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お春  作者: 生川 恵愛
序章
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第参話:名もなき“わたし”と宗次郎

 白い世界から解放されると、そこには幼い笑顔がみえた。

 少し目の間が開いているが、愛嬌のあるその表情は愛らしい。季節は春だろうか。桜の花弁がうつくしく舞っている。


──「わたしは宗次郎。名はなんというのですか?」

──名は……ない。つけてくれますか?


 なぜ名がないのかは思いだせないが、たしかにこれは記憶の一部だ。そう答えたことは憶えている。

 名がないといわれ哀しげにゆがんだ表情に、申し訳なくなる。小さくうなりながら名を考える彼を急かすことなく待っていると、笑顔をこちらに向けた。


──「それなら、お“  ”さんというのはどうでしょう?」

──よい名です。ありがとう。


 そのときのわたしはたしかに名をつけてもらったというのに、肝心の名が聴こえない。それでも当時の泣きたいほどのうれしさと感謝は蘇ってきた。

 幼い笑顔が遠のく。またも白い世界に包まれると、あれから少し成長した彼が道場で打ち合いをしていた。相手はよくみえない。

 甲高い声でやあと叫び竹刀を振り上げる。軽々と避けられ、代わりに一本入れられてしまった。悔しげにくちびるを噛みしめる宗次郎の頭に、大きく固い手が乗せられる。宗次郎が見上げるとその顔がみえた。近藤さんだ。

 そうか、ここは試衛館──宗次郎が九つで内弟子にだされた道場だ。周りに比べ身体が小さい。入りたてのころだろうか。

 父上も母上も亡くなってしまい、強くならなければと幼いながらに誓いをたてたあのころ。宗次郎は毎日ひたすらに素振りと打ち合いをしていた。

 道場の隅。遠巻きからみていることしかできない“わたし”はそれが心底悔しかった。

 そうだ──“わたし”は、わたしは宗次郎の……!

 ひとつ思いだしたところで、またも白い世界に包まれる。今度はどんな記憶だろうか。いやな予感が胸をよぎるが逆らうことはできなかった。


──「上さまをお護りするため、浪士組に参加しようと思う」


 すっかり大人になった宗次郎の目の前には、山南さん、土方さん。そして近藤さんをはじめとする同門のみなが揃っていた。

 浪士組──文久三年のことだったのは憶えている。だがそれ以上はわからない。宗次郎が理解できなかったことはわたしも理解できていないのだ。

 ただ、ひとり残らされることは耐えがたい苦痛だと、ともに行くと訊かない宗次郎にみなが困り果てたことは印象的だ。

 ついにともに上洛することを許されると、ごく僅かな荷物と安い大小を下げ出立した。

 いざとなると幼少よりすごしたこの道場をでることに不安が残る。宗次郎が立ち止まり振り返ると、わたしもそうした。

 感傷的になるな、必ず近藤さんの役に立ってみせるのだろう。そう自分を叱咤する宗次郎の声が聴こえるようだった。

 先を行っていたはずの源さんが宗次郎の肩に手を置く。こことの別れを惜しむ思いはおなじようだ。父ほどの年齢である源さんは宗次郎の心をよく理解してくれている。


──「別れを惜しむことは、決して悪いことではないよ。いずれここには戻ってこれる。しかし、いましばらくの別れと感謝は告げておきなさい」

──「はい、源さん」


 ひとつうなずいた宗次郎をみて、源さんは笑みを深めた。二度肩を叩くと少し先で待っていた近藤さんと土方さんのもとへ合流する。

 宗次郎とわたしはいま一度道場を見上げ精一杯の笑顔を浮かべた。

 いましばらくの別れと、感謝を。深々と頭を下げそれを見据えると、もう後ろ髪は引かれなかった。

 小走りで三人のもとへ急ぐ。近藤さんは兄のように。源さんは父のようにほほえんだ。口の悪い土方さんとだけはいつものように軽口をいい合い、こことも今生の別れではないと教えてくれる。

 宗次郎は周りのよい人に恵まれている。あの暗闇の中ですべてを捧げてよかったと笑みがこぼれた。宗次郎以外にはみえない存在だけれど、宗次郎のためにまだなにかしたいと傍を離れる気はなかった。

 出立時。芹沢鴨、新見錦をはじめとする一行と出逢った。強面だが口を開けば洒落も利かせる芹沢に、宗次郎はすぐに心を開いた。

 常に傍にいたわたしには、それをおもしろく思っていないであろう土方さんの表情も。そしてどれだけの賊に襲われようとも宗次郎に人を斬らせない近藤さんたちを訝しげにみつめる芹沢さん一行の目線にも気がついていた。

 あれは冬だったか。元々上さまの警護のためと集められたわたしたちだが、庄内藩郷士である清河八郎が勤皇勢力とつながっており、わたしたちを天皇配下の兵力にしようとしていた。

 近藤さんたちも芹沢さんたちもさすがに怒りと混乱を顕にした。とくに近藤さんは道場に幼い子どもと愛妻を残してまで、上さまの警護すると上洛を決意していたため、混乱はひとしおだっただろう。

