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お春  作者: 生川 恵愛
第参章
19/27

第拾捌話:おかえり

 総長とは思えないほど静かな葬儀が終わった翌日。わたしは島原へ足を運んでいた。

 目的地はもちろんというべきか。角屋だ。

 山南さんの代わりにするわけでもないし、会ってなにを話すのか考えているわけでもない。ただ、会わなくてはいけない気がしていた。

 昼間の島原は夜のきらびやかな雰囲気とはちがい、どこかもの哀しい気がする。いまのわたしの心の色が、そう思わせているだけかもしれない。


「ほな、お世話になりました」


 角屋を目前にして、聴き憶えのある鈴を転がすような声が聴こえてきた。

 大きめの風呂敷を両手に持ち、戸からでてきたのは明里さんだ。

 思わず立ちどまったわたしに気づくことなく、女将さんと明里さんの会話は続く。

 どうやら田舎へ帰ることにしたらしい。身請けされたのかと思ったが、そうではないようだ。

 明里さんがひとつ大きくお辞儀をして、こちらへ足を進める。思わず肩をふるわせたわたしを、彼女はみつけてしまった。

 ぎこちなく浮かべた笑みに返ってきたのは、切なそうなほほえみだった。


「沖田はん……やったよね。こないなところで、どないしたん?」

「いえ、あの……」


 歯切れの悪いわたしの返答に、明里さんは困ったように眉を下げた。

 暇なら昼餉に付き合ってくれないか。明里さんの言葉にうなずいたわたしは、明里さんの案内で小さな小料理屋を訪れていた。

 遊女たちには人気の店らしく、まだ少し早いというのにそこそこな賑わいをみせている。

 入口付近に腰を落ちつかせたわたしたちは、互いがなにかを話そうとしているのを察して口を開かずにいた。

 机の上で組まれた彼女の細い指先が、居心地なさげにうごめいている。


「あんな、うち、田舎に帰ることにしたんよ」

「そ、そうなんですね」

「先生──山南先生が身請けしてくだはって。……最期やいうとったけど。あの人のおかげで幸せな刻をすごすことができて、それで幸せや思わんと、先生も報われへんよね……?」


