第拾壱章:仮の名
あれからまだたった一日しか経っていないにも関わらず、新撰組には小さくも新たな変化が訪れている。
浅葱色にだんだら模様の羽織。隊服として渡されていたそれは、あっという間に廃止になった。
近藤先生もようやく、あまりに目立ちすぎると気づいたようだ。袖を通す機会の多かったわたしたちは、安堵するやらもっと早く気がついてほしかったと肩を落とすやら。
派手な隊服の代わりとなったのは、着込襦袢、 襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷という黒ずくめのもの。
これはこれで目立つと思うのだが、闇夜に溶け込むため。そして返り血が目立たないためという配慮らしい。
「平助、具合はどう?」
あの日、わたしが二階にいる間、平助も怪我を負っていたらしい。
汗でずれた鉢巻を直そうと、うしろに手を回したところで額を斬られた。なんとかその相手は倒せたものの、血が目に入ってしまい戦線離脱したという。
それほどの怪我を負っていたにも関わらず、わたしはなにも知らずに後悔に打ちひしがれていたのか。
平助の姿をみた瞬間、わたしは自分の心の弱さに唇を噛みしめた。
わたしの心労にならないようにと、大事ないと笑顔をみせる平助。だが、わたしはむしろその笑顔が痛かった。
「そうだ。名を思いだしたわけではないけれど、ひとつ光景が浮かんだんだ」
「光景?」
横になっていた平助が起き上がるのに手を貸し、わたしはひとつうなずいた。
目をつむり、浮かんだ光景を思いだす。
春のうららかな陽射し。雪のように舞う桜の花びら。さらりと髪をなでる春の風。
場所はきっと、名をつけてもらった、あの場所。
ひとつひとつ、ゆっくりと口にだしていくにつれ、その光景は鮮やかさを増す。
ゆるりと目を開けると、惚けたようにぼんやりとこちらをみつめる平助の姿。
どうしたというのだろう。首をかしげ顔を覗き込むと、慌てて目をそらされた。
ほんのりと色づいてみえるほほや耳は、陽の光のせいか。それとも熱でもあるのだろうか。
ちらりとこちらへ目線をやり続きを促す平助。
額に手を伸ばすことも叶わず、そっと目を伏せた。
「わたしが総司に名をつけてもらったのは、あの春の日。総司はさくらの木をみながら、わたしに名をつけた」
「春やさくらに関係ある名……ってことか?」
確信は持てないが、きっとそうだろう。うなずくと、平助は顎に手を当ててうなりはじめた。
その所作がどこかあの日の総司と重なり、思わず目を細める。
どこか眩しい。そして総司に持っていたのとおなじように、温かな気持ちがあふれる。
胸もとに右手をあてがい、着物越しに心の臓辺りを握る。おだやかだが常より少し速く感じる鼓動を感じながら、身体にこもる熱を吐きだした。
いつの間にか腕を組んでうつむいていた平助が、目を輝かせて顔を上げた。突然だったため、思わず肩をふるわせる。
「お春だ!」
「お、春……?」
「そう、お春。幼子がそんな春の陽気につけたなら、きっとお春だ。まあ、ちがうかもしれねぇけど」
呆気にとられているわたしをみて、平助が一度ほほえんだ。
彼がそっと腕を伸ばす。山南さんにいただいた髪紐が、するりと解ける。総司とおなじ、長い黒髪が肩に降りた。
ほほ辺りの髪を、指先に絡ませるようになでられる。そのまま背に腕を回し抱き寄せられた。
固まったように動けないわたしをよそに、平助はそっとほほを寄せる。
不思議と嫌悪感はなく、それどころか心地よいとすら感じていた。
恐る恐る彼の背に腕を回すと、その背は小さくふるえた気がした。
「これはおれがつけた仮の名だ。あのころの総司の立場になって考えてみたけど、それ以上におれは……おまえの笑顔が春の陽射しのようにみえるんだ」
