第弐話:失くした記憶と新たな身体
目が覚めると、決して寝心地がよいとはいえないせんべい布団に寝かされていた。
目線だけを動かし見渡すと、建物の中だとわかる。余分なものは一切置いていない殺風景な部屋。みえるのは寝ている布団と色あせた屏風だけだ。
ふと廊下のきしむ音がして、そちらに目を向ける。視界に入るのは屏風だけで、ほかはなにもみえはしないけれど。
入ってきたのは意外にも若い男だった。こちらをみやると人のよさそうな笑みで腰を下ろした。いやにうつくしい姿勢の男だ。
「気ぃつかはりましたね」
藍色の着流し。それに下ろされた髪は肩下まで伸び、それを邪魔に思うわけでもないのか、毛先のみをゆるく結わえていた。
暗い色を好むのかと思いきや、結わえている髪紐は朱色で珠まで飾られ、それだけみると女子のようだ。
男はこちらへ手を伸ばす。前髪をていねいに退け、額からこめかみへ、こめかみからほほへ、ほほから首筋へと指先をすべらせる。そこに下心もなにも感じられず、すなおにそれを受け入れた。
いま一度ほほへと手のひらをすべらせると、そのまま前のめりになり瞳を覗き込んできた。
「 問題あらしまへんね。ところであんさん、壬生狼の沖田はんやろ?」
「みぶ……ろ?」
「一度みかけたことがありましてな。なんや、雰囲気は多少変わっとるみたいやけど」
壬生狼とは、沖田とは一体──記憶を探ろうとする間にも男の話は続く。
男の声はやけに頭の中にひびいた。探しだそうとする記憶のすべてを覗かれているようで気分が悪くなる。
ほほに添えられた手のひらを退けさせるように何度か頭をふると、男はうつくしい佇まいに戻った。
思案顔でみつめる男と目が合うと、なにやら身体中が粟立つ感覚におちいる。
なぜだ。弱みを握られている気がする。口を開かないでくれ。心のどこかで警告する声がする。だがそれも虚しく、男はすんなりと口を開いた。
「それにしても、世も末やな。こない妙齢な女子が壬生狼なんて危険な場所に……はよう抜けたほうが身のためやで」
そうか、これか。無意識に弱みだと感じていたのはこれだったのか。
混乱しているのをよそに、男はひと声かけて立ち去ってしまった。
これからどうすればよいのか、どうするべきか。まずは壬生狼とかいうところに行ってみるか。いや、危険なのだろう──考えは一向にまとまらない。
細く長いため息がもれる。ゆっくりと起き上がってみると、布団に隠れていただけでいまはすっかりはだけてしまった男のものらしい古い浴衣。触れると小さくゆれて主張する“それ”。──なぜかそれがついていることに違和をおぼえた。
起き上がっていたためか、障子の向こうに人かげがみえた。先ほどの男より細い。女だろうか。
「起きてはりますか?」
「え、ええ」
音もなく両手で障子を開けた女は一度ていねいに頭を下げ、盆を持って部屋に入ってきた。
盆には湯のみと急須、粥らしきものも乗せてあり、よくみると白い包みもみえる。
湯のみに半分ほど入れられたぬるい茶で苦い薬を流し込み、粥を口に運ぶ。それがやけにおいしく感じられて、思わず気の抜けた息をもらしてしまった。
女は何度かおどろいたように瞬きすると、着物で口もとを隠しながら小さく声を上げて笑う。無意識に顔を上げていたのだろう。女はちらりとこちらを伺うと目もとをやさしげに細めた。
「すいまへん。壬生狼いうたら恐ろしい人ばかりやと思っとったさかい、えらいかわいらしゅうて笑てしまいました」
そん中でも沖田はんは愛嬌のあるお人やけど。と続けた女だが、いまその相手をしているとは思えないほどおだやかだ。
とにもかくにも、やはり沖田総司とやらにずいぶんと似ていることはまちがいない。となればやはり向かうべきは壬生狼だろうか。
女は粥を食べ終えたのをみて懐から細長い布を巻いたものを取りだした。
「女子やいうことは先生から聞いとります。さらし、巻いたほうがええんとちゃいます?」
いわれてみればたしかに巻くべきかもしれない。この寝間着ですらわずかに主張しているのだから潰しておくのが身のためだろう。
