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お春  作者: 生川 恵愛
第肆章
22/27

第弐拾壱話:三条大橋制札事件

 会話を聴いてしまった日から数月。平助は相変わらず鈴木さんに張りつかれているし、一くんもまた然り。

 あのときの会話も、一くんがなぜ集まりに参加しているのかも、訊くことができずにいた。

 要するに、事態はまったく動いてはいないのだ。

 変わったことといえば、如月の中ごろには勘定方を勤めていた河合さんが切腹し、卯月には伊東さんたちが広島から帰還したことだろう。

 伊東さんが帰還してからというもの、集まる人数は徐々に増えているように思えた。陶酔している者もいるというから恐ろしい限りだ。

 平助も隊務以外は鈴木さんとともに行動し、すべての集まりに顔をだしているようだ。

 もうすっかり、ふたりで話すこともなくなってしまった。

 なぜなにもいってくれないのだろう。そう思うことも多々ある。それを口にすることもできず、悶々とした日々をすごしていた。


「山崎さん、最近の組の様子はどうですか?」

「せやな……まあ、ごたついとるけど、心配あらへんよ」


 ほんとうは知っている。伊東さんの派閥がどんどん大きくなり、土方さんも危機感を憶えているということを。

 けれど、山崎さんはいまのわたしと平助との確執があるようにも思える距離感を知っている。そして、ほんとうの心のうちも。

 わたしの心労が増えれば、その分病も進行するだろう。

 山崎さんの気持ちも痛いほどにわかる。だからこそ、なにも知らないふりで、笑顔を浮かべるのだ。

 そんな中、文月も終わろうというころ。十四代目将軍家茂公がお隠れあそばせた。まだ二十という若さでお亡くなりになられたことに、近藤先生はとくに心を痛めていた。

 それから二月ほど経った葉月の終わり。三条大橋の西詰に立てられていた幕府の制札が鴨川に投げ捨てられているのが発見された。

 すぐさま奉公所に届けられたらしいこの事件は、新撰組にも多大な衝撃を与えていた。

 もうわたしはみなとともに食事をとることもなくなり、稽古も長くはできなくなっている。

 こんなときに役立たずだなんて──そう思う気持ちがないとは、もちろんいえるはずもない。

 禁門の変ののち。朝敵となった長州藩の罪状が書かれた部分は墨で塗りつぶされ、これ以上ないほどに破壊されていたという執拗な手口。

 長州──総司を殺した吉田稔麿が育った藩。私怨ともいえるその黒いもやのような気持ちに蓋をするため、力の限りこぶしを握りしめた。

 彼の仲間がやったという証拠も根拠もない。だがそれでも、できることならわたしが捕まえて斬ってしまいたいと思ってしまう。

 本人には向かなかったこの思い。なぜいまになってと思えば、きっとわたし自身が死にむかっているからだろう。

 じわじわと彼とおなじ世界に逝く準備をしているのは、彼に呼ばれているからかもしれない。

 彼が、ひとりでも多く幕府の人間を殺すために。

 長月に入りいま一度立てられた制札。わずか二日ののちに同様に破壊された。

 京都町奉公所から松平容保公に要請が入り、そこから新撰組に出動命令が下される。

 近くの藩邸が抱えている関係者が破壊した。そうも考えられるという土方さんの意見に、伊東さんも賛同していた。

 それすら気に喰わないのか、土方さんの眉間にはまたひとつ深くしわが寄る。

 彼自身もそれを無視して、具体的な手はずを伝えはじめた。

 制札場からは三方向に道や路地が走っている。

 西方面の三条小橋方面には、新井さんをはじめとする十二名。南の先斗町方面には、左之さんをはじめとする、おなじく十二名。東の三条小橋東詰方面に、大石さんをはじめとする十名。河原入口の見張り役として、物乞いに扮した橋本さんと浅野さんも配置。

 町屋や店に姿を隠し、犯人が現れるのを待つ。

 見張り役のふたりが犯人を目視したところで、大声を上げるかもしくはそれぞれに呼びに行く。

 すべての逃げ場を塞いだのちに一網打尽にしようという算段だった。

 左之さんはいわずもがな。大石さんも総司──否、本格的に人を斬りはじめざるを得なくなったころにはわたしだったか──とおなじように“人斬り”と恐れられたひとり。相当腕が立つのはまちがいない。新井さんも剣術師範を命じられるくらいの腕を持っている。