守りたいと思った。いきなり総司として生きるなんて決意をして、人を殺したこともないのに闇討ちに自ら参加して。
つらつらと流れでる平助の言葉に、なにも応えられずにいた。
いままで、総司として生きることに固執していた。それを基準としていた感情は、わたしのものだと自信を持って告げることはできない。
またもやそれに気づかされたわたしは、ただ呆然と彼の言葉に耳を傾けることしかできずにいた。
「佐々木と恋仲のこともそうだ。斬ったやつを恨んでたのに、お梅とかいう女に頼まれたからって芹沢を殺って、女まで殺して。はじめてだったのに──あのとき、代わらなきゃよかったって、ずっと思ってた」
じわり、じわり。胸に広がるこの気持ちはなんだ。
答えはみつからず、ほほを伝う熱い涙をそのままに、平助の着物を握りしめた。
名をつけてもらって、なぜこんな風になってしまったのか。
池田屋では、人を斬ることになんの躊躇もなくなっていた。わたしは、総司とおなじように夜叉と化してしまったのだろうか。
痛みと、苦しみ。歓びと、安堵。交錯する質のちがう思いが、胸を痛めつける。
平助の肩に顔をうずめた。吸う息がすべて彼の香りとなり、彼に包まれているのだと感じる。
あふれた涙はとまらず、胸のつかえをとるように背をやさしくなでる彼の手のひらが熱かった。
耐えていた嗚咽がもれる。この一瞬で、息も絶え絶えになるほどの涙が流れていた。
「我慢するなよ? おまえには笑っていてほしい。こんな……生命のやりとりがすぐそばにある場所だけど、いまのおれにとっておまえの笑顔は光なんだから」
なぜこんなにも、やさしい言葉を吐けるのだろう。
なぜこんなにも、この人は温かいのだろう。
なぜこんなにも、この人の言葉で涙がとまらないのだろう。
唇を噛みしめ、幼子のようにしがみついて泣くわたしの背を、平助はそのやさしい手のひらでなで続けてくれる。
ようやく涙がとまったころには、すでに昼の巡察にでる隊士たちが足音をたてて廊下を行き来していた。
乱暴にまぶたをこするわたしの手を、平助はそっと握る。
「そうやって乱暴にぬぐうな。目も真っ赤になってんじゃねぇか」
油断するとまた流れてきそうな涙を抑えつつ、抱きしめるために膝立ち気味になっていた平助をみあげる。
すぐに手のひらでまぶたをおおわれた。泣きはらしたまぶたには、冷たくて心地よい。
視界を遮られているこの状況でも、わたしはなぜか安堵していた。
しばしして、すっかり温かくなったその手のひらは、なでるように額へと移動する。
前髪を避けられ、晒された額。いつの間にか首すじに寄せられた彼の唇。
身体中が脈打つ感覚。唇が寄せられた首すじがぞわぞわする。
身体を引いて離れようとした瞬間、寄せられた唇は離れ、晒された額に温かな感触があった。
すぐに離れた平助は耳まで赤く染まっていて、わたしは呆然と額に手を伸ばすことしかできずにいた。
と、そのときだ。
気づかなかっただけか、否か。唐突に開かれた障子に、わたしたちは同時に肩をふるわせた。
「……ふたりしてなにしてはるん? 藤堂組長、安静にしとかなあかんっていうときましたよね?」
満面の笑みを浮かべる彼──山崎さんの背後に、黒いもやがみえる気がする。
山南さんのそれより、土方さんの怒号より恐ろしいのはなぜだろう。
さすがの平助も固まって、必死にいいわけを考えているようだ。
「あ、いや……あの」
「あーあー、沖田組長顔真っ赤やん。藤堂組長に襲われたん?」
「はあ!? そ、そんなことしてねぇ!」
「うわー、怪しいわー」
治療のためにきたはずの山崎さんは、平助の包帯を解きながらからかう口調をゆるめない。
必死に弁解するからこそ、よりからかいの対象になっていると思うのだが、平助はそれには気づいてないようだ。
気づいていたとしても、さらりと流すことなど彼にはできないだろう。
