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お春  作者: 生川 恵愛
第弐章
14/27

第拾参話:“愛”のかたち

 洛陽動乱で負傷していた、安藤くんと新田くんがこの世を去った。

 洛陽動乱でも、そののちの治療でも。必死に戦い続けた彼らに賞賛を送るべきだと思う。

 だが、それと同時に、これが平助でなくてよかった。そう思ってしまう自分に嫌気がさしていた。

 あの甘味処の会話から数日。一度山崎天王寺へ侵攻し、帰還するとすぐさまふたりの隊士がこの世を去るという慌ただしさの中。わたしと平助の仲はこれまで以上に気まずくなっていた。

 理由はあの甘味処。平助への“好いている”という感情は、いわれてみれば近藤先生たちへの思いとはちがう。

 近藤先生は、もちろん恩師として慕っている。源さんは、母のような父のような、そんな慕い方だ。

 山崎さん、山南さん、土方さんをはじめとする少し歳の離れた面々は、仲間であり兄のような存在でもある。

 平助とおなじ齢である一くんは、非常に頼りになる仲間だ。

 平助も、もちろん仲間ではある。だが、一くんに対するものとおなじものかと訊かれると、それはちがう。

 洛陽動乱からみななんだかんだと忙しくしているし、相談できる相手もみつからない。

 なりを潜めていたため息というくせが再発していた。 月明かりが照らす縁側。夕涼みと称して腰を下ろしてから、もうどれほど経っているだろう。

 そして、どれほどのため息を落としただろう。

 遠くで虫の鳴く声が聴こえる。それにほんの少し癒されながら、平助に対する気持ちの答えを考えていた。


「沖田組長? どないしはったんです?」

「山崎さん、よいところに! 少し、教えていただきたいことが……」

「……藤堂組長とのことやろ」


 女であることを知っていて、信頼もできて、そしてなにより兄のような存在である彼ならば。

 そう思って飛びついたものの、呆れたような笑みとともに敬語の消えた彼に、思わず苦笑がもれる。

 ひとつうなずき、山崎さんの提案で誰もいないという自室へ向かった。

 平助に感じている、となりにいて安堵するという気持ち。一くんに感じている“仲間”という気持ちとはまたちがう、温かななにか。

 その答えがほしい、この感情に名前があるなら教えてほしい。口にすると、なぜだか胸が熱くなった気がした。


「ほな沖田組長は、藤堂組長とどうなりたいん?」

「どうなりたいというか……護りたいです。この生命に変えても、傷のひとつもつけたくない」

「……ずいぶん男前やなぁ」


 女子とは思えないと笑う山崎さんに、どうにも複雑な思いを抱く。

 たしかに身体は女子だ。だが、もう総司を護れなかったときのような、山南さんや源さん、平助に思いを指摘されてようやく気づくような、そんな弱い自分とは決別したい。

 感覚だけで奮っていた総司の太刀筋も、自分のものにしてみせる。総司として生きるためだけではなく、自分自身が大切だと思えた人々を護るために。

 そう決意したばかりのわたしに、その言葉は少々複雑に聴こえてしまった。


「気持ちには形はないやろ? せやけど、たしかにそこにあるもの。それがあるから、人間らしく生きていかれるんやと思う」


 そう切りだした山崎さんの表情は一転し、真剣な眼差しとなっていた。

 無意識に背筋を伸ばし山崎さんをみすえる。

 人間らしさというのは、感情即ち気持ちからきているのだと、山崎さんはいう。

 そして、人間は気持ちに名前をつけたがる生き物だ。

 形ないものを形作ろうとして、まずはじめに名前をつける。自分の中で名前をつけたそれを、大切に育て上げたものが“気持ち”。

 それでもやはり感じることしかできないそれをまちがえることもあるし、おなじ名前で複数の意味をもつこともある。

 そして、最も厄介なのは“愛”だ。


「愛、ですか?」

「せや。“愛”ってな、ぎょうさん意味があんねん。“家族愛”もせやし、“仲間”も愛の一種やと思うとる。“信頼”という名の“愛”や。愛しとっても、信頼がなくなったらそこでしまい……愛憎は表裏一体やから」