 そのほかの面々もそれぞれに腕の立つ者が多く、実力は申し分ないだろう。

 囮とも呼べる制札が立てられた日。新撰組三十六名は出動した。

 わたしはただ待っているだけ。のちほど成果を問うことしかできないことが歯がゆかった。

 一日目。成果なし。

 二日目。成果なし。

 この時点で、左之さんもこないかもしれない。とぼやいていた。

 徐々に蝕まれている病に関して、平隊士も気づいているようだし、幹部に関しては近藤先生の口から報告されていた。

 みな気を使って、組の現状や隊務について教えてくれる。

 まだわたしを一組長として扱ってもらえることはありがたい。だが、それと同時にみなとともに隊務にでられないことが悔しい。

 三日目の夜。どことなく昨晩よりやる気のない先鋭たちを送りだした屯所は、やけに静まり返っていた。

 このままなにごとも起こらなければよい。障子を開け空を見上げていると、ふと足音が聴こえた。

 その音に反応してゆるりと目線を下げると、そこには久方ぶりにひとりでいる平助の姿があった。

 胸がつまる。交わった視線が熱を持つように、わたしに彼を求めさせている。

 だが平助は目線をそらし、顔までも背ける。なぜ、と思う前に、部屋へ入っていった。

 見張られているのだろうか。そう思い至ったのは、やはりあのときの会話が原因だろう。

 ひとつため息をついて、わたしも部屋へ戻る。障子をぴたりと閉めたところで、待ちわびていたかのようにふすまが開いた。


「へいすっ……!」

「静かに……」


 思わず声を上げたわたしの口に手を当て、ささやくように告げられる。

 何度も首を縦に振ると、手のひらが外された。途端、唇が重なる。

 おどろいて目を見開くわたしをよそに、すぐさまその唇は離れた。顔をみることすらできないまま、思いきり抱きしめられる。

 ごめん。耳もとでわずかに聴こえた声は、そう告げた。

 拘束されるように力強い腕に身動きすら取れず、わずかに動かせる肘から下でなんとか彼の着物をつかむ。

 謝ることなどない。謝るのはむしろ、わたしの方だ。

 そう告げたいのに、言葉にならない。


「……わたしのせい?」

「なにを……──」


 彼を思う言葉より、自分の不安が先をついてしまった。

 しまったと思ったときにはもう遅い。

 平助の声からは戸惑いの色がみえる。苦しいほどの腕の力はゆるめられ、わたしはようやく顔を上げることができた。

 彼の瞳は動揺を隠しきれずに泳ぎ、ついに目を伏せられる。


「鈴木さんに露見したんでしょう? わたしが女だってこと……」

「──伊東先生も知ってるんだ。それで、同門のよしみもあるし、もともとは伊東先生に惚れこんでたのもあって」

「わたし、変な仕草とかしてたかな……」


 もし仕草で疑惑を持たれたとなれば、平隊士たちにもうわさになっているはずだ。

 早急になんとかしなければ、近藤先生の立場もないだろう。

 だらりと垂れ下がっていた腕。無意識にこぶしを握った。

 平助は首を振り、彼らの勘が鋭すぎるだけだ。と苦笑する。彼らの勘は格がちがうのだと。

 と、そこではたと気づく。鈴木さんとまともに会話をしたあの宵。思えばわたしはさらしを巻いていなかった。あのとき疑惑を持たれたのではないか。

 もしそうだとすれば、わたしはなんて浅はかだったのだろう。

 突然呆然としたわたしに気がついた平助は、わたしの思い至ったことまで勘づいてしまったようだ。


「お春のせいじゃない。伊東先生たちについてるのは、おれの意思だ。お春のことを知られてるのはたしかだし、それで集まりに参加するようにもいわれてる。だけど、おれにも目的があるからあっちにいるんだ」

「目的ってなに。わたしにはいえないこと?」

「──おまえの病を治す薬がほしい」


 真剣な眼差しがわたしを射抜く。それに負けじと問いつめると、予想外な答えが返ってきた。

 薬ならば山崎さんや、近藤先生が色んな医者に頼んでいるところだろう。事実山崎さんから渡された薬の中には、ときおり上等なものが混ざっている。

 だからこそわたしは隊務には参加できずとも動けていると思うし、それは彼もわかっているはずだ。

 言葉を失ったわたしに、平助は続けた。

 いまの治療じゃ、きっと治らない。治すためにはもっと視野を広げないと──。

 目をそらされながら、ひとりごとのようにつぶやかれたそれは、誰かの受け売りだろうか。

 鈴木さんや伊東さんも幹部には変わりない。左之さんたちだけに話されているとは限らない。

 彼らもわたしの病のことを知っているとすれば、この言葉はもしかしたら伊東さんにいわれたのかもしれない。

 いやなことばかり考えている自覚はあった。それでもやはりわたしは自分を責めてしまう。

 ふと、平助が自嘲をこぼした。


「おれ、いやなやつだよ。大恩ある伊東先生を、自分のために利用してるんだ。それを、近藤さんたちにもいえねぇまま……。お春は病なんかに負けじとがんばってんのに、なにしてんだろうな」

