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お春  作者: 生川 恵愛
第参章
18/27

第拾漆話:北の水 山の南や 春の月

 近藤先生の立派な馬にまたがり、ゆるゆると足を進めていた。

 漫歩といっても過言ではないほどの速度。

 結局、土方さんも近藤先生も、わたしのほかに追手は差し向けなかったようだ。

 できるなら逃げ延びてくれ。土方さんもそう思っているのだろう。

 進みたくないと嘆く心をよそに、馬は足音を鳴らして歩く。自分の足で歩いていたなら、きっともう立ちどまっていた。

 監察方の気配すらしない。幾度も足をとめさせようとする自分を叱咤し、刻をかけて大津まで向かう。

 近づくにつれいやだと叫ぶ心。もう、どこか遠くに行っていてくれとねがってしまう。

 締め付けられるような痛みに胸を押さえる。着物ごと鷲掴み、荒い息をくりかえした。


「……あ、」

「あなたでしたか」


 ここでみつからなければ引き返そう。

 そう決めていた別れ道。どちらの道も、入ってしまえばそれぞれに宿があるというのに、彼はその別れ道に立っている。

 思わずもれたふるえる声。ほほえんだ彼の口調は、いつも通りだった。

 手づなを引き、馬をとめる。その距離わずか数十歩といったところか。

 どこかに壁でもあるかのように、その場から動けずにいた。

 昔なじみと出逢ったかのような、温かな笑み。ゆるりと足を進める彼の瞳の奥には、決意が宿っていた。


「やま、なみ……さん──」


 夕陽に照らされた山南さんは、消えてしまいそうなほど儚い。

 馬をなでながらこちらへ視線を向けると、ほほえみだけで降りてくれといわれた気がした。

 全身がふるえている。

 連れて帰りたくないと叫んでいる。

 若干ふらつきながらも地に足をつけると、自然とうつむいていた顔をゆるりと上げた。

 ほほえんでいる山南さんに逆らうことはできず、足を進める彼について馬を引く。


「宿をふたり分とってあるんです。ひと晩、ご一緒いただけますか?」


 別れ道を右へ。そして宿の少し手前で立ちどまった山南さんは、振り向いて首をかしげた。

 断る理由などない。背後に夕陽を背負った彼の眩しさに目を細め、小さくうなずく。

 満足げにほほえんだ山南さんは、ひと足先に宿へ足を踏み入れる。すぐにでてきた女中に馬を預け、山南さんのあとを追った。

 決して大きくはない宿の中で、一番奥の部屋。そこが山南さんがとった部屋だった。

 口を開けば、逃げてくれ、といってしまいそうなわたしは、ただただ無言を貫く。

 山南さんはそれに気づいているのか、むりに口を開かせようとはしなかった。

 あくまでいつも通り。いつもよりおだやかかもしれないその態度に、恐怖に凝り固まった心が少しずつ解れてしまう。


「ほんとうの名は、思いだせましたか?」


 食事の合間。ふいに問われた言葉は、すぐには理解できなかった。

 箸をとめて見上げたその姿は、なにも変わらず兄のようにやさしい。だが、それがまた苦しかった。

 一度交わった目線を外し、小さく首を振る。残念だと肩を竦めるさまが、みなくても伝わってきた。

 もとより食欲が落ちていたことも、もちろん要因のひとつではある。だがそれよりも、死を覚悟してなおいつも通りに振舞おうとする彼の姿に、箸はなかなか進まない。

 ため息ひとつ。手をとめたわたしに、山南さんの声がかかった。


「もうよいのですか?」

「ええ、すっかり満腹です」

「ではこの煮物もらっても?」

「え。あぁ、よいですけど……」


 ふるえる左手を制御しながらの食事だが、予想以上にその手は速い。

 わたしより減っている膳をみながらうなずくと、子どものようにすばやく煮物が奪われていく。

 呆れるどころか呆気にとられたわたしに、山南さんはいたずらっ子のようにほほえんだ。

 食事が終わり、先に風呂へ向かった山南さんの背中をみつめる。

 こうしてみると、ほんとうになにも変わらないようにみえるのに。この人の生命の灯火は、もう消えかかっているのだ。