女の手を借りながら用意されていた着流しに着替える。我ながら手馴れているとおどろいた。自分が何者なのかわならないのが不思議でしかたない。
軽い昼餉をすませたという男と、買いだしに行きたいという女が壬生狼の屯所というところまで送ってくれるという。ありがたく好意を受け取り、どことなく違和の残る身体を引きずる。
京の町では壬生狼はあまり好意的にみられてはいないらしい。でる前にむりやり男に笠をかぶらされた。
まるで漫歩するように町を愛でながら歩みを進める。その傍ら男が話す言葉に耳を傾けていた。
どうやら五日ほど前、壬生狼の隊士数人が医者である男のもとを訪ねてきたらしい。彼らは、巡察の時間になっても見当たらないので探しているという。そのときはここにはいなかったらしい。それから二日後、診察にこれない老婆のもとへ行った帰り際、倒れているのをみつけたので連れて帰った。ということだ。
それまでどこにいたかはわからないし、いまは記憶が混乱しているようだと男は眉を下げてほほえむ。
壬生浪士組屯所。そう書かれた邸に着くと、入口に立っていた男ふたりがこちらへ駆けてきた。
「沖田助勤、ご無事でしたか!」
「あ、いや……」
「すぐ副長たちに報告を」
彼らの勢いになにもいえぬままひとりは奥へと走り去っていく。
面倒をかけた男と女に気がついたもうひとりは深々と頭を下げ、入口へと誘導する。
いくつかの草履の音が重なり奥をみやると、門番とは別に三人の男の姿がみえた。
ひとりは厳つい顔の威厳のある男。ひとりはやけに艶かしい雰囲気をもつ美丈夫な男。もうひとりはやさしげな目もとの上品な男。
三人は目の前にくると沖田総司の名を呼びながら喜びを顕にしていた。これはもう沖田総司ではないなどといえる雰囲気ではない。
立ち話ではなんだからと威厳のある男の部屋へ案内されると、そこで医者の男がすべてを説明してくれた。
沖田総司であって沖田総司ではないともいえる記憶の混乱。女であることは知っているかもしれぬがと前置きをして。
三人はそれぞれの心を瞳に、表情に写していた。
五日前まではたしかに男であったという威厳のある男。訝しげな目でみつめてくる美丈夫な男。 今後どうするべきかを計りかねている上品な男。
しばらくののち、口を開いたのは一番立場が上であろう威厳のある男だった。
「ともかく、しばらくは様子をみるほかあるまい。総司であるならば刀を握っていればなにか思いだすやもしれぬ」
有無をいわさぬ口調の威厳のある男は、こちらに向き直ると途端に雰囲気をやわらかくした。
近藤勇と名乗る男は壬生浪士組の局長のひとりであること。そして美丈夫な男が土方歳三、上品な男が山南敬助、それぞれ副長であると告げる。
それから、壬生浪士組のこと。沖田総司のこと。彼とおなじ副長助勤の面々についても主観も交えながら説明してくれた。
そして後ろに座していた医者である男と女にていねいに頭を下げ礼を告げた。謝礼であるといくらかの金子の入った巾着をむりやりに渡し、それとともに次は茶でも呑みながら語らおうとも誘う。たしかに威厳はあるが誰かの上に率先して立つような男ではない。失礼だがそんな印象だ。
ふと会話が途切れると、土方さんが誰かに合図するようにひとつ膝を叩く。少しして小柄な男が障子を開けた。そして部屋まで案内すると退室を促された。
「おれは同室の藤堂平助。平助と呼んでくれ、沖田さん」
「よろ、しく──」
腰に差してある大小から察してこの男もここの住人なのだろう。
わたしが大柄であるからかもしれないが、彼の上背はみるからに小さい。加えて幼い顔だちをしており、人なつこい笑顔もそれを引き立てている。とても刀を握る人間だとは思えない。
彼につられてほほえんだが、意外にもうまく笑えたと思う。
藤堂さん──平助が前を向くと、高い位置で結わえられた短いくせのある髪がゆれた。それをみるとなぜかなにかを思いだしたような気がして、じくりとこめかみが痛んだ。声をだすわけにもいかず、そのまま指先で揉みほぐす。
