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お春  作者: 生川 恵愛
第参章
16/27

第拾伍話:新たな階級、ふるえる左手

 江戸に向かった平助からは、ときどき文が届いていた。

 どうやらすでに江戸へ到着したらしく、いまはもともと寄り弟子として通っていた道場の主を勧誘しているという。

 伊東大蔵という平助の師は相当な実力者であり、どうやらその付近ではずいぶんと好かれているようだ。

 容姿端麗で弁もたつ上に、勘もするどい。道場に婿として迎えられるほどの剣の腕を持っているとは、みたこともない相手ではあるが少々うさんくさい。

 徐々に増えていくその男の話題に、彼は新撰組に入隊するだろうと思っていた。

 予想通り。武家伝奏の身辺警護として江戸へ向かった近藤先生たちは、伊東さんほか新入隊士を連れて京へ戻ってきた。

 すでにひと月は経っていたが、近藤先生のうしろに平助はいない。代わりに預かってきたという文を手渡された。

 伊東さんの勧めにより、平助はまだ江戸に残って隊士を募るという。瞬間よぎった、余計なことを。という伊東さんへの悪感情へ蓋をする。

 このひと月、なんとか寂しさをごまかしてきたわたしは、このころから山崎さんや山南さん、一くんとともにすごすようになった。


「あんた、ここきすぎやろ。藤堂組長に知られたら怒られんで。……おれが」

「いいじゃないですかー、暇なんですもん。平助も戻ってきませんし」


 薬の匂いがただよう山崎さんの部屋で、暇を持てあましていたわたしはごろりと横になった。

 となりでは山崎さんが根やら葉やらを砕いて混ぜている。薬を作っているらしいが、知れば知るほど器用な人だ。


「山崎さーん」

「……なんやねん?」

「暇です」

「知らんわ」


 すっかりいついているわたしに呆れているのか、邪魔をするなといいたいのか。かぶせ気味の返答に唇をとがらせる。

 一度足をばたつかせたことがあったが、薬にした粉が飛び散ると鉄拳が飛んできたことがあった。

 なんだかんだと似たところのあるように思える山崎さんを、土方さんはもう相当信頼しているようだった。

 監察方としての隊務もあり、隊医としても動いている彼の仕事量は相当なものだろう。

 疲れもみせず動いている彼をこうして頼るのは心もとないが、わたしと平助の仲を知っているのは彼だけ。つい足が向いてしまう。

 きっと山南さん辺りはなにか気づいているのだろうが、それを口にだすのははずかしい。そもそもいまは、近藤先生が不在だったひと月分の仕事が残っているらしく、忙しない。

 長く吐いたため息が部屋に溜まった。

 いい加減辛気臭いと、山崎さんの批難する目線が痛い。

 苦笑をひとつ。巡察の準備のために部屋へ戻った。

 山崎さんがいるときは山崎さんの部屋へ。それ以外のときは、稽古をつけたりぼんやりと縁側に座ってみたりをくりかえしていた。

 ずいぶん空気が冷えてきて、そろそろ縁側にいては風邪が悪化してしまうと思うころ。伊東さんが異例の速さで昇格した。

 近藤先生の口添えがあったからだというが、平隊士も含め全隊士に疑問が残る。

 いままでの隊の編成は、局長ひとりに副長ふたり。下に組長が十名。そして組長の下に伍長。そのまた下に平隊士として十名ほどがついていた。それとは別に、監察方や勘定方などがいる。

