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お春  作者: 生川 恵愛
第参章
17/27

第拾陸話:こぼれる生命

 西本願寺への屯所異動に、山南さんが強固な反対姿勢をみせたまま、年が空けた。

 あのときもすでにずいぶんと塞ぎ込んでいた山南さんだが、もういまでは部屋に訪れなければ顔をみることすら叶わない。

 平隊士たちは、この組で最もおだやかな人の姿がみえないことから、不在だと思っている者も多いようだ。

 山南さんの変化とともに、組内で勢力を増している者がいる。伊東さんだ。

 近ごろの彼は、近藤先生に許可を取っているのか否かはわからないが、隊士たちを集めて講義を開きはじめたようだ。

 わたしはというと、未だに咳はとまることを知らず。むしろ悪化しているように思えた。


「やあ、沖田くん」

「伊東さん。いかがなされました?」

「いやね、沖田くんにも集まりにきてもらえないかと思って」


 朝餉ののち。わたしが非番だとわかっているからか、伊東さんはわざわざ、席を立ったわたしのあとを追ってきた。

 深いため息とともに込み上げてくる咳を耐える。

 未だにうさんくささを感じる男だが、近藤先生が信頼しているのならば無碍にすることもできない。

 心中では顔をしかめていることに悟られないようにほほえんだ。

 案の定、伊東さんは自らの講義へ誘いをかけてきた。

 幹部の中で、なんの迷いもなくうなずいている者はいない。

 当たり前だ。わたしたちとは似て非なる思想を説いているのだから。

 少なくともわたしは、近藤先生だからこそついてきた。みなそれぞれ思うところはあっても、“近藤先生だから”という部分がなければここまでともに歩んではいないだろう。

 隊士たちの中には、武士になりたいとねがう者もいるようだが、幹部たちはみな少なからず試衛館からの付き合いだから。


「すみません、体調が芳しくなくて……」

「まだ風邪は治らないのかい? 医者へは?」

「行ってません。いつものことですから」

「それはいけないよ。よければ医者までついて行こうか」

「いえ、そんなお手間をおかけするわけにはいきませんから。近いうちに行ってきます。それでは、少し休ませていただきますね」


 やけに会話を長引かせようとしているな。

 表情が顔にでる前に。一度会釈して背を向けると、突き刺さるような視線を感じるのは気のせいだと思いたい。

 わたしが近藤先生を裏切るはずないということは、重々承知しているはずだ。なのになぜここまで勧誘するのだろう。

 閉め切られた部屋で咳き込みながら考えても、あの策士の思うところはわからなかった。

 ふと、文机に積まれた平助からの文を手に取った。最初のものから眺めるように読む。

 江戸にぶじに到着したこと。伊東道場を軸とし、隊士募集をはじめたこと。

 もともとは伊東さんを勧誘しに行ったはずなのに、なかなかうなずいてもらえないこと。

 それを聴いた近藤先生たちが江戸へ到着し、ようやく承諾を得られたこと。

 あれほど首を縦に振らなかった伊東さんが、近藤先生がきた途端に意思を変えた違和。そしてなにか企んでいるかもしれないという危惧。

 伊東さんと近藤先生は先に京へ戻ること。伊東さんは策士だから気をつけろという警告。

 そして、今朝方届いた文には、そろそろ戻ろうかという言葉がでてきていた。

 ようやく、長く離れていた日々に終止符が打たれるのか。胸が熱くなり、思わず文を握りしめた。

 慌ててそれを伸ばしていると、障子の向こうに影が映る。


「沖田くん、少し話せるかい?」


 伊東さんだ。いままでわざわざ部屋にくることなどなかったというのに、一体なんなのだろう。

 理由もわからないまま粟立った背を無視して、部屋に招き入れた。

 浮かべられたそれが、どことなくいやな笑みにみえる。


「わたしになにかご用ですか?」

「ひとつ、確かめたいことがあってね」


 笑みが、変わった。

 人のよさそうな笑みを貼りつけていた彼の皮がめくれた。といった方が正しいのかもしれない。

 人を信じず、己の考えのみを信じているような、冷たい瞳。小心者ならその一瞥で泣きだしてしまいそうな、そんな瞳だった。

 膝の上に置いた手のひらを握りしめる。唇を結んで、その眼差しを受けとめた。


「藤堂くんがずいぶんと案じていたけれど、恋仲かなにかなのかな?」

「衆道かとお訊きになりたいのですか? ……みかけによらず無粋なことを訊かれるのですね」

「ははっ、そんなことはないさ。ほんとうの名を訊いているわけでもないのだからね」


 失礼は承知で、わざと刺のあるいい方をする。いやみなほどに満面の笑みを浮かべてみせると、伊東さんの表情も一変した。

 一度またいつもの、人のよさそうな笑みを浮かべる。そしてすぐ、先ほどまでの表情に戻った。

 まるで仮面でもつけているかの如くすばやい変化。握りしめた手のひらに、じわりと汗がにじんでいた。

 なにをいっているのかわからない。暗にそう伝えるように首をかしげる。

 悟られてはいけない。いや、悟られているのか? 平助が伝えてしまったのか?