「そんなこと! わたしだっておなじだよ……実はこの前聴いてしまったんだ、鈴木さんとの会話。それから、それで距離を置かれてることに気づいていたのに、自分本位なことばかり考えて……──」


 いつの間にか離れていた身体に、いまさらながら体温を恋しく思う。

 膝の上で握りしめられたこぶしを、平助の手のひらがそっと包んだ。

 そのぬくもりが、そんなことはない。といっているようで、思わず顔を上げる。

 その瞬間、ひざ立ちになった平助にまたもや力強く抱きしめられた。

 不安にさせてごめん。そのひとことがいままでの距離をなかったことにする。

 首に腕を回す。着物をつかむように力を込めると、わたしたちの間には空気すら入る隙間はなくなった。

 じわりと心に溢れてくるのは、きっと愛しさ。腕の力をゆるめると、それに合わせたように平助の顔が離れた。


「平助……なにを秘密にしてもいい。だけど、わたしより先に死ぬことだけは赦さないから」

「ずいぶんむずかしい約束だな」


 困ったように笑う平助に、わざと唇を尖らせてみせる。

 破ったら絶対に赦さない。わたしも病を治して、平助とまだともにすごしていたいのだから。

 こんなときでもないと、こんな本音をぶつけるような約束は交わせない。

 肩にもたれるようにして抱きついたわたしを、平助の腕はやさしく包んだ。

 約束は交わした。どれほど醜くても生き抜いて、いつか血の匂いのない平和な土地で、ふたりで暮らしたい。

 きっと淡い夢物語だ。総司の代わりとして生きると誓ったわたしが、そのような未来をつかみとれるはずもない。

 それでもよい。それでもわたしは、その夢物語を希望にして、病に負けずにいたい。

 一度口づけを交わしたころには、すっかり宵も更けてしまっていた。

 明日も早い。平助は一度ほほえみかけて、ふすまから部屋へ戻っていった。

 布団に潜りこんでもなかなか寝つけなかったわたしには、左之さんたちが帰ってくる音が聴こえた。

 なにやらいつもより騒がしい帰還に、となりの平助も部屋で動きだした気配がする。

 なにか、あったのだろうか──。

 その声に目を覚まし気になったために、障子を開けて外を覗いたのはわたしだけではなかったようだ。

 両どなりはもちろん、その先までおなじような体勢の人影がみえた。


「おら、さっさと歩けよ!」

「ほがなことゆうたって、脚がもつれてるちや」


 聴こえてくる左之さんの怒号。それに対抗しているのは土佐の人間だろうか。

 なまりのある声が風に乗っていた。

 源さんが立ち上がった気配に、わたしととなり部屋の平助の目線が上がる。かすかな足音で左之さんたちの出迎えにでた源さんは、どうやら土方さんの気配を感じていたようだ。

 源さんと合流する形で建物の近くに集まった彼らは、なにやら話をしているようだったが、すぐさま捕縛した土佐の人間らしき人物を連れて拷問屋敷へと向かった。

 拷問屋敷は、ただ拷問するだけではなく捕縛部屋としても使われている。とりあえずは縛って放り込んでおくのだろう。

 未だ体勢の変えていないまま平助と目線を合わせ、おやすみと口の形を作った。ほほえんだ平助にほほがゆるむ。

 それぞれの部屋に引っ込んだ野次馬たちは、朝まで誰も部屋をでることはなかった。

 翌朝。昨晩捕縛したのは予想通り土佐の人間だ。名は宮川助五郎。“今回”の制札事件は土佐藩士の犯行だったことが判明した。

 捕縛の際斬り捨ててしまった人物がひとり。藤崎吉五郎。先の洛陽動乱でわたしたちの誰かが斬り捨てた藤崎八郎という人物の弟だという。

 ことのはじまりはこうらしい。

 三日目の宵。暗闇の中四条方面から河原を歩いてくる八つの影。橋本さんと浅野さんは、目をこらしてその影を観察していたという。

 勤王刀と呼ばれる、常よりも長く反りの浅い刀を差した浪人風の男たち。彼らはろれつが回らないほどに酔っていたらしく、千鳥足で足を進めていた。