 最初こそ気丈に話していたものの、徐々に涙ぐんでいく。謝罪ひとつ、取りだした女性らしい染めの手ぬぐいでそっと目尻をぬぐった。

 山南さんは明里さんにすべてを話していたのだろうか。机の下で握っていた両手に力が入る。

 ふと、おおきに。と明里さんが笑顔をみせた。

 目を丸くしたわたしに少し吹きだして、彼女は目を細める。


「先生がいうてたんよ。組のために生命を賭すことができるんは、沖田はんのおかげやって。沖田はんなら、先生の想いをまちがいなく心に刻んでくれるはずやからって」


 買いかぶりだ。わたしはそんなに立派ではない。

 総司として生きるといいながらそれを全うすることもできず、後悔ばかりが募っていくような。そんなどうしようもない人間だ。

 少しうつむいて小さく首を振ったところで、料理が運ばれてくる。

 なにごともなかったように笑う明里さんに倣い箸をつけたが、なかなか進まなかった。

 食事中にする話でもないと思っているのだろう。明里さんは上品に口に運びながら、続きを話すことはなかった。

 山南さんの伝えたかったこと──屯所のこととか、そういうことではないような気がする。

 たしかにきっかけはそうだったかもしれないが、もっと根本的ななにか。

 咀嚼しながら考えていると、無意識に手が下がっていたらしく、箸が器に当たってしまった。

 あ、と思う間もなく、明里さんの困ったようなほほえみがみえる。


「そない悩まんといて。笑うててほしいっていうんが先生のねがいやから」

「みんなに、笑っててほしいってことですか……?」


 まだ大きすぎる口の中のものをむりやりに呑み込む。

 喉につまらせかけながら問う。山南さんらしいといえばそうだと、妙に納得しているわたしがいた。

 うなずいた彼女は、そっとわたしに手を伸ばした。

 おどろくわたしをよそに、彼女のしなやかな指はそっとほほに触れる。

 はじめのお梅さんのようないやな感じは全くしない。と、思った瞬間。


「い……っ!?」

「ほら、ここ上げな笑えへんで?」


 やわらかくほほに触れたはずの右手は、そのままわたしのほほの肉をつまみぐいと引っ張った。

 思わず声を上げると、明里さんは見本だといわんばかりに笑顔を作る。

 痛い、痛い。と訴えるが、離されるどころかもう左手まで伸ばされていた。

 餅の如く伸ばされたほほを離されたころには、すっかり涙目になってしまった。

 痛むそこを両手でさすりながら明里さんを睨むようにみる。ほほえんでいるのに哀しげなその表情は誰かに似ている気がして、手のひらがすべりおちた。

 刻も刻だと、小料理屋をでて町の外れまで送り届けることとなった。

 少しうしろから聴こえる女性独特の足音。左手にかかる明里さんの荷物の重み。明里さんから聴いた山南さんのねがい。

 頭をめぐるさまざまな感情を消化することもできないまま、明里さんの足音がとまった。


「沖田はん、おおきに。ここでええよ」

「もう少し先まで行きますよ?」

「ううん、ええの。おおきに。……先生の分まで、笑うててな」


 小さく首を振る仕種は、年齢よりも幼くみえる。

 住み馴れたはずの、愛しい人との思い出がつまった京の町をあとにする彼女。

 不安もあるはずなのに、彼女のほほえみはとてもうつくしかった。

 結局そこで明里さんとは別れた。また、と最後の会話を交わしたが、きっともう会える日はこないだろうことは互いにわかっている。

 山南さんの分まで笑っていて。そういってくれた彼女だから、山南さんの分まで幸福を感じてほしい。

 総司が死んで、総司として生きるうちに、この町にもずいぶんと思い出ができたものだ。

 なにかを振り切るように足早に屯所までの道のりを行く最中。ふとそんなことを思うと、足がとまった。

 わたしはほんとうに、総司として生きていられているのだろうか。

 ふいに訪れた不安は、もしかしたらもっと前から心に巣食っていたのかもしれない。

 胸の辺りの着物を握ると、小さく咳き込んだ。徐々に激しくなるそれに耐えながら、こんなことではいけないと自分を叱咤する。

 こんなものに負けているのでは、近藤先生の──新撰組の刀などにはなれるはずもないのだから。

 ようやく治まったころには、息苦しさに思わず膝をついていた。人気がなかったことが幸いだ。

 ほんとうに、早いうちに治さなければ。明里さんの言葉を思い返しそんなことを考えながら屯所の門をくぐる。

 ここは、大して訊きもしないのに情報が入ってくるのがよいところだと思う。


「なあ、屯所の異動決まったんだってよ」

「ああ、らしいな。結局西本願寺なんだって? よく空けてくれたよな!」

「そりゃあ鬼の副長にかかりゃ朝飯前なんじゃねぇか?」


 声をひそめもせず話している平隊士たちを横目に、山南さんの覚悟は伝わっていたのだろうかと思案する。

 彼女にはしかと話していたらしい山南さんだが、肝心のといってもよいのかはわからないが、新撰組の面々にはなにひとつ言葉にすることなく亡くなってしまったように思う。