 風呂上がり。手ぬぐいを肩にかけたままの山南さんは、障子窓のそばに座った。その長い髪をていねいにぬぐいながら、風呂を勧めてくる。

 部屋を開けている間にでも、亡くなっているのではないか。

 そんな胸を騒がせる思いは杞憂に終わり、戻ったころには手酌で酒をたしなんでいた。

 もう、こうして酒を交わすこともできない。

 誘われるままに手にとった杯の中身を一気に飲み干す。侵入した酒精に一瞬くらりと視界がゆがんだ。


「そう一気に呑むものではありませんよ」

「山南さん……」


 最期まで案じているさまをみせる彼に眉が下がる。

 つぶやいた彼の名はどこかさみしげなひびきを持っていて、それが彼の最期を映しているように思えた。

 もう、ほかにもれることはないだろう。

 そう思い、いままで話さなかったことをすべて話した。

 平助との関係。体調のこと。山南さんを死なせたくないという気持ち。

 山南さんはただ黙って聴いてくれた。だが、最後の不安に関しては、申し訳なさそうに眉を下げていた。


「平助に名をつけてもらって、存在を認められことは幸せなのだと気づきました。なのにあなたは死を選ぼうとしている……なぜですか?」

「なぜだと思いますか?」


 わからないから訊いているというのに、それがわかっていて問いで返してくるなんて、山南さんはずるい人だ。

 わたしに負担をかけないつもりなのだろうか。はたまた、覚悟を決めたがゆえなのだろうか。

 わからない。いまを生きて、哀しむ人がいるのに、ここで灯火を消そうとするなんて。

 うつむいていた頭に、温かい手のひらが乗る。

 少しだけ頭を上げて見上げると、そのままさらりと髪をなでられた。


「あなたの気持ちはわかっていますよ。だからこそ、わたしはいまこの生命を使うのです」


 生命はひとりひとつしか持てない。それがなくなってしまえば、そこで路は途切れてしまう。

 幾千もの別れ道を進み、幾千もの茨道を進み。そうしてようやく辿りつくはずの終着。それが死なのだろう。

 山南さんはいま、別れ道に立っているはずだ。そして、進めばすぐに途切れてしまう方へ進もうとしている。

 否、すでに進みはじめているのだ。

 いま、新撰組はずいぶんと隊士が増えた。総長である山南さんよりも上に、頭のきれる参謀もついてしまった。

 表立っていう者はいないが、新参者の中には山南さんを、刀を持てぬ総長であると噂する不届き者もいるようだ。

 刀を持てぬ武士は武士ではない──それは山南さん本人もいっていたことだが、だからといってこの組に必要な人材であることには変わりはない。

 山南さんがいるからこそ。山南さんの笑顔があるからこそ、この組は鬼の住処にならずに済んでいるのだ。

 血も涙もないと評されても、笑顔で生きていけるのは、山南さんという仏がいたから。

 彼がいなくなってしまえば、この組はきっともう、堕ちていくだけだ。


「藤堂くんにつけてもらったという名を、教えてはもらえませんか?」

「お春、です……」

「よい名ですね。あなたにとてもよく似合う。あなたの笑顔は人を癒します。それを忘れないで」


 ただ涙を流している中、温かな声が降ってきた。

 鼻水交じり。嗚咽交じり。そんなかすれた声でなんとか紡ぎだした名に、山南さんはほほえんだ。

 涙を流しすぎたためか、続いているものか。咳き込んだわたしの背をゆるゆるとなでる手のひらは温かい。

 ただうなずくしかできないわたしを包んでいるのは、山南さんの温かな空気だった。

 こんなときでも、酒の入ったわたしたちは、それからしばらく語り合った。

 試衛館ですごした日々のこと。上京してからのこと。そして、これからのこと──。

 月明かりを入れるために、少しだけ開いたままにしておいた障子窓。いまはそこから朝陽が覗いていた。

 ふとその明かりで目を覚ましたわたしは、すでに起床し外を眺めている山南さんの姿をぼんやりと眺めている。


「目が覚めましたか?」

「おはよう、ございます」