 この形でずっとやってきたというのに、伊東さんを幹部に迎えるにあたり、近藤先生はこれを変更した。

 局長に近藤先生。副長はひとりとなり、土方さん。参謀として伊東さんが入り、山南さんは総長となった。

 すぐに組長とされたことには、疑問はありつつ稽古などをみていると納得できる部分もあった。だがこれはやりすぎではないのか。

 ずっと近藤先生についてきたわたしたち組長だけでなく、伍長や平隊士たちも思うところかできたように思える。


「屯所の移動を考えてんだ」

「……聴いていませんよ、そんな話」

「そうだったか? まあ、隊士もずいぶん増えたし、否とはいわねぇだろう?」


 朝餉が終わってすぐ。近藤先生の部屋に集まった幹部の面々は、事後報告ともとれる土方さんの言葉に言葉を失った。

 いままでならば、近藤先生や山南さんと話し合った上でこうしてわたしたちにも話すだろうこと。山南さんは膝に置いた右手を握りしめていた。

 たしかに、前川邸と斜向かいの八木邸だけでは手狭になっているのは事実。伊東さんも参謀となったため、自室を用意すべきだという近藤先生の意向もある。

 それでもひとこと相談があってもよかったのではないか。山南さんの気持ちが手に取るようにわかってしまった。


「そうだよなー。平の連中も足の踏み場もないような場所で寝てるわけだしよ。もっと広いところがありゃあいいけど。場所は考えてんの?」


 空気の読めない左之さんの呑気な口調。批難の目はさすがにないが、山南さんの気持ちを考えるとわたしたち組長は誰も口を開けずにいる。

 土方さんは、よくぞ訊いてくれた。といわんばかりに笑みを浮かべ、西本願寺を指定した。

 そこで一番に反応したのは山南さんだ。畳を殴りつけるように手のひらをついた。


「西本願寺ですって? ……なにを考えているのです!?」

「あそこなら場所は充分だ。なにしろ長州の連中を匿うぐらいあるんだからな」

「それにしたって……!」


 わざと煽るようないい方をする土方さん。熱を帯びる山南さんの声。

 火傷してしまいそうなほどの空気が痛かった。

 西本願寺。禁門の変の際、長州兵を落ち延びさせ、勤王派としてわたしたちも目をつけられていた場所だ。

 たしかにそこに屯所を置けば、監視もでき場所も確保できる。まさに一石二鳥。

 だが、わたしたちは血を浴びることの多い集団だ。土方さんは情報を吐かせるために拷問もするし、禁令違反での切腹もある。

 いくら長州寄りだとしても、幕府ができたころから続く有所正しき寺であることに代わりはない。殺生もいとわないというわたしたちを、受け入れてくれるとは思えない。

 土方さんはそれをわかっていていっているのだろう。僧兵もいない西本願寺側は、最終的にはわたしたちを受け入れるしかないということも。

 山南さんもそれはわかっているはずなのに反対している。


「ほかにいい場所があるってのか? 山南さん」

「それは……」

「なら、仕方ねぇんじゃねぇの? 土方さんも勝算があっていってんだろうしよぉ」


 突然土方さんの擁護を口にした左之さんの言葉に、山南さんは言葉をつまらせた。

 組長の中でも、永倉さん辺りはうなずくように山南さんをみすえている。

 なにもいえなくなってしまった山南さんに向けられる、土方さんの勝ち誇ったような笑み。

 江戸にいたころの面影は、ずいぶんうすれているようにみえた。

 一度それぞれに意見を考えてくるように。近藤先生の言葉で解散となったわたしの表情はそれぞれだった。

 左之さんや永倉さんのふたりは、屯所異動も場所にも賛成しているらしい。元来仲のよいふたりは雑談していた。

 感情が表情にでない一くんや、新たに組長に加わった尾形さん。伊東さんの実弟である鈴木三樹三郎さんなど、あまり会話したことのないような面々の表情はうかがえない。

 松原さんや武田さん。谷さんは、異動には万々歳だが、ほかに場所はないのだろうかと顔を寄せ合っている。

