第肆話:“沖田総司”の名を継いで
「やああぁぁ──!」
「甘いっ! 次!」
近藤先生はわたしが沖田総司として生きるという決意を汲んでくださった。そのおかげで朝餉前の稽古への参加もできるようになった。
いままで総司──ずっと幼名で呼んでいたためにすでに名を変えていたことを忘れていた──がずいぶんきびしく稽古をつけていたのはわたしも知っていたが、これはなかなかこちら側も疲れるものだ。
ひとりひとり数回打ち込ませ、甘いところに竹刀をふるう。間髪入れずに次を呼び、息をつく間もなく竹刀をしならせる。ほかの隊士だけでなく自分自身の稽古のためにもこれはよい方法かもしれない。
唯一まともに調理のできる源さんが朝餉の準備。それを手伝うのは当番制だ。今日は左之さんだったらしく、朝から元気のよい左之さんの声で稽古の終了を告げた。
助勤の面々と副長である土方さん、山南さん。そして局長の近藤先生はおなじ部屋で食事をとる。そのほかの平隊士や仮同志と呼ばれる面々はそれぞれの大部屋でとることとなっている。
わたしとおなじく稽古にでていた平助、斉藤さんとともに部屋へ向かう。呼びにきた左之さんは膳を運ぶためと慌ただしく台所へと戻っていった。
信頼問題ゆえ女中を雇うこともできず、隊士たちの給金すらままならないこの状態では自分たちで食事や掃除などもしていくしかないのだ。
ほかの当番だった助勤や近藤先生たちと言葉を交わしながら席に着く。左之さんが積み上げてきた膳をそれぞれに配り、源さんを待った。
上座に座す近藤先生が源さんたちへの礼、食材への礼を捧げ食事がはじまる。
左之さんがとなりに座る永倉さんや平助に手をだし騒がしいと土方さんに怒鳴られ、わたしや山南さん、源さんなどはそれをみて平和を噛みしめ笑う。
いつも総司がみていた光景にわたし自身が溶け込んでいると思うとなぜだか鼻の奥がつんと熱くなった。
「みなに、話しておかねばならぬことがある」
みなの膳の残りをみて近藤先生が湯呑みを置いた。局長という立場がなくとも、その真剣な表情に逆らえる者はここにはいないだろう。
この場でわたしの事情を知る助勤は平助と源さんのみ。知り顔で落ち着いている副長ふたりをみると、一瞬わたしと目が合った。
「このまま隠していてもいいんだがな。おまえらを信用しているからこそ、すべてを話す。他言無用だ」
一瞬で鬼の面を被った土方さんの言葉に、事情を知らぬ面々はなにごとかと居住まいを正す。
ひとり好戦的な一面をもつ左之さんは、どこか期待するように瞳の奥を輝かせていた。
土方さんはちらりとわたしをみやると、多少の推測も交ぜながらもほとんどをありのままに語る。自分のことながら物語でも読んでいる感覚におちいった。
わたしですらそうなのだ。信じられないのもむりはない。みな唖然としていた。
だがひとつ。土方さんも口にはださず、わたしも話していないことがある。否、話していなかったというには少し語弊がある。正確にはあれからもうひとつ思いだしたできごとがあった。
「──というわけだ。いまのこの沖田はいままでの沖田とはちとちがうかもしれねぇが、沖田として接してやってくれ。そのうちひょっこり“本物”の総司がでてくるかもしれねぇしな」
「あの、ひとつよろしいですか?」
壬生浪士組の副長として淡々と冷静に、と心がけていたのだろうが、最後の最後でそれはくずれた。わたしはその瞬間を待っていた。
みなの目線がこちらに向いているいま、わたしが口を開けば話を聞かざるを得ない状況であることはたしかだろう。
土方さんですら“本物の”とつけているほどだ。生きていてほしいとねがっているのは、この場で唯一真実を知るわたし以外は全員のはずだ。
いま、そのねがいを打ち砕こうとするわたしは、まちがっているかもしれない。だが、あのときのわたしとおなじように、彼が護りたかった人々を託して逝った総司のためにも、わたしはいわねばならない。