解かれた包帯から覗く、割られた額が痛々しい。
新たに治療を施されたそこに、いま一度包帯が巻かれていく。
「仲えぇのは勝手やけど、傷開いても知らんで?」
「あー、もう、わかったよ!」
「沖田組長もやで。暑気あたりで倒れて、まだ万全ちゃいますやろ? いまむりしたらあきません」
「す、すみません」
医者というよりはまるで母上だ。
腫れたまぶたを冷やすため、井戸で手ぬぐいを冷やして持ってきてくれるという山崎さんに甘え、部屋にはまたふたりきりとなった。
どこか気まずい雰囲気がただよう部屋で、わたしも彼も身動きひとつできずにいる。
いつもはふたりいるのではないかと思うほど仕事の早い山崎さんが、こういうときに限ってなかなか戻ってこない。
息すらもうまくできなくて、息も胸も苦しいと限界を感じたとき、平助が盛大なため息をついた。
「さっきのは、忘れてくれ」
「え……?」
「いきなりあんなことして、悪かった」
いきなりなにをいいだすのか。
思わず直視した平助の表情は読み取れなかった。
すぐに顔を背けるように横になった彼に、これ以上なにをいうことができよう。少しはだけた浴衣の膝を握りしめ、唇を噛みしめた。
わたしは決していやではなかった。人の体温に触れることなく死んだわたしには、とても心地よいものだった。
名をつけてくれた。心底、わたしを案じてくれていた。あれほどやさしい言葉をかけられたことは、幼いころの総司以来だ。
だからというわけではない。そう、わたしは気づく前から、彼が傷つくのがいやだった。
いつも傍で笑っていてくれることが日常で、それを失いたくないと思ったのは、あの刺客たちに襲われたときだ。
この気持ちをどう伝えればよいのか、わたしにはわからない。
ただ、与えてくれた温もりは、忘れろといわれても大切にとっておこうと思う。
「平助がそういうなら、それでよいよ……でも、口にはださなくても、わたしはあなたの温もりを忘れない。忘れたくないから。うれしかったから」
無意識に伸ばした手がとまる。宙をつかんだそれを胸もとまで引き寄せ、静かに立ち上がった。
戻ってきた山崎さんは、永倉さんの怪我を診てきたらしい。
部屋に充満する重たい空気に首をかしげ、冷えた手ぬぐいを渡すと、今度は安藤くんと新田くんの容態を診なければと慌ただしくでて行った。
少し、風に当たるべきかもしれない。
手ぬぐいはわたしのまぶたは冷やしてくれるだろうが、熱のこもったこの思考は冷やせない。
部屋に熱がこもらないようにと、少しだけ開けられた障子から部屋をでる。
縁側近くの大部屋では、隊士たちの声がひびいていた。
その少し離れた場所に腰を落ちつけ、額からまぶたにかけて手ぬぐいを乗せる。
空はみえない。目をつむっているのだから当たり前だ。
なにもみえない暗い世界で、先ほどの平助の言葉を思いだす。
簡単に忘れられるわけ、ないだろう。
虚しさか、哀しみか。ともかく暗い感情を吐きだしてしまいたくて、少々わざとらしくも盛大なため息をついた
「……どうした?」
瞬間。ぎしりと床が鳴り、ため息が聴かれていたことに気づく。
声をかけようか迷っているような間と声色は、一くんのものだ。
手ぬぐいを下ろし苦笑する。みあげた先の表情は、無表情ながらどこか案じ顔だった。
となりに腰を下ろした一くんは、むりになにかを訊こうとは思っていないらしい。
ただ黙ったまま、空をみあげていた。
平助と一くんはおなじ年だったな。ふと思いつくと、投げだしていた脚をそっと胸に抱き寄せる。
呼びかけてみると返答があるということは、なにかを問えば返ってくるということ。
「一くんが、女を抱きたくなるときって、どんなときですか?」
茶も飲んでいないのに、なにかを吹きだした音が聴こえた。
いつも冷静で無表情な彼がここまで混乱するとは、悪いとは思いつつ少しおもしろい。
