第拾話:怨恨の痕
年が明けた。それに浸る間もなく、新撰組は上さま上洛警護を命じられる。
正月を味わいたかったと嘆く平隊士の尻を叩き下坂。大阪城へ入られる将軍家茂さまを警護し、天保山から天満橋まで同道した。
そして次は上洛の先陣を受け持ち、伏見城と市中警護に就く。その翌日、上洛に随従し、帰陣した。
それから数月。冬の寒さも和らぎ、巡察のしやすい気候になるころ。大捕物もなく、斬り合いすらなければ穏やかな日常をすごしていた。
縁側で源さんと茶をすすり、壬生寺で子どもたちの相手をし。そんな日常のとなりには、ほとんどの場合平助がいる。
このまま抜刀する日もなくなればよいのに。心の底でそうねがってしまうわたしは、欲ばりなのだろうか。
文月に入ったころから、隊士たちの食傷による腹痛や吐き気により人手不足とおちいっていた。
そんな中有能さを買われ、早々に諸士調役兼監察となった山崎さん。おなじく監察方の島田さんが、葉月に四条小橋上ル真町で炭薪商を営む枡屋喜右衛門の存在を突きとめた。
すぐさま島田さん、武田さんを含む数名が枡屋へ向かう。
屯所で待っていたわたしたちのもとへ現れた彼らは、枡屋喜右衛門を捕縛していた。
武田さんたちを枡屋の監視に残し、島田さんは慌ただしく局長室へ走る。
なにも知らない平隊士たちは、なにごとだと近くの者と顔をみあわせた。わたしたち組長の立場にある者は、誰もが険しい表情で局長室を伺っている。
なにか、大きなできごとが起こる予感に、恐怖ゆえとも武者ぶるいともとれるふるえが込み上げた。
「なんだと!?」
不意に局長室から土方さんの怒鳴り声がひびいた。平助と顔を見合わせると、鬼の形相の土方さんが島田さんとともに局長室をでてくる。
島田さんに枡屋を隣接している蔵へ連れてくるよう命じた土方さん。そしてそれを追うようにして局長室をでた山南さんは、ひと足先に蔵へ向かった。
あの蔵はもともと前川邸に住んでいた方が物置として使っていた、薄暗くひやりとした空間だ。
捕まえた罪人を閉じ込めておいたり、拷問するために家財はすべて取り除かれている。
わたしを含めるそれを知る組長たちは、みな一様に背に流れる冷や汗の存在を感じていた。
平隊士たちには気にするなと稽古を続けさせたが、一番気になっているのは組長であるわたしたちだ。
しばらくして山南さんが蔵からでてくると、平隊士たちの稽古もとまる。誰もが蔵に注目していた。
どこか疲れている山南さんに走り寄り、顔を覗き込んだ。
「山南さん!」
「あなたは蔵に近づいてはいけませんよ」
やさしさも穏やかさもない凛とした口上に、足がとまった。追ってきた平助もそれが聴こえたのかうしろで立ちどまる。
その直後、蔵から男のうめき声がひびいた。
土方さんの拷問がはじまったと、みな耳を塞ぐのを堪えるように目をそらす。左之さんだけは、愉快げに蔵を眺めていた。
どれほどだろうか。早々に稽古を切り上げ声が聴こえないよう自室に閉じこもっていた。
廊下を走る音が何度か往復し、その度に身体を固くする。心の臓が波打つように鼓動をくりかえしていた。
「沖田組長、藤堂組長、いらっしゃいますか? 近藤局長と副長たちがお呼びです」
ひとりの平隊士の声だ。伝令役を命じられたのだろう。返事をすると、彼はすぐに障子の前から姿を消した。
彼の足音が小さくなり、すぐさま平助とともに立ち上がる。
近藤先生の部屋へ行くと、島田さんが障子の前に座り、平隊士たちを牽制していた。
わたしたちに気づき、すぐに部屋へ通してくれた島田さんに礼を告げる。局長室の上座にはきびしい面持ちをした三人、周りにはすでに数人の幹部が座していた。
空気が重い。となりで平助が固唾を呑んだ音すら聴こえるようだ。
土方さんが口を開くと、いままで以上に部屋の空気は凍りつく。いつもなら空気を軽くするはずの左之さんの口調も、ただただ空気をなでるだけだった。