 近藤さんをはじめとする試衛館派と芹沢さんたち水戸派を含む二十名ほどは議論の末、あくまで上さまの警護のために京に残ることを決意した。

 壬生村を拠点としたわたしたちだが、所詮は烏合の衆。お目付役として殿内義雄、鵜殿鳩翁も同志という形で残ることとなった。

 壬生村での生活の基盤を造るべく忙しない日々が続いたある日。宗次郎は近藤さん、土方さん、山南さんに呼びだされた。


──「殿内を闇討ちする。総司、おまえも斬ってくれ」


 土方さんの口からもたらされたそれは、宗次郎の指先をふるわせるには充分だった。

 竹刀の仕合では負けることのなかった宗次郎。だがその実未だ人を斬ったことはなかった。こうなった以上いつかは斬らねばならぬという確信はあったが、まさかこんなにも早くこの日がきてしまうとは──。

 宗次郎の心がどうなってしまうのか。わたしはただそれだけが恐ろしくてしかたがなかった。

 宗次郎はしばしの間俯いていたが、土方さんの近藤さんとともにというひとことで決意を固めた。

 宗次郎は近藤さんのために上洛した。近藤さんがやれというならば、人を斬ることもいとわない。ためらってはいけない。宗次郎はそんな暗示を自分にかけていたように思う。

 土方さんは宗次郎の決意をみると言葉を続けた。

 おなじ筆頭格である近藤さんはわたしたち試衛館派、芹沢さんも水戸派と呼ばれる派閥を持っていた。他にも派閥はあったが、主だったものはそのふたつだろう。だが殿内と家里は派閥がなく、ゆえに殿内は自前の派閥を形成するために旅にでるということはすでに知られていた。

 そこで、彼がここをでる前に宴会を開きしこたま酒を呑ませる。宴会のあと、体力を温存すべきだと近藤さんと宗次郎が近くの宿まで送ろうと声をかける。もちろん、そのときには念を入れて刀はしまわせておく。

 月の明るい日に旅立つだろうから、灯は近藤さんが持つのみでも殿内も納得するだろう。近藤さんが殿内の気を引いている隙に宗次郎が殺る。

 簡単ではあるが総司の腕ならばまちがいはない。土方さんはそういいきった。ここに身を置く限り、今後は人を斬ることに躊躇などしていられない。宗次郎は覚悟を決めた。

 殿内旅立ちの日。宗次郎は一睡もできていないまま計画に移った。近藤さんもいると思っていても、やはり人を斬るということは恐ろしい。

 斬った瞬間の感覚は宗次郎からわたしにも伝わり心胆冷えた。

 殿内の亡骸はそのままに、近藤さんが宗次郎の刀を懐紙でぬぐい鞘に納める。荒い息をくりかえし、どこかぼんやりとしている宗次郎。近藤さんがその肩を抱いて土方さんたちと合流するところを、わたしは遠巻きからながめていた。

 それからの宗次郎はしばらくの間ぬけがらのようにすごした。食事もとれず、とろうとしてもすぐに吐いてしまう。縁側に座り空を見上げていたと思えば井戸から水を汲み上げひたすらに手のひらを洗ってみたりと、みていられるものではなかった。

 試衛館のみなや、芹沢一派すらもそんな様子をみつめ案じていた。

 試衛館の門人はやはり早かったかもしれぬと胸を痛め、平助はとくになんとか話しかけて傷を癒そうとしていた。斎藤さんだけはただそんな宗次郎の姿をみつめているだけだった。


──宗次郎、宗次郎。わたしの声が聴こえる?

──「お“  ”──わたしは、人を斬って……」

──わかっています。大丈夫、わたしが傍にいます。あなたがどんな罪を犯してしまったとしても、わたしはあなたの味方。いったでしょう? あなたはわたし、わたしはあなた。ふたりでひとつ。さあ、お眠りなさい。目が覚めたら、斬ってしまった相手の人生をも背負うことを誓いなさい。あなたは快楽のために人を斬っているのではないのですから。


 眠ることすらできない宗次郎に、わたしはついに話しかけた。このままでは宗次郎は死んでしまうかもしれないという危機感からであったことは否定しない。

 変わらずわたしの名は聴きとれない。彼の言葉は彼自身を否定するだろうと、言葉をさえぎった。触れられないけど抱きしめて。触れられないけどほほをなでる。彼の意識を遠のかせ半ば強制的に眠りにつかせた。