 寝起きのかすれた声。反対に山南さんは、いつも通りにはっきりとした声色だった。

 いつから起きていたのだろう。きちんと眠れたのだろうか。

 そう問うのはなにかちがう気がして、ゆるりと床から這いだした。

 きてほしくなかった朝。山南さんの死が、確定してしまう朝。

 無意識に眉を下げていたのだろう。山南さんが困ったようにほほえみながら、障子窓の前から退いた。

 身支度も、朝餉も、普段通りの速さでこなしていく山南さんを横目に、わたしは倍以上の刻を使ってそれらをこなしていく。

 このまま屯所に戻りたくないと。問題を先延ばしにしていることを見抜かれているようで、おだやかな彼の表情をみれずにいた。

 それでも刻はすぎていく。身支度を終えたわたしたちの出立の刻。

 いやだと叫ぶ心を抑え込みながら、山南さんの背を追う形で歩みを進めた。

 意外にも馬を調達していた山南さんはすばやくそれにまたがる。左手は添えるだけ、といった握り方に目をそらしてしまいそうになる。

 屯所へ戻りたくない。その思いだけでうしろ髪引かれる宿に心中どこか同情にも似た思いを抱きながら、山南さんの髪とともにゆれる馬の尾を眺めていた。

 ゆるゆると足を進めていた行きとは反対に、戻るときは速い。比例するように進みたくないと叫ぶ心も、こちらの方が強かった。

 もう少しで新撰組の巡察の順路に差しかかろうとしたとき。山南さんがふとこちらへ振り返る。


「ここらで昼餉にしましょうか。もう少ししたらゆっくりもしていられなくなってしまいますから」


 山南さんも気づいていてここで振り向いたのだ。そして、順路へ差しかかり、みつかってしまえば自分に自由がなくなることも、もちろんわかっているのだ。

 苦しくなる胸を抑え、ほほえむ山南さんとおなじように口角を上げた。うまく笑えている自信はない。

 わたしひとりでは入らないような天麩羅屋へ足を進めると、山南さんは馴れた様子で注文を通す。

 常連のようで、女将とも和やかに話す彼は、誰ももうすぐ亡くなってしまうことなど予想できないだろう。

 やがて運ばれてきた天麩羅は美味しいはずなのに味はしなくて、砂でも食べているかのような感覚に気分が沈む。

 いや、気分が沈んでいるからこそ、味覚にまで不調がでているのだろう。

 ここでもわたしの分にも箸をつける山南さん。どこにここまでの食欲があるのだろうかと思うが、この世に未練を残さないよう好きなものを食べているのだろうかと考えれば切なくなった。

 なんとか食べ終えたわたしが先に茶を飲んでいると、ふと前方から視線を感じる。いうまでもなく山南さんだ。


「あなたに、頼みたいことがあるのです」

「なんですか?」

「わたしの介錯は、あなたひとりにお願いすることにします。……よいですか?」


 ほんとうはいやだ。わたしがとどめを刺すなど、考えたくもない。

 だが、眉を下げ懇願しているようにもみえる彼に、唇を噛みしめてうなずいた。

 できるだけ苦しめず。すばやく。うつくしいままに、彼を残してみせる。

 きっとそれを実行できるのは、総司の腕を持つわたしだけだ。

 なんの確証もない、どこから湧いてきたかわからない自信が、わたしをふるわせる。

 ありがとう。ほほえんだ山南さんの影はやはりどこかうすくて、握りしめた手のひらに爪が突き刺さっていた。


「ただいま戻りました」


 門番として立っていた平隊士たちに声をかけた山南さんの表情は常と変わらない。ただ変わったのは、隊士たちの反応だ。

 ほんとうに脱走していたのだろうか。そんな疑問がにじみでている彼らの目の前で、山南さんはただほほえんでいた。

 わたしが戻ったら報告しろといわれていたのだろう。我に返った隊士のひとりが前川邸へ走る。出迎えにきたのは、近藤先生と土方さん、そして伊東さんだった。

 ここでも変わらないのは山南さんひとり。近藤先生は感情の読み取れないように無表情。土方さんは常以上に眉間にしわを寄せ腕を組んでいる。伊東さんの浮かべている哀しげな表情がわざとらしくみえるのは、きっとわたしが彼のことを苦手だからだろう。