 笑顔ですごしてほしい──それは明里さんへのみのねがいで、ほんとうは組の在り方に抗議したかったのではないか。と、いまさらながらに考えてしまう。

 組に生命を賭した彼に報いるには、どうしたらよいのだろうか。ほんとうに、笑顔ですごしていることで、彼のねがいを叶えることができるのだろうか。

 夢にでてきた山南さんは、笑っていた。

 総司に──わたしにすら、礼を告げていた。

 それが答えだとするには、わたしはまだ未熟すぎる。

 場所を忘れてひとつ両手でほほを張る。

 ちょうどすれちがいざまだった隊士のひとりにおどろかれ、苦笑を浮かべた。

 そこから逃げるように足早に自室へ戻ると、ようやくひと息つけたようで、長いため息にも似た息がもれる。

 疲れていないと思っていても、意外にも身体は疲れているようだ。

 すっかり馴れてしまった広すぎるひとりの部屋。脇に刀を置いて、ごろりと横になる。仰向けで天井を見上げていると、多少の息苦しさのために腹が上下しているのがわかる。

 寝返りを打ち障子に背を向けると、視界が一気に暗くなった気がした。

 屯所の異動、か──。

 そっと鞘に手を伸ばし、その柄をぼんやりと眺める。

 あの夢が、ほんとうに久しぶりだった。山南さんに礼をいうためにでてきたのだろうか。

 総司の声を。笑顔を思いだすと、なでていたはずの指先は鞘を握りしめていた。

 そのままなにを考えるでもなく、ただ刻がとまったように無意識に握ったままの総司の魂を眺める。

 いや、ほんとうはきっとなにかを考えていた。だが、わたし自身にもそれがわからないほどの、頭の最奥でのこと。感覚はただぼんやりとしているだけ。

 少し騒がしくなった屯所内の音で我に返る。起き上がると、もうずいぶんと陽は落ちてきていた。

 眠っていたつもりはないけれど、もしかしたら眠ってしまっていたのかもしれない。

 あぐらをかいて、思いきり伸びをする。すると、あくびがひとつもれた。

 堪えているつもりでも小さくもれてくる咳に耐えながら障子を開ける。

 大部屋から聴こえる平隊士たちのざわつきは、きっと夕餉の準備をしているのだろう。

 わたしも行かなくては。幹部たちが食事をとる部屋へ向かう間、珍しく誰とも顔を合わせることはなかった。


「屯所の異動が決まった。西本願寺の北集会所と太鼓楼を空けさせた。弥生には異動できるよう、隊士たちにも伝えて各自準備を整えろ」


 土方さんの簡潔な言葉には疲労がにじんでいた。

 幹部それぞれが承知の意を告げる。

 進まない箸をそのままに目を伏せているわたしに、ふととなりから視線を感じた。一くんだ。

 心配無用だと顔を上げほほえんでみるが、どうもうまくできたかどうかはわからない。人目のあるここで眉を下げたということは、思っている以上に下手くそだったのかもしれない。

 それから、なんとか笑っていることを考えてすごした。山南さんが最期まで反対していた屯所異動をすんなりとこなしてしまった土方さんに対する疑心もなかったことにして。

 弥生に入り、平助から土方さん宛に届いた文には、ずいぶんと同志が集まったことが書かれていたという。

 わたしへの文にもそう書かれていたし、そろそろ帰還したいという旨も綴られていた。

 土方さんは異動の寸前にも関わらず江戸へ向かうことを決めた。

 土方さん、一くん。そして自ら志願した伊東さんの三名は、新たな同志の試験のためにもと京をあとにした。

 そして弥生の十日。わたしたち新撰組は、幹部四名がいない状態のまま、前川邸から西本願寺へ屯所を移した。

 意外にもというべきか。小綺麗で広い新たな寝床に、隊士たちは感嘆の声を上げる。

 足の踏み場もなかった壬生の屯所とはちがい、それぞれが荷物を置いても足を伸ばせるということに満足しているようだ。

 ありあまるほどの広さがある北集会所。太鼓楼には大きな太鼓がそのままになっている。

 まず幹部たちの部屋を割り振り、そののちにふすまを撤去して隊士たちの大部屋を作る。

 入りきらない者は、歴の短い者から太鼓楼へ割り振られた。

 ようやくそれが終わるころにはみなそれぞれに疲れの色をみせていたが、まだまだやることは山積みだ。

 小綺麗だとはいえ、埃は溜まるもの。各自掃除をはじめると、そこら中から馴れないためにさまざまな音が聴こえてきた。

 ふすまを開けずにはたきをしてしまい咳き込む声。誤ってふすまを倒してしまう音。

 相変わらず騒がしい──いや、賑やかな声に思わず笑みをもらしながら、ひとり部屋となってしまったそこに雑巾をかけた。

 ある程度終わった者から源さんとともに夕餉の支度にまわる。源さんも自室の掃除があるというのに、夕餉を作らないわけにもいかない。

 八木邸のように手伝ってくれる人がいなくなり、すっかり男所帯となってしまった。まともな食事が作れる人が、ほんとうに源さんひとりになってしまったことは嘆くべきだろう。