平助の声で部屋に着いたことに気づき指先を離した。決して広くはない部屋には箪笥に脇に置かれた布団がそれぞれふたつ。机はひとつのみとずいぶん殺風景だ。
「土方副長から、総──沖田さんに部屋の案内と名乗ることしかいわれてねぇんだが……なにがあったんだ?」
どう、答えるべきか。自分でも己が何者であるか、沖田総司であるかすらわからないというのに答えようがあるものか。
よほどむずかしい顔で黙ってしまったのだろう。平助は慌てたように謝罪し、打ち合いでもしないかと提案してきた。
近藤さんも刀を握っていれば、といっていた。提案に乗ってみるのもひとつの手かと軽くうなずく。
「その前に、ひとつだけよろしいですか?」
いざ着替えようとする平助の手を止めようと声をかける。箪笥を探っていた彼がこちらを向くと、自分で自分の胸もとを開けてみせた。同室ならば知らせておかねばのちのち面倒なことになるだろう。
さらしを巻いているとはいえたしかに主張するそれに、平助の顔はみるみる内に赤く染まっていく。
声にならない声を上げながら両手で顔を隠す平助に、初な人だと合わせを直した。
「おいおい、なんだよそりゃあ! 先日湯殿に行ったときは、そんなものなかったじゃねぇか……!」
「申し訳ない。自分でもよく……」
目が覚めてからのできごとを思いだしながら口を開く。目が覚める以前のことでなければ、記憶力はよいほうかもしれない。
そうだ。あの医者の男に名を訊くのを忘れていた。いまさら思ったところでもうここにはいないだろうから、もう術はないだろう。惜しいことをしてしまったと後悔する。
「男子から女子に変わるなんてこと、訊いたこともねぇ! だが実際なってるわけだしなぁ……?」
「わかりません。ただ、どの方も沖田総司とまちがうということは、よほど似ているのでしょう。もしかしたらほんとうにその方なのかもしれません」
小首をかしげる平助はほんとうにかわいらしい。小さく首をふり、こぶしを唇にあてながら応えると、平助はほんとうに沖田総司と瓜二つだと表情が固いながらも笑っていた。
それから数日の間、ここの生活に馴れるためにも、他の隊士たちに記憶の混乱が悟られないためにも、平助とともにすごしていた。
土方さんの計らいか警戒か。平助以外との巡察当番は交代させられ、職務のほとんどがなくずいぶんと穏やかな時間をすごした。そして今日、この状態でははじめての巡察当番となる。
朝餉を食べ終えると、平助とともに庭へでる。巡察の前に軽く身体を動かすためだ。ずっとともにいた平助にとっても、この刻の稽古はずいぶんと久方ぶりらしい。
庭ではすでに隊士たちが打ち合いをしていた。記憶にはないはずだが竹刀で打ち合うその様子に既視感をおぼえ、こめかみが痛む。
針で指を刺したような一瞬の痛みだが、その瞬間たしかにこの稽古が別のなにかと重なった。前回はわからなかったが、前を行く平助のゆれる髪も別のなにかと影のように重なる。
ふと我に返ると、隊士たちが打ち合いの稽古をやめこちらを伺っていた。平助がどこからともなく両手に竹刀を持ってくると、広がっていた隊士たちが場所を開ける。どこか緊張感がただよっていた。
「さあ、打ち合おうか」
平助は竹刀を渡しほほえむと、自分もそれに指をなじませある程度の距離をとり構えた。
少し猫背で剣先がやや下がりぎみ。自然と構えたこの形はなぜか身体が憶えているようだ。
こうしてみると彼にも剣の道に生きるものとしての誇りを感じる。隙がない。
精神が研ぎ澄まされる感覚。平助のまとう空気までがみえるようだ。平助が右足をすり足で前にだす。ざり、と土が鳴いた。いつでも打ってこいという気概を感じる。
またなにかに重なりそうでこめかみは痛むが、いまはこの空気を最後まで味わいたい。こんな痛みなど二の次だ。
いつの間にやら他の隊士たちの一歩手前にでていた涼しげな眼差しの男が手刀をふたりの間に向けた。
「──はじめ!」
声もやけに冷静だ。そんなことを考える間もなく、平助が勢いよく踏み込んできた。
竹刀が重たい音をたてる。鍔迫り合いなると上背の低い平助のほうが不利なはずなのだが力負けしそうだ。