それほど妙なことを訊いてしまっただろうか。続いて咳き込んでいる彼に、思わずもれそうになった笑い声をなんとか抑えた。
抱えた膝にほほを乗せる。みると、顔を背けていた。
「なにをいいだすのだ、唐突に」
「気になったので……。で、どうなんです?」
「……そんなもの、人それぞれだろう」
ほほの色は変わらない。だが、耳だけは真っ赤に染めた一くんは、一度こちらへ顔を向けた。
わたしの言葉に一度喉が動いた気がする。あからさまにそらさた視線と顔に、自然と身体が動いた。
抱えていた脚を開放し、膝立ちで彼に迫る。そらされたままのほほを両手で挟み、むりやりにこちらを向かせた。
目の前の彼は、わたしが女だということまでは知らないはずだ。
あのとき、土方さんは女だということは伏せて話をしていた。基本的には女人禁制のここで、幹部である沖田総司が女であることを知られては不都合がある。
あの日。女であることを話さなかった意図を、直接話されたわけではない。それでも、いま知るよりほかの人間には話すべきではないことはわかっていた。
土方さんが話していなければ、一くんも知らないはずだ。
「教えてくださいよ。女を抱きしめたくなるときって、どんなときですか?」
「抱き……しめる?」
「ええ。抱きしめたくなるとき、です」
視線を泳がせていた一くんだが、突然、はたと動きがとまった。
なにかをかんちがいしていたのか、呆気にとられている。
数度まばたきをし、ようやく落ちついたかというところで手を離す。どうやら真剣に考えてくれているようで、腕を組み空をみあげはじめた。
先ほどのようにとなりに腰かけ、縁側から脚を放りだす。
熱を持っていたはずのまぶたは、すっかり治まっていた。
「そうだな……。愛らしいと思ったときは、女子でなくとも抱きしめたくなるだろうな」
「……ほかには?」
あれほど醜く泣きじゃくっていたわたしが愛らしいなどということは、絶対にないだろう。
もしそれが理由だとすれば、平助は相当趣味が悪い。
否、抱きしめられてから泣きじゃくってしまったから、もしかしたらそれで忘れろといわれたのかもしれない。
しかし、泣かせたのは平助だ。
「あとは、そうだな……。愛らしいと酷似しているかもしれぬが、愛しいと思ったときではないか?」
「愛しい……?」
愛しいという感情は、わたしも総司もよくわからない。
総司は遊んではいたが、本気で誰かを愛したことは未だなかったように思う。
知らない間に眉間にしわが寄り、よほどむずかしい顔をしていたのだろう。
一くんはおもむろに立ち上がると、なにがあったかは知らぬが、あまりむずかしく考えるな。と頭をなでていった。
平助がわたしに好意を持っているのはわかる。だがそれは、兄妹のような、家族のような──そして仲間としての好意だろう。
それはとてもありがたい。わたし自身も、胸が温まるような感情はそれであると思っている。
だが、根本としてそれがまちがっているのか。考えれば考えるほど頭が混乱する。
誰も通らないことをよいことに、決して広くはない縁側に大の字で寝転がった。
屋根の向こうに青空がみえる。そこに溶かすようにひとつため息をこぼすと、わずかな影を感じた。
ふとそちらへ視線をやると、呆れたさまの山崎さんが立っている。まずい、と苦笑がもれたのは仕方がないと思う。
「……どないしたんですか、こないなところで」
たしかに呆れてはいる。だが、安静にと怒られなかったことに安堵した。
手ぬぐいに包まれたさまざまな薬が、独特の匂いを放つ。
そっととなりに腰を下ろした山崎さんは、しばしこちらをみていたと思うと、小さく息を吐いた。
「なんや、からかいすぎた? 喧嘩でもしたんか?」
「喧嘩とはなにかちがう気がします」
「ほな、なんやねん」