「おいおい、ほんとうかよ」
「まちがいねぇ。桝屋……古高俊太郎の自白だ」
桝屋喜右衛門。本名、古高俊太郎。彼の自白はこうだ。
祇園祭の前。風の強い日を狙い御所に火を放ち、その混乱に乗じて中山宮朝彦親王を幽閉。一橋慶喜さま、松平公を暗殺し、帝を長州へ動座させる。
帝が座すべき場所は、京をおいてほかにはない。
近藤先生のその言葉に山南さんもうなずく。
そのときだ。障子の向こうから、失礼します。と山崎さんの声が届く。
声こそ落ちついているものの、額の汗をぬぐうことすらしないまま、近藤先生に一度頭を下げた。
「ご報告いたします。いましがた手に入れた情報によると、古高の捕縛により尊皇派が襲撃計画に関する会合が行われるらしいんです」
次々と発覚する尊皇派の計画に、わたしの手はいつの間にか汗ばんでいた。
真剣な眼差しの山崎さんは、それを報告するとふところから手ぬぐいを取りだし、汗をぬぐう。
近藤先生がひとつうなずく。いままでとはちがう大捕物の予感に、気持ちの高揚と緊張が隠しきれずにいた。
「各々、動ける隊士全員に伝令してください。各自準備を整え次第門の前へ集まること。そこで、ふたつの隊に分け、出発します」
凛々しい声で、山南さんが組長全員の顔を見渡す。
武者震いひとつ。組長たちはそれぞれ承知の意を示し、部屋をでて行く。
京の町は広い。果たしてふた手に別れても、会合場所がみつかるかどうかはわからない。
それでもわたしたちは探すほかない。京の町を危険に晒すわけにはいかないと、わたしは平助と並んで大部屋へ急ぎながら拳を握りしめた。
夕刻になり、報告にでていた近藤先生が戻ってくる。
会津藩に援軍の要請をしたが、松平公の体調が芳しくないいま、埒があかないとぼやいていた。
あの様子では援軍はこない。そう結論づけた近藤先生は、京の町を護るため、新撰組だけで捜索することを決意。
動けない隊士と、念のために山南さんを残し、わたしたちはふた手に別れた。
近藤先生率いる近藤隊。わたしや平助、永倉さん。そしてそのほか数名の隊士で構成される。
土方さん率いる土方隊は、そのほかの隊士全員だ。
些か戦力が偏っているようにも思えるが、この半刻の間にめぼしい場所が発覚した。
山崎さんが入手した情報によると、四国屋か池田屋で行われる可能性が高い。そして、そのふたつの中でも、四国屋で行われる可能性が最も高いという。
土方隊は四国屋方面の捜索。わたしたち近藤隊は池田屋方面の捜索に乗りだした。
すでに夕刻に差しかかっているとはいえ、蒸し暑く袴が脚にまとわりつく。
池田屋でも四国屋でもない可能性もある。見逃しはないかと、進んでは戻り、進んでは戻り。いくらかそれをくりかえしながら、みな垂れてくる汗をどうにかぬぐっていた。
上がる息。身体の内側から放たれようとする熱。羽織のせいか、その熱が身体からでることができずに苦しい。
だが、こんなところで音を上げてはいられない。
ただでさえ少ない人数だというのに、わたしが抜けてしまっては近藤先生が危ない。
「局長!」
監察方として独自に探索していたひとりである山崎さんが、うしろから駆け寄る。
近藤先生がひとつ前へでて促すと、どうやら会合場所は池田屋らしい。
近藤隊の面々の士気が目にみえるほどに上がった。
近くを番太郎が歩く。夜四ツ、亥の刻(22時ごろ)を報せる声とともに呑気にひびく拍子木が、この緊迫した空気はわたしたちだけなのだと教えていた。
島田さんが土方隊に向かっているとのことで、池田屋に近いわたしたちは先を急いだ。
土方隊を待っていてもよいが、それで取り逃せば京の町が危ない。
「みな、よいか。参るぞ!」
その意思のもと。近藤先生はわたしたち全員の表情をみつめ、声を上げた。
