第拾玖話:病の名
あれから平助との会話はなく、顔をみてもそらされる日々。なにも知るはずもない左之さんから、なんの遠慮もなく喧嘩かと問われるのも馴れてしまった。
思えば、総司として生きると決意するよりも前から、平助とはともにいた。
総司とはまたちがう片割れがいないような。そんななんともいえない寂しさを胸に抱きながら、平助の無言の拒絶になにもできなかった。
「はあ──」
「ずいぶんと盛大なため息を吐くのですね」
「伊東さん……おはようございます」
「藤堂くんと喧嘩でもしたのですか?」
稽古中。隊士たちの打ち合いをみながら、ついため息を吐いてしまった。
これではいけない。と思う前に、伊東さんに声をかけられる。
いつから背後にまわられていたのか。人を安堵させようとする笑みは、やはりわたしには胡散臭くしかみえない。ほんとうに安堵できる笑みを知っているからだろうか。
それでも顔にだすわけにもいかず、ひとつ頭を下げた。
あいさつもそこそこに、切り出された問い。左之さんとおなじことを訊くのかと思わず苦笑してしまった。
そんなにも、わたしと平助がともにいないことが珍しいのだろうか。と、考えるまでもなく、珍しいことなどわたしが一番わかっている。
喧嘩ではない。と答えるのもまた、馴れてしまった。
ではなんだと訊かれると返答に困るのだが、それは苦笑でごまかすことにしている。
そもそも、わたしはあまり喧嘩というものをしたことがない。それは総司も然りだ。
総司は試衛館の中でもとくに年下であったためか、兄弟子たちからも距離を置かれていた。
近藤先生や土方さん、山南さんなどに至っては喧嘩まで発展することなどない。やはり相手が年上だということも大きいだろうが、それ以上にかわいがってもらってると総司自身もわかっていたのだ。
土方さんとはいい合いくらいはしていたが、それも喧嘩というよりはじゃれ合いといった方がよいもの。それは土方さんの愛情表現であったといえるし、総司もそれをわかっていておなじように返していたのだ。
だからこそ、わたしはいまの平助との状態をよしとできていなくとも、なにか行動を起こすことができずにいた。
どのようにして話しかけてよいものかと頭を悩ませているというのが現状だ。
伊東さんとふたりであまり実のない会話を続けていると、ふいに背後から足音が聴こえた。
「伊東先生、すみません。少し沖田をお借りしてもよろしいですか?」
「ああ、すまないね。では沖田くん、また」
その声はわたしのよく知った──否、待っていたといっても過言ではないもの。伊東さんは声の主に笑顔をみせて背を向けた。
彼はそのままわたしの腕を引き、無言のままで足を進める。声をだすことすらできず、ただ引かれるままに彼のあとを追った。
ついた先は寺の裏側。参拝客からもみえず、組の人たちもくることはない、少しうす暗い場所。
部屋ではないのか。とも思うが、壁に耳あり障子に目ありという。人に聴かれたくない話だということか。
足をとめてからもしばし、彼はわたしに背を向けたままうつむいていた。
その間も手を離されることはない。こんな状況だとしても、つながれた手が離れないことにどこか安堵を憶えてしまう。
それと同時に、いまからなにを話されるのかと恐ろしくもなる。血を吐いてしまったこと、その原因を知らないこと。彼の中でなにか思うところができたのだろうか。
「……おれだけ知らなかったのか?」
「なんのこと?」
「おまえが血を吐いたことだよ! おれだけ知らなかったのかよ……山南さんのことも、おまえの口からはなにも聴いてねぇ。おれ、そんな信用ねぇのかよ?」
平助は一度声を荒らげたものの、すぐにそれは弱々しいものへと変化した。
彼が信用できないというのなら、わたしに信用できる人間などいないことになってしまう。
首を横に振り、それはちがうと思わず叫んでしまった。
「山南さんのことは、まだわたし自身整理がついてなかった……血を吐いたことも──原因は知らないんだ」
こんなものいいわけだ。そんなことはわたしが一番よくわかっている。