「……山崎さんが女を抱きしめたくなるときって、どんなときです?」
喧嘩ではない、と思う。だが、ならばなんだといわれると、少々返答に困る。
いうなれば、わたしが感情をまだよく理解していないからだろう。
ふと、一くんとの会話を思いだし、山崎さんになら訊いてもよいだろうかと思案する。
総司が女を抱きしめるとき、そこに愛しさなどなかった。
ほかに思いがあるとすればなんなのか、山崎さんならば知っているだろうか。そう思っての問いだった。
何度かまばたきをした山崎さんは、なにがあったのかと苦笑したものの、口を開いた。
「せやな……まあ、さまざまやけど」
ふと口を閉ざす。一瞬辺りを警戒したのか無表情になると、ここではなんだと立ち上がった。
医学も学び、監察方でもある彼の自室は、薬で溢れていた。
至るところに置かれた薬や木の根などを動かさないようにそっと腰を下ろす。
ほかの部屋とは全く異なる独特の香りは、これらからきているのだろう。
「抱きしめられたんか?」
山崎さんの突拍子もないはっきりとした物いいに、先ほどの一くんのように吹きだした。
茶でも飲んでいれば、どれほど飛んでいたかわからないほどの衝撃に、少しの間咳き込む。
なんとか深く息を吸い落ちつけると、小さくうなずいた。
誰に。そう訊かないのは、想像がついているからか。
「まあ、我慢できひんやろな」
「我慢?」
「わかりやすすぎんねん。おれが沖田組長と話しとると睨んでくるの、気づいてへんの?」
一体なんのことだ。
首をかしげていると、山崎さんの呆れた声が降ってくる。まさか気づいていなかったのか、とでもいいたげだ。
そもそもわたし自身、総司以外には好意的な感情を向けられたことがない。
そして、自分もいままで持ち合わせたことがないのだから、わからないのもむりからぬことだ。
いや、平助のわたしへの感情が、いつからそういったものだとかんちがいしている。自惚れにもほどがある。彼のわたしへの感情は家族のような、仲間のようなもののはずだ。
考え込んでいるわたしの表情からなにを読み取ったのか、山崎さんの表情からは呆れしか映ってはいない。
「まあ、ええわ。そのうち自分で気づくしかあらへんやろ。外からなにいうたかて、しゃあない問題やからな」
「……はあ」
なぜここまで呆れられなければならないのか。
納得はいかないものの、これ以上話す気はないという雰囲気に、返答に困ってしまう。
下ろされたままの髪を、動物のようになで回される。
勘弁してくれと手を振り払おうにも、兄のような温かい目線に手がとまってしまった。
今日はよく髪をなでられる日だ。大人しくなでられたままでいると、ふと山崎さんの手がとまる。
わたしから離れると、なにを思いだしたのか呆れたような表情でほほえんだ。
「さ、早う部屋戻り。藤堂組長のご機嫌取りしたってや。辛気臭くて敵わへんし」
辛気臭いとは、この短時間になにがあったのだろう。
「うーん。なんだかよくわかりませんが……ありがとうございました」
一度首をかしげて礼を告げ、山崎さんの部屋をあとにする。
部屋をでたのち、山崎さんがつぶやいていた言葉を、わたしは知る由もない。
平助が寝ているはずの自室の障子は、わたしがでたときとおなじように足もとのみが開いていた。
足取りも心も重たい。できることならもう少しだけほかの誰かと話していたかった──が、もうそうもいかないだろう。
大きく息を吸って気分を少しでも落ちつかせ、そろりと障子から顔をだした。
平助はこちらに背を向けている。でる前となんら変わりないと思ったが、それは一瞬だった。
平助から醸しだされる空気か、夏の暑さのせいか。どんよりとした暗い空気が部屋に充満していた。
「平助……?」
恐る恐る声をかけたわたしに、ゆるりと振り向いた平助は飛び上がらんばかりにおどろいていた。
