第玖話:浅葱ににじむ緋
芹沢さんたちを斬殺したのは長州の者とされ、二日後に葬儀が行われた。
お梅さんに関しては、わたしは何度も芹沢さんと合葬してくれと近藤先生に頼んでいた。
だが近藤先生はいくら頼んでも首を縦に振ることはなく、最後には引き取り手のいなかった彼女の遺体は、八木家の人々が無縁仏として葬ったらしい。
葬儀が終わってすぐ。近藤先生が頼んでいた羽織が届き、隊士全員の手に渡る。そして同時に、わたしたちは新撰組と改名した。
新撰組に改名したことにより、助勤という階級はなくなった。いままで助勤として動いていた面々は、それぞれに十名ほどの平隊士をまとめる組長となる。
わたしは沖田総司として、一番隊組長となった。
羽織を受け取った中には野口さんも入っていたが、あまりに無表情な彼はうつむいているばかりだ。
浅葱色にダンダラ模様の羽織は、すでに血に塗れてみえた。
結局わたしは誰も救えず、人を殺めただけにすぎないのだろうか。
食欲はすっかりなくなってしまったが、それでも隊務に支障をきたすことだけはしたくないと気を張っていた。
事情を知る平助、源さん、山南さん、近藤先生は、顔をみる度に案じ顔をしていた。唯一土方さんにだけは、己が決めた道だろうと叱咜された。
あれからたった十日ほどで、長州の間者が六人も発覚した。御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎は斬殺。松井竜三郎、松永主計、越後三郎には逃げられてしまう。
その六人にわたしの罪も押しつけた土方さんは、涼しい顔で隊務をこなしていた。
「なあ、久々に甘味処にでも行かねぇか?」
「……行きましょうか」
あれから何度も誘われ、何度も断ってきた平助の誘い。
未だ甘味などという気持ちにはなれないが、平助の案じ顔はいつまでもみていたくない。彼には笑顔が一番似合うはずだ。
すっかり涼しくなり、衣替えも終わっている。それでも外にでると、太陽がまぶしいほどに輝いていた。
むりに笑いかけようとする平助の方がよほど痛々しい。その笑顔は、総司がはじめて人を斬ったときとおなじだった。
食の細くなったいまのわたしに、甘味はとてつもなく重たいものに感じる。
甘さがここまで辛いものだとは。総司にも教えてやりたい。
「みたらし一本でいいのかよ?」
「ええ……餡子はちょっと辛いので」
「……重症だな」
むりやりに汁粉とみたらしを頼まされたわたしは、茶で汁粉の甘さを流し込んだ。
団子を小さくひと口運ぶさまをみて、平助は眉をひそめる。彼の方が泣きそうなのは気のせいだろうか。
看板娘が馴染みの客と話すのを聴きながら、わたしはなかなか進まない団子を茶で飲み込んでいた。
「あ、あんたら……」
ふいに後ろからかけられた言葉に振り向くと、そこにはいつかの医者、山崎さんがいた。
相変わらずの藍色の着物に、女物の髪紐。髪は少し伸びている。
さらりととなりに座った彼は、覗き込むようにわたしの表情を伺った。
「なんや、調子悪いんか?」
「いや、そういうわけでは……」
「せやかて、前みかけたときはもっと美味そうに食うとったで」
初めのときのように、額やほほに触れると体温が低すぎると怒られる。
しばらく様子をみせにこい。ひとこと残し、彼はなにも頼まず店をでていった。
なにも知らないくせに、とは思わない。案じてくれているからこそだと知っているから。
あの人はわたしが女だと知っている。だが今後、女だと知られた人には、芹沢さんのようにいわれるのだろう。何者だ、と。
結局、みたらしを少し残して、わたしたちは店をでた。腹がずしりと重たいような感覚に、無意識にそこをなで回す。
ひとつもれたため息に、平助は立ちどまった。すでに足を踏みだしていたわたしが振り向くと、彼はむずかしい顔をしてうつむいている。