 制札場前。一度はなにごともなく通りすぎようとした彼らだったが、その前で立ちどまりひそひそと話をはじめた。

 いままでなんの変哲もない浪士一行だと思っていた浅野さんたちだが、そのときいやな汗が額を伝う。

 途端、ひとつの影が制札に手をかけ、そのままそれに力を込めた。引き抜こうとしているのは火をみるよりも明らかだ。


「何者だ!?」


 藁に巻いていた刀を抜き、大声を上げたのは橋本さん。

 突然の大声に振り向いた浪士たちがみたのは、刀を構える物乞いの姿。それはさぞ違和に満ちたものだっただろう。

 だが、そのうしろから駆け付けてくる原田隊の姿をみつけると、新撰組か。と刀に手をかけた。

 先斗町会所に身を潜めていた原田さんたち十二人は、すぐにでも抜刀できる状態で、戦闘態勢は万全だ。

 それに比べ制札に手をかけた浪士たちは、ようやく酔いが醒めたとばかりに慌てている始末。

 浪士たちが刀を手にしたころには、すでに原田さんたちによって彼らは囲まれようとしていた。

 みなが一様に刀を抜き、月明かりにきらめく刀を交錯させる。浪士たちのひとりが斬り殺され、恐れた浪士たちは西の河原町通方面へと逃走を計った。

 だがそれも叶わず、橋本さんの報せで河原町方面から駆けつけた新井隊十二人が食い止める。

 やや遅れた形で合流した新井隊だが、二十四対八という圧倒的優位に立ったことには変わりはない。

 捕縛するのも刻の問題だ。原田さんはそこでそう安堵にも似た気持ちを憶えたという。

 だが、川向こうの町家に潜んでいるはずの大石内蔵助隊十名が駆けつける気配がない。

 原田さんの舌打ちがひびく中、二十四名は必死に捕縛のための刀さばきを披露していた。

 大石隊を呼びに行くはずだった浅野さんが現場でうろたえているのが目の端に映ったのだろう。誰かが浅野さんの名を呼んだ。


「浅野! 早く大石隊を呼びに行け!」


 原田さんの常よりも荒々しい声色に我に返った浅野さんが動きだす。

 だが、乱闘を掻いくぐって行くだけの士気がなかったのか、怯えが残っていたのか。隊士としてはあってはならないことだが、回り道をして大石隊を呼びに駆けたため、十名が到着したのは戦闘が終わったのちだった。

 ひとりを斬り殺し、ひとりを捕縛。残りの六人には逃げられてしまった。

 理由は明白。すべてを浅野さんの責とするには重すぎるが、大石隊の遅れにより三方向から包囲し一網打尽にするという計画が不発に終わってしまったためだ。

 否、それだけではない。もともと酒に強かった大石さんたちは、なんと任務中だというのに酒を呑んでいたという。

 足が覚束ないなどということはなかったようだが、追いかけるよう指示した原田さんの思い通りには追いかけられず、呆気なく逃走を赦してしまったらしい。

 あとになって息が酒臭いことに気づいた原田さんの眉は、珍しく釣り上がったと、周りの隊士たちは恐れていた。

 組長である原田さんからの報告。そして各隊でまとめ役として抜擢されてきた大石さん、新井さんからの報告により、土方さんだけでなく近藤先生の眉間にも消えないしわを刻んだ。

 捕縛した宮川助五郎の話によると、訛りからもわかるように、彼らは土佐藩士らしい。

 この日、彼らはなんの思惑もなしにただ呑みにでかけたという。

 たまたま制札場の事件が話題にでて、たまたま酔った勢いで手をかけたという。

 俄には信じがたいことだが、もしほんとうならばわたしたちは事件を解決できていないということになる。

 宮川を捕らえた翌日。逃げた六人の中でしんがりを買ってでていた安藤という男が亡くなったらしい。

 重傷を負いながら土佐藩邸に戻るが、今日になって自害したという。

 また、事件で斬った藤崎に関しては、兄をわたしたちの誰かに殺された形になる。そのため幕府に少なからず恨みを持っていたのではないか。そしてそれが、第二次長州討伐の失敗により噴きだしたのではないか。という話もでている。