「あれからひとつ思いだしたことがあるのです。もし、この話をわたしのいない場所でされていたなら、わたしも真実を口にだすことはなかったでしょう。“本物の”──みなさんのよく知る沖田総司は、すでに亡くなっています」
長い話のあと。喉を潤していた土方さんの手から、愛用の湯呑みが落ちた。みずともわかる。きっといま土方さんは──いや、ここにいる全員の刻がとまったことだろう。
空気が語っている。あの沖田総司がそう簡単に死ぬわけがないと。しばらくするとみなの前であるにも関わらず、近藤先生の嗚咽が聞こえた。声を張り上げたくとも、ほかの隊士たちに知られるわけにはいかぬと耐えているのだろう。
総司、わたしは話してもよかったのだろうか。
「あいつは……総司はどこで、どうやって死んでった。おまえの話がほんとうならわかるはずだろう!」
必死に怒号を抑える土方さんの声。空気の重さにいたたまれなくなったわたしは無意識に俯いていたらしい。
顔を上げると、近藤先生の背を山南さんがさすり、源さんは必死に冷静を保ち土方さんを抑えていた。それを見渡し、言葉を続ける。
話さずに済むならば話したくはない。わたしにとってももちろん辛い話だ。だが、総司が愛し、愛されていたこの人たちには話さねばならぬはずだ。
「どこで、という正確な場所はわかりません。総司本人もわからぬままの最期でした」
一度話を切るが、いくつもの瞳が無言で続きを促す。
あの日。総司は近くにある甘味処の帰り、不逞浪士に襲われ刀を折られた。そのひとことでみなが息を呑んだ。
犠牲をきらい裏道を通り森へ逃げ込んだこと。洞窟をみつけた経緯。洞窟の天井に空いていたいくつもの穴。最期にみた光景──。
わたしは総司が息を引き取ったのち、辛うじてあのままの状態でこの世にただよっていた。総司を殺された恨みからかもしれない。
あの男たちは総司に風穴を空けるだけに留まらず、仲間がすべて逃げだしたのちに手段はわからぬが洞窟を破壊した。
総司の亡骸の横で、すべてみていた。降ってくる大小さまざまな岩。潰され傷ついていく総司の身体を護ることすら、わたしにはできない。
身体から抜けだし、ふたつの身体に混乱する総司の手を引けるようになったことだけは、いまは不幸中の幸いだったともいえるかもしれない。逃げ道を探し彷徨ったが、徐々にせばまる視界とともにわたしの記憶はとぎれてしまった。
それからなにがあったかはわからない。だが総司はわたしの中に存在し、新たな愛刀を手に入れたときにはそちらに移ると話していた。刀は武士の魂だと。
平助に肩を抱かれ、斎藤さんに手ぬぐいを差しだされるまで、わたしは語りながら涙を流していたことに気がつかなかった。
「いま一度誓いましょう。名もなき“わたし”は総司の遺志を継ぎ、沖田総司として近藤先生の手となり足となり生を全うすると」
斎藤さんの手ぬぐいで目もとを乱暴にこすり、近藤先生へ向き直る。わたしの一挙一動にすべての視線が注がれていた。
膳を片づけたのちに話すべきだったかもしれない。膝を使い一歩下がり、深く深く頭を下げる。総司同様、わたしもむずかしいことはわからない。だからわたしも命をかけて、近藤先生に忠誠を誓おう。
きっとこの行動が総司とわたしをつなげるはずだ。
「……まあ、むずかしいことはわかんねぇけどよ、おまえは沖田総司だよ。身体が変わってもその頑固さはちげぇねぇ! おまえになら背中を預けられる。二度とおれの身体に金物を喰わせてやるなよ、なぁ?」
いつでも豪快な左之さんは足音も声も大きい。平助を押しのけるようにして強引にわたしと顔を合わせると、痛いくらいの力で背を叩く。
誰かが行動を起こすのを待っていたのだろう面々も、そうだと声を上げた。
平助との最初の打ち合い以来、まともな会話をしていなかった斎藤さんの手のひらが肩に乗せられると、感動のあまりまた泣いてしまいそうになる。