「どうしました? ……平助?」
「あの医者のとこ……行くのか?」
一度声をかけても返答しない彼に、歩み寄り顔を覗き込む。
まさに藪から棒。突然問われたその応えを、わたしはすぐに導きだせなかった。
困り果てて眉を下がる。我に返った平助は、なんでもないと笑顔を作る。
足早に屯所へ戻ろうとするその背中を追った。
夕刻の巡察当番である平助を自室から見送り、わたしは山南さんを訪ねていた。
山南さんはやさしくて、賢い。きっと平助のあの言葉の応えを導いてくれるはずだ。
彼のあの言葉は、決して言葉通りの意味だけではないことぐらいはわかっている。だからこそ困り果ててしまったのだから。
「山南さん……」
「どうされました?」
茜色の空を背負い、障子越しに声をかける。すぐに開かれたそこから覗いた山南さんの表情は、やはり案じ顔だ。
部屋に招き入れられると、部屋の主である山南さんが一度そこをでて茶を淹れてきた。
話すまでは訊かない。彼のそのやさしさが、いまのわたしにはとてもここちよい。
「今日、平助と甘味処へ行ってきたんです」
そのひとことで、山南さんは少し安堵したようにほほえんだ。甘味処に行けるまでは、心が回復したと思ったのだろう。
だがそれに続く話に、徐々にむずかしい表情をみせた。
「藤堂くんも困ったものですね」
すべてわかったのか困ったようにほほえむ山南さんは、なるようになると、助言ともいえないものしかくれなかった。
山南さんすらもはばかるようなことなのか。それとも第三者から聴くのでは意味のないことなのか。
どちらにせよ、平助と話すほかない。山南さんに礼を告げ、縁側へでる。
お梅さんのこと。芹沢さんのこと。あぐりさんや、佐々木くんのことも。わたしの心にはまだ、どうにかできなかったのかとしこりが残っている。
自分の手で殺しておきながらなにをいう。そういわれてしまえばなにもいうことはできない。土方さんのいう通り、自分自身で選んだ道だ。
総司の代わりに、やりたくもないことをやった。などと戯言をいうつもりもない。自分で選んだ道だから。
芹沢さんを殺して、わたしたちが手に入れたもの。それは近藤先生という唯一無二の局長の存在。
お梅さんを殺して、わたしたちが……いや、わたしが手に入れたもの。どんな人でも斬る覚悟。
斬られた芹沢さんとお梅さんは、生命と引き換えになにかを手に入れることはできたのだろうか。
縁側から空を眺めると、幸せそうに眠るふたりの姿を思いだした。
人は、死んだらどこへ行くのだろう。そんなこと、いままでこれだけ考えたことはなかった。
佐々木くんとあぐりさん。芹沢さんとお梅さん。それぞれに血をみることもなく幸福になれているのだろうか。
わたしがそれをねがうなど、偽善でしかない。
屯所の近くから左之さんの声がひびいてきたのを合図に、わたしはすっかり冷えてしまった腕をさすりながら自室へ戻った。
「あーあー。身体冷やしたやろ」
「冷やしたというか……縁側で少し考えてたらいつの間にか」
「いつの間にか。や、あらへんで? 風邪ひいとるやん」
翌日。昼の巡察を終えたわたしは、そのまま山崎さんを訪ねた。
様子をみせにこい、といわれていたことももちろんあったが、それ以上に彼のそのやさしさに触れたくなったのだ。
ひとつ鼻をすすり、その下をかく。外で待つ平助は寒くないだろうかと、ふと背後の障子を振り向いた。
山崎さんは、そんなわたしの行動に一度瞬きをすると吹きだす。思わず睨んでしまうと、口もとを押さえて堪えていた。
「なんですか、失礼ですよ」
「いや、堪忍。つい、な。若いってえぇなぁ」
「……なにを年寄りのようなことを」
「ま、若くはあらへんやろ」
こう理由もわからないまま笑われるのは不服だ。
きちんと羽織を着て悪化させないことを約束させられ、その部屋をでた。ちょうど鉢合わせたのは、御新造さんとまちがえた女性だ。