 わたしと源さんはというと、異動よりも山南さんを案じていた。

 あれほど強固に反対している山南さんだが、その意見は土方さんによって却下されてしまうのだろう。

 彼が仏といわれていた所以は、いつでも冷静でにこやかで、おだやかなところにあった。それがあそこまで熱くなるとは、よほど思うところがあるはずだ。

 土方さんもそれをわかっているはず。だが、彼もきっと信じた路を突き進むしかないのだろう。

 小声で話すわたしと源さんは、おなじように影を落としていた。

 結局、屯所異動については山南さんが最後まで反対していたが、土方さんが押し切る形となった。

 そのころからだろうか。隊士たちの交流も大切にしていたはずの山南さんは、自室にこもり気味になっている。


「山南先生、どうしたんだろうな」

「屯所異動の件が原因か?」

「いや、どうだろう。新参者の伊東さんが自分より上の参謀になったからじゃねぇかって話もある」

「──山南さんはそんなことを気にする人ではありませんよ」

「お、沖田先生!」


 稽古開始までの間。準備をしながら雑談する平隊士たちの声が聴こえていた。

 小声で話しているつもりなのだろうが、そちらへ意識を持っていきすぎている。

 竹刀を片手に笑みを浮かべて話に割って入ったわたしに、彼らは飛び上がるようにおどろいていた。

 隊士たちの間でさまざまなうわさが飛び交っているのは知っている。

 山南さんは、かわいがってもらっていたはずのわたしや、心を赦していたはずの源さんにもなにも話さない。だからこそ、より混乱を招いているのだ。

 稽古と称して先ほどの隊士を散々痛めつけたのち。わたしは身体が冷える前にと汗をぬぐってから、山南さんの部屋を訪れた。

 ときおり、思いだしたかのようにもれる咳を押し殺し、障子戸の前から声をかける。


「山南さん、沖田です」

「どうなさいました?」

「いえ、なにかあったわけではないのですが……。少しお話でしないかと思いまして」


 前ならここで笑顔で迎えてくれたはずだ。

 だが、返ってきたのは沈黙。悩むようなその間に、胸がつまる。

 体調が芳しくないと入室を断られてしまった。

 肩を落とさないといえばうそになる。だが、山南さんがひとりになりたいと思っているのなら、むりにそこへ入り込むわけにもいかない。

 こんなとき、平助がいたならどうするだろう。

 ふと考えてしまったことに苦笑がもれる。

 会いたいと騒ぎだしてしまった心を抑え、素振りでもしようかと稽古場を目指した。


「やあ、沖田くん、でしたね?」

「……伊東さん」


 そのとき。ちょうど前方から歩いてきた伊東さんに声をかけられた。あまり近寄ってはいなかったが、うさんくさい笑みを浮かべる人だ。

 愛想笑いを浮かべ頭を下げたわたしに、伊東さんは笑みを深める。

 平助から話は聴いているという彼。余計なことは話していないはずだろうと、平助のことを思い浮かべた。

 土方さんとおなじように腕を組んで話しているのに、なぜこの人はこんなにも威圧感を消せるのだろう。

 これが当たり前だと思えるほど、自然な立ち姿だ。


「藤堂くんからは、ずいぶんと仲のよい“友人”であり仲間だと聴いています。江戸から文を書いていたことも知っていますよ」

「そうですか。ぶじにこちらへ戻ってきてくれるとよいのですけど」


 やけに強調された“友人”の言葉。するりと音もなく一歩近づいてきた動作に、冷や汗が背をなでた。

 貼りつけた笑みを浮かべたままわずかにあとずさり、本音混じりの言葉を吐く。

 この人は、苦手だ──。

 稽古を理由に逃げたうしろ姿をみつめ、品定めするように目を細めていたことなど、わたしは知らなかった。

 風のうなり声が鳴る。まばらにいる隊士に稽古をつけることもなく、隅の方でただひたすらに素振りに打ち込んだ。