 しかし、いまの幕府は、引退ののちも幕政の権力を握る前土佐藩主、山内容堂公との関係を悪くない。そして宮川たちは結局初犯だったことが明らかとなった。

 近藤先生は土佐藩の面々と話し合いを進め、この件に関して長引かせることは得策ではないとした。そして後日、祇園の料亭で酒宴を催して和解することで決着がついたらしい。


「沖田くん、きみは屯所組だ」

「……承知しました」


 その報告ののち。わたしは身体を気遣われてか、屯所に居残ることとなった。

 下手なときに血でも吐かれたら困る。と、まあそういうところなのだろう。

 心配するでもなく、ただ淡々と口にしたその言葉と瞳は、そう物語っているように思えた。

 近藤先生、土方さん、吉村さん、鈴木さん。この四人が酒宴へ参加する。

 これは余談だが、土佐藩士の中で流行していた勤王刀は、この事件によって実践向きではないと証明され、一気に熱は冷めたらしい。

 伊東さん、篠原さんが尾張へと出張に向かい、彼らが到着するころ。土佐藩士たちとの酒宴が開かれた。

 昔ながらの幹部たちのほとんど。そして、平隊士たちも残っている屯所内は、いつもとなんら変わりないように思える。

 だが、わたしが病に侵されていなければ酒宴にはわたしが参加していたのだろうか。と思うと、やはりいまのわたしはお荷物なのではないかと気が沈む。

 そして、近藤先生のあの表情と瞳が、わたしの心を蝕んでいた。

 いつから、あんなにも変わってしまったのだろう。

 誰よりもやさしく、誰よりも強く。そして、誰よりも自分に厳しい。そんな近藤先生が好きだったと訴えるのは、きっと総司とともにいたころの記憶。

 試衛館にいたころの彼ならば、あんな冷たい瞳はしていなかった。

 少なくとも、あんな風に瞳で訴えてくるようなことはなかっただろう。

 もやのかかる心をどうにかしたくて、盛大なため息を吐きだす。

 と、そのとき。気配すらあまりなかったが──こんな風に気配を消せるのはひとりだけだ──障子の外からかすかに吹きだした音が聴こえた。


「山崎さん、いるんです? 立ち聴きなんて失礼ですよ」

「たまたま通りかかっただけやって。人聴き悪いこといわんといてくださいよ」


 唇を尖らせ障子を開け放つと、口もとを押さえて笑いを堪えた山崎さんがいた。

 ほんとうか、と目を細めて訴えるが、山崎さんには効果はない。

 またひとつため息をついて、部屋へ招き入れた。

 人が入ってくるときは、できるだけ障子を開け、あまり奥には座らせないようにしている。

 労咳は伝染るから。誰であってもわたしが責をとれない状態で殺してしまうようなことはしたくなかった。


「で、今度はなにを考え込んではるんです?」

「あはは、やっぱりわかってしまいますか」

「当たり前やろ。いつも案じてんねやから」


 無意識にため息をついていたのだろう。

 障子のそばに座した途端問われる。苦笑を浮かべたわたしの頭に大きな手のひらが乗り、そのまま幼子にするようになでられた。

 瞳はまっすぐにわたしをみつめてくれる。いまはそれが無性にうれしかった。

 変わってしまったと感じる近藤先生のすべてを、ぽつぽつと吐きだす。なにもいわずに聴いてくれる山崎さんだが、どう感じているのかは表情から読み取ることはできなかった。

 と、そんなとき。突然ふすまが、がたりと鳴いた。

 なにごとかと山崎さんとともに目線を向けると、そこには若干不貞腐れたような表情の平助が立っている。


「ふたりしてなにこそこそ話してんだよ」

「こそこそなんてしてへんよ。まったく」


 ずかずかと入ってきたと思ったら、うしろから抱きつく形で腕に包まれる。

 え、と思う間もなく尖らせた唇から言葉が紡がれた。

 呆れたような口調の山崎さんが肩を竦めると、そのまま音もたてずに立ち上がる。

 一瞬だけ交わった瞳が、また次ゆっくり話したる。と告げていた。

 抱きついたままなにもいわない平助をよそに、山崎さんは障子を閉めた。


「……で、なに話してたんだよ。おれには話せないこと?」

「いや、そういうわけじゃ……っ」


 鼻先がうずめられた首もとがくすぐったい。振り向きざまに否定するが、その言葉も途中で奪われた。