「お帰りどすか?」
穏やかなほほえみに、冬空が明るくなった気がする。ひとつうなずいてほほえみ返すと、彼女の表情が一瞬曇った。
一度閉まっている障子に目線をやると、玄関の方へ歩きだし、小さく手招きした。
どこか挙動不審な彼女の行動に首をかしげながらついていく。
玄関先。少しだけ影になっている場所に身をひそめると、彼女はそっと耳もとに唇を寄せてきた。
「なんですって?」
「ほんまやの。先生に何度訊いたかて、おなじ応えばかりやし……。なに考えてはるかさっぱりわからへん」
「町医者でも充分やっていけているのでしょう?」
「当たり前やん。うちまで雇う余裕まであるのに、わざわざ棄てることないて思うやろ? あ、先生にはうちが話したっていわんといてよ?」
噂好きの京女。いつもの穏やかな面を外した彼女は、どこにでもいる女性だった。
話しすぎたと一度笑った彼女は、すぐにまた面をかぶる。女はこれほど素早く自分を偽るものなのかと寒気がした。
「お、どうだった?」
「お待たせしました。風邪みたいですが、大事はないようですよ」
戸を開けるとすぐに駆け寄ってきた平助に、彼女とひとつ笑みをこぼす。一度彼女に礼を告げ、彼と合流する。
もう巡察も終わったのだから羽織は脱いでもよいのだが、山崎さんの呆れた笑みが浮かんで脱げなかった。しかし、やはりこの羽織はずいぶんと目立つ。
近藤先生の込めた意味もわかるのだが、なかなかに奇抜だ。心中呟いた言葉とともに、羽織の裾をつまんだ。
屯所に戻るや否や。心配性の平助に連れられ、あっという間に自室へ閉じ込められてしまう。
「まったく。あんな時間に羽織も着ずに縁側にいたら風邪もひくってぇの!」
「すみません……」
平助が怒るのもむりはない。散々悩んで、食べることすら無頓着になっていたわたしの身体は、病に侵されやすくなって当然だ。
腕を組む平助の表情をみなくても、眉を寄せているのがわかる。長いため息を吐いて、これからはしっかり食べなくては、と誓った。
それからしばらくは平助が過保護なまでに世話を焼き、わたしの体調はすっかり回復した。
それだけ平助とともにいたというのに、あの日の言葉の真意は未だに掴めていない。彼も口の端にもだすことはなかった。
「うー、さむ」
すっかり火鉢が恋しくなったこのごろ。巡察から戻ったわたしは自室に戻るとすぐに暖をとった。
冷えきった部屋は外とあまり変わらないように思えて、羽織を脱ぐこともせずにひとつ身体をふるわせる。
少し長めに息を吐くと白く形作られて、そのまま寒空に消えていく。
今日の巡察で、山崎さんが町医者を開いていた場所をみかけた。いままでは毎日温かい光がもれていたのに、今日は人の気配もなく、やけに寒々しく感じた。
彼女が話していた通り閉めてしまったのか、たまたま休んでいるだけなのかはわからない。だが、閉めてしまうとしたらもったいないと思っていた。
「おい、いるか!?」
「どうしたんですか? そんなに慌てて……」
「いいからこいって!」
突然開け放たれた障子に、少し温まった部屋の空気が逃げていく。訝しげにみあげた先の声の主は、腕を引きむりやりに立たせると、慌ただしく引っ張っていく。
ようやく手が離されたのは稽古場だった。掴まれていた腕が痛み、さすりながらそこを見渡す。
見憶えのある後ろ姿に、あ。と小さく声をもらした。
入隊試験だろう。ここからでは隊士たちに紛れているが、朱い髪紐のおかげでひときわ目立っている。
「沖田、相手してやれ」
腕を組んでいる土方さんは、わたしたちを確認すると彼らの方を顎でしゃくった。
隊士から受け取った竹刀を手に、充分な間をとって立つ。彼の獲物は長い棒だ。
左之さんとおなじ槍使いか。棒術は攻撃範囲が広いため、刀を使うわたしには少々やりにくい相手だ。