 夕餉を終えたら仕上げだ。そのころには大部屋の隊士たちの、掃除をしているのか汚しているのかわからない声も大人しくなる。

 荷物を片づけたわたしが部屋からでると、手ぬぐいなどを持った隊士たちが列をなしていた。

 埃や汗を流したいと思うのは、やはりわたしだけではなかったようだ。

 なんとか西本願寺への異動が終わったことに安堵しながら、足を進める。

 少し足を伸ばして隊士たちが向かうところとはちがう湯殿へ向かう。理由はいわずもがな。

 土方さんが戻ってきたら血なまぐさいものが増設されるのだろう。張られた湯に口もとまで浸かり、ため息を溶かした。


「え、もうすぐ帰ってくるんですか!?」


 屯所の異動からひと月と少し。上座にただひとり座る近藤先生から、土方さんから文があったと話がされた。

 内容は、もうすぐ戻ってくるという旨。今回は平助もともに帰ってくるという。

 ようやくだ。思わず声を発したわたしは、山南さんの件からすっかり疑心を抱いている永倉さんからの冷たい瞳と、源さんの父のような笑みに挟まれて肩を竦めた。

 それでも、ようやく顔がみれると思うとついほほはゆるむ。いつもより箸の進みもよい。

 と、そのとき。近藤先生からもうひとつの話がされて、わたしの箸はとまった。

 奥医者である松本良順先生。近藤先生とも面識がある彼が上京してくるという。

 ひと月ですっかり汚くなってしまった屯所内。決して衛生的とはいえない状態になっているここをみると、どれほど八木家の人々に助けられていたかうかがえる。

 そんな状態で病人がでないとも限らない。ついでに、なにかこの状態を打破できるものも教えていただくためにと、屯所へ招くこととなったらしい。

 そのとき、松本先生は快く隊士たちの診察も行ってくれると申しでてくれたとか。

 ありがたいと思う反面、このずっと続く咳に結論がでてしまうと恐怖も憶えた。

 いや、もしかしたら、山南さんのときになにかを吐いたであろうわたしを案じて、わざと招いたのかもしれない。

 近藤先生の顔に泥を塗ることなどできるはずもなく、大人しく診察を受けると踏んだのだろう。

 もしそうだとしたら、その考えはまちがっていない。近藤先生が招かれたのであれば、わたしに拒否などできるはずもないのだから。

 せっかく平助が帰ってくるというのに、わたしの胸のうちはそれからすぐの松本先生の診察へ向いていた。

 ただの風邪ならよい。もし、悪い病だったら──そう考えて思わず身ぶるいする。

 どれほど朝餉を口に入れて、いつの間にそこをあとにしたのか。記憶は曖昧だ。

 気がつくと、参拝客の声が聴こえる縁側へ足を運んでいた。

 前川邸のように住居として建てられたものではないから、縁側といっても大したものではない。

 あぐらをかいて屋根の隙間から覗く青空を見上げた。のどが圧迫されたからか少し咳き込んだが、見上げることをやめたくはない。

 なんとなく、流れる雲のおだやかさが山南さんに似ている気がして、ぐっと胸がつまる。

 鼻の奥が痛くなった。下をこすりながら、鼻をすする。痛みをごまかし、逃すように鼻からため息を吐きだした。

 こんなとき。近ごろは明里さんとの会話を思いだす。

 山南さんの分まで笑って生きる──それがいまのわたしを支えているものだといっても過言ではない。

 護りたいといいつつ、なにかに支えられていなければひとりで立つこともできないとは。

 自嘲気味にもれた苦笑は、もうすっかりくせといえるだろう。

 ぼんやりと映る雲から目をそらさないまま、そっとまぶたを閉じる。浮かぶのは山南さんのやさしい笑顔だ。

 試衛館のころはよかった。きっとみな、そう思っているのだろう。

 山南さんの切腹から、近藤先生も変わってしまったように思う。

 山南さんと似ていたやさしさを消した。土方さんが魂を売った鬼よりも、もっと冷酷な鬼へと魂を明け渡してしまったのだろうか。

 そう思わざるを得ないほど、笑顔をみせることすらなくなった。

 わたしも総司も、近藤先生のまっすぐな笑顔が好きだった。まっすぐなやさしさが好きだった。

 叱るべきときには叱れるような、そんなやさしさが好きだったんだ。

 だがいまは眉間に深いしわを刻んで、人を惹きつけていた笑顔も消えた。