風邪だと思わずに医者へ行くべきだったとか、体調が芳しくないことを平助に伝えておくべきだったとか。そんなことはあとの祭だ。
心配かけたくない。その思いで彼に伝えていなかったというのに、あんなところをみられて余計に心配をかけてしまった。
そう思えばこそ悔しくて、哀しくて。思わず唇を噛みしめていた。
と、そのとき。ふいに壁に押しつけられる。あ、と思うより先に間近にある平助の表情に胸が鳴った。
真剣で。瞳は哀しげに、不安げにゆれている。
言葉をつむげないまま、ただその瞳から目が離せずにいると、かすかに唇が触れた。
掠めるような、そんな幼子でもしないような口づけ。それでも唇が離れた瞬間、わたしは息を吐いた。
無意識に息をとめていたらしいのはわたしだけではなかったらしい。平助もおなじようにうつむいてため息にも似た息を吐いた。
見上げてくる瞳は、やはりゆれている。思わず伸ばした腕が平助の着物の背を捉えた。
抱き寄せた身体は、小さいながらに隆々としていて、やはりわたしとはちがう。
考えないようにしていたが、やはりわたしは痩せたのだろう。
壁についていたはずの彼の腕がわたしの背にまわる。縋るようなその力強さに、わたしもまた腕に力を込めた。
「なんでおまえは毎度毎度自分を大切にするってことを知らねぇんだよ。それがどんだけ心配かけるかわかってんの?」
「……ごめん」
「いいから……医者行こう。頼むから」
これ以上心配をかけるな。言葉にしなくとも伝わってくるその言葉に、わたしはうなずくしかできない。
どちらからともなく身体を離すと、また至近距離で目線が交わる。
こんな身体であるわたしが口づけなどしてよいのか。そんな理性がないわけではない。だが、本能が彼を求めて仕方がなかった。
いま一度触れるだけの口づけを交わし、それだけですっかり照れてしまい、互いに目をそらす。思わずもれた笑みはほぼ同時で、こんな些細な会話でわだかまりはなくなったように思える。
もう触れているわけでもない。いまは会話を交わしているわけでもない。ただとなりを歩くというだけで、わたしはどこか満たされていた。
医者へ行くことを約束してはいたが、機会を逃してしまい、そうこうしているうちに松本先生が屯所へやってきた。
近藤先生、土方さん。そしているはずの山南さんの代わりにとなりに立つのは伊東さん。
いつまで経っても違和がぬぐえないのは、やはり山南さんの死を認めたくないからかもしれない。
近藤先生の部屋へ招き彼らが話している間に、隊士たちの準備を進めさせる。
大部屋もすっかり物で溢れ返っていて、せっかく広くなったというのにまたもや足の踏み場はない。
日時が決まってから掃除をさせたが、やはり男ばかりだからか、最初のころのようにはならなかった。
開け放った大部屋から漂うすっぱいような匂いに思わず顔をしかめる。
まずは組長から。近藤先生の部屋から一番近く、また小綺麗な源さんの部屋で行われる運びとなっている。
源さんから部屋順に診察を受けることになった。
松本先生が近藤先生の部屋から源さんの部屋へ移動する。弟子の方もついてさまざまな準備を進めていた。
「では次……沖田くんだね」
「はい、よろしくお願いします」
着物を直した源さんがでてくると同時に、部屋の中から松本先生の声がかかった。
入りながら頭を下げると、松本先生は人のよい笑みで前に座すよううながす。
お弟子さんの視線が上から下へ流れていく。
松本先生の瞳も、この子が例の。といっているようだ。
それにしても、松本先生は思っていたよりも若い。将軍侍医も務めたぐらいだから、爺さん先生かと思っていた。山崎さんとおなじぐらいだろうか。
「きみが沖田くんか、なるほど。では失礼」
着物の合わせをはだけさせ、器械を胸に当てられる。
部屋に入ってから咳をがまんしているせいか、なんとなくのどの辺りになにかがつまっているような感覚がしていた。
松本先生は一度眉をしかめる。一度大きく息を吸うよう指示されると、思わず咳き込んでしまった。
お弟子さんが背をなでてくれたおかげが、少しして治まったものの。松本先生だけではなく、お弟子さんの表情もくもっていた。
「──労咳だね」