 “愛”と、“憎しみ”。

 決して交わることのないと思っていた感情のふたつ。裏を返せば憎しみを抱くというのか。

 愛していても、なにかの拍子にそれが壊れたとき、人は相手を憎むことで己の心を守る。

 山崎さんのひとことは、それを知っているかのように切ないひびきをもっていた。

 そして、いくつもある中で最もそれが顕著に現れるのが、恋愛の“愛”。

 まじめな話をしていたと思っていたが、またすぐに一転。山崎さんはこちらへ身を乗りだして、愉しげな笑みを浮かべた。


「藤堂組長と、恋仲になりたいとか思わへんの?」

「こ、恋……!?」

「抱きしめ合うたり、口吸うたり、しとうない?」


 抱きしめ合ったことは、ある。正確には抱きしめられたのか。

 急激に熱を集めはじめたほほを両手ではさんだ。きっといま赤くなっているのだろうと容易にわかる。

 気がつくと、座しているわたしを押し倒さんと山崎さんが右手をついていた。

 呆気にとられるように顔を上げたわたしの視界には、いままで感じたこともないような色気を醸しだした山崎さんの笑み。

 それをみた瞬間、全身が心の臓になったかのように、うるさく聴こえた。

 徐々に近づいてくる笑み。逃げようと尻もちをつく形になったわたしの腰が捕らえられる。

 どうすればいい。これは一体どういうことだ。

 混乱し真っ白になった頭で、必死に打開策を考えようとする。

 鼻先が触れるほどの距離になると、畳についていた両手がふるえていた。


「おれがこないしても、うれしないやろ?」

「……っは、え?」


 突然山崎さんの身体が離れる。無意識に息をとめていたらしいわたしは、ようやく息を吐くと素っ頓狂な声を上げた。

 飛びだしてきそうなほど大きく鳴る鼓動。未だに真っ白なままの頭の反面、心ではたしかにうれしくはなかったとつぶやいている。

 こうされて、うれしい相手はいるか。

 その問いに頭に浮かんだのは、照れた表情の平助だった。

 火でもついたように熱くなる顔。慌てて隠すように両手で押さえたものの、それはみられてしまっていたようだ。

 吹きだすように笑いだした山崎さん。思わず睨んだわたしの眼光は、きっと弱いものだろう。


「そうやって触れ合いたい相手、わかっとるやん。それがまあ、俗にいう“好いとる”て感情の現れとちゃうかな? もちろん、“となりにいて安心する”んも、“いるのが当たり前”になるんも、形はちがえどおなじ気持ちなんやろうしな」