 近藤先生は山南さんに自室謹慎を命じ、見張りとして伊東さんの実弟である鈴木三樹三郎さんと一くんを任命した。

 鈴木さんを任命した理由はわからないが、それ以外の組長は近藤先生の部屋へ収集がかかる。


「沖田くんはまず治療をするべきです。手のひらを怪我していますから」


 近藤先生たちとともに行こうとしたわたしをとめたのは伊東さんだった。

 先ほどこぶしを握りしめた際に傷ついた手のひらに気づいたようで、花を手折るような手つきで右手にふれる。

 思わず振り払ってしまいそうになる心を抑え、大したことはないとほほえんだ。

 それでも一応処置してから向かうことを伝えると、近藤先生はひとつうなずいた。

 門番からもみえず、近藤先生たちもすっかり背を向けている。山南さんも鈴木さんと一くんに連れられて行き、いやな人物とふたりになってしまったと後悔する。


「では自室へ向かいますので……っ!?」


 ゆるりと手を離そうとしながらほほえむと、伊東さんはなにを思ったのか傷口に舌を這わした。

 肌が一気に粟立ち手を引こうとしたわたしをよそに、伊東さんの舌は血を舐めとっていく。

 振り払ってしまえばよいのだろうが、そんなことをして近藤先生の耳に入れば──そう考えると石のように固まってしまった。

 ようやく離されると、伊東さんはひとつ舌なめずりし、嫌悪感でほほが引きつる。

 胸もとから取りだした手ぬぐいで手のひらに溜まった唾液をぬぐいとり、意味深な笑みを浮かべて去っていく伊東さんを眺める。背全体に広がった鳥肌は、しばしの間治るとは思えなかった。

 込み上げてきた咳に我に返ると、井戸へ走る。汲み上げた冷たすぎる水で先ほどの舌の熱がすべて落ちるまで洗い続けた。

 こんなときになにをするんだ。という憤りと、なんのつもりだ。という疑問が頭をめぐる。

 どれだけ考えたところで他人の考えなどわかるはずもなく、いまはただこの気色の悪い感覚を殺してしまいたかった。

 ようやく手ぬぐいを取りだしたころにはすっかり手は冷たくなってしまい、血色も悪くなってしまった。これで風邪が悪化したらあの人のせいだと悪態を吐きながら自室へ向かう。