 山南さんのこと、平助のこと、伊東さんのこと。すべてを振り払うように、ただ身体を動かしている。

 こんなときに限って山崎さんはいないし、なにも訊かずにいてくれる一くんも隊務のため不在。山南さんには甘えられない。

 ふと、山南さんのことを考える。やはり屯所異動のことだろうか。

 それとも、やはり伊東さんの異例ともいえる昇格か。いや、それに関しては、そんなことを気にする人ではないと思う。

 上がった息が咳に変わり、手をとめた。咳が治まるともれた息は、果たして咳き込んだためか、ため息か。

 すっかり寒くなったというのに額を流れる汗をぬぐい、手ぬぐいを肩にかけたままそこを抜けだした。

 いま、誰かに会っても笑顔を作れる気がしない。ため息混じりの咳を何度かくりかえしながら、自室へ戻る。

 障子を閉めた途端安堵するようにもれた吐息が、冷えきった部屋に白く溶けた。

 火をもらってくるのを忘れていた。火のついていない火鉢を視界に入れて、しまったと額を叩く。

 寒さよりも面倒くささが勝ってしまい、壁伝いにずるずると座り込む。

 疲れた身体に伝う汗が冷えた空気にふれて引いていく。寒いと感じていながら、ぼんやりとした頭ではそんなこと考えてもいなかった。

 眠いのか、疲れているのか、それとも別の理由からか。半分ほど閉じたまぶたで視界がぼやけたまま、畳をみつめていた。

 どれほどの刻が経ったのか。自分のくしゃみで我に返ったわたしは、薄暗くなった部屋におどろいた。

 と、ちょうどそのとき。障子の前で一くんが夕餉ができていると声をかけてくれた。


「すみません、わざわざ呼びにきてもらって」

「いや、構わない。身体は辛くないか」

「ええ、平気ですよ」


 ほほを掻きながら咳き込んだわたしの背に、一くんの大きな手のひらが添えられた。

 案じ顔で覗き込む瞳はあまりにもまっすぐで、心の中までも知られてしまいそうだ。

 何度か咳をしているのをみられてしまっている。平助がいないからか、いまの一くんは少し過保護になっていた。

 笑顔をみせると安堵したようにほほえむ一くんの表情は、すでに見馴れたもの。ほかの隊士がいないときは、彼もずいぶん表情豊かになったと思う。

 となりを歩く彼の歩幅は、いまほしい歩幅ではなくて、それがまたさみしさを募らせる。

 だが、いまそれを思っていてもはじまらないと、心中自分ほほを張った。

 組長以上が集うこの部屋。見馴れた部屋のはずなのに違和を感じてしまう理由はわかっている。

 上座に増えた御膳。となりに座る相手もちがう。

 もうひと月以上経っているというのに。近ごろ参謀として上座に座る伊東さんの姿に、違和感のみが広がっていた。

 近藤先生のとなりが、土方さんと山南さんでないなんて。

 なんともいい難い違和に、思わず目をそらした。


「あれ、山南さん。おでかけですか?」

「ええ。……ともにきますか?」


 隊務も終わり、今日も山南さんに声をかけてみようと部屋へ向かう。

 ちょうど屯所の門を潜ろうとする彼がみえて、思わず縁側から声をかけた。

 どことなく影がありながらもほほえんでくれたことに安堵して、考える間もなくうなずく。久方ぶりに山南さんと話せることがうれしかった。

 散歩か、はたまた甘味処にでも行くのか。

 ついてくるか。そう訊かれた時点で、そんなところだろうと予想していた。だが実際に足をとめた場所は島原の角屋。

 わたしは訪れたことはないが、隊士の多くが通うことで名は聴いたことがあった。

 その隊士の中に山南さんまでもが入っているとは思わなかった。


「実はね、女性に会いにきたんだよ。ともに、会ってくれるかい?」

「……ご一緒して、よかったんですか?」

「もちろん。彼女に会わせたいと思っていたところだ」


 しばらくみられなかった山南さんの笑み。それにつられたほほえみを肯定と受け取ったらしい。