 奥歯がいやな音を立てる。耳もとで太鼓を叩いているようだ。


「ああ、藤堂くんからはなにも聴いてはいないよ」


 武芸者にしては長く細い指が、わたしの顎にかかる。

 ぞくりとした。その色香からではなく、なにをされるかわからないという恐怖から。

 あとずさるようにうしろに手をつく。押し倒されるようにその手のひらが捕らえられた。

 顎から流れるようにすべり、ほほをなでられる。振り払うことすらできないほどの恐怖に晒されていた。

 いやだと思うのに、身体が動かない。

 ほほから首すじを通り、着物の合わせへと到達する。指をかけられ、その指にわずかに力が入る。

 いやだ。いやだ。

 頭では警告が発せられているが、ふるえる喉からは声はでなかった。

 そのまま指が下ろされそうになった、そのとき。


「沖田組長、よろしいですか?」


 神の声だとすら思った。

 障子の向こうから聴こえた声に、伊東さんの指がとまる。

 なにごともなかったかのように居住まいを正し、こちらに冷たい一瞥をやった。そろりと座り直し、返答する。


「伊東参謀もご一緒やったんですか。ほな、おれはあとにしますわ」

「いや、いいんだ。わたしはそろそろおいとまするところだからね。沖田くん、また」

「ええ……」


 なにかを含むような笑みに、来訪者である山崎さんも気がついたのだろう。一瞬訝しげに眉をひそめた。

 脅威がなくなったとはいえ、先ほどまでの恐怖がすぐに消えるわけでもない。

 かすれたままの声で、ようやく返事をした。

 伊東さんの足音が遠ざかるにつれ、徐々に落ちつきを取り戻す。途端緊張の糸が切れたのか、耐えきれない咳がとめどなく溢れた。


「どないしたん? また風邪ひいたんか?」

「……そうですね、診察は受けてませんが」

「なんで早よういわんかったん?」


 咳の合間になんとか言葉をつむぐ。背をなでる手のひらに安堵した。

 ようやく治まったころ見上げた山崎さんの表情は、怒っているような案じているような。そんなものだった。

 申し訳なくて、ついうつむいてしまう。

 いまさらながらふるえだした腕を抱きしめ、深く息を吸う。先ほどのことも、なんでもないというには落ちつきが足りなさすぎる。


「なあ、さっきのなに? 咳もせやし、伊東参謀のことも」

「いわなくては、いけませんか……?」

「……いいたないんやったらええよ。せやけど、おれも案じとるから訊いてんねん。話せるんやったら話してほしい。報告してほしないんやったら、せぇへんから」


 話してしまえば、わたしも楽になる。伊東さんのことも、この咳のことも。

 少なくとも、伊東さんの件については話しておかなくては余計な心配をかけるだけだろう。

 山崎さんの表情を、そっと上目遣いでうかがう。くしゃりと前髪をなでた手のひらのぬくもりが、なにもいわないわたしを責めるようで、胸が痛い。

 山崎さんが責めているわけではないのだ。わたし自身が、こんなにも案じてくれているというのに話さないつもりか。と責め立てている。

 目を伏せ、唇を噛む。一度大きく息を吐いて、わたしは覚悟を決めた。


「近藤先生の耳には、入らないようにしてくれますか……?」

「ええよ。約束したる」


 山崎さんの安堵したような瞳とほほえみが、わたしにも安堵を与えた。

 わずかにゆるんだほほをそのままに、無意識にとめていた呼吸をはじめる。

 話をはじめれば、ほほえむことなどできないだろうから。

 咳とだるさがはじまったのはいつからだろう。平助が江戸へ行くころだっただろうか。

 くらりとするほどの熱はないが、そういえばいつもどことなく熱っぽい。

 この身体の重さにも馴れてきてしまったのだろう。

 そう結論づけたわたしの言葉に、山崎さんは顔をしかめた。

 大きな手のひらを額に添わせる。またひとつ、眉にしわが寄せられた。


「ずっとこんな感じやったんか? なんでおれにいわんかったん?」

「ただの風邪だと思っていたので……すみません」

「ちゃんとした医者にみせんと、なんともいえん。せやけど、こんだけ長いこと続いてんねやったら、ただの風邪とは思えへん」