 ふいに頭に乗せられた手のひらが髪をなでる。

 “愛”とは最もむずかしい感情なのではないか。憎しみにも変わり、形もそれぞれにちがうらしい。

 おなじ人であろうとも、恋仲に対する思いは相手によっても変わるものなのだろう。

 総司を案じることしかしてこなかったわたしには、むずかしすぎる感情だ。

 山崎さんの大きな手のひらが頭から離れる。

 少し名残惜しく思いながらも、伏せていた視線をゆるりと上げた。

 先ほどとは打って変わって、包まれるようなやさしいほほえみ。つられて笑顔になってしまうそれは、山南さんのものと酷似していた。


「おれが教えられるんはここまでやな。あとはまあ藤堂くみ……いや、その頭に浮かんだ相手に伝えるんもよし。伝えずにおるんも、また一興や」


 迷いが晴れたような、むしろ霧が深まったような。そんな状態ではあるが、またひとつ学べたことはうれしい。

 山崎さんに礼を告げると、いま一度頭をなでられた。

 すっかり遅くなってしまったと、足早に部屋に戻る。平助は既に床についていた。

 起こさないようそろりと足を伸ばす。泥棒のようだと自分自身への笑いを堪えながら、布団へ潜り込んだ。

 となりで眠る平助との間に、屏風はもう置かれていない。

 寝返りを打つとみえる彼の寝顔に、息がつまるような思いを感じた。

 自然と笑みがこぼれる。手を伸ばしたくなる。

 先ほどあんな話をしていたからだろうか。彼に触れてみたくて仕方がない。

 いましがた入ったばかりの寝床から抜けだし、四つん這いの状態で枕もとへ向かう。

 起きてしまうかもという懸念は、杞憂に終わった。

 ほほにかかる髪を払う。身じろぎをした彼に、つい手を引いてしまうが、指先でほほをなでた。

 仔犬のような寝顔に癒されている心を感じ、無性に照れくさくなる。ごまかすように、肩から落ちた髪を耳にかけた。

 起きてしまうだろうか。頭のどこかで冷静に考えている。

 それでも触れていたい。どこか熱を持った心が告げている。

 抱きしめるような形で、やわらかなほほに自分のそれを寄せた。触れた部分が火傷してしまいそうなほどに熱くなる。


「お……はる──」


 突然呼ばれた名に慌てて飛び退く。心の臓がとまるかと思うほどおどろいた。

 我に返った瞬間。なんてことをしていたんだと、ほほに熱が集まった。

 先ほどから赤くなってばかりだと思いつつ、起こさないよう寝床へ向かう。

 平助に背を向け赤い顔を隠し、寝よう寝ようと思うほどに寝つけなくなった。

 平助は起きていないだろうか。起きていたらどんな顔をされるかわからない。

 恐怖とも期待ともとれる動悸がする。右手で寝間着ごと胸を鷲掴み、気を落ちつかせるように何度も深く息をした。

 実は目覚めた平助もほほを染めていることなど、わたしには知る由もない。

 翌朝。なにごともなかったかのように装いながらも、わたしはどこか固くなっていたように思う。

 一くんにすら違和を指摘される始末。いまになって思えば、たまたま廊下ですれちがった山崎さんも、どこかにやついているようだった。

 騒がしいが兄貴肌の左之さんとの巡察中、わたしのため息は十歩も保たなかった。


「なんだよおめぇ、なんかあったのか?」

「……なぜですか?」

「いや、みりゃあわかるだろ、それぐらい。ため息ばっかついてっと老けるぞー?」


 得物を持ったまま器用に頭のうしろで手を組んでいる左之さんは、ちらりとこちらに視線をやった。

 返す言葉もため息混じりのわたしに、さすがの彼も苦笑をもらす。

 彼に苦笑をもらさせてしまうとは。しかし、総司と変わらず案じてくれる彼にはうれしく思う。

 小さく首を振り、なんでもないと告げようとするが、ふと目線を上げた先にある光景に足がとまってしまった。


「お? ありゃあ平助じゃねぇか! あいつも黙ってりゃあ男前だからなぁ。ま、おれには負けるけど!」


 左之さんの声が遠く聴こえる。耳の奥になにかがつまったように、すべての音が遠ざかっている。

 平助はかわいらしく着飾った女子とともに小物屋を覗いていた。

 談笑し、ときおりもれる笑い声だけが、わたしの頭にひびいているようだ。平助の照れている表情がみえる。

 みていたくはないのに、目をそらせない。無意識に握りしめていた手のひらに爪が食い込む。

 痛みにようやく我に返ったわたしは、平助たちから顔を背けて歩きだした。


「左之さん、行きましょう。下手に声をかけない方がよいですよ」

「あいつもいよいよ恋仲ができたんだな、初なやつだったから心配してたんだよ!」


 初なことなど知っている。いっそこの握りしめたままの拳を振り下ろしてやろうか。必死に八つ当たりを耐えた。

 それからため息は吐かなくなったものの、険しい表情で巡察を続けるわたしに、左之さんも声はかけられなかったようだ。

