐々木だけを殺せといったのに、あの女まで死んでるとはどういうことだ。あいつめ、おれに背きやがった。散々黙って豪遊してたのは知ってたんだ。
芹沢さんのその言葉に、お梅さんは彼の着物の血が佐伯さんのものだと確信した。
それでも、佐伯さんの死体をみるまでは。お梅さんの前では乱暴な所作は隠していたのだろう。彼女は、芹沢さんを信じていたのだ。
今日になって騒がしくなった前川邸を伺ってみると、佐伯さんの死体がみつかったという。
いても立ってもいられなくなった彼女の頭に浮かんだのは、なぜかわたしだったという。
彼女の話がほんとうならば、あぐりさんの仇は佐伯さんということになる。いや、命じたのは芹沢さんだ。
佐伯さんは芹沢さんが斬ってしまった。では、芹沢さんは?
彼は佐々木くんの仇とはいえる。あぐりさん殺害を命じていないとはいえ、愛する人を目の前で殺されたあぐりさんの幸福はどこにあったのか。
どれほど酒を呑んで暴れても、どれほど短気すぎる怒りを目にしても、わたしも総司も芹沢さんの内にある茶目っ気に惹かれていた。
いま初めて、それを上回る憎しみが心を燃やしていた。
「先生はうちのこと、どう思ってはるんやろか」
「……どうでしょう。わたしは芹沢さんではありませんから」
憎しみのまま吐き捨てた言葉に、お梅さんは切なげにほほえんだ。彼女は関係なかったのに八つ当たりしてしまった。
総司ならこんな風に感情に振り回されることなどないのだろうか。
哀しげな眼差しのお梅さんを直視できずにいると、ふとほほにそのしなやかな指先が触れた。
この前とはちがい、“女”ではなく“姉”のような表情。
不思議と安堵するような感覚と、やはり露見したかという恐怖が入り交じる。
「沖田はん、いつから、女子にならはったん?」
先ほどまでうるさかった蝉の声が止んだ。生暖かい風の音も消えて、お梅さんの言葉だけがその場に残った。
なにを。口にだそうとしたそれは言葉にはならず、ただ吐息として足もとに転がる。
先ほどとは一転し、おかしそうに笑うお梅さん。誰かに話したのだろうか。芹沢さんに知られてしまっては、困るのは近藤先生だ。
「誰にも、話してへんよ。まだ確信しとったわけちゃうし。そやけどほんまに女子やったんやね」
「いや……わたしは、」
「隠してもむだやで。胸のさらしの下に立派なもん、隠してはるやろ。なにをつめてはるのかと思たわ」
もう、なにもいえない。なんのいいわけも思いつかない。
浅はかだった自分の行動を後悔する。どれだけわたしは後悔すればよいのだろうか。
痛いほどに噛みしめた唇からは、あっという間に血がにじんだ。
ほほに添えられていたしなやかな指が、唇へと移動した。赤い液体をそっと紅のように伸ばされる。
最初。妖艶で、男を喰って生きている女だと思ったその指先は、いまはわたしも取り込もうとしていた。
唇を開いてしまえば最後、その指先にすべてを引きずりだされてしまいそうだ。
「なあ、沖田はん。うち、このこと誰にもいわへん。そやから頼み、訊いてくれへん?」
「頼み……?」
「先生を、とめて。救ってほしいんや」
お梅さんの懇願に、うなずくことも、振り切ることすらもできなかった。
それを肯定と受け取ったのだろう。彼女は満足気にほほえむとひとり八木邸へと足を向けた。
芹沢さんを、とめる? わたしにできるのだろうか。加州清光の鞘を握る。かちりと独特の音が総司の返答に聴こえた。
目を伏せひとつため息を落とし、壬生寺をあとにする。平助にもずいぶん心配をかけてしまった。うまく立ち回ることのできない自分に嫌気がさす。
「総司、戻ったのか!」
前川邸。平助は自室にいるだろうかと向かっていると、後ろから叫び声とともに衝撃が走る。平助だ。
恥じらいもなく抱きついてくる人など、平助ぐらいしかいない。
「いま戻りました」わたしは腹に回された腕をほどきながら応える。