 ちらりと見上げたその表情は、すっかり医者のものとなっていた。

 山崎さんもここの医者だというのに、きちんとした医者へだなんて。

 そう思った途端、医者の表情はくずれた。いつも平助をからかっていたときにみせていたような、兄のような眼差し。いまのそれはどこか歪んでみえた。

 手のひらを退けられ、伊東さんの件についても訊かれたが、詳しいことはなにも話せなかった。

 そもそも、わたしもなぜあんなことになったのか理解してはいないのだ。

 ただひとついえることは、女だということは露見しているのではないかということ。それが平助からではないとすると、どこからもれたのか。

 まちがっても、見た目だけでわかるようにはしていないはずだ。

 こめかみ辺りに右の人さし指を当て、なにやら考えていたさまの山崎さんが、ふと顔を上げた。


「伊東参謀の件だけは、副長に報告しても構わへん?」


 渋るわたしに、山崎さんは少しだけ黒い笑みを浮かべた。しっかり口どめはしておく。その言葉には寒気を伴うなにかが込み上げてくる。

 なにか弱みでも握っているのだろうか。勘ぐってしまいながらも、山崎さんを信じた。

 どうしても医者へ行きたくはないというわたしに、山崎さんは自分が診察すると決めたらしい。

 頻繁に部屋へ訪れるようになった彼は、ついに診察道具をひと通りそろえてきた。

 それは伊東さんへの警戒もあったことだろう。

 案の定というべきか、意外というべきか。伊東さんはあれからわたしに声をかけることなく、常にあのうさんくさい笑みを浮かべてすごしていた。

 それでも、ときおり目が合ったときにみせる笑みが、秘密を知っている。とでもいいたげで、その度に寒気がした。


「うん、ただの風邪やな。ずいぶん長引いとるみたいやけど」

「そうですか、よかった……」


 医者としての山崎さんの診断に安堵する。

 咳も、微熱も、落ちた食欲も。長引きすぎている風邪のせいだとわかれば、どうってことないように思えた。

 ただ、そう告げる前に一瞬みせた哀しげな表情に、どこか引っかかりを憶える。

 ほんとうは、ちがうのではないか。風邪などではなく、もっと悪い病なのではないか。

 不安を叫ぶ心にふたをして、なにも気づかなかったふりで安堵していた。

 手渡された薬は、以前風邪を引いたときとはちがうもの。長引いているからという理由はあるにしろ、それがまたふたをした心をこじ開けようとする。

 安静にするようにと背を向けた山崎さんをみつめながら、わたしはふとため息をついた。

 伴う咳は、もう堪えられるものではない。

 手の甲に吐きだされるそれが、悪いものか、よいものか。わたしには判断できない。

 それでもなんとなく、山崎さんはうそをついているように思えていた。

 症状が一向に治まらないまま、文月に入った。

 それまでは悪化の一途をたどっていたように思えていた症状だが、山崎さんの診察を定期的に受けるようになり、少し中和されたようだ。

 咳はとまらず、微熱もでている。食欲もあるわけではない。だが、悪化はしていないと思う。

 帰ろうかと思う。そのひとことが書かれた文が届いてから、もうふた月は経とうとしていた。

 だが、平助の帰還は未だ果たされてはいない。

 さまざまな不安をごまかすため。近ごろのわたしは、部屋で平助からもらった簪を眺めていることが多くなっていた。


「はぁ……」


 もらしたくもないため息が、自然とでてきてしまう。

 しゃらりと鳴った簪がなぐさめてくれているようで、自然とほほえみがもれる。

 畳に無造作に放り投げた身体を起こし、小さな箪笥の引きだしを開ける。布の敷かれたそこに隠すように簪をしまい込む。

 女だと悟られないよう、奥へと押し込まれる簪。それは、わたしの気持ちも押し殺さなくてはならないといわれているようで、いつもこの行為は苦しみを伴う。

 山南さんのところでも行こう。

 如月に入ってから、山南さんはそれまで以上に人と顔を合わせることはなくなった。