 左之さんに報告を任せ、自室へと足を向かわせていた。

 すれちがう隊士たちはみな一様に道を開ける。いつも以上に丁寧な挨拶を躱しながら、ようやく到着した自室の障子を思いきり閉めた。

 未だ平助が戻っていないことが、先ほどの光景を裏付ける証拠な気がする。

 足がふらついて、壁にもたれる。そのままずるりと座り込んでしまった。

 思いだしたくもないのに浮かぶあの光景。針でも刺したかのように、胸が痛んだ。

 膝を抱え、そこに盛大なため息を落とす。膝と腹の間にため息の泉ができてしまいそうだ。

 わたしが自覚したからといって、平助に恋仲がいないとは限らない。いつもともにいてくれたから、勝手に思い込んでしまっていただけなのだろう。

 恥ずかしい。自分が情けない。

 弱い自分とは決別したいとねがいつつ、こうして未だ捨てきれずにいる。

 頭を上げ、薄暗い天井を眺める。最後にしようと身体中の息をすべて込めたため息を吐き、両手でほほを思いきり張った。

 いままで通り、昨日までの自分とおなじように振舞えばいい。わたしはなにも気づいてなどいない。

 そう、自分にいい聴かせた。


「うわ、いたのかよ」

「ああ、平助。おかえり」


 突然開いた障子にゆるりと目線を向けると、おどろいて声を上げた平助がいた。

 あのとき小物屋でみていたものは、あの女子に渡したのだろうか──。

 そんな考えがよぎり突然頭を振ったわたしに、平助は困惑していた。

 ちりちりと火傷の如く痛みはなんなのだろう。あの女子は誰だと訊いてしまいたいのに、訊くのが怖い。

 黙っているしかなかった。

 ぎこちなく近くに座し、なにかを話したげな。しかしいいずらそうにほほを掻く彼に、もしや先ほどの娘のことをいわれるのではと、手のひらに爪が喰い込んだ。


「あの、さ。お春?」

「……なんですか?」

「いや、あの、なんつぅか……」


 どことなく気まずい空気に、上目遣いで呼びかけてくる。潰れるほどの胸の痛みを感じ、思わず距離を取るように敬語になってしまった。

 怒っていると捉えたのだろうか。気まずげに目をそらすと、黙り込んでしまった。静まり返った空気が痛い。

 これはわたしが悪かった。渦巻くわけのわからない感情を、ため息とともに床に放り投げて、そっと平助に近寄った。

 こちらに顔を向けた彼の表情が、棄てられた仔犬のようにみえる。なにかしらの補正がかかっているとしか考えられないほど、彼のみえかたがちがう。


「ごめん、平助……八つ当たり」

「いいよ、なんかあったのか?」


 頭を下げるようにうつむいた。平助がみせてくれた笑顔は心底安堵したと語っている。

 この笑顔にあの娘も捕らわれたのだろうかと、ひとごとのように思う。

 いいじゃないか。わたしはもともとここにいるはずのない人間で、こうして笑顔を向けられるはずもなかった。

 理由はわからないが、こうしていま一度生きることを赦されて、感情を学ぶこともできたのだから、充分じゃないか。

 自分を慰めるような心のつぶやきに、心中苦笑がもれる。それを隠してほほえんでみせた。


「少し疲れてただけ。そんなことより、あの娘さんは?」

「みられてたのか」


 照れ隠しに笑う平助の表情をみた瞬間、胸に黒いもやがかかった。悟られてはいけないと必死に笑顔を作る。

 ようやく気づいた思いだが、総司として生きるのだとすれば、邪魔でしかないのだろう。

 おもむろに懐を漁り取りだしたのは、春風に吹かれて舞う桜の花びらのような、繊細な作りの銀の簪だった。

 ああ、あの娘はきっと春風のように暖かく、舞い散る花びらのように儚げで、それほど愛しい存在なのだろう。

 痛む胸のうちには気づかないふりをして、わっと声を上げた。


「いいだろ、これ。華やかすぎず、だからって地味すぎず。春の陽射しみたいに笑うやつに持ってこいだと思わねぇか?」

「ええ。ちらとみただけでも、とてもかわいらしかったし」

「いや、これは……」


 ぐ、と言葉をつまらせた平助に首をかしげる。

 あの娘さんのことを発しすぎただろうか。ごめん、とひとこと告げようと口を開きかけた。

 だが、口を開く前にその簪を持った手はこちらへ伸び、するりと髪紐を解く。

 なにを。目を丸くしたわたしを尻目に、抱きしめるような形で髪をまとめはじめた。

 目前には平助の喉仏。わたしにはないその凹凸に、意識が高まる。思わず唾液を呑み込んだ。

 不器用ながらもまとめ上げられた髪に違和を感じる。なぜ、これをわたしにつけたのか。先ほどの光景をみてさえいなければ、期待してしまっていただろう。


「あの人は、あの小物屋の娘さんだよ。おれ、女の物とかよくわかんねぇし、男ひとりで入ってきたから贈り物かって声かけられてさ。色々訊いていただけだ。これは、おまえに贈るために手に入れたんだ」