先頭を走る近藤先生のうしろを走るわたしには、その広い背中となびく浅葱が力強くみえる。
会合場所が確定したことで、いままでなかなか進まなかった路が遠ざかっていく。
池田屋を前に、わたしは深く息を吸った。
「沖田くん、永倉くん、藤堂くんはわたしとともに。あとの者は出入口をすべて固めてくれ」
野太くひびく声。それは士気を上げるに相応しいもの。一斉に散らばっていく数人の隊士のうしろ姿をみつめ、突入するわたしたちも気合が入る。
配置についた隊士たちを確認し、四人はそれぞれ顔を見渡しうなずいた。
「ご用改である!」
突入と同時に近藤先生が声を張り上げる。
客と思い笑顔をみせた主人が一度声をつまらせ、すぐさま二階へ向かい声を上げた。
半信半疑というわけではないが、これで二階で会合が行われていると確定した。
それぞれすばやく抜刀すると、池田屋に足を踏み入れる。
「手向かいいたすとあらば、容赦なく斬り捨てる!」
先頭を行く近藤先生がうなる。近藤先生の指示のもと、平助と永倉さんが一階で待ち構え、わたしは近藤先生とふたり二階へ上がった。
階段を駆け上がると、突然障子が勢いよく開かれる。先を行く近藤先生に振り下ろされる太刀を、わたしが受けとめた。
「近藤先生には、傷ひとつつけさせませんよ!」
力づくで刀を振りきって離し、体制をくずした相手にひと太刀浴びせる。
浅葱色の羽織に、誰とも知らない相手の返り血が飛んだ。
うなぎの寝床のような池田屋で、わたし自身も、近藤先生も。仲間のすべてを護りたいと強くねがう。
ひとりが斬られると、そのうしろから次々と人がでてきた。
近藤先生と二階で刀を奮う。一階へ降りていく連中を追いたい気持ちもあるが、平助と永倉さんならなんとかしてくれるはずだ。
「沖田くん、ここはよい! 部屋を頼む!」
「承知しました!」
迫りくる刀をさばき、敵を斬りつける音の中、近藤先生の指示が飛ぶ。
ひとり残してなにかあっては──そう思わないわけではないが、近藤先生を信じた。
刀を掻いくぐり、次々と障子を開けていく。
逃げまどう人数がやけに多い。のちほど捕縛できるよう、急所を外して斬りつけた。
次々と障子や、その奥のふすまを開けては引き返す。
もう何人斬ったかわからないほど、この刀は血を吸いすぎた。隙をみせないよう羽織で血肉をぬぐい、総司に謝罪する。
死してなお、あなたにこんなにも血を浴びせてしまっている──
目に入りそうな汗をぬぐい、また新たな障子に手をかけた。向こうにはひとつ人影がみえる。
軽快な音を立てて開く障子。同時に一歩踏みだすと、振り下ろされた白刃。
すぐさま刀を操り受けとめると、不敵な笑みを浮かべた整った口もとがみえた。
どこかで見憶えのあるこの男。どこだったかは思いだせないが、必ずみたことがあるはずだ。
「きみ、沖田総司?」
「……そうですけど」
「あっはは、やっぱり生きてたんだ? あのとき殺したと思ったんだけどな」
観察するその瞳に、訝しげな目線を送る。途端、彼の笑みはゆがんだ。
片側の唇がいやに上がり、どこか狂気を感じさせるゆがんだ笑み。瞳は表情を失してしまったように鈍く光っている。
むりやりに口もとのみで笑う彼に、思わず後ずさってしまった。
「逃げないでよ……今度こそ殺してやるからさあ!」
その笑みのまま、いつの間にか片手で持っていた刀を下げ、ゆらりと影のようにゆれた。
一度うつむいていた彼が、顔を上げた瞬間。心が恐怖に支配された。
怨念うずまくその瞳。その恨みつらみは、いますべてわたしに向けられている。
こいつは一体なんなんだ。
総司の仇であろうことはわかった。それによる恨みももちろんある。
だが、それよりも色濃く支配するのは、生命の危険。
片手で奮っているとは思えないほど、力強く重い一撃。次々とくりだされるそれに、わたしは防戦一方だ。
「……っ、くそ!」