「……いまの沖田はよく泣くな」
「うるさいですよ。うれしいときぐらい泣いたっていいでしょう?」
わたしの周りにはいつの間にかみなが集まっていて、目の前にあったはずの膳は両どなりを含めて人の波にさらわれた。
汗臭い仲間たちにもまれてうれしいやら痛いやら。だが、早くも受け入れられた事実になにもいえぬまま目もとをぬぐう。
気がつくと巡察の時間が迫っていた。平助が慌てて人の波から外れていき、それを皮切りに手荒な歓迎が終わりを告げる。すっかり遅くなってしまったとそれぞれが部屋をあとにした。
夕刻の巡察までは十二分に時間がある。源さんも近藤先生たちの昼餉の準備があるだろうと、片づけを手伝うことになった。左之さんだけではむしろ源さんの手間を増やしてしまいそうな気がする。
源さんは昔から総司に甘い。それはわたしにも継続されるようで、手伝いの礼にと総司の好きだった大福をひとつもらった。いつも幸せそうに食べている総司をみていたからか、食べるのがもったいないと思ってしまう。
源さんとふたり。縁側で熱い茶をすすりながらひと息ついていると、庭から隊士たちの咆哮が聴こえた。
非番といえど助勤に教えを乞うたり自分たちで打ち合いを行う姿は、強くなりたいとねがった総司を思い起こさせる。きっと総司ならなんの迷いもなくあちらに参加するのだろう。
「山南さん、よろしいですか?」
源さんと別れ稽古を横目でみながら、目的の場所へ向かう。巡察以外で屯所から外出する際、局長または副長にひと声かけるというのが暗黙の規律のひとつとなっていた。
元が大した刀を使っていないとしても、今後この代わりとなった粗悪なもので乗り切れるはずもない。新たな刀を手に入れなければ、沖田総司はまた死ぬことになる。
和紙に埋まったこの部屋の主である山南さんは、障子を片方のみ開け光を浴びながら積み重なった書類に筆を走らせていた。
わたしの声にそれを一旦やめ、わざわざ向き直ってほほえむ姿は仏の副長と呼ばれるにふさわしい。
「どうしました?」
「刀が折れてしまいましたので、鍛冶屋へでてきてもよろしいですか?」
「それは構いませんが……おひとりで?」
「ええ、まあ。誰にも声をかけてはいませんが」
なぜそんなことを、と首を傾げた瞬間、自分はなんて考えなしなのだと殴ってやりたくなった。あの総司ですら呆気なく死んでしまういまの世で、仮にも女の身で丸腰で歩いていればなにがあるかわかるまい。
ましてや、すでに葬ったはずの沖田総司として生きる道を決めたわたしの格好はまさに彼自身。襲われる可能性は高い。
そんなことも考えていなかったのかと自分自身におどろいていると、山南さんはそれを察したのか苦笑いを浮かべた。
思わず小さく謝罪したわたしに、山南さんはやさしく目を細めた。
「では、わたしがともに参りましょう」
やさしい山南さんは、いつも誰かのためにと自分の時間を削って動いていた。だからこそこんな集団の中でさえ、仏と呼ばれているのだろう。
多忙であるあなたを連れだすわけにはいかぬと口にしようとするが、その前にすでに羽織を着た山南さんに笑顔で連れだされてしまった。
手を引かれながら部屋の中をちらりと覗く。なるほど。大量の書類に追われていたために息がつまっていたのだろう。
こうなれば鍛冶屋だけではなく甘味処にも付き合ってもらおう。懐に忍ばせた金子の入った巾着を、着物の上からそっとなでた。
巡察時になんの店があるかは把握している。とくに甘味処は隙がないとは、これも巡察と総司の甘味への愛ゆえだろう。
近くてお気に入りだった甘味処を通りすぎたところで、山南さんが立ち止まった。「すこし、みて行きませんか」そう指さされたのは、小物屋だった。
櫛や簪。紅などが所せましと置かれたそこは、わたしには性に合わない。
居心地悪そうなわたしを一瞥しひとり楽しげに笑いながら、人を掻き分けるように進んでいく。それを追うのに精一杯だ。