「……はい?」
耳を疑った。いいにくそうに。しかし確実に言葉にされたそれは、わたしの胸を抉るように掠めた。
半笑いの状態で聴き返すと、松本先生は眉を八の字に下げて、いま一度おなじ言葉を口にした。
信じられない。ではない。信じたくない。
なんとなく、悪い病なのではないかと思っていたところはあった。でなければ血は吐かないだろうと思っていたから。
だが、よりにもよって労咳とは──治る見込みなどないに等しいではないか。
それからわたしの記憶は飛んでいたらしい。
気がついたときにはとなりの自室で壁にもたれていた。
乾いた笑みと咳がもれる。
総司として生きると決めたのに。もう、大切な人を失うものかと思ったというのに。それどころか、わたしはそのうち刀を握ることも、ひとりで立つこともできなくなるということか。
縋るように握りしめた総司の魂が、かたかたと小さく鳴っていた。みると、わたしの手がふるえている。
死ぬことが怖いのではない。護れないことが怖いんだ。
総司、ごめん。あなたの大切な人を、わたしは護れない──。
そう心で片割れにつぶやくと、ふいにほほを涙が伝った。
ぬぐうこともできず、ただ静かに流れるそれに身を任せる。もしかしたら、総司が悔やんでいるのかもしれない。
「おい、いるか?」
ぼんやりとどこをみつめるでもなく座り込んだままでいると、ふと障子の前から声がかかった。平助だ。
慌てて涙をぬぐうと、ひとつ両ほほを張る。泣いていたなど、心配をかけるだけだ。
障子を開け、笑顔で彼を招き入れる。いつも通りにしたはずだが、彼は眉をひそめて訝しげにしていた。
どうだった。そう問う平助の目線はあまりにも真剣で、思わずそらしてしまう。
「労咳だって……。多分、どこかでわかってたから、医者へ行きたくなかったんだ」
だから、もうこの部屋にはこないでくれ。
そう口にだそうとするが、それは声にならず溶けていった。
ふいに包まれた温もりは、いわずもがな。平助だ。
労咳は伝染る。だめだとわかってはいるのにその胸板を押し返せないのは、わたしにも不安があるから。そして、悔しいから。
離して──小さくもれた声は、理性が発したもの。
ふるえる背に腕を回し着物を握りしめたのは、本能から。
平助はそっとふるえる腕をゆるめ、少しだけ身体を離した。いつもこうして抱きしめられるとき、彼は膝立ちだな。といまさらながらに思う。
なんの反応もできないまま。わたしは彼に唇を奪われた。
「だめ……っ、伝染ったら……!」
むりやり顔を背けて言葉を発したわたしの後頭部が捕らえられる。真剣で、哀しげで、苦しげで。そんな瞳にみつめられたら、抵抗などできないではないか。
押し倒されるまであと一歩。そんな体勢で口づけをくりかえされ、息苦しさからすっかり息は上がってしまった。
またも力強く抱きしめられる。首に顔をうずめられくすぐったい。
だがそれも、平助の声のふるえに勝てるものではなかった。
「伝染ってもいい。お春を護れないならおなじなんだよ……」
これほど想ってくれているのに、わたしは突き放さなくてはならないのだろうか。
ともにいたいとねがっているのは、きっとわたしの方だ。
いまこのねがいを口にだせば、平助は拒絶することはないだろう。だが、それでは平助を犠牲にしてしまうことになる。
護るべき相手を犠牲にして己のねがいを叶えたからといって、それが幸福であるなどとはとても思えない。
いつか訪れる別れが、早まるだけだ。
そういい聴かせるのは、涙を耐えるため。気を強く保つため。
背に回していた腕を外し、そっと胸板を押す。ゆるりと離れた平助と目が合うと、その瞳は不安げにゆれていた。
心中謝罪の言葉は尽きない。だが、いわなくてはならない。
「平助……やっぱりだめだよ。終わりにしよう」
「なんで──おれはお春さえいれば……!」
「わたしは! ──わたしは、平助を護りたい。だけど、こんな身体じゃ絶対足でまといになるのが目にみえてる。そうなったとき……いや、そうならなくても。平助はわたしのために犠牲になるでしょう? そんなの、耐えられるはずない……」
「お春──」