現状を打破しようと、刀を奮う。横一文字に奮われたそれが、相手に届くことはなかった。
汚い言葉とともにもれた舌打ち。総司は彼と出逢ったことはなかったはずだ。ましてや、総司自身が恨みを買うような人物ではない。
壬生浪士組に所属していたがために狙われたというならば、なぜほかの隊士は狙われていない。
「あなた、何者です?」
「それはこっちが訊きたいね! あのとき、殺したはずのきみが、なぜここにいるのか! せっかく雇った刺客も殺してくれたらしいじゃないか!」
「刺客? ──まさか、あの異様なふたり組は……!」
「そうさ! ぼくが雇った刺客だよ!」
斬り合いの中で、どうしてこれほど口が達者でいられるのか。
それでも訊きたいことを訊けているうちはよしとしよう。
一瞬の油断が生命とりとなるこの場で、あの刺客という連中よりも、彼の方が弱いと感じる。
あの刺客たちはなんの感情が読み取れないがゆえに大刀さばきもみえなかった。だが、理由は知る由もないが、彼はただ怨恨に支配されている。
「あなたはなぜそこまで幕府を恨むのです」
「きみたちがぼくの──ぼくたちの大切な人を奪ったからさ! 奪い返してやるんだ。きみたちからも、幕府からも、大切なものをすべてね!」
「……復讐というわけですか」
わたしの問いに、一瞬彼の大刀さばきが乱れた。
可笑しくて仕方がないといわんばかりに、口もとを持ち上げ目を見開く。それは彼のうつくしいはずの顔を造りを歪めていた。
“復讐”──その言葉に感化されたのか否か。
彼は目を見開きひと振りでわたしと間合いをとった。
戦意を失ったのか、だらりとたれた両腕。右手で握る刀の切っ先は畳と愛撫している。
みえるはずのない天をみあげ、一度自嘲した彼は、ぽつぽつと呟いた。
「ほんとうは、わかっているんだよ……こんなことしても、先生は帰ってこないってことぐらい」
それでも、復讐せずにはいられないということか。問う言葉は浮かんでいるのに、それを口にだすことはできない。
もう戦意がないことは明白だ。このまま捕縛して、総司を殺した理由も訊こう。そのときわたしがどうするかはわからないが、近藤先生を裏切ることだけはしない。
「そう、ほんとうはわかっているんだよ。誰かの大切なものを奪っても、ぼくたちの大切な人が帰ってくるわけじゃないんだ。それでも奪わずにはいられない……すべてはぼくの弱さだ」
「──あとは捕縛したあとに訊かせていただきましょうか」
「……断る」
わたしが徐々に構えた刀を降ろし、口を開いた瞬間。いままで消えていたはずの闘志が一瞬にして燃え上がった。
思わずもれた舌打ち。もう戦意はないと思ったのに。
先ほどまでとはちがい、流れるような大刀さばき。暴れ狂うだけの獣が、人間になったような。まさに別人だ。
やりにくい。この人は一体──
剣筋を見極めながら唇を噛みしめる。いまのわたしはほんとうの総司より弱い。
身体が憶えているままに刀を奮ってはいたが、まだ自分のものにはできていないのだ。
もう何度も火花を散らしている総司の魂。睨みを効かせながら大きく息を吸った。
こんな相手では、こちらからなにか仕掛けなければ勝機はない。
名も知らないが、この人の中にはふたりの人物がいるようだ。
ひとりは、総司を殺した、復讐の鬼。もうひとりは、それをとめたくてもとめられずにいる、彼本人。
わたしの奥歯と、鍔迫り合いになった刀が、ぎりぎりと鳴る。
「あなた、名はなんというのです?」
「吉田。……吉田稔麿」
鍔迫り合いで顔を寄せている彼に囁くように問う。
ぽつりと落とした言葉を拾い上げると、彼は一度飛び退いた。構え直した刀が鳴く。
鬼ではない彼自身は、まっすぐな瞳をしていた。瞳に映る焔は、闘志か復讐か──判断することはできない。
「吉田さん。“あなた自身”に問います。復讐の名のもとに他人の大切なものを奪って、なにか手に入れることはできたのですか?」