だが、医者であるはずの山崎さんが、なぜここにいるのか。いまの彼は医者の皮も気さくな兄のような皮も、すべて脱ぎ払っているようにみえた。
「行くぞ……はじめ!」
双方構えたのを合図に、平助が声を張り上げる。
素早くくりだされた突きを身体を捻ることで避け、一歩前にでた勢いを殺さず右手一本で突きを返した。
棒を反転させ弾かれる。頭上に腕を持ち上げられ、全身に隙ができてしまった。
それを見逃してくれるはずもなく、脇腹に攻撃が直撃。思いの外重たい攻撃に咳き込みかけるがなんとか耐える。
竹刀で棒の先を弾き彼のもとへ走る。間合いをつめた方が有利だ。
すかさず棒を反転させ上から叩きつけようとするそれを竹刀で受けとめる。
懐に入ったわたしは腹に突きをくりだし、吹き飛ばした。──つもりだった。
倒れるはずだった彼は、両足と棒を使い突かれた勢いを殺したらしい。
一度上げた顔はぞくりとするほど闘争本能に満ちていたが、ひとつ咳き込むとそのまま座り込んでしまった。
「そこまで!」
平助の声にようやく構えていた竹刀を下ろした。一度大きく肩で息をすると、平助がわたしの肩を叩く。
よくやったといわんばかりの笑顔に、わたしもほほえむ。そして何度か咳き込んだのち、長く息を吐いた山崎さんに近づいた。
竹刀を左手に持ち替え、右手を差し伸べる。ようやく顔を上げた彼の表情からは闘争本能はすっかり消え失せ、どこか弱々しくほほえんで手を掴んだ。
「おみごとでした」
「いやいや……さすがに組長格には勝たれへんな」
「いえ。危なかったですよ」
打った腹が痛むのだろう。棒とわたしが引く腕を支えにして立ち上がった。
前に会ったときよりも無口になっているのは、気のせいだろうか。漂う雰囲気もなんとなく別人にみえて、違和を感じる。
山崎さんの実力は文句なし。
本人が医者であることから、自ら打った場所を冷やしたのち、土方さんの部屋へ集まる。
そこには、顔見知りであるわたしや平助も同席していた。
出身は摂津国大阪。生家は医家を営んでいるらしい。それと同時に乱波としての裏家業もしていたとか。
昔祝言を上げた女性とともに上京してきたが、御新造さんは亡くなってしまった。紅の髪紐は唯一残った形見らしい。
得物は長巻。今回は棒だったため、実戦的な扱いはしていなかったとか。それであの強さとは、一度本気で仕合したいものだ。
乱波という言葉を聴いて、土方さんの眉が一度動く。
間者として潜り込んだか、はたまたほんとうに組のために使える人間か。計りきれずにいると、彼のするどい視線は語っていた。
そして山崎さんはそれに気づいていて、あえてなにもいわずに笑みを浮かべてみせる。
この大人同士の無言のやり合いに、わたしはとなりにいる平助とともに固まってみているしかなかった。
障子の向こう側を誰かが通ったのだろう。ぎしりと床の軋む音がすると、ようやく固まった空気が流れはじめた。
わたしと平助が小さく息をついたのは同時だった。
「いいだろう。山崎っていったな。まずは仮同志として生活してもらう」
「承知いたしました。ありがとうございます」
わざと訛りを隠したその話し方に、土方さんは一瞬眉をしかめた。
次の日の稽古では、強い仮同志が入ったとあって、左之さんや永倉さんは打ち合いをさまざまな隊士と打ち合いをしていた。
この日山崎さんはどちらにも捕まることはなかったが、幹部たちにも刺激を与えるこの人は、やはり規格外だと思う。
昼の巡察。そんなことを考えながら平助と並んで歩いていると、京の人々の視線を感じる。
耳打ちのようにとなりの相手と話す内容はきっと、この羽織だろう。わたしは未だに、影で人々に壬生狼と呼ばれているのを知っている。
土方さんではないけれど、町の人々にも早く壬生狼ではなく新選組と呼んでもらいたいものだ。