 常備してある薬で処置をして、近藤先生の部屋を訪ねると、すでにみな揃っていた。

 土方さんの眉のしわをみて肩を竦め、空いている一くんのとなりに腰をかける。

 ようやくはじまったといわんばかりの空気を感じながら、かじかむ指先を忙しなく動かしていた。


「山南総長だが、脱走を認めた」

「……っ!」


 土方さんの言葉になにかをいいかけたのは永倉さん。源さんに抑えられ渋々口をつぐんだ。

 脱走を認めるということは、切腹につながる。だからこそ、いままで脱走してきた連中は必死に否定していた。

 それを認めた山南さんの覚悟は、なにもいわなくとも伝わっている。

 土方さんが内容のわかりきっている判決文を持ち上げた。今晩、山南さんの生命の灯火が消えてしまう。

 思わず握りしめた手のひらは、先ほどとおなじところに爪が食い込み、痛みに顔をしかめた。


「介錯人は沖田くんひとりに頼みたいそうだが……副介錯人をしてくれる者はいるか?」


 わたしひとりに責任を負わせないため。そんな思いのにじんでいる近藤先生の問いに手を挙げるものはいない。

 当たり前だろう。あの人の介錯人など、頼まれてもごめんだという人の方が多いはずだ。

 土方さん、近藤先生の目線に、わたしはひとつうなずく。もう、話は通っているのだから断る術はない。逃げられない。

 山南さんの切腹の刻。そして、介錯人も決まってしまえば、こぶしを握りしめた永倉さんを先頭にみな局長室をでていく。

 伊東さんも一度ちらりとこちらに目線をやったが、そのままでていった。

 わたしと、近藤先生と、土方さん。そして源さんの四人になると、耐えきれないといわんばかりに近藤先生が顔を伏せてため息をつく。


「山南くんは、なぜこのようなことを──それほどまでに不満だったのだろうか」

「どうでしょう……不満だったとはまた、ちがう気がしますが」


 うまく説明できるわけでもないし、ほんとうにそうかと問われればわからない。だが、近藤先生の弱々しい言葉尻に、思わずそう口にしていた。

 顔を上げた近藤先生の目の周りは赤くなっている。山南さんの切腹に胸を痛めているのだから、やはり山南さんは必要な存在だ。

 眉を下げた源さんと、反対にしわを寄せた土方さん。わたしはというと目を伏せてしまった。

 また無意識に握りしめかけていたこぶしをゆるりと解く。適当に巻いた包帯に血がにじんでいた。


「おまえは知ってたのか」

「なにをです?」

「山南さんがおまえに介錯人を頼むことだよ」

「……知ってましたよ。直接頼まれましたから」

「なんで断らなかった」


 土方さんの尋問にも似た問い。

 断る理由などいくらでもある。だがそれは自己満足でしかないものだ。

 わたしがいくら山南さんを殺したくないとねがっても、あの人はもう死を覚悟してそのための準備もしているのだろう。

 その彼が、最期を託したい者がわたしだというのならば、やらなければならない。そう思っただけだ。

 睨みを効かせた彼の視線を恐れることはない。近ごろはすっかりそれが常になってしまっているためか、わたしも馴れてしまった。

 目を伏せて、できるだけ淡々と。

 わたしはまだ自分の中で、山南さんの死の意味をみつけられずにいる。

 目線だけを持ち上げると、源さんは傷ついた仔猫でもみるような痛々しい視線を向けていた。

 もう、総司として生きてはいけていないのだろうか。

 無意識に噛みしめた唇から、鉄の味がした。

 右手に巻いた包帯でそれを乱暴にぬぐうと、一度頭を下げて部屋をあとにする。

 準備をいいわけにしたところで、ほんとうはあの場にいたくなかっただけだということは、あの三人には手に取るようにわかるのだろうが。

 夕暮れの茜色が、いつもよりさみしくみえる。

 昼餉も食べずに部屋の中でぼんやりとすごしていたわたしが顔を上げたのは、すっかり陽の沈みかけたころだった。

 そろそろだ。

 刀を握る両手を広げてみる。流れているはずもない大量の血がみえるようで、思わずまぶたを閉じた。

 これから、浴びたくもない血を浴びなければならない。

 後悔してももう遅い。みつけなければよかった。そう思ってももう遅いのだ。

 山南さんが介錯を頼んだ理由もわからないまま、その刻を迎えてしまった。

 入室した山南さんは、白装束ですら優雅に着こなしている。西面に座した彼の前には膳が置かれていた。

 末期の盃に手をつける。ふた口呑んだそれが冥土の土産ということなのだろうかと、いまさらながらに思う。

 音をたてずに鞘を払い、八相に構えた。耳もとでわずかにふるえている。わたしの手のふるえなのだろうが、総司が泣いているようにも思えた。

 山南さんが肩越しにほほえむ。それ合図とするかのように、左脇腹へ切腹刀を突き立てた。

 狭い部屋に充満する血のにおい。検使役である近藤先生は眉を寄せたまま表情を変えることはない。

 にじむ脂汗に、もう楽にしてやりたいと思う。

 こぼれそうな涙を耐える。わたしがここで涙を流すわけにはいかない。

 かちり。ひとつ鳴った刀にわたしの魂も乗せて、皮一枚残して山南さんの首にのめり込ませた。

 重力に逆らうことなく倒れ込んだ山南さんの表情は、苦しみの中にもどこかおだやかさがにじんでいる。

 思わず膝をついたわたしは、その反動か猛烈な咳に襲われた。

 どこかで近藤先生の声が聴こえる気がするが定かではない。

 やけに重たいものが口から飛びだす感覚。手のひらは、山南さんの返り血か真っ赤に染まっていた。

 視界が赤と黒に染まり、そのまま気を失ってしまった。


「山南さん──なんであんた、こいつに頼んだんだ?」


 気がついたとき、最初に聴こえてきた声がそれだった。