「──なにがいいたいのかな」
「あなたが生命を奪った彼は、わたしの大切な人でした。そして、彼が大切に想っていたものもあった。彼が想っていた人たちもまた、彼を想っていた──あなたがしていたことは、人の復讐心を煽り、それを助長させるだけではありませんか?」
互いが構え。そして、互いの一挙手一投足を観察するように睨み合う。
返ってくるか否かは賭けだが、返ってきたならばわたしの言葉は決まっている。
そして、彼を斬るか否かも。
「そうかもしれないね──だから、ぼくがしていたことはまちがっていると? じゃあさ、ぼくたちの心に残る傷は誰が癒してくれるんだ? 幕府が! きみたちが! ぼくのすべてを奪ったんだ!」
またしても姿をみせる復讐の鬼。
すべてを他人のせいにし、自分は悪くないと正当化する、幼子のようなそのいい分。
これ以上の問答は無用だ。この人がその気なら、わたしもわたしの復讐に手を染めよう。
握り直した総司の魂が、泣いた気がした。
「それではわたしも、あなたとおなじように復讐させていただきますよ」
「あっはは、きなよ! もう一度きみを殺してあげるからさぁ!」
互いにおなじ頃合で踏みだす。鍔迫り合いになったところで、腹部に思いきり蹴りを喰らわせた。
咳き込みながらあとずさった彼の瞳は燃えている。
殺気が、復讐の焔とともに瞳に焼きついていた。
何度も火花を散らす大刀。どちらも一歩たりとも引く気はない。
先に息を切らしたのは、わたしの方だった。
先ほどまで必死に捜索し、すでに何人も斬っていたわたしは、すでに体力の底がみえている。
暑さか、疲れか、息苦しさからか。ふらつく脚をなんとか持ち直したところで、強烈な一撃が飛んでくる。
「ずいぶん疲れてるみたいだね? もう終わりにしてあげるよ!」
「そうですね、あなたを斬って終わりにしましょう!」
またひとつ、火花が散った。
近藤先生のことも、平助や永倉さんのことも。頭の隅に追いやられている。
急所には当てない。ここで死ぬより捕縛された方が、彼にとっては辛い道のりになるはずだ。
わたしは思いの外、ずいぶんと性格が悪かったらしい。
たのしくもないのにもれた笑み。それは自嘲的なものも加わっていたが、彼には苛立ちの要因となったらしい。
眉をぴくりと動かしたのち、大振りな攻撃が飛んでくる。
「なに笑ってるんだよ!」
「そんな大振りな攻撃が、わたしに通用するとでも?」
苛立ちのままに放たれた言葉。最小限の動きで避けたわたしは、体勢を整える間もなく、右手のみで刀を奮った。
脇腹めがけて放ったその大刀は狙い通り、腹を浅めに切り裂く。
腹を抑えて倒れ込んだ彼の手を蹴り飛ばすと、刀はふすまの方へ飛んでいく。それを横目に、晒された首もとに刀を添えた。
「すぐに死にはしないはずです。このまま捕縛させていただきましょうか」
仰向けに倒れ、浅い息をくりかえしている彼に告げる。
返答はない。自分の運のなさを呪っているのか、幕府やわたしたちへの恨みを増やしているのか。
吐き気がするほど、ぐらぐらとゆれる視界。暑いと感じなくなった身体。あれほどかいていた汗も、いつの間にか引いていた。
それでもそれを感じさせてしまえば、彼に反撃の隙を与えることになる。
「これまでか──」
「わたしの唯一無二の大切な人を殺した罪は、償っていただきますよ」
「断る、よ……。捕縛される、ぐらいなら……ここで、死ぬ」
「そんな状態でなにを──」
いくら刀を添わせているからといって、これで死ねるはずがない。
寝返りを打つぐらいはできるだろうが、自らこの刀に首を斬らせることなどできないはずだ。
そんなわたしの考えとは裏腹に、彼はおもむろに懐に手を伸ばす。鞘に収まったままの懐刀を抜き、刃を上向きにして首の下に置いた。
まさか、やめろ……!