 すぐに離れた唇は、至近距離でとまったまま。目と鼻の先でみつめてくる瞳に、目のやり場に困ってしまい目線が泳ぐ。

 何度も触れるだけの口づけをくりかえす平助。くすぐったくて、照れくさくて。それでも拗ねているのだとつたわってくるそれがうれしくて。

 だが、されるがままになっていたわたしを襲ったのは、平助ではなく発作だった。

 無意識に息をとめていたのかもしれない。

 激しく咳き込みだしたわたしに、平助は謝罪しながら背をなでてくれた。

 小さく首を振るのが限界なわたしは、いまにも飛びだしたいという血を必死に抑える。が、それは叶わない。

 ごぽりという重たい音をたてて口からこぼれ落ちたのは、いままでよりも多い緋。

 平助ははっとした様子で手ぬぐいをわたしの口もとにあてた。


「山崎さん呼んでくる。ひとりで大丈夫か?」

「ごめ……ごほっ」

「謝るな。ちょっと待ってろ、な?」


 慌ただしく部屋をでていった平助だが、障子を閉めることは忘れてはいない。

 遠ざかっていく足音は現実か、もしくはわたしの意識が遠ざかっているのか。

 彼を待っている間に数度咳き込み、倒れ込むようにうずくまっていた。

 近づいてくる足音にも気づかないほどぼんやりとした意識の中で、遠くに人影がみえる。

 それは平助にも山崎さんにも、そして総司にもみえて。目を凝らすもそれが誰だかわからない。

 と、そこで誰かに背にふれられた感覚で意識が戻る。

 背後をみると、山崎さんの姿。いま平助は白湯を用意しているらしい。

 喉の奥から込み上げる、ぜいぜいという音。咳は治まったものの、病が悪化しているのは火をみるよりも明らかだった。


「むりしたらあかん」


 山崎さんの声は少し動揺しているようにも思える。

 そのうち平助が白湯を持って現れ、山崎さんはそっとわたしにそれを飲ませた。

 咳で乾いたのどに、白湯が染み込んでいく。

 ひとつ息をついたわたしをみて、ふたりもようやく張りつめた糸がゆるんだようだ。

 すみません。と、その言葉だけじゃ足りない。だが、いわずにはいられない。

 いつか感じた、このふたりは兄弟のようだという感覚に、偽りはなかったようだ。

 ここでもふたりはおなじように首を振り、思わずわたしを笑顔にさせた。

 渋る平助を部屋に戻らせた山崎さんは、ふところから油紙に包まれたなにかを取りだす。

 横にさせられたわたしの目にも中身が映るように、それを広げてみせた。


「これはある特別なところから手に入れた薬や。一時的に症状は劇的に緩和されるらしい」


 じゃあ、それを使ってくれ。そう口にだす前に、山崎さんはその紙を閉じてわたしに握らせた。たった、ひとつだけ。

 おどろくわたしをよそに、山崎さんはこう続けた。

 たしかに症状は緩和される。これさえ飲めば、しばらくは咳き込むこともないだろう。

 だがそれは、むりやりに抑え込んでいるだけ。

 実際にその薬の効能が切れたとき。それまで抑え込んでいたものがすべてでてくる。

 ここまで悪化していると、もしかしたら切れた瞬間に咳き込みとともに激しい喀血。そのまま死に至るかもしれない。

 すぐにでも飲んで近藤先生の役に──そう思うのをわかっていて、しっかりと説明してくれたのだと思う。

 症状は抑えられる。だが、これを飲めばすぐに死んでしまうかもしれない。

 そしてこの薬はたったひとつしかない。

 乗せられていただけのその油紙を一度握りしめると、わたしは平助からもらった簪とともにしまい込むことを決めた。

 これを飲んでしまえば、もう治すことはできないといわれているようなものだ。

 これ以上悪化させてはいけない。せっかく平助が想ってくれている生命を、無駄にしてはいけない。

 山崎さんは安堵したように息をつくと、目を細めた。


「ええな、これは“いざというとき”に使うんや。ひとつしかないんや。使いどころには気ぃつけや」

「……はい。山崎さん、ありがとうございます」


 ひとつ前髪をなで、山崎さんの笑みは消える。真剣な表情が戻ってきた彼に礼をいい、背を向けたところで胸もとを握りしめた。

 もしこれを使わなくてはならないときがきたとすれば、それは平助を護るときだけだ。

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