ただ名を呼ぶだけで弁解することもない。それは、平助自身言葉をみつけられなかったからだろう。
伝染ってもいいなんて、そんな簡単にいってほしくなどなかった。
きっとほんとうに伝染ってしまったとき、彼は後悔するだろうから。
うつむき、一度唇を噛みしめたわたしは、そっと唇を解放した。
ゆるりと上げた顔は、きちんと笑えているだろうか。
「平助……幸せな刻をありがとう。でももう、おしまいだよ」
「お春……」
「こうなった以上、わたしはいままで通りに平助と付き合うなんてできない。だからもう、やめにしよう。わたしは大丈夫だから」
ほんとうは大丈夫なんかじゃない。ゆるりと迫ってくる死に恐怖も不安もある。
だが、平助にそれを悟られてはいけない。彼に伝染ってしまったとき。わたしはきっとこれ以上ないほどに後悔することなど、想像するまでもないのだから。
わたしはうまく笑えていたらしい。平助は切なそうな眼差しひとつ。わかったとつぶやいて部屋をでた。
障子が閉められた瞬間、腰が抜けたらしい。そのままうしろに倒れ込んだわたしは、都合よくもれなかった咳をこれでもかというほどに吐きだした。
途中苦しくなりうつ伏せになると、口からごぽりと黒い血が落ちる。
手のひらに落ちたそれに、またひとつ死が迫ってきたと感じさせられた。
わたしにとって血は、いままで以上に恐怖の象徴だ。
あの平助との会話から。彼はわたしを避けることはないが、これまでのようにともにすごすことはなくなった。
当たり前だ。わたしがそのようにしたのだから。それでもさみしいと訴えてしまう自分の心の弱さが痛い。
それを感じる度。わたしは女であることも、病を抱えていることも露見しないよう細心の注意を払って胸を押さえた。
そこに追い打ちをかけるように、松本先生から話がいったのであろう近藤先生から、直接の叫びだしがあった。
それは稽古の途中。なにをやらかした。と試衛館の総司のころのようにうしろでからかう左之さんたちをよそに、わたしは動悸を抑えるのに必死だ。
「近藤先生、沖田です」
「入りなさい」
きびしい声色。これは試衛館のころにはださなかったものだ。
山南さん亡きあと、それまで以上に伊東さんを支持し、また、やさしさを隠していた近藤先生。
仕方のないこと──そう思っても、やはりわたしは昔のままでいてほしかった。
入室すると、部屋の中にはひとり。近藤先生が上座に座っているだけだった。対面には少しくたびれた座布団が置いてある。
そこに座れ。そう、手のひらを差しだすだけで指示される。やはり知られてしまっているのだと、それだけでめまいがした。
近藤先生の顔をみることができない。
案じ顔をしているのか。はたまた、迷惑がっているのだろうか。
そもそも、女であるわたしがここにいる理由は“沖田総司として近藤先生たちの役に立つこと”。
労咳になったわたしなど、無用の長物だろう。
いつまでも顔を上げないわたしに呆れ返っているのか。近藤先生の鼻腔からもれたため息に、わたしの肩はふるえた。
「……そう構えずともよい。なにも、いますぐ除隊しろと申しているわけではないのだ」
その言葉にようやく顔を上げたが、上目遣いでうかがった近藤先生の表情は読み取れなかった。
腕を組み、またひとつ鼻腔からため息をもらす。
松本先生から伺った。近藤先生は、そう重たい口を開いた。
ただ、やはりわたしはあのとき──あの、山南さんの切腹ののち。血を吐いて倒れたそうだ。
そこで近藤先生は医者にも行っていないであろうわたしを強制的にでも診てもらうため、松本先生にお声をかけたという。
それを聴いて、握りしめたこぶしは膝の上でふるえていた。
また無意識にうつむいてしまっていた頭を上げる。むりやりに作った笑顔に、近藤先生の眉はひそめられた。
「やはり、お気遣いいただいていたのですね……」
「総司……」
わたしの言葉に、近藤先生は素をみせた。一瞬案じ顔となり、総司の名を呼んだのだ。
ふと、自嘲でもなんでもなく、自然と笑みがもれる。
近藤先生の根本は、きっとまだ変わっていない。