 山南さんがいなくなってから、色々と変わってしまった──山南さんが護らんとしていたものは、まだ残っているのだろうか。

 考えてもわからないものを、いつまでも考えていたところで仕方ないのだろう。

 だが、考えずにはいられない。

 上げていたままの頭を下げ、柱にもたれる。総司の魂をなでながら、無意識にため息をついた。

 いまのこの状況を、総司ならどう打破するだろう。いや、そもそも総司であればこんなことにはなっていなかったかもしれない。

 やはりわたしでは総司の代わりは務まりはしないのだろうか。

 弱気になるな。そう自分にいい聴かせても、その言霊はなんの効力も持たない。

 この長引いている咳と食欲のなさが、より一層弱気にならせているのかもしれない。

 両手でほほを挟むように叩き、自らに喝を入れる。よし、とひとことつぶやくと、ゆるりと立ち上がる。

 そろそろ稽古の刻だ。ほかの迷惑も考えずに行われるそれに、参拝客も寺の人も眉をしかめているのは知っている。

 それでも、わたしたちは自分たちが生き残るためにそれを辞めるわけにはいかないのだ。

 部屋で稽古着に着替え、ついでに喝を入れるためにあまりきつくしていなかったさらしをきつめに巻き直した。

 総司としてでも、総司としてでなくとも、護りたい人を護るという気持ちは変わらない。それでよいではないか。


 朝餉ののち。西本願寺はなにやらざわついていた。

 なにかあったのだろうかと興味本位に覗きに行ってみると、そこには見憶えのある──否、待ち望んでいたうしろ姿があった。


「平助!?」

「総司!」


 戻ってくる正式な日程は聴いていなかった。それどころか、戻るという文ののちは平助からの文は届いていない。

 おどろきのあまり声を上げたわたしに、周りの隊士とともに平助も振り返る。

 ただいま。そういったほほえみは数月前となんら変わりはなくて、つられてほほえんだ。

 いっそ抱きついてしまいたいと思う反面。ほかの隊士たちの目の前でするわけにはいかないと、こんなときでも理性が先行する自分を褒めたい。

 取ってつけたように、伊東さん、土方さんにもあいさつをする。どうでもよいとまではいわないが、できることなら早く平助とふたりになりたかった。

 それでも、なにかしら疑心を抱いているであろう伊東さんをないがしろにしてふたりで消えてしまえば、それをまた深めることになる。

 逸る心とは裏腹に笑顔を作り、出迎えの隊士たちとともに大名行列のように屯所へ向かった。

 簡単な掃除しかしていない平助に割り当てられた部屋へ案内する。

 意外にも、その指示をだしたのは伊東さんだった。


「にしてもずいぶん広くなったなー。おれたちも同部屋じゃなくなったんだな」


 広くなったのはありがたい。だがどことなくさみしそうな平助の表情に、わたし自身がひとりで眠ることにすっかり馴れてしまったのだと思い知らされた。

 平助が江戸へ向かったころは、思えばなかなか寝つくことができなかった。いままであったはずの寝息が、存在がないからだ。

 いつの間に馴れてしまったのだろう。気づかされた薄情ともいえるそれに、針に刺されたような痛みを憶えた。

 平助の自室は、わたしのとなりだ。

 当初は組順だと思われていたのだが、わたしが女であることを知っている人間を近くに置くべきだとされ、平助の反対側は源さんになっている。

 もちろん、こんな理由があるのはほかの組長たちにも話されてはいない。

 平助の部屋はずっとあれから閉めきったままだったらしい。障子を開けると空気が悪く、どことなく埃っぽかった。

 それに刺激されたのか咳き込むと、平助は案じ顔で背をなでてくれた。


「これは掃除しないとだめだね」

「ああー、面倒くせぇ!」

「まあまあ、そういわずに。わたしも手伝うから」


 ようやく咳が治まり、なんとか部屋に入ったものの、口もとから着物が離せない。

 こんな部屋では変な病にかかりそうだ。

 平助はほんとうに渋々といった様子でうなずくと、早速雑巾を探しに部屋をでていった。

 その間にわたしはというと、まずは部屋の換気。開けられるところはすべて開けて、できるだけ部屋の空気の循環をよくする。といってもやはり限界はあり、あまり空気がよくなった実感はない。