ふと白い息がもれると、背後から尾行と呼べない堂々とした殺気を向けられる。
そういえばわたしの記憶を取り戻すきっかけとなったのも、平助との巡察だった。
ちらと彼に視線を送ると、目線のみでうなずく。ごく自然に順路を外れ、小さな路地へ向かう。
人々を危険に晒すわけにはいかない。
路地に入った瞬間、抜刀し構える。あのときの既視感はあるが、ひとつちがうのはわたしの心構えだ。
前を見据えるわたしたちの視界には、すでに抜き身の刀を持つ男がひとり、向かってきていた。
なぜもう抜刀している。そんな疑問もそのままに、何者かと問う隙もなく襲いかかってきた。
一歩前にでている平助が、ひと太刀目を受けとめながら舌打ちした。
背後にも殺気。路地の反対から斬りかからんとする男の刀は、わたしが受けとめた。
鍔迫り合いのまま、刀同士がかちかちと音を立てる。背中合わせに平助とぶつかると、それを合図に刀を振り切った。
どちらの男もおなじように地をすべる。おなじ仕草で、おなじ頃合で刀を奮うふたりの男の異様さに、いやな汗が背をなでた。
こちらが奮う刀はすべて通らない。
戦闘の主導権を握りたくとも、他人に操られているかのような動きに、なかなか思う通りに刀を奮えない。
背中合わせの平助とわたしの舌打ちが重なった。
「連中に見憶えは?」
「あるわけねぇだろ、こんな気色の悪いやつ!」
それぞれに相手の刀を捌きながら問う。もちろんわたしにも見憶えはない。
このままでは勝負がつかない。そのうち、隊の誰かが探しにきてしまうだろう。
相手の突きを紙一重でかわし、そのまま思いきり腹に突進を喰らわせる。ようやく崩れた相手の体勢を整えさせるはずもなく、勢いよく刀を奮う。
何度聴いても馴れない、肉を斬る音。刀が肉を支配する感覚。
できることならもう経験したくはなかったが、総司として生きると決めた以上は避けられない道。
左肩から右脇腹まで斬り下げると、さすがに相手のひとりは倒れ込んだ。
じわりと流れでる血液をみることもなく、一度軽く刀を振り血液を落とす。
平助に加勢しようと振り向くと、相手もひとりになったことで必死になっているのか、次から次へと攻撃の手をだしていた。
ひと太刀もあますことなく、平助はすべての攻撃を捌き続けた。だが、このままでは平助は負ける。
翻弄する側と、翻弄される側。どちらがより体力の消耗が激しいかなど、いうまでもない。
すぐさま加勢すべく刀を構え直し、平助のもとへ走る。
平助と鍔迫り合いをしてる間に与えようとしたひと太刀。それが相手に届くことはなかった。
「危ない!」
聴こえたのは平助の叫び声。先ほど斬り捨てたはずのもうひとりが、背後から忍び寄りわたしに刀を向けていた。
平助は鍔迫り合いをしたままわたしに体当たりを喰らわせ、刀の餌食となった。斬られた左上腕から血が流れる。
傷口を蹴り飛ばされたそいつは仰向けに倒れるとそのまま動かなくなった。
「平助……!」
尻もちをついていたわたしは、平助から滴る赤い液体をみると悲鳴を上げた。
痛む臀部を堪えて立ち上がる。両手で握った刀が鳴るのを合図に、鍔迫り合いに負けた平助に斬りかからんとする敵の左腹部に突きをくりだした。
飛び退くかとも思ったが、刀は右脇腹に刺さっていた。
じりじりと切っ先を捻ると、思いきり向かって左側に刀をすべらせる。相手の断末魔は聴こえなかった。
血濡れの刀を拭うことすらしないまま、左腕を押さえる平助のもとへ向かう。
「なんて無茶をするんだ!」
「大したことねぇって、かすり傷だよ」
「黙りなさい! 今度わたしを庇って怪我なんてしたら、許さないから」
着物をたくし上げ傷口をみると、たしかに血の割には傷は浅い。
懐の手ぬぐいを傷口に当て軽く縛り、怒号におどろく平助を睨みつける。視界がゆがんでいるのは、涙のせいなんかじゃないと思いたい。