 食事も自室でとるようになり、いつの間にやらふらりと部屋を開けている。

 左手が悪くなったのだろうか。それとも、また別の理由か。

 最後にみた山南さんの憂いのみを浮かべた横顔は、不安を植えつけるのには充分すぎた。


「山南さん、沖田です。いらっしゃいますか?」


 恐る恐るかけた声に、部屋からの反応はない。

 無視をしているだけならよい。だが、いまのあの人は脱走でもしてしまいそうな雰囲気があると思っていた。

 失礼だとは思いながら、そっと障子に手をかける。

 その手に力を加えようとした、そのとき。


「なにをしているのです?」


 不意に背後からかけられた声に、肩が跳ねた。

 いや、もしかしたら身体全体が跳ねたかもしれない。

 からくりのようなぎこちない動きで振り向くと、そこには部屋の主である山南さんが苦笑を浮かべていた。

 さっと青ざめていくのが、自分でもわかる。

 慌てて頭を下げたわたしを、山南さんは外へ連れだした。

 前を行く山南さんのあとを、足もとをみながら追うわたし。

 傍からみれば滑稽だろうその姿だが、声をかけることはおろか、顔を上げることすらできずにいた。

 屯所や島原から離れた、あまり隊士が足を運ばない場所。

 巡察の道筋からも外れた場所だが、山南さんはどうやってこんな場所を知ったのだろう。

 小さな甘味処へ入ったわたしたちは、客が少ないことをよいことに一番奥を陣取った。

 茶と汁粉をひとつずつ。

 今日も冷えるからと温かいものを頼んだ山南さんは、相も変わらず凛とした姿勢でこちらをみつめる。


「怒ってはいませんよ。わたしが、悪かったのですから」

「山南さん……?」


 ふと浮かべたほほえみは、いつもと変わらなかった。

 安堵するべきなのに、なぜかわたしの心は不安を訴える。

 運ばれてきた茶を右手のみですすった彼は、おだやかな瞳で汁粉を勧めた。

 そういえば昼餉はまだだったと、ゆるりと汁粉に口をつける。

 甘すぎず温かいそれは、冷えた身体の奥からじわりと熱を持たせた。


「脱走でもするのではないかと、思ったのでしょう?」

「……すみません」

「よいのですよ。そう思われても仕方のないことをしているのですから」


 ほほえんだ山南さんの表情はどこか儚くて、いまにも消えてしまいそうだ。

 思わず机の上に置いた左腕を、右手で思いきり掴んだ。

 なにを考えているんだ。そう自分を叱咤するも、一瞬透けてみえてしまった彼の姿が脳裏から離れない。

 ふるえを抑えるため、握る力は強くなった。

 そっと伸びてきた手のひら。ふるえる左手を包んだのは、山南さんの冷たい体温だった。

 ずいぶんと冷えているそれにおどろいて顔を上げる。

 どこか弱々しくほほえんだ彼の瞳はゆれていた。


「わたしは、最期に組のために、わたしにしかできぬことをするつもりです。近藤さんでも、誰のためでもない。ただこの国のために新撰組が動いてくれることを祈ります」

「やま、なみさん……?」

「あなたにだけは、知っておいてほしいのです。総司とおなじ顔で、総司とおなじように強くなりたいとねがっているあなただから」


 この人は、死ぬ気だ。

 言葉だけではない。瞳が、表情が、もう決めたのだと訴えている。

 汁粉に涙が落ちた。駄々をこねる幼子のように、いやだと首を振るわたしの左手は、未だ包まれたままだ。

 体温を吸い取られていくと錯覚するほど、山南さんの体温は少しも上がらない。

 このまま死んでしまうのではないか。そんなのはごめんだ。

 心も身体も強くなりたいと思ったのは、山南さんも含め愛する人を護るためだ。

 こんな咳が長引いているわたしには、まだまだ遠い道のりかもしれない。だが、引くわけにはいかない。引いたら手のひらからこぼれてしまうから。


「いや、です。いやです……! あなたがいなければこの組は……」

「いまの組にとって、わたしはお荷物なのでしょう。いまでは組長のほとんども屯所異動に賛同している。刀を握ることもなくなったわたしだが、立場だけはある。だからこそ無視はできない。そうでしょう?」