 翌朝。意外にもすっきりとした顔をみせた宗次郎はあれほど食べられなかった粥もあっという間に平らげ、案じていたみなをおどろかせた。

 その日以来、わたしは宗次郎の心に住まわせてもらうこととなった。彼の心はまだ血を流していることをわたしが察していることを、宗次郎もまた察していた。

 宗次郎の心の中で、宗次郎との会話をたのしみながら心を穏やかにさせていく。それがわたしの意味となった。名は、なくてもよいのだ。



*****



 目が覚めると、わたしは自室に寝かされていた。

 傍には平助が片膝をたてたまま眠っており、理由はともかく器用な人だと笑みがこぼれる。

 無性によく寝顔がみたくなり、寝返りを打つと平助の目が覚めてしまった。


「総司、目が覚めたのか! すぐ近藤さんに報せねぇと……」

「平助、待って。近藤“先生”のお部屋にはわたしから伺うよ」


 刻をとめたようにぴたりと動きをやめた平助は、その犬のような丸い瞳に涙を浮かべてこちらを振り向いた。口にださずとも、記憶が戻ったのかと問うそれに笑顔で応える。

 飛びつくように抱きしめられたわたしはあまりの勢いに咳き込みながらもうれしかった。宗次郎はここまで愛されていたのかと。

 平助の声で騒がしくなった部屋に、朝っぱらから騒がしいと文句をいいにきた左之さんと永倉さんも、すっかり目を丸くして、わっと声を上げた。平助よりもずいぶんと大きな左之さんの声に今度は土方さんが青筋をたてて現れ、山南さんと源さんもなにごとかと集まった。

 平助をはじめとする数人のみに女子であるという真実を話しており、ほかの者には申し訳ないがただ怪我による記憶の混乱があるというのみに留めていた。左之さんや永倉さんをはじめとする知らされていない助勤たちは、それが戻った事実にみな喜びの声を上げた。

 騒ぎが治まるまで四半刻ほどかかり、朝餉ののちに近藤先生の部屋へと呼びだされた。上座に近藤先生、その両脇を土方さんと山南さん。土方さんの左側には源さんが座していた。

 事情を知る平助とともに入室すると、さまざまな視線が突き刺さる。


「思いだしたと、申したな」

「はい。……“わたし”が知るすべてを、お話いたします」


 切りだしたのは近藤先生。半信半疑であることは目をみればすぐにわかる。みていた通りわかりやすい方だと思いながらもうなずいた。

 “総司”とともに歩んできた彼らへわたしが知る真実すべてを話すことで誠実になれるのならば。その一心で思いだしたすべてを話した。

 “わたし”は産まれることのできなかった宗次郎の双子の妹。宗次郎にとっては三人目の姉かもしれないがいまさらそれを知る由もない。

 母上の胎内でわたしと宗次郎はともに産まれた。お互いまだ目を開くことすらできずとも、お互いの存在を知っていたし心を通わせていたと思う。

 そんな中、母上になんらかの病魔が迫っていることが伝わってきた。このままではわたしも彼も死んでしまうかもしれない──それは本能だったのか理性だったのか、いまでもわからない。けれどたしかにそのときわたしは自分の死をもって彼を生かすことを決めた。

 まだ小さなわたしたちの身体。なぜだかはわからないがまだひとつになれると確信していた。いま思えば、元々ひとつの身体だったのかもしれない。わたしはわたしのすべてを彼に授けることで跡形もなく消え去った。

 誰に悟られることもなく、“わたし”は死んだのだ。

 身体は消え去っても霊魂はともにあった。胎内で成長する宗次郎を母上よりも近くで見守っていた。彼が母上の胎内から離れひとりの人間となったあの暑い夏の日、わたしも外にでることに決めた。

 霊魂ではあっても、わたしと宗次郎は一心同体。文字通りふたりでひとつ。

 彼の傍をひとときでも離れてしまえばわたしは消えてしまっていただろう。

 それからはあの白い世界で思いだした通りに、先生たちに話した。理解しがたいものであることはよくわかっている。現に土方さんに至っては眉間によった皺をそのままに睨みつけているのだから。


「なにゆえ、わたしがいまこの身体で宗次郎の霊魂とともにしているのかはわたしにもわからぬのです。ですが、宗次郎は近藤先生にすべてを捧げると上洛したのは事実……。わたしは宗次郎であって宗次郎ではない存在ではございますが、心はともに。わたしを沖田総司として生かせてはくださいませんか」


 ひと息にいいきった。畳の青臭さが額に移るのではないかというほどにこすりつける。きっと宗次郎でもそうするだろうから。

 近藤先生は宗次郎の生き甲斐だ。彼がいなければきっと宗次郎はあれほど笑顔ではすごせなかっただろう。彼の意志は誰でもなくわたしが継ぐ。その思いゆえにひたすら頭を下げ続けた。近藤先生なら、きっとわかってくれるはずだ。

 集まった面々はそれぞれに近藤先生の言葉を待っていた。きっと土方さんはわたしのことを疑っているのだろうが、殿内闇討ちの件を知っているのだからただ者ではない、とは思っているのだろう。あれははじめての大仕事。平助がいる前で話してよいものかと迷った末、宗次郎がはじめて人を斬ったあの日。と遠まわしないい方になってしまったが、本人たちには伝わったはずだ。

 近藤先生の鼻腔から長く息が吐かれた。こうなってしまえば頑固なのは宗次郎もおなじだったなと呆れ返っているのだろう。

 ゆっくりと近藤先生が放ったひとことで、わたしと壬生浪士組の未来は決まった。

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