 戸をくぐった山南さんについて行く。馴れた様子で奥の座敷に案内されたわたしたちを待っていたのは、どこか山南さんに似た雰囲気を持つ女性だった。

 明里と名乗った彼女は特別美人ではないと思う。お梅さんがうつくしすぎたこともあるだろうが、はっと見惚れるほどでもない。

 だが、凛とした佇まいとやさしげな目もと。動作もほかの遊女よりゆったりとしていながらも機敏だ。

 まっすぐで聡明そうな眼差し。鈴を転がしたような高くも爽やかな声が心地よい。

 山南さんが女であればこんな感じだろうか。そう思わせる女性だった。


「沖田はんのことはかねがね聴いとります。よういらしてくだはりました」

「いえ……」


 印象よりも若そうなほほえみに戸惑ってしまう。そもそも、山南さんにそんな相手がいたことすら寝耳に水なのだ。

 小さく首を振ったわたしの肩に、山南さんの手が乗せられた。

 少し緊張しているようだ。山南さんがそう告げると、明里さんはどこか安堵した様子でほほえんだ。

 わたしも山南さんも、嗜む程度にしか酒は好まない。ましてや昼間から飲むようなこともしない。

 茶と甘味を用意してくれた明里さんに礼を告げ、そっと口をつける。

 どことなくいやな予感がくすぶっているからか、茶がいつもより苦く感じた。


「明里は、どうでしたか?」

「そう、ですね……山南さんのような人ですね」


 屯所への道すがら。突然問われたことに一瞬悩む。

 一瞬目を見開いた山南さんだが、おかしそうに笑いだした。

 妙なことをいっただろうか。少し呆気にとられて山南さんを眺めていると、ふと頭をなでられる。

 最初のころ、山南さんにもらった髪紐がゆれた。

 それをみつめる切なそうな眼差しに、胸が締めつけられるような気になる。

 それを感じた瞬間、何度か咳がもれた。

 ああ、山南さんにも気づかれてしまったか。

 いい加減長引きすぎているとは感じているが、医者に行きたくはなかった。

 微熱も咳も、少し馴れてしまったのかもしれない。


「……少し熱がありませんか?」

「そうですか?」

「ごまかすものではありません。ああ、やはり気のせいではなかった」


 咳き込んだゆえの息の荒さを整えながら、どういうことだと山南さんへ視線を向ける。

 案じ顔の山南さんに、いつから咳が続いているのかと問われた。

 平助の江戸行きが決まったころ。それを口にだしては余計な心労をかけてしまうと、口をつぐんだ。

 わたしの態度から、医者へは行っていないのだろうと結論づけたのだろう。

 山南さんは屯所へ戻るなり、近ごろはあまり人のこないという自室へ連れて行った。


「医者へは行っていないのでしょう? 咳や微熱はいつから続いているのです」

「いわなくては、いけませんか……?」

「いわぬのであれば、いますぐ連れて行きますよ」


 いつもの場所へ座した山南さんの表情は、厳しいながらも案じ顔だった。

 試衛館のころ、いたずらをしては怒られていた総司を思いだす声。叱るときの山南さんは、仏の顔を隠す。

 ついうつむいてしまった顔をゆるゆると持ち上げ、上目遣いに見上げた。浮かべられた満面の笑みがおそろしい。

 いまにも、有無をいわさず町医者へ連れて行かんばかりの言葉に、深くため息がもれる。

 彼に露見してしまってはこうなるだろうと予想はついていた。ついてはいたのだが……やはり話したくはなかった。


「平助の、江戸行きが決まったころでしょうか……。あのときは、ただの軽い風邪だと思っていたのですが」

「いままで長く続いていると?」


 自然と、諦めたようなほほえみがもれる。どちらにせよ、逃げられはしないのだ。

 わずかに眉間にしわを寄せた山南さんは、顎に手をあてて長くため息を吐いた。

 目線すら合わないものの、なぜすぐに医者へ行かなかったと叱られているような気になる。

 実際、叱られてもなにもいえないのだが。