 まだぼんやりとする視界を治すため、何度かまばたきをくりかえす。

 ようやくみえたのは、月明かりに照らされた自室だった。

 ふと障子の方へ目線をやると、柱にもたれている土方さんが腕を組んで座っている。わたしの視線に気づいたらしく、ちらとこちらへ目線をやった。

 起きたのか。そのひとことはどこかさみしげに聴こえて、思わず目を細めた。

 彼もまだ、非情な決断をしなければならない立場にある自分自身を悔やんだのだろうか。

 できることなら助けたい。生き延びさせたい。そう望んでいたのだろうか。

 彼の気持ちは彼にしかわからない。けれど、こうして思いを馳せることぐらいは赦されるだろう。


「おまえに介錯を頼んだ理由、なんか話してたか」

「いえ、なにも……」

「……そうか」


 それだけ問うと、彼はゆるりと立ち上がり、養生してろといい残して立ち去った。

 引き留めることもできず、廊下へ消えていくその影を眺める。ふともれたため息が、咳に変わった。

 無性に平助の笑顔がみたい。けれど、いまはそれは叶わない。ならばせめて、彼も照らしているはずの月でも愛でよう。

 我ながら詩人のようなことを。苦笑を浮かべ、若干ふらつきながら立ち上がる。

 血塗れていたはずの着物はすっかり着替えさせられていた。誰が着替えさせたのだろうかと考えるが、あの場にはわたしを女だと知っている人たちはいた。あの中の誰かだろう。

 ゆるんだ髪紐をほどき、下の方でゆるく結び直す。廊下をゆるゆると進んでいく。

 ようやく着いた縁側には先客がいた。縁側がきしむ音に、彼は振り向いた。


「なんだおまえ、でてきたのか」

「土方さんこそ、どうしたんですか?」

「おれだってたまには月ぐらい見上げるさ」


 京にきてから──というよりは、特に新撰組と名を変えてから、土方さんにそんな余裕はなかったと思うが、今宵は特別なのだろう。

 そうですか。とひとこと。となりに立つにも草履がなく、縁側に腰かけてうしろに手をつく。

 残念ながら満月とはいかず、下弦の月が辺りを照らしていた。

 満月ならよかったのに。そう思うのはきっと、わたしの中でなにかが欠けていると思っているから。

 平助を想うには、満月が一番似合うと思うから。

 今宵の月は山南さんを思いださせて、胸が痛んだ。


「──山の南や、春の月……」

「豊玉さんの新作ですか?」

「うるせぇな」

「山南さんのため、ですね」


 土方さんはそれ以上なにもいわなかった。図星なのだろうと思うと、自然とほほえみがもれる。

 ふと、おなじように月を見上げていたはずの土方さんの視線がこちらへ向いた。

 軽く首をかしげると、速い歩幅で近寄ってこられておどろく。その指先がほほに触れると、すぐに引っ込められた。

 訝しげな瞳で自身の手のひらをみつめ、そののち一度わたしの顔色をうかがう。

 まさか、微熱があるのが知られてしまったか。

 内心冷や汗をかいたが、土方さんはなにも触れずに顔をそらし、早く寝ろとひとこというと自室へ戻っていった。

 いまこれ以上下手に人と会うのは危険かもしれない。

 よっこらせ。と年寄りのようなかけ声をもらしながら立ち上がり、少し冷えてしまった手を温めながら自室へ急ぐ。

 途中咳き込んでしまったが、誰にも知られずに戻れたはずだと思えば大したことはなかった。

 温まっていたはずの布団が冷たくなっている。温かさを求めて潜り込んだそこは意外と冷たくておどろいたが、それでもないよりはずいぶんとよい。

 猫のように丸まり頭まで布団をかぶると、まぶたを閉じる。

 山南さんの最期。そして、あのときわたしが吐いたもの。平助の笑顔が遠ざかっていく錯覚におちいった。

 小さくふるえる肩を抱きながら、ゆるゆると夢の世界へ落ちていく。


 ──夢だと、わかっていた。

 目の前では山南さんがほほえんでいる。切り離したはずの首もつながっていて、生きていたときとなにも変わらない。

 夢だとわかっていても涙がにじんでしまい、手の甲で乱暴にぬぐい続ける。


「ありがとう」

「……なにを、いうのです」

「お春さんのおかげで、わたしは悔いなく組のために生命を賭すことができました」


 山南さんのほほえみが痛い。礼をいわれることなどなにひとつしてはいないのに。恨まれても仕方ないというのに。

 誰にもでも分け隔てなく、素直に礼も尽くせるところが好きだった。

 兄のようにいつも見守ってくれる、温かい瞳が好きだった。

 叱るべきときにはしっかりと叱るため、仏の顔を隠すところも。

 わたしも総司も、山南さんが大好きで、そして尊敬していたのだ。

 そんな人を手にかけたことを、総司も赦しはしないだろう。

 そろりと山南さんへ手を伸ばしたそのとき。背後から右肩へ手のひらが乗せられた。みると、哀しげにほほえんでいる総司の姿。


「山南さん……いままで、ありがとうございました」

「総司も。わたしを慕ってくれてありがとう」


 わたしを挟んで、総司と山南さんが会話しているという違和。だがそれも一瞬で、総司が消えてしまったかと思うと、山南さんも徐々に遠ざかっていく。

 待って。待って。声にならない声で叫びながら追いかけるが、わたしの走る速さよりも数段速く、彼は行ってしまう。

 闇の中へ消えるようにみえなくなったうしろ姿が名残惜しい。

 最期にみせたほほえみ。都合のよい夢であったかもしれないが、いまいわれた礼の意味。

 都合のよい夢だとしても。心配性の山南さんが、わたしがひとりで悩まないように会いにきたのだと思いたい。

 自己満足でも、そう思うことで背負って生きたかった。

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