口にだす前に、彼はざまあみろとひとつ笑い、寝返りを打つ。
どくり、どくり。脈打つように流れでる血液。重要な人間を自害させてしまった責任が重くのしかかる。
捕縛できていれば、総司を狙った理由も知れたはずなのに──柄を握る右手は、小さくふるえていた。
緊張の糸が切れたのか。視界がぐらりとゆれ、すべてがふたつにぼやけてみえる。
目を強くつむり首を振ろうとするが、途端に床がゆれたような感覚におちいり、倒れるようにしゃがみ込んでしまった。
外からは階段を登ってくる数人の足音。それがやけに遠くに聴こえながら、右手は柄から離れずにいる。
敵ならば斬らねばならない。だが、いまのこの身体で勝てるのか。
となりの障子が開いた音に、死を覚悟した。
「──総司か?」
「一、くん……?」
「どうした、なにがあった?」
ふすまから入ってきたのは、一くんだった。
警戒していたのだろう。左手で鞘を、右手で柄を握りしめていた彼は、わたしをみつけるとすぐさま駆け寄ってきた。
背に一くんの冷たく大きな手のひらを感じながら、心配無用だと告げる。
怪我はないのだから、これは一時的な眩暈だろうと立ち上がろうとする。だが、身体はなんともいうことを訊かず、ぐらりと傾いてしまった。
慌てて受けとめてくれた一くんに感謝しつつ、一階を任されていた平助と永倉さん。そしてともに二階へきた近藤先生が気になる。
「近藤先生や、平助たちは……?」
「奥沢が死んだ。安藤と新田もひどい怪我を負っているが、無事だ」
やはり、こちらの被害をまったくださないのはむりがあったか。
奥沢くんの死に心を傷めつつ、それが平助や近藤先生たちでないことに安堵してしまった醜い自分に気づく。
こんな気持ちは、総司ではない──そう思いながら、一くんの手を借りて立ち上がった。
「そう、ですか……。みなががんばっているなら、わたしも倒れてはいられませんね」
作った笑顔は引きつっていた。それを一くんがどう受け取ったのかは定かではないが、眉を下げていた彼からは目をそらす。
手を離し歩きだそうとしたとき。またもぐらりと視界がゆれ、手をつく間もないまま倒れ込んだ。
身体が熱い。浅くなった息が腕にかかると、明らかに尋常ではないほどの熱を持っていた。
総司。一くんの声がひびき、仰向けにさせられる。ほほに置かれた手のひらが氷のように冷たく、心地よかった。
「暑気あたりか……」
一くんがつぶやいた言葉に、ああそうか、と納得しながら、わたしの意識は徐々にうすれていった。
目が覚めたのはすべてが終わったのち。ぼんやりとする頭をそのままに、最初に目に映ったのは見馴れた天井だった。
わたしの意識はまだ池田屋の二階で立ち上がったところにあっる。瞬時に状況を把握することができずにいた。
目だけを少し動かし様子を伺うと、自室にて寝かされていることがわかる。
ただひとつちがうのは、いままではなかったはずの屏風が置かれていることだ。
池田屋の死闘はどうなったのか。あれからどれほど経ったのか。
誰かに問おうとしても喉が乾いて声をだすのも辛い。
頭痛の中、とくに痛みのひどいこめかみを押さえながら起き上がる。落ちた手ぬぐいはぬるくはなっているものの、少し濡れていた。
枕もとに置かれた急須は熱くない。傍の湯呑みに注ぐと、うすい茶がでてきた。
ゆっくりと喉を潤していると、屏風のさらに向こう。障子が開いた。
「藤堂組長、お加減いかがです?」
「その敬語、やめてくれよ。違和がぬぐえねぇ」
「堪忍してください。一応立場は上なんやから、敬語使うんは当たり前ですやん?」
「へい、すけ……やまざき、さん?」
逆光で顔はみえないが、この声は山崎さんか。話しているのは平助だが、なにやら声に張りがない。
かすれた声が部屋にひびく。山崎さんらしき人影は平助の頭の方へ乗りだしていたが、わたしの声で顔を上げた。
名を呼ぶ平助の声。かすかな衣擦れの音とともに足もとから現れたのは、やはり山崎さんだった。
「気ぃつきはった? 暑気あたりみたいやから、枕もとの茶よう飲んでもろうて……。あと、身体は手ぬぐいで冷やさせてもらいました」
「すみません、手間をかけさせましたね」
「ええて、ええて。気にせんといてください。それにしても、ようあそこまで動けたもんですわ」
腹辺りに置いてある桶で、すっかりぬるくなった手ぬぐいを冷やしながら、山崎さんは笑顔をみせる。