 胸がつまる。苦しくて息ができない。はらりと涙が落ちた。

 渦巻いていた黒い感情が、ただこれだけで消えていく。感動に変わったその感情は言葉にできず、涙に溶けていた。


「ありがとう……」



 手のひらで乱暴に涙をぬぐい、決してうつくしくはないだろう笑みを浮かべた。うまく伝えられない自分がもどかしい。

 まだ溢れだしそうな涙を堪えていると、ふと温かいものに包まれた。

 気づいたばかりの感情が、溢れてやまない。

 しがみつくように、背に腕を回し着物を握りしめた。途端、平助の腕の力も強くなる。


「これから、さ……。もし、女の格好することがあったら、それで飾って」


 彼の肩に額をこすりつけるようにうなずいた。


「……まあ、おれに最初にみせてくれると、うれしいんだけど」

「みせるよ……一番に。わたしがいま、“わたし自身”になりたいのは、平助の前だから」


 いってしまった。なにをいっているんだと、いわれないだろうか。期待しても、よいのだろうか。

 不安と期待と、留まることを知らない熱い思いが、わたしの中で交錯する。

 彼の前では、“わたし自身”でいたかったんだ。なにも飾らず、なにも隠さず、総司とは別の人間になりたかったんだ。

 総司への裏切りかもしれない。総司として生きる。そう決めたはずだろうと責められるかもしれない。それでも、血潮が流れるように伝わる思いは、そう告げていた。

 お互いに言葉はないまま抱きしめ合った。

 触れ合った場所から伝わってくる平助の体温が、わたしの身体を満たしてくれるようだ。

 またもようやく気づいた自分の感情。どうしてこう自分のことにすら鈍感なのだと悔しくなる。

 だが、きっと。となりにいるのが当たり前になるほどだったからこそ、この思いは芽生えたのだろう。

 どちらからともなく離れた体温に、名残惜しさが募る。

 座り込んでいるわたしと、膝立ちの平助。常とは上下が逆で、なにやらくすぐったい。


「平助……」


 無意識にささやいた名。瞳で返事をする平助の視線に耐えきれずうつむいた。

 彼はこれほどまでに、うつくしい瞳をしていただろうか。疼くように高鳴る胸を押さえ、言葉を呑み込んだ。

 なんでもない。笑顔で告げ、離れようとするわたしを、彼はいま一度抱き寄せる。

 息がとまってしまうほどの強い力。山崎さんに迫られたときはただ困惑していただけなのに、彼だとこれほどまでに胸が高鳴るのか。

 首もとにうずめられた頭がくすぐったい。彼の吐息が熱かった。

 彼の鼓動が痛いほどに高まっているのを感じ顔を上げる。交わった視線からは逃れられない。

 鼻先が、触れてしまいそうだ。


「なんで、逃げねぇの?」

「それは……っ」


 熱い吐息が唇にかかる。真剣な瞳に捕らえられ、身動きが取れない。

 それでも逃れようと身体をひねると、あっという間に壁に押しつけられた。

 身体も、心も、逃げられない。

 耳もとで太鼓を叩くような鼓動に、ついた腕がふるえていた。


「ずっといおうと思ってた。無防備すぎるだろ。誰にでもそんななの?」

「どういう……」

「最初も、女なのに恥ずかしげもなくさらしみせてくるし。しかも俺より強いし。すぐ泣くし、解決できねぇようなことを悩むし。ひとりで抱えこもうとするし」


 高鳴っていた鼓動が、わたしが呆気にとられるのと同時に治まった。

 けなされていると取ってよいのだろうか。つい先ほどまでの息もできないほどの空気はなんだったのだろう。

 みえないながらも、自分が間抜け面であることはわかる。

 一度離れ、腕で逃がさないようにしながら座していた平助が、またぐっと近寄ってきた。

 下から見上げる瞳は相変わらず丸くて、しかしその中に男としてのなにかがみえるようだ。


「だけど、みせる笑顔は段々“総司らしく”なくなって。おまえが……お春がみえるほどに惹かれてた。複雑なようで、ほんとうはただ、感情がいまいちわかってねぇだけだったんだよな」