「そんなこと……!」

「少なくとも、土方さんはそう思っていますよ」


 諦めたようなほほえみ。山南さんがいなければ、いまの組はなかった。誰もがそう思っているはずなのに、なぜ本人がここまで否定的なのか。

 首を振り続けていなければ、彼はほんとうに生命を投げだしてしまう。

 それは予感でも想像でもなく、未来に実際に起こるようなことのように思えた。

 ふと、ふるえる左手がほほをなでた。

 その冷たさに、一瞬ぞくりとした。だが、それ以上にふるえが以前より激しくなったように思えて、反射的にその手を握る。

 笑みを深くした山南さんに手を離された。手持ち無沙汰になり、机の上で指を絡める。


「少し冷めてしまいましたが、せっかくなのでいただいていきましょうか」


 もうあの話は終わりだ。両手で涙を拭われ顔を上げると、そういわんばかりの笑みで汁粉に箸をつける山南さんが映った。

 その笑みをみてしまうとなにもいえなくて、おなじように汁粉を口に運ぶ。

 甘いはずのその汁粉は、涙のせいか少し塩辛くて。そして、胸のうちのように苦かった。

 屯所へ戻ると、平助からの文が届いていた。卯月には戻る予定だというそれを胸に抱く。

 平助が戻れば、あのやさしさで山南さんも救ってはくれないだろうか。

 他力本願にもそうねがってしまうあたり、わたしはまだまだ弱いのだと苦笑する。

 文机に重ねられた文の束を簪のしまいこまれた場所に、それを隠すようにしまう。

 心の底で感じている不安にふたをすることもできず、誰にもいえない感情を咳として吐きだした。

 如月ももう終わるというのに、今日はとくに底冷えする。

 近ごろ少し暖かい日が続いていたからこそ、なんとなくいやな予感が胸をよぎった。

 障子を開けてひとつ身ぶるいすると、朝稽古のために足を進める。

 と、そのときだ。伊東さんの講義に通っていたとみられる隊士のひとりが、大声を上げながら慌ただしく床を鳴らしていた。


「なにかあったのですか?」

「沖田先生! 大変です、山南総長が……!」


 汗だくで走ってきた彼を呼びとめると、青白い顔とふるえる手で文を差しだした。

 これはなんだと問う前に、目に入った文字。それに刻はとまってしまう。

 江戸へ戻ります。山南さんらしいうつくしい文字は、それ自体が決意の証だとでもいうように、力強く書かれていた。

 やはり、この人は──。

 あの日、彼の心をとめられていれば。そんな後悔が押し寄せ、文にしわが刻まれる。

 にじむ涙をどうにか耐えて、文を預かったまま近藤先生の部屋へ向かった。

 もちろん、しっかりと他言無用だと叩き込んで。


「近藤先生、おはようございます。起きていらっしゃいますか?」

「おお、沖田くんか。どうした?」


 障子の前。正座を作ったわたしが声をかけると、すぐにそこは開かれる。

 すでに身支度を済ませていた近藤さんは、笑顔で出迎えてくれた。だが、稽古着のままを文を握りしめるわたしをみて一瞬訝しげな表情をみせる。

 部屋へ招き入れられ、幾度も議論の場となっている局長室へ足を踏み入れた。


「近藤先生、これを」

「これは……?」


 近藤先生が上座に腰を落ちつけたのを確認して、握りしめた文を手渡す。

 少し首をかしげながら開いたそれの内容に、みるみるうちに眉間にしわが寄っていく。

 どこでみつかった。そう問いたげな近藤先生の視線に、手に入れた経緯を話す。

 あの隊士を呼んでくるよういわれるだろうか。その予想は裏切られ、緊急に幹部を集めるよう指示を受けた。

 なにを話すつもりなのだろうか。彼にくわしく事情を訊く必要はないのだろうか。

 そう思いつつも、近藤先生の言葉には逆らえずそれぞれの部屋へ足を進めた。

 退室する際にみえた、近藤先生の悩ましい表情。きっと近藤先生も、どうするべきかを測りかねているのではないだろうか。

 淡い期待だとは承知しているが、そう思わざるを得なかった。

 組長それぞれの自室。副長室、参謀室。そして、ずいぶん遅れたが稽古場にも顔をだす。