 平助は雑巾とはたきを両手に持って戻ってきた。平助としては微妙な心境だろうが、上背の高いわたしがはたきを、平助は雑巾を手にする。

 なんだかんだと会話があったはずだが、いつの間にやら掃除に真剣になっていたらしい。気がついたときには会話はすっかりなくなってしまっていた。

 ああ、もったいないことをした。そんな風に思ってしまうのは仕方ない。なにせほんとうに久方ぶりなのだから。

 思えば数えるのをやめてから、幾月経っていただろう。とにもかくにも、ぶじに戻ってきてくれたのだから。考えるのは辞めた。


「よし、こっちは終わったよ、平助」

「おれもあとここだけ」

「じゃあ茶でも飲もうか」

「だな、さすがに疲れた……」


 わたしが手をとめて振り返ると、平助はあとひと拭きというところ。

 ふう。とひと息ついて、平助はずいぶんと汚れた雑巾を手に、はたきに手を伸ばした。

 平助は掃除用具を片づけに。わたしは厨へ向かい茶の用意をする。

 僧たちにいやな顔をされるのも、もうずいぶん馴れた。とくにわたしは咳き込んでいることが多いからか、その度に顔をしかめられる。

 この日も、掃除していたためか若干埃っぽく。そのために常より咳がひどいわたしに冷たい視線が突き刺さる。

 愛想笑いを浮かべてあいさつこそするが、返答が返ってきたことはない。それもそうだろう。わたしたちは厄介者でしかないのだから。

 途中何度か顔を背けて咳をしながら茶を淹れ、ついでに勝手に厨を漁ってまんじゅうを添えた。

 僧たちは文句をいうぐらいなら話さない方がましだという人たちだし、源さんに至っては──まあ、怒られるかもしれないが、今日ばかりはよいだろう。

 妙な調子を鼻で唄いながら平助の部屋へ向かう。と、そのとき。


「沖田くん、どうしたんだい? ずいぶん機嫌がよいね」

「……伊東さん」

「──藤堂くんが戻ってきたからかな?」


 突然背後からかけられた声に茶をこぼしそうになる。振り向くと、そこにはおどろいたわたしに肩を竦めた伊東さんの姿。

 間の空いた呼びかけやお辞儀も無関係だと、いつぞやかのいやな笑みをこちらへ向けた。

 背が粟立つのを感じながら、まあそうですね。と短く答える。

 またなにかいわれるのだろうかと身を固くしていると、それを察したのか。伊東さんはなにもいわず目を細めたのち、背を向けた。

 なんだったのかと一度首をかしげる。だがこれ以上そこにいても仕方ない。少し冷めてしまった茶をそのまま、足早に平助の部屋へと向かった。

 疲れた。部屋に戻ると、彼は全身でそう表現していた。

 隅に置かれたままの荷物。部屋の真ん中で大の字で寝転がっていた彼は、わたしの存在に気づきゆるりと起き上がる。


「ありがとな。お、まんじゅうまで!」

「うん、たまたまみつけたから持ってきちゃった」


 なにも知らないだろう平助の笑顔に癒されながら、自然と息をつく。

 平助はそれをみて一度首をかしげたが、あぐらをかいて茶に手を伸ばした。

 おなじように湯呑みに触れると、やはり少し冷めてしまったようだ。だがまあ、熱すぎるよりはよいだろう。となりでひと息ついた平助をみながら思う。

 なにか、そう。“恋仲らしい”ことというものをするわけでもない。それは互いがいわゆる奥手というものだからかもしれないが、わたしたちにはこれがちょうどよい。

 とくに触れ合うこともなく、ただ長いこと会えずにいた彼とともにいられることが幸せだ。

 そんな柄にもないようなことを噛みしめていると、ふいに発作のような咳に見舞われる。

 激しく咳き込むわたしに平助の表情からおだやかさが消えた。一瞬にして案じ顔になり、背をなでる。

 なにかが身体の中から湧き上がるような──魂が口からでてしまうのではないかというような感覚。

 だが実際にはもちろんそんなことはない。口から飛びだしたのは、見馴れたものとおなじとは思えないほど重い、わたしの血だった。


「おい、なんだよこれ……なんで血なんか吐いてんだよ……」


 困惑した平助の声。ふるえているそれになにも応えることはできなかった。

 やはりただの風邪ではないのか。呆然としているのはわたしもおなじなのだ。

 わからない。その意思表示のために首を横に振ったのだが、どうやら平助にはちがうように伝わったらしい。

 背を離れた手のひらはこぶしになり、そしてこれまでにないほどふるえていた。

 泣きそうにゆがめられた表情。そのまま飛びだした平助を追うことすらできず、彼の匂いの染み込んでいないこの部屋で、倒れ込むように横になった。

 まさか、山南さんのときにもこんな血を吐いたのか。

 ゆれる視界は涙のせいかもしれない。

 手のひらに残ったままのそれを手ぬぐいで拭き取った。

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