あれから倒れてしまったのだろうか。情けないことだ。
一くんにも謝らなければ。そう思っていたところで、湯呑み一杯のうすい茶を渡される。
それを飲みきると、肩をやさしく押されて寝転がされた。額にはまた冷えた手ぬぐいが乗せられる。
平助の容態が気になるが、訊く暇もなく彼は立ち上がってしまった。
屏風越しに聴こえる、包帯を解く音。薬を塗られているのだろう、平助の痛みに耐えるうめき声。
好調まではいかなくとも、多少の余裕はあるのだろう。口からは悪態がこぼれていた。
右腕を持ち上げ、額の手ぬぐいに触れる。
総司の仇だと思わしき男──吉田稔麿を斬ったことは鮮明に憶えている。
まさかあの場にいるとも、こんなに早くにみつかるとも思ってはいなかった。
捕縛の道を選んだのはまちがいだったのか。それとも、わたしに覚悟が足りていなかったのか。
あのとき。殺してしまえていれば、総司の仇はとれていたはずだ。だがあの選択で、彼を生かすと決めた時点で、わたしは総司の仇を討つことを視野に入れていなかったのではないか。
手ぬぐいに触れていた手のひらをゆっくりとすべらせ、視界を覆う。
なぜ、あぐりさんや佐々木くんのときのように、復讐に燃えることができなかったのか。
わたしは、総司の代わりにいまを生きていることがうれしいというのか。
わたしの唯一無二の存在を奪った吉田稔麿を、それとわかった時点で我を見失うほどに殺したいと思わなかった理由はなんだ。
いつの間にか、山崎さんと平助の声は聴こえなくなっていた。代わりに部屋を支配するのは、平助の寝息。
「総司──ごめんなさい、ごめんなさい……」
目頭が熱くなる。自分でもとめることができないほど、大量の涙がこめかみへ流れた。
歯を食いしばっても溢れそうになる嗚咽に、思わず屏風に背を向ける。
落ちた手ぬぐいをそのままに、わたしはただ声を堪えることしかできなかった。
いつの間に眠ってしまったのか。気がつくと、部屋はすっかり暗くなっていた。
こめかみに乗せられた、まだ冷たい、濡れた手ぬぐい。先ほど誰かが変えてくれたのだろうか。
腹までしかかかっていなかった布団を口もとまで引っ張り上げ、深いため息を溶かした。
ふと視線を上げると、壁に寄りかからせた加州清光が目に入る。
這うようにそこへ近づく。壁にもたれて胡座をかき、足の間に加州清光を立てた。
肩に寄りかからせ、鞘にほほを寄せる。どこか温かなそれは、刀とは思えない。総司の魂が定着しているからだろうか。
「総司……ごめん」
──お“ ”さん……。
ぽつりと落としたつぶやきとともに、目尻から涙がこぼれる。ほほを伝い鞘に触れると、総司の声が頭にひびいた。
未だわたしの名は聴き取ることができない。
それでも、そのひとことで伝えたいことはすべてわかるようだ。双子だからなのか、それとも別の理由があるのかはわからない。
目をつむっているからか、総司に名を呼ばれた瞬間。脳裏に名をつけてもらったときの光景が浮かんだ。
春のうららかな陽射し。雪のように舞う桜の花びら。さらりと髪をなでた、春の風。
──快楽のために人を斬っているのではない。お“ ”さんのあのひとことが、わたしの後悔と恐怖をぬぐってくれたのです。
あのとき。総司がはじめて人を斬ったあの日。油断している殿内を斬ったあの日。
わたしももちろん憶えている。肉を断つ感覚は、これほどまでに呆気ないものなのかと背筋が凍った。
稽古とおなじようにただひと振りしただけで、真剣ならば人が死ぬのだ。
小さく音を立てる鞘は、わたしのふるえからだったらしい。
総司へ続きを促すため。ふるえをとめるためにも、ゆっくりと息を吸った。
──わたしは、お“ ”さんが復讐に燃えて人を斬らずに済んだことをうれしく思いますよ。
「仇を討ってほしいとは、思わなかったの?」
──思いません。できればお“ ”さんには血を浴びてほしくなどなかった……。逆ならば、お“ ”さんもそう思うはずですよ。
総司のほほえみが浮かぶ。わたしの問いに即答した彼の声は、途端に沈んだ。
復讐はなにも生まない。総司の言葉の節々からは、その思いが溢れていた。
わたしの心を落ちつかせていたのは、総司だったのかもしれない。
次々と溢れてくる涙をそのままに、総司の魂を抱きしめる。嗚咽はもれない。ただ静かに流れるそれはとても温かい。
総司の思いに抱きしめられながら、総司の魂を抱きしめ続けた。