「今日の稽古は各自でやってください。怪我はしないよう、気をつけて」


 平隊士たちの挨拶を流し、おなじく当番だった左之さんを連れてその場をあとにする。

 なんだ、どうした。そんな声がうしろからも横からも聴こえる気がするが、そんなことはいまはどうでもよかった。

 近藤先生の局長室に集まったのは、山南さんを外した面々。その顔ぶれで、永倉さん辺りはなにかを感じ取っているようだ。


「みな、これをみてくれ……」


 先ほどとは一転。ずいぶん弱々しくなった近藤先生の言葉尻。

 わたしが席を外している間になにがあったのか。それは土方さんの眉に刻み込まれたしわがすべてを物語っているように思えた。

 目を通したそれぞれが、驚愕を顕にしていく。

 なにがあっても、とはいわない。だが、みすみす生命を落とすとわかっていてこんなことをする人ではない。

 山南さんをよく知る組長たちの瞳は、口にださずともそういっていた。

 こんなときに込み上げてきた咳が耐えきれず、幾度も咳き込んでしまう。

 一瞬案じ顔になった面々。しまったと思いつつ、となりで背をなでてくれる一くんの手のひらの温かさを感じた。


「……あの人が脱走なんてするはずねぇ。そうだろう、なあ!?」


 日ごろめったに声を荒らげることのない永倉さんが、耐えきれずといった様子で叫んだ。

 びりりとふるえた空気。誰も、近藤先生すらも口を開くことができない。

 永倉さんが握ったこぶしはふるえていた。

 視界の端で、伊東さんが山南さんを擁護しようと口を開きかけた。だがそれは、土方さんの言葉に遮られる。


「じゃあなんだ? こんな文残して黙ってでて行ったのが、脱走じゃねぇってのか?」

「……っ。しかし……!」

「あの人が、自分の意思ででて行ったんだ……。おれたちはそれを赦すわけにはいかねぇ」

「歳……」


 土方さんの手に渡っていた山南さんの文が、ゆらりとゆれる。

 飛びかからんばかりの勢いで顔を上げた永倉さんの言葉は途切れた。

 鬼の副長に似合わない、涙を耐えるような表情。永倉さんは唇を噛みしめてうつむいた。

 思わず口をついたのだろう。近藤先生がふと小さく土方さんを呼ぶ。

 土方さんの覚悟が重い。誰も動けない。

 土方さんが、山南さんを赦すはずもない。誰かが連れ戻さなくてはならない。だが、行きたくない──。

 きっと、わたしたちの誰もがそう思っていることだろう。


「わたしが……行きます」

「おまえはだめだ」

「なぜです……!」


 少し咳き込みながら立ち上がる。一同の視線が突き刺さった。

 今日の土方さんはやけに表情が顔にでる。

 わたしが手を挙げるとは思わなかったのだろう。目を見開いておどろきを顕にしていた。

 だがすぐに目をそらし、苦々しげにいい放つ。

 思わず声を荒らげたわたしをとめたのは、となりに座っていた一くんだった。

 冷静を装いつつも哀しげな色のにじむ瞳で首を振られては、わたしも冷静さを取り戻さざるを得ない。

 ぎりりと、奥歯がいやな音をたてた。


「おまえ、近ごろ体調がよくねぇだろ」

「大事はありません。ただの風邪です」

「……わかった。沖田くん、わたしの馬を使いなさい」

「近藤さん!」


 土方さんが、幾度も咳き込むわたしを案じているのは明白だ。

 総司とおなじように案じてくれていることにはうれしく思う。だが、それとは別に、山南さんを追う役目は、きっとわたしにしかできないとも感じていた。

 瞳からそれを受け取ったのは、近藤先生の方が先だったようだ。

 少しの間を置いて指示をだした近藤先生に、土方さんが噛みつく。

 大津まで追ってみつからなければ帰ってこい。と続けた言葉の節々からは、山南さんが逃げ延びてくれることをねがっていることが手に取るようにわかった。

 ふるえる肩を自ら抱き、近藤先生の馬を借りるため足を進めた。

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