除隊して養生しろとおっしゃるなら、そうしよう。ここにいてもきっとそのうちなにもできなくなる。それならば、誰かに伝染さないうちにでていくというのもひとつの手だ。
わたしは、近藤先生が総司と呼んでくれたことで、覚悟が決まったらしい。存外単純な人間だ。
その覚悟を視線から受け取ったのか、否か。近藤先生は、今後の隊務について話をはじめた。
今後、一番隊組長としてまっとうに隊務に就くことはむずかしくなるだろう。いまはまだ動かせている身体も、いつどうなるかわからないのだから。
ましてや平隊士たちに露見してしまえばどうしようもできない。だが、まだそのときではない。
一番隊の平隊士は、伍長である谷くんの指示で動かすということ。ただ、谷くんへの指示は、わたしが行うこと。
ここで養生しつつ、完治したときのために稽古を怠るな。
そのひとことは、近藤先生がまだわたしの病を治ると信じてくれているからこそでるものだろう。
平助と話したときとはまたちがう、温かい涙がこぼれそうになる。
ありがとうございます。ようやく言葉にした言葉はそれだけ。
深々と頭を下げたわたしに対する近藤先生の視線はやさしく感じた。
どうにか涙をこらえて自室に戻る途中。ぶつかりそうになった人影は、平助だった。
あのときとはちがう、なんともいえない気まずさ。わたしが拒絶してしまったという、負い目にも似たなにかがわたしの視線を下げさせた。
逃げるように──否、事実逃げだしたくて仕方がなかったわたしは、足早にその場を去ろうとした。
だが、呆気なく腕を捕まれその足はとまる。振り向いた先には、平助のなにかを訴えたがっている瞳があった。
彼に連れられるまま。わたしたちは壬生寺へとやってきた。
前に遊んだ子どもたちを避けるように人気のない場所へ向かう。
子どもたちにみつかれば、また遊んでくれとせがまれることだろう。それは平助もよくわかっているようだ。
途中咳き込んだわたしに気を使いながら、平助の腕がわたしを包んだ。
だめだといったのに──。理性はそういっているのに、押し返そうとする力はとても弱々しいもの。
「やっぱおれ、だめだ。──お春……おまえはほんとうにおれと離れることを望んでんの?」
いつでもまっすぐにみつめてくる平助の瞳。わたしの身体のことを知っていても、それでもこの人はわたしとともにいたいと思ってくれているということか。
思いだけをいえば、離れることなど望んではいない。当たり前だ。
だが、それ以上に恐ろしいと思う気持ちもある。
ぽつぽつとわたしの意志とは無関係にこぼれそうになる言葉。心はこんなにも彼を求めていたのかと、わたし自身がおどろいてしまった。
「わたし……わたしだって、病がなければ……!」
「そんなこと訊いてるんじゃねぇ。“お春”は、おれのそばにいたくなくなったのか?」
「──っ、そんなわけない!」
「ならそばにいろよ。治ったとき、一番に歓びを分かち合いたい。もし万が一治らなくても、最期まで一緒にいて、笑顔にしたい。」
言葉にならなかった。
近藤先生も、平助も、なぜこうも純粋に治ると信じてくれているのか。
わたしが一番それを信じられないなど、彼らに対する侮辱にもなりうる。
いつの間にやら身体は解放され、代わりに両手を握られていた。
握り返すことのないままだったこの手のひらを握り返せば、わたしはまだ希望を持ち続けることができるのだろうか。
色んなことを、あきらめなくてもよいのだろうか──。
そんなわたしの問いに、心の中で誰かがうなずいた。
それはわたし自身だったのか、もしくは総司だったのか。それはわからないが、それでも一歩踏みだす勇気はもらえた。
握り返した手のひらは温かくて、わたしの込めた力に呼応するように力が込められた。
わたしはまだ刀を握れる。まだ武士として死んでなどいない。
心底虫のよい話だ。だが、わたしはやはり彼とともにいたいし、彼をできる限り護りたいと、いまでもねがっている。
互いに握りしめた手から目線を上げると、その視線が交わった。
やわらかくほほえんだ平助につられる形でほほえむと、どちらからともなく手のひらは離れた。
代わりに触れ合ったのは身体全体。腰に回された腕と、背に回した腕は、どちらが速かったのだろう。