あまりうまく笑えていなかったのだろうか。怪訝な顔をした彼に腕を引かれ、自室へと向かう。
平助と話すために自室へ向かうつもりではあったが、こう乱暴に手を引かれるのは如何なものか。だが、その腕を振りほどくことはできずにいた。
「なんかあったんだろ。おれには話せねぇってのか?」
「平助──」
自室に閉じこもると、いままで以上に真剣な眼差しに射抜かれた。
いえないわけではない。だが、いってしまえば助けを求めることにつながるのではないかと思うと、どうしても躊躇してしまう。
障子を背に立っていた彼が乱暴に腰を下ろす。それに促されわたしも座した。
平助がわたしを心配してくれていることも、だからこその行動だということも。よくわかってはいる。
それでもだんまりを決め込むわたしに、平助は長くため息をついた。
両手で肩を掴まれると痛みに思わず顔をしかめる。みあげると鼻先にある彼の真剣すぎるほどの表情が、口を開くのをためらわせた。
「おれは、総司とはともかく、おまえのことはまだ短い間でしかみてねぇだろ。それでも、おまえのことを案じてるんだよ。昔、総司につけてもらったっていう名も思いだせねぇ“おまえ”のことを案じてるし、信用もしてる」
おどろくわたしの視線から逃れるように目をつむり、身体を離した彼は先ほどの表情が嘘のように消えていた。
子どものようにほほを上げ、土方さんはそうはいかないだろうが。と続ける。
たしかに、京にきてからずいぶん疑心暗鬼が強くなった気のする土方さんから、信頼を勝ち取るのはむずかしいだろう。
むずかしい表情をしていたらしいわたしに、平助は一度肩を叩いた。大丈夫だというその笑顔をみていると、ほんとうになんとかなる気がするから不思議だ。
これほど案じてくれているのだ。話さずに心労を増やすわけにもいかない。離れていく平助の着物を掴み、意を決して口を開いた。
「平助、怒らずに聴いてください」
ただうなずいて促した彼に感謝しつつ、あの巡察の日のことから話しはじめた。
あのとき、お梅さんに女だと露見してしまったこと。まだ誰にも話してはいないとはいっていたが、信用してよいものかわからないこと。
そして、彼女に託された思い。芹沢さんを、救ってくれと。
なにを以て芹沢さんを救うということになるのかはわからない。思えばあのときのお梅さんの表情は、口にだせない想いがにじんでいた気がする。
「芹沢さんを救う? また妙なこと頼まれたもんだな。その話がほんとうなら、あの人は佐伯を使って佐々木を殺ったんだろ? おまえが怒ってた相手を救うってことだぞ!」
「そう、なりますよね……」
正直、わたしは迷っている。
芹沢さんはここの筆頭局長。いくら謀った張本人だとはいえ、わたしにはどうすることもできない。
だからといって、なにがあったかはわからないがお梅さんのねがい通りに救えたとして、わたしになにが残るだろう。
手を下してはいないからと赦してしまうことはできない。
土方さんに話すという手もあるが、総司ならともかく、わたしはまだ信用されてはいないだろう。
信用していない相手の言葉を鵜呑みにするほど、彼は甘い人ではない。
その翌日。わたしはもう一度お梅さんに連れだされた。
「うち、余計なこというてもうた……どないしよう」
「……なにがあったんですか?」
弱々しく震える彼女を突き放すことはできなかった。
昨日突き放せなかったことを後悔したばかりだというのに、わたしは少しも成長できてはいないらしい。
震えるお梅さんが話したのは、芹沢さんに余計なことを話してしまった。ということのみ。
なにを話したのかを問うても埒があかなかった。
背をなでながら少しは落ち着くのを待っていたが、結局訊きだせたのは、大和屋が危ないということのみ。
そしてその二日後。大和屋庄兵衛宅は焼き討ちされた。