平助から流れる血をみたとき。わたしは総司が死んだ日のことを思いだし、平助を失いたくないと心底思った。
わたし自身の手で、すでに何人もの生命を奪ってきたというのに都合のよい話だ。
それでも決して失いたくないとねがい、そして浅い傷で済んだことに心底安堵した。
怒号を上げてから口を開くことのなくなったわたしと、どこか怯えているような瞳でわたしを伺う平助は、足早に屯所を目指していた。
返り血を浴びた浅葱色はところどころ緋に染まり、それが一層都合のよいねがいを思い起こさせ、自己嫌悪に襲われる。
屯所の自室へ戻るや否や、平助は謝罪の言葉とともに頭を下げた。未だ瞳の奥にある怯えに思わず笑みがこぼれ、わたしも謝罪した。
「山崎さん、います?」
「沖田組長! 山崎さんならどこかへ行かれましたよ?」
「行き先は訊いていませんか?」
山崎さんの自室とも呼べない大部屋を訪ねると、それまで騒がしかったそこが一瞬で静まり返る。
近くにいた隊士のひとりがほかの隊士にも目線で問うが、誰も行き先は知らないようだった。
仕方ないと踵を返し、応急処置として部屋に常備してある薬を塗るに留めた。
いつにも増して静まり返る自室で、居心地悪そうな平助を横目に、わたしは芹沢さんたちのことを思っていた。
平山さんも、芹沢さんも、お梅さんも斬ったあの日。わたしは心をも殺していたのではないか。
わたしが殺さなくてはならない。総司の代わりに──そう思っていたからこそ、総司とおなじように心を閉ざして刀を奮っていたのかもしれない。
ちらりと平助へ視線をやる。平助もちょうどこちらを伺っていたようで、目が合った。
一度肩をふるわせた平助が、取り繕うようにほほえむ。
四つん這いにはなり近づくわたしに、平助は思わずといったように後ずさりをはじめた。
「平助、逃げないで」
「わ、悪い……」
壁へ押しやってしまう寸前、口をついた言葉は自分でもおどろくほどに真剣だった。
怒鳴ってしまったのは悪いと思っているし、こうして気まずくなってしまうのもわかる。平助はきっとまたおなじように無茶をするだろう。
壁を背にする平助とおなじように座り直した。
「……怒鳴ってしまってすみませんでした」
「いや、それはもう……」
「わたしは、平助に無茶してほしくないんです。先ほどのように、わたしを庇って怪我などしてほしくない。平助を……失いたくない」
言葉にすると、どれだけ彼がわたしの心の大部分を占めているのかがわかってしまう。
自分でも気づかないうちに、彼がいることが当たり前になっていた。そして、彼を失いたくないという心の叫びが聴こえたとき、それがようやくわかった。
こんな気持ちを口にすることは、ものすごく照れくさい。それでも、伝えないまま無茶をされてはわたしの心が保たない。
平助はあんぐりと口を開け、言葉の意味を必死に理解しようとしているようだ。
膝の上に置かれた拳は小さくふるえ、上目遣いで伺った平助の表情は、混乱を顕にしていた。
「──すみません、変なことをいいましたね」
迷惑だったのだろうか。それを訊ねることはできないが、これ以上彼と気まずくなるのはいやだ。
肩を竦めて移動しようとするわたしの腕を掴み阻止したのは、当たり前ながら平助だった。
おどろいて振り向くと、ほんのりと色づいたほほをそのままに、彼はうれしそうに笑う。
「ありがとう。おれもおなじ気持ちだってこと、忘れるなよ。おれもおまえを失いたくないから、庇ったんだからな」
照れくさそうに、まっすぐにわたしの瞳をみつめる平助に、思わず胸が高鳴った。
一度速く鳴りだした鼓動はしばしの間治まらない。理由はわからない。だが、どこか心地よかった。
歯をみせて大げさに笑った平助につられてほほえむと、先ほどまでの気まずさはどこへやら。固まっていた雰囲気はどこかへ消え去っている。