 なぜそこまでわかってしまっているんだろう。わたしより、わたしの気持ちがわかっているのではないか。

 ゆらめいている瞳から視線をそらせないまま、ただ彼の言葉に聴き入っていた。


「ほんとうは人を斬ることなんて望んでねぇのに、心を殺して刀を奮うのは総司とおなじだ。お春としての弱さも、抱えてる総司としての辛さも、おれが取り除いてやりたい」


 こんなこといわれたら、また泣いてしまうではないか。

 言葉にする間もなく、涙がこぼれた。

 泣き虫だと親指でぬぐってくれる彼の笑顔はとてもやさしくて、それをみてまた涙があふれる。

 山南さんも、源さんも、山崎さんも。みなわたしを救う言葉をくれたけれど、なにもいわれずとも彼の存在に救われているようだ。

 まぶたに寄せられた唇。涙をぬぐい取られる感覚に、肩がふるえる。

 おどろきのあまり涙がとまったわたしの目前いっぱいに、彼の照れたような困ったような表情があった。


「おれに、支えさせてくれる? 最初はただ放っておけなかっただけだったけど……やっぱ、おまえのこと好いてるみたいだから。笑顔も弱さも独り占めしたいし、頼ってほしい」


 生を受けてはじめて向けられた思い。生を受けてはじめて抱いた思い。

 気づいた途端に叶ったそれは、大好きだった甘味よりも甘く心に広がった。


「“好いてるみたい”ってなに、そこは“好いてる”でしょう?」

「うるせぇよ、初めてなんだから仕方ねぇだろ……!」


 照れ隠しに唇をとがらせたわたしに、平助のほほは一気に赤くなった。

 それを右腕で隠し顔を背けながらいうものだから、わたしのほほにも熱が集まる。

 壁から畳へ移動していた左手に右手を重ねた。目を丸くしてこちらへ向き直った平助にほほえむ。


「わたしも、気づいたばかりだけど……平助のこと好いてる。傍にいたいし、護りたい。傷のひとつもつけたくない」

「……うん」

「……ほかの娘と一緒のところも、みたくないな」


 赤い顔のままうなずく彼の表情は、照れている反面、山崎さんとおなじことを思っていることが容易に伝わってきた。

 その表情がどうにもかわいらしくて、わたしも素直にしてくれる。

 思わずつぶやいたひとことに目をまたたいた平助は途端に破顔し、気がついたときには思いきり抱きしめられていた。

 渦巻いていた黒い感情を思わず話してしまったことに嫌悪しながら、その温もりに安心を与えられる。ゆるりと背に腕をまわした。

 気持ちを伝え合う前とあとでは、こんなにも心地よさがちがうのか。

 ふと、少しすき間の空いてしまった身体にさみしさを感じ顔を上げる。

 真剣な眼差しはなにかを訴えているようにみえて、目が離せない。


「目、つむって」

「な、な、なぜですかっ」

「いわなきゃわかんねぇ?」


 そういうことか。そういうことなのか。

 総司だって女性と“そういう”ことをしたことがあるのだから、知らないわけではない。

 だが、いざ自分がするとなると、口から心の臓がでてしまいそうだ。総司はよく平気でできていたものだ。

 それでも、わたしの混乱をよそに徐々に近づいてくる平助の唇に覚悟を決める。

 一度喉を鳴らし思いきり目をつむったわたしに待っていたのは、ぎこちない触れるだけの口付け。

 女として、わたし自身として、はじめて触れ合った気がした。

 すぐに離れたそれに、ゆるゆるとまぶたを持ち上げる。

 平助は口もとに手のひらをあて、顔をそむけていた。

 先ほどまでの男らしさはどこへいったのやら。自然とこぼれた笑みをそのままに、くずれてきた簪を抜く。

 姉上や総司の相手をしていた女性のみようみまねで、なんとかまとめた上げた。

 格好は総司のままだが、銀が重なる音が心地よく女子なのだと実感させる。

 これからも危険な斬り合いは続くだろう。だが、彼が傍にいてくれる間、わたしに敵はいないように思えた。

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