負けてたまるか──。すべての力を竹刀へと注ぎ込みそれを離す。いまなら平助の太刀筋はすべてみえる。
竹刀のしなる音。竹刀同士が重なり奏でる重たい音がここちよい。防戦に徹していたが、そろそろ打ち返してみようか。
平助が竹刀を振り上げた。その隙に大きく一歩踏み込むと平助の目が見開く。それを見上げながら脇腹を一突きすると、突きの勢いにおされ平助はうずくまってしまった。
やりすぎたかと思ったが、当の平助は脇腹をおさえ咳き込みながらも瞳を輝かせていた。
「さすがだな。……あぁ、やっぱり敵わねぇなぁ」
悔しげながらほほえむ平助に手を差しのべる。腕一本で平助を立ち上がらせると支えながら隊士たちの間をすり抜けた。
「竹刀は片づけておく。巡察の前に藤堂の手当を」
冷静な男の声を背中で聴き、ともかく打った場所を冷やすべく井戸へと向かう。
井戸の近く。縁側に平助を座らせると、汗をぬぐうために用意していた手ぬぐいを取りだした。井戸の水を汲み上げ冷やしたそれを持ち平助の合わせをはだけさせる。
見た目に反して隆々とした身体つきをしていた。突いた脇腹も赤くはなっているものの問題なさそうにみえる。
手ぬぐいを添わせると一度冷たさに身体を震わせ、平助は悔しそうに大きくため息を吐いた。
「総司……いまは沖田さんか? まあ、どちらでもいいや。一度も勝ったことがねぇんだ。おなじ助勤なのに、この差はなんだろうな」
言葉の節々から伝わる悔しさ。剣の道に生きるものとして、勝てない相手の存在は悔しいものなのだろう。
それから巡察までの数刻。平助の脇腹を冷やしながら巡察のために汗まみれの稽古着から着替えた。
記憶らしきものとここでの生活は重なることが多いようだ。思いだすことを強くねがっているわけではないが、思いださねばならないことがあると心のどこかが訴えている。
総司でよいというひとことで表情を明るくした単純な平助との会話をたのしみながらも、別のところで様々なことを思案していた。それは平助も感じ取っているように思えて心の中で謝罪した。
巡察の刻。決められた道のりを平助と並んで歩く。平助はずいぶんと馴れたもので、会話をしながら隅々まで目を光らせる。
半分ほどすぎたところまではなにごともなく、このまま平和に終えるのだろうと息をつこうとしたそのとき。
背後から重なる足音。隠しているのだろうがただよってくる殺気。尾けられている。
目線のみで平助を伺うと彼も気がついているようで、口をほとんど動かさずにこの先の路地に入ろうという。目線でうなずいた。
沖田総司は人を斬ったことがあるのだろうか。そして自分自身は──記憶のないいまの自分にはわからないが、腰に差した大小が飾りであればよいと思っていたことに気がついてしまった。
だがやらねば殺られることはわかる。短く息を吐き、無意識に握っていた右の拳に力が入る。
路地に入るやいなやすばやく抜刀した平助に倣う形で、抜刀した。構えてはいるが斬る気がないのはすぐに察されてしまうだろう。
追ってきていたのはたった三人の男たち。抜刀し構えているこちらをみてすばやく抜刀する。
「何者だ」
「壬生狼だな」
「……何者だ?」
短い問答の末、男たちは斬りかかってきた。切っ先がふるえ相手の刀を受け止めるのが精一杯だ。平助は軽々と男ひとりを斬りつけるとすぐにふたりめにかかっていた。
斬りたくない。死にたくない。殺したくない。やらねばならない──。頭の中を駆けめぐる思いに吐き気がする。
あっという間にふたり片づけた平助がこちらをみて舌打ちした。一度血濡れの刀をふりそれを落とすと、対峙していた男の心の臓を後ろから一突きした。
緋い液体が噴く。それがほほに、腕に、着物に付着した。鉄臭さが鼻をつく。ぐらりと身体が傾いて気がつくと尻もちを着いていた。
脳をかき混ぜられているような感覚。頭が割れてしまいそうに痛む。吐き気がとまらない。身体中が心の臓になったかのように波打っている。
周りから音が消える。平助がこちらに駆け寄ってくるのがみえたが、すぐにそれも霞んでしまい目の前が真っ白になった。