彼と同室でよかった。茜色に染まる空の色が、障子の隙間から部屋に射し込む。
いつもと変わらない光景。だがどこか神秘的にもみえるその光に、いまこの刻が続けばよいとねがった。
夕餉ののち。山崎さんに診てもらった平助の傷は、大したことはなかった。隊務に支障もないということで、傷をつける原因となったわたしは安堵した。
翌日。昼の巡察を終えた平助を待ち、その足で壬生寺へ向かう。
壬生寺へくる理由は芹沢さんやお梅さんが眠るだけではない。近所の子どもたちが遊びにきているため、刀を奮う日常の疲れを癒すため、若い隊士たちはよく足を運んでいるようだ。
総司も京にきてからは頻繁に通っていたが、わたしはというと実ははじめてだ。
「あー! 宗次郎や!」
「ほんや! もうきてくれへんかと思っとった!」
わらわらと集まってくる童たちに手を引かれ、寺の中庭へと移動する。平助はというと、子どもたちにすら小さいといわれ、わずかに青筋をたてていた。
ある子は花いちもんめ。ある子はかごめかごめ。次から次へとでてくる言葉に思わず苦笑しながら、今日はかごめかごめにしようとひとりの頭をなでた。
子どもたちの声がひびく中庭。寺小姓のひとりが入口を掃き、その近くにいる住職がこちらをほほえましげに眺めている。
いつからか大きな男子たちは木登りをはじめ、女子はまだまだ幼い子たちとともにそれを見守る。
暴れないよう念を押し、小さい子たちを順に肩へ乗せる。平助は猿のように流れるような木登りを披露していた。
こうしていると、空はあっという間に茜色に染まる。
名残り惜しげに寺に背を向ける子どもたちを見送ると、必ずまたこいと声を張り上げられた。
もちろん。そう声を上げたのはふたり同時で、すでに遠くなった子どもたちも笑っていた。
ぐっとひとつ伸びをする。空にかかげた手を、翼をたたむ鳥のように下ろす。
一歩足を踏みだし振り向いた先にいる平助は、腰に両手をあて子どもたちの去った先をみつめていた。
「平助、帰ろう」
ひとときの安息。人斬りである自分たちにとって、これはほんとうにひとときの安息だ。
いつ、自分の身が朽ちるともわからないのに、こんな風に癒しを求めることを、滑稽だとは思わない。
ただ、こうしている間は血にまみれた手のひらを隠し、夜叉の如き心も隠し。偽っている自分だけは、滑稽だと思う。
茜色の空を背に、平助と並んで歩く。すぐ近くだというのに、雑談はとまらない。
あれからすっかり敬語ではなくなったわたしに、平助はどことなくうれしそうだ。
お互い、考えているのは斬り合った相手のことだとわかりつつ、口にだすことはなかった。
異様な敵の輪郭すら朧げで、その異様さを報告することもままならないまま。年の瀬が迫っていた。
壬生寺で子どもたちとたわむれる刻の平和さを思うと、近ごろの巡察はずいぶんと危険になった。
市外からやってくる敵だけでも治安は悪くなる一方だというのに、それに乗じて悪さを働く連中も増えている。
稽古がより厳しくなるのも仕方のないことだ。
そんな中、粛清を免れていた野口さんが脱走した。
彼の中でどのような思いがあったのかはわからない。わたしが芹沢さんたちを殺めたということを知ったとも思えない。
だが、芹沢さんについているとは思えないほど、穏やかな表情を浮かべていた彼が無表情になったことが、すべてを物語っていたように思う。
巡察とは別に野口さんを捜索しようとしていた矢先。ひと足先にその任務に当たっていたうちのひとりである山崎さんが、あっという間に捕らえてきたことには、誰もがおどろきを隠せずにいた。
禁令に基づき腹を切った野口さんは、芹沢さんたちとおなじ場所へ行けたのだろうか。禁令はまたひとつ生き血をすすり、新撰組の中に息づいた。
血に濡れてしまったわたしの両腕は、あとどれだけの人の生命を奪うのか。次の年は少しでも少なくて済むようにと祈った。