 山南さんも、ほんとうはわたしの食欲がまたなくなっていることに気づいていたらしい。

 山南さんだけではなく、ともに食事している面々の大方は気づいていたようだ。

 たしかに食はまた細くなっていたし、熱っぽいときはとくに食べるのが辛かった。だが、隊務もしっかりこなしていた自信はあった。

 平気だと思わせていたのはわたしだけだったのか。見開いた瞳が涙ににじみそうで、必死にこらえる。


「ただ、咳や微熱まであるとは思いませんでした。同室で仲もよく、気を赦している様子の藤堂くんが長く不在となるので、それが原因かと。やはり不安なのかと思っていたのですが、見当ちがいでしたね」


 先ほどまでの表情から一転。山南さんは切なげな案じ顔でわたしのほほに触れた。

 前に触れたときより冷たく感じる手のひら。わたしの熱のせいか、山南さんの手が冷たくなったのか。

 その体温よりおどろいたのは、小さくふるえている左手だった。

 それでも、顔を上げたわたしの瞳に映ったのは、先ほどと変わらない表情の山南さん。

 ただ案じてくれているだけなら、左手だけがこんなにもふるえることなどないだろう。

 そう思いながらも、わたしはなぜふるえているのか、問うことはできなかった。


「わたしはね、もう刀を握ることはできないのですよ」


 わたしの視線の先に気づいたらしい。

 山南さんはなんでもないようにほほえみながら、しかし瞳の奥では悔しげな色をにじませていた。

 兵法を学び、刀を握り続けてきた山南さんにとって──いや、新撰組に籍を置くすべての人は、刀を握れなくなればそれで終わりだというだろう。

 近藤先生は、土方さんは、知っているのだろうか。ふるえる声で訊いたはずの言葉は、言葉にならないまま重い空気に溶けた。


「医者へね、行ってきたのですよ。ふるえがとまらなくなってしまってから。……前々から、思ってはいたのです。しかしそれに目をつむり、ずいぶんと刀を握る機会を遠ざけてきてしまった。わたしの居場所はどこにあるのでしょう」


 試衛館にいたころは、よかった。

 山南さんがつぶやきが、胸に痛かった。

 わたしに話した理由はわからない。もしかしたら、総司として生きながらも総司ではないわたしに、なにかを伝えようとしているのかもしれない。

 明里さんに会わせてもらったときにも感じた、悪寒を伴ういやな予感。着物の下に隠れた皮膚が粟立った。


「ここには、居場所がありませんか……?」

「そう、ですね……。近ごろはどうも」


 山南さんの言葉には、たしかに迷いがあった。悩むような動作もみせていた。

 だが、困ったようにほほえんだその表情は、彼の中にあるわだかまりを主張していた。

 得体の知れない恐怖に指先がかすかにふるえる。

 それをごまかすため両手を絡めるように握りしめ、そっとまぶたを伏せる。

 落ちつかなければと思うほどに、呼吸が浅くなる気がした。


「刀を持てぬ武士など、武士ではありません」

「山南さん……」

「ですから、わたしはわたしにできることをするつもりですよ」


 そういったほほえみは、たしかに昔総司に向けていたのとおなじようにおだやかだった。

 それでも、わたしには伝わってしまう。なにかを決意したその胸のうちが。

 けれど、それがなにかまではわからなくて。泣きだしそうな心を押し殺してほほえんだ。

 もし、彼がなにかをしようとするのなら、わたしがとめよう。

 総司を愛してくれた人を、みすみす失うわけにはいかない。

 そう決意して退室したわたしは、部屋に戻る途中で咳き込んでしまい、しばし動けなくなるほどだった。

 その夜。障子の奥にみえるはずの月を思いながら、山南さんの笑顔を思い浮かべる。

 温かくなったはずの布団が冷たくて、寒くて。思わずみぶるいをした。

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