慌てて起き上がる彼に思わず苦笑混じりに笑みがもれる。
起き上がった彼の側に腰を下ろし、少しうつむいたまま顔色をうかがう。
どこか気まずそうによそを向いてほほを掻いている。先ほどの暗い空気も少し払拭されていたようだ。
「平助、わたし……わたしは、平助に抱きしめられてうれしかったよ。でもわからない。平助がわたしを抱きしめた理由が」
いつも目の前の彼がしているように。いつも分身である彼がしていたように。
こんなことをまっすぐと相手の瞳をみて話すことは、予想以上に照れくさいものだ。
誰かと対峙するとき。相手の瞳をみることは気持ちを読み取る上で重要なこと。ただ、わたしがこの短い間に対峙した相手との攻防に、こんな感情はなかった。
「……喜んでるのをみてたら、なんだかよくわからねぇうちに抱きしめてた。思ってることが次から次へと口からでてきて、とまらなかった」
一度口を閉じこちらをうかがった平助と目線を合わせ、ひとううなずく。
促した続きを口にする気はなかったのか、ほんとうにそれだけだったのか。ただ、照れたように顔を背ける彼の姿に、温かいなにかが広がった。
空っぽだったわたしが満たされていくような。苦しいような、うれしいような。
そんな複雑ななにかが、確実にわたしを満たしていた。
「ありがとう、平助。名前つけてもらえて、よかった。次からはふたりのときは、平助のつけた名前で呼んで」
膝に置かれた彼の手に自分のそれを重ねると、満ちていた感情が破裂しそうになった。
おどろいたように目を丸くした平助にほほえんでみせる。
ただ重ねていた手のひらは、平助が手の向きを変えたことで握る形となる。そのまま引き寄せられ胸に飛び込むと、鍛えられた胸板が目の前に広がった。
総司も、こうだったのだろうか。
初めて自分と平助の身体のちがいを、頭ではなく心で理解した気がする。背中に回る腕も、思えばわたしのものより太くたくましい。
意識していなかったことを意識しはじめてしまい、どうしてよいのかわからない。
ただ抱きしめられるまま。染まったほほを隠すように身体をゆだねていた。
「……なんで、抵抗しねぇの」
不意に切なげな声が耳に届く。ふるえるように腕に力がこめられた。
はたと気づく。これがもし平助でなければ、抵抗していただろうかと。
腕の中で動きはじめると、平助の力はより強くなった。
「平助だから、抵抗しないんだ。きっと、信頼してるから」
「おれが男だってわかってる?」
「わかってるよ。でも、これは心地よいから……」
腕の中で向かい合う形になり、ゆっくりと腕を回す。抱きしめられるだけではない。抱きしめたときの温もりは、また少しちがうように感じた。
「……悪かった」
「はい?」
「暑気あたり、気づけなくて」
突然なにを謝っているのかと思った。
ひとついえることは、平助のせいではない。わたしが耐えられると慢心していたゆえのことだ。
小さく首を振ると、今度は護れなかったと謝罪してくる。なにをそんなに気負っているのだろう。
思わず笑いだしたわたしに、彼は腕の力をゆるめた。肩を押すように離れると、泣きだしそうな切ない瞳がみえる。
その瞳をみた途端、笑みは消えた。
なにか、その瞳から感情が伝わってくるようで。だがそれはわたしにはわからない感情で、うまく読み取れない。
これほど近くでみつめていると、憂いの表情も相まって見惚れるほどにうつくしい。
平助らしくない。口にだそうとしたその言葉は、のどの辺りで消えてしまった。
平助もなにかいいたげにみつめてくるが、口を開かない。
見惚れる一方で耐えきれないと心が叫んだそのとき、狙っていたかのように平助の視線が外れた。
あっさりと離れた身体。呆気に取られたわたしが固まっていると、平助はいつもの調子で笑ってみせた。