山南さんが立ち止まったのは珠のついた髪紐の売り場だった。総司として生きながら女心も忘れぬように。そういって手に取ったのは深い紅の珠がついた藍色の髪紐だった。
珠のついた髪紐で思いだすのはあの若い医者だ。若そうではあったが年齢不詳なあの男。理由はわからないがまた会うような気はしている。
あっという間に勘定をすませた山南さんに手を引かれ、店をでて隅へと連れられた。なんの飾りもない髪紐をほどかれ手早く新たなそれで結ばれると、なんだかこそばゆくなる。
「よくお似合いですよ」
ひとつうなずいて満足げに手を叩く山南さんに、ありがたいと思う反面苦笑がもれる。副長という立場に似合わず、かわいらしい人だ。
髪紐で懐は寒いだろうに、山南さんは今日の天気のようにうららかな表情を浮かべていた。
山南さんが贔屓にしている鍛冶屋を覗くと、総司の記憶と変わらず厳つい親父が丁寧に刀の手入れをしていた。
「こんにちは、親父さん」
「おう、おめぇか。なんでい、今日は連れがいるんかい」
「ええ。今日はこの子の刀をいただきに」
江戸からでてきたという職人肌の親父は山南さんをみると、その厳つい表情をほんの少しやわらげた。外見ほど気むずかしい人ではないかもしれない。
山南さんと親父が話している間、壁や座敷に広げられた刀をみて回る。やはりよい腕だ。
「ほれ。ここでいま一番いい代物だ。まあ、たまたま手に入れたもんだが……おめぇさんになら譲ってもいい。抜いてみな」
唐突にかけられた声にふり向くと、すでに目の前には鞘ごと放り投げられたそれがあった。慌てて手を伸ばし受け取ると、簡単に放り投げられるような代物ではないことに気づく。
ゆっくりと柄をにぎり鯉口を切ると、ずいぶんと手になじんでいるように思えた。わたしの中の総司が感動している。抜刀するとその抜き身のうつくしさにみとれた。
「気に入ったか」その親父の言葉にもうなずくことしかできない。瞳は吸い込まれるようにその刀をみつめていた。
「そいつぁ加州清光。おめぇとはずいぶん相性がいいみてぇだな、刀がよろこんでやがる」
「わかるんですか?」
当たり前ぇだろう。そう笑う親父の姿がまるで刀を通してわが子をみている気がして、これを受け取ることに躊躇してしまう。
刀は必要だが、ちがうものにするか。だがこれほど手になじむ刀などほかにみつかるだろうか。
刀を納めながらそんな葛藤をしていると、山南さんの手が肩に乗せられた。親父がまっすぐな眼差しで口を開く。
「気にするこたぁねぇ。飾られてるよりよっぽどいいってもんよ。大事に手入れしてくれりゃあ、ほかにはなにもいらねぇ」
「──ありがとう、ございます」
鞘に納まった重い音を合図に頭を下げる。簡単に折れることもないだろう立派なものだ。これなら総司が移っても問題ないはずだ。否、いまにも移りたがっているように思える。
結局、自分も譲り受けたものだからとこれほどの刀をいただいてしまった。申し訳なさとありたがさが身に沁みる。
屯所へ戻ったら早速移ると訊かない総司にもれる苦笑を堪え、山南さんとともに甘味処へよった。すっかり甘味の虜となってしまいそうな自分は、やはり総司と似ているのだ。京にきてからは甘味ばかりに金子を使っていた総司と一緒にはなるまいと、心中誓いながら屯所へ戻った。
──早速いきますね!
どこか興奮している総司に笑顔でうなずき、瞳を閉じる。総司がわたしの中から抜けていく感覚を忘れぬよう、神経を尖らせた。
心の臓が一度大きく鼓動した。その瞬間、心に穴が空いたような、自分がひとりになってしまったような。そんな感覚に襲われた。これが、みなが感じている感覚なのだろうか。
手にしている加州清光を目線まで持ち上げ、心の中で問いかけてみる。総司の声は聴こえない。
熱くなる目頭を抑えるため強く目をつむり、消えたわけではないと自分にいい訊かせた。
総司はここに──加州清光にいるのだから。