「平助……ごめん。わたしまたまちがえたんだね」
「そんなことより、もう離れるなよ」
平助の腕に力が込められる。それは、縋るような思いが言葉よりも伝わってくるものだった。
返事の代わりにおなじように力を込め、深くうなずいた。
ほほをすり寄せると、平助はくすぐったそうに笑みをこぼす。どちらからともなく少しだけ離れた身体は少し名残惜しかったが、触れた唇が熱かった。
もとの鞘に収まる。というのはこういうことをいうのだろうか。
すっかりもとの通りになったわたしたちに、左之さんをはじめとする数人はやはりからかいの言葉を向けてきた。
それを簡単にいなし、わたしと平助はこれまで以上にそばにいた。
隊務として巡察にでることはできずとも、稽古にはできるだけでなければ。その思いで、朝稽古はほとんど休まずにでれていた。
だが、やはり体力は徐々に落ちているようだ。途中咳き込みはじめると、いち早く気づく平助に連れられてひと足もふた足も先に井戸へ向かうことも多い。
そんなときは必ずといってよいほど血を吐いていて、それをみた平助は辛そうに笑っていた。
「沖田先生、よろしいですか?」
「谷くんですか、どうぞ」
現在一番隊の伍長を務めている谷くんは、わたしの体調をよく案じてくれている。
長引きすぎているために休養を取ること。そしてその間、谷くんに一番隊は任せると話してから、彼がこの部屋に訪れることも多くなった。
苦しいがさらしを巻かずにいることは難儀なこととなってしまったが、慕ってくれているからこその訪問だ。無碍にすることなどできるはずもない。
今回もわざわざ巡察の報告に訪ねてくれている。あくまでも組長として扱ってくれる彼には感謝しかできない。
御所に弾痕を残しただけではなく、京の町を焼かれたあの忌まわしき事件から、朝敵となった長州との対立は深まるばかり。
わたしとて赦せるはずもないが、それ以上に近藤先生のきびしさは増していた。それに伴ってか、巡察中に襲わられることも増えていたことはたしかだ。
谷くんからの報告は、いつもおだやかなものばかりではない背景はそこにある。
とにもかくにも、けが人がいなかったことだけが救いだろう。
報告を終えた谷くんが、わたしの体調を気にしてか早々に立ち去る。閉められた障子の隙間から射し込む明かりに、思わずため息がもれた。
ここで養生するよういわれてからしばらく、近藤先生の姿をみることがなくなった。
将軍さまの入洛にもわたしは参加できなかった。そもそも組の細かな状況は、谷くんや平助からの話を聴かなくてはわからない。
あくまでも組長であるというのにこれでよいのだろうか。
不安に駆られてもよいことはないとわかってはいるはずなのに、どうにももやとなって心を支配しようとする。
ひとつ思いきり手のひらを握り、いま一度開く。その手のひらをみつめ、まだ握れることを確認すると、そこでひとつ不安が解消された気になるのだ。
障子に──というか、障子から射し込む明かりに背を向け、布団を肩まで上げる。
新たに手に入れた布団は前のものよりも上等なもの。それはわたしの病の証でもある。
寝心地がよい反面、どこか切なさの象徴でもあった。
うとうととしている間に夕餉の刻になったらしい。平助の声で目を覚ましたわたしは、急いで身支度を整えて彼のとなりを歩く。
ふと、普通の女子はこんな風に愛する人のとなりを歩くことはできないのだな、と思う。それだけでもわたしは幸せなのかもしれない。
ついゆるみそうになるほほを引き締め、夕餉の席につく。真ん中寄りに位置していたわたしの席は、障子側へと移動した。
いつまでここで食事をとれるのだろう──。
夕餉ののち。近藤先生は霜月に広島へ向かうと口にした。
長州訊問使に随行するらしい。伊東さんや山崎さんまでともに向かうというのだから、屯所はてんてこ舞いとなるだろう。
伊東さんの仕事は土方さんがうまくやってくれるだろうが、山崎さんのような仕事量をまかなうのにどれほどの人数がいるか想像もつかない。
気がつけば葉月も終わる。ずいぶんと涼やかになった風がほほをなで、それを教えてくれた。