「悪い! おれもこんなざまだし、おまえ──お春も倒れたし、何人か死んだし。ちょっと感傷的になってたかもしれねぇ」
格好つかないから忘れてくれ。そう続けた平助は、己の手のひらを重ねて後頭部に添え、そのままごろりと横になった。
先ほど伝えようとしていたのはなんだったのか。訊きたいと思うのに、訊けない。
一度つまった言葉はもうでてこない。わたしも、なにごともなかったように、わかったとうなずいた。
ただでさえ動ける者の少ない新撰組にとって大きな痛手。それは、幹部を含む数人が負傷したために隊務にでられなくなったことだ。
暑気あたりで倒れたわたしも念のためにとそれに含まれ、近藤隊の面々はほぼ全滅。とくに幹部の中でも平助は重症で、なかなか復帰できないだろうと考えられていた。
怪我という怪我もなく、翌朝にはほぼ全快したわたしは、山崎さんに許可を取り、源さんと一くんとともに買いだしへとでていた。
「ほんとうにもう平気なのかい?」
「ええ、この通り。ずっと寝てばかりいるわけにもいきませんし、ただの暑気あたりでしたから。みな心配しすぎです」
「それだけ大事に思っているということだよ」
一くんが一歩うしろを行き、源さんと並んで歩く。
女だと知っている源さんや近藤先生はとくに心配してくれているが、わたしだってそれほどやわなわけではない。
背後の一くんの視線もまだ案じているように感じるし、なんともやりにくい。
案じてくれるのはありがたいが、こうもむず痒くなるものだとは。笑顔も苦笑混じりになってしまうのは勘弁いただきたい。
二日……いや、正確には三日前の洛陽動乱から、次々と隊士希望が訪れていた。
前川邸だけでなく八木邸の敷地も借りて、土方さんがなんとかやりくりしている。
八木家の方々もいつの間にやら増えている仮同士たちに、絶句していた。入用のものも増えたため、こうしてわたしたちが買いだしへとでてきたわけだ。
むりをさせられないという近藤先生のお言葉で、護衛兼荷持ちとして同行している一くんには、少し申し訳なく感じている。
源さんが店先でさまざまなものを選んでいる間。わたしたちは店の外で彼を待っていた。
「……昨日の話は、どうなったのだ」
「ああ、ありがとうございました。よくわからないことだらけですけど、なんとかなりそうです」
体調面だけでなく、なんでもないようにこうして案じてくれるところがやさしい。
一くんはとくにあまり感情が顔にでない質なため誤解を受けやすいが、仲間には至極やさしい人だ。
わたしも仲間だと認められているのだろうと思うと、思わずほほがゆるんでしまう。
ならよかった。そうほほえんだ一くんはいままでにみたことのないほどやさしい表情だった。
次々と大量に仕入れてくる源さんから荷を受け取る。歩みを進める度に、一くんの手には風呂敷が増えていく。
ようやく買いだしを終えたころには、わたしと源さんがそれぞれ両手に。一くんは両手と肩にもひとつぶらさげていた。
これでは護衛にならないとしかめ面をみせる彼に、わたしも源さんも笑みがもれる。
まず八木邸の厨へ向かった源さんと別れ、わたしたちは前川邸の厨へと向かう。
「藤堂は、決して素直ではない」
「なんですか? 藪から棒に」
「同室だろう? あいつは素直にみえてそうではない。ほんとうの気持ちを隠すことに関しては、きっとおれより上手だ。読み取ってやってくれ。いまのおまえならできるはずだ」
なにを根拠に。そんなつぶやきを聴かなかったことにして、一くんは足早に厨へ入っていく。
わたしには、読み取れない。昨日だってそうだった。
だがそれを口にしては、一くんに女だと知られることになるだろう。
これ以上は話さないという空気をまとう彼に口をつぐみ、源さんを待つ。
昨日の平助の視線を思いだし、どうにかして話してもらえないだろうかと思案していた。