第2話「丘の上で語る夢を空が聴いていた」
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自分ガドコニイルノカ、分カラナイ。自分ガ誰ナノカ。ココハドコナノカ。
見知らぬ暗い部屋に一人立ち尽くしていた。 ぼんやりと天井の照明から微かに光が浮かんでいる。床や壁に、蚯蚓のようなコードが蠢めき不整に絡みあっている。
中央に長方形の寝台があって、そこに誰かが眠っていた。その誰かの頭上には楕円形の青白い光が灯されている。誰かに恐る恐る近づいてみる。するとそこには全身毛のない裸の少年が眠っていた。それだけではない。少年の体の至る所の皮膚から、細長い導線が飛び出しており、どこかに繋がれていた。
少年は肘から下の腕がなく、肉の断面がさらけ出ていた。不思議なことに、人間の肉の内部には血管の代わりにやはり導線が密に埋まっていた。全て部屋の中の機器に繋がれていた。
少年を眺めていると、今度は景色が反転した。いつの間にか、少年の頭上に浮かんでいる。強制的に少年の姿を見続けなくてはならなかった。逃げ出したくて身動ぎをしようにも、体は金縛りにあったかのように動かない。
突然、頭の奥へ低く重厚な声が響く。
――オマ……モ……ダ。
その厳たる声に、胸の奥が縛られるような息苦しさを覚える。
――オマエハ……モノ……ダ。
声は徐々に確かなものとなり、時折砂嵐が混ざる。必死に頭の中の気持ちの悪さをかき消そうとした。
――オマエハオ……モノ……ダ。
声はより一層はっきりと響いた。
――オマエハオレノモノダ!!
目の前の少年ごと、景色がぐにゃりと歪み途方もない闇が迎えに来た。抵抗しようと足掻いたが無駄だった。強い力で吸い込まれていく。それでも自分が崩壊するような感覚から、救いを求めて足掻いた。足掻けば足掻くほど、闇に溺れていく。辺りが完全な闇に包まれた瞬間、目の前に少年の姿があった。
少年の瞼が少しずつ、ゆっくりと開いていく。
「やめろ!!やめてくれ!!
手を伸ばした先には雲がそよぐ青空が一面に広がっていた。抱きしめたくなるような暖かな光景に自分を取り戻していく。肩を揺らして荒い息を整えると、穏やかな緑の香りがロッドの鼻腔をくすぐって、つい先刻丘の上で寝そべっていた事を思い出す。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。額に滲んだ汗を吹く風は少し冷たかった。
「ロッド。おはよう」
不意に頭上から名を呼ぶ声がして、不用意に肩を大きく揺らす。聞き馴染みのある、高くあどけない声。その声の音色に、すぐに冷静さを取り戻した。ここには、あの少年は居ないのだとほっとして胸をなでおろす。
「トルネ」
「どうしたのロッド。凄くうなされてたよ」
顔を覗きこまれると、逆さまの笑顔が目の前溢れた。ついでに薄緑色の長い髪が顔の周りへ垂れた。
「いや、問題ない」
ロッドはぼんやりと、その造形の一つ一つを見つめた。白いが血色のいい肌に、彼女の茶色の瞳。瞳に映る己の姿。笑うと頬に出来るえくぼや、それから青空に映える淡緑の髪。ロッド自身、己の銀色の髪を面白いと思った事が無かった為、殊更その淡い髪色に魅せられ、ときどき触れたいとも思った。
「気分が悪いのなら、私が看病してあげましょうか?ロッド君」
「その必要は無い。トルネは何故ここに居る?」
「ここに居ちゃダメ?」
「ネオの所に居るのかと思っていた」
「ネオ?なんでネオのところなの?」
と、トルネはきょとんと首を傾げた。何故、と聞かれてもロッドはよく分からなかった。
「俺の傍に居る事が不思議だ」
「私はここが好きだからここに居るの」
「なるほど。理解した」
「ロッドもここにいたいから来たんでしょ」
「どうだろう。俺は…気がつくとここにいる。何故だか知らないが。任務に行かなくてはならないのに。最近は特に、ここに足を運んでしまうんだ」
「それは多分ね。好きって事だよ。この場所が」
トルネは隣に体育座りをしながら優しく微笑んだ。見渡す限り何もない。草や木や風や空。まるで向こうとは別世界のようだ。
「ここって、何もない。あっちと違って。私はここが好きなんだ。ここにいると何だか生きてるなって思うの」
「俺の居場所はここじゃない。任務に行かないと、父にも怒られるし」
ロッドは上体を起こした。腹の奥でまだあの夢が燻っている気がして、手のひらでさすった。
「ねえロッド。居場所はいくつあってもいいと思うの。ネオの所も、お父さんのところも、そしてこの丘も。そうしたら、帰れる場所が沢山あっていいじゃない」
ロッドはその言葉に納得し、上げかけた腰を落ち着けて、伸び伸びと景色を堪能することにした。
「知ってた?ロッド。ここってね、忘見郷って言うんだって」
「知っている」
「じゃあ、何で忘見郷って言うのかはご存知ですか?」
「それは」
知らなかった為、ロッドは口を結んだ。その様子にトルネはクスリと笑って。
「どこを見たって都会に侵されているこの国で唯一、ここだけは手を加えられていない。この場所は、人間に忘れ去られた土地。だから忘見郷」
ロッドは教えられた事を心に強く刻み込んだ。
「俺は忘れない」ロッドがそう言うとトルネも頷く。
「私も」
ロッドは心底、この何もない景色が美しいと感じて気に入り、いつの間にか小さく笑っていた。
「それからね。この場所にはジンクスがあるんだって」
「ジンクス?教えてくれ」
「この場所に来ると、誰もが胸の中に置き去りにして、忘れかけていた気持ちを思い起こさせてくれる。だからこの丘に来ると、離別した人とまた結ばれるんだって」
目の前に一頭の鹿が走って立ち止まった。それからもう一方からも鹿がやってきて寄り添うように頭を擦り付ける。片方には立派な角があった。
「ここには何も無いから、夜には星が沢山見えるの。流星群も見れるし。星も自分たちを見てもらいたいって集まるのね。今度、ロッドとも見たいな」
二人は都会とは違う風の匂いを吸い込んで、この空に広がる多くの星を想像した。
「今度、一緒に見よう」
そう言った口の中は甘酸っぱく感じた。幸せなことを語ったあと、急に胸が不穏な心地でいっぱいになった。ロッドがうつむいている事に気がつくとトルネは様子をうかがった。
「ロッド」
「一つ教えてほしい。俺は最近夢を見るんだ。それも悪い夢を。これは、もしかして病気なんだろうか」
ロッドは胸を抑えて、悩みを吐き出した。ずっと一人で辛かったのだろうとトルネは察した。
「病気じゃないよ。ただの夢だよ。昔の人は皆見てたんだって。だから大丈夫。それは普通のことなんだよ」
ロッドが顔を上げると、トルネは真剣な眼差しでこちらを見据えていた。
「安心しなさい!」そう言ってロッドの髪を両手でくしゃくしゃと撫で回すと、トルネは立ち上がって伸びをした。
「さてと帰ろうかな。ロッドはネオ達の元に戻るの?」
長方形の箱が密集しているようにだけ見える都会が、ここからは極小に見える。その中で、一際高くそびえ立つ塔は真っ直ぐと己を見張っている。まるで逃げる事を許さないかのように。ロッドは唇を結び、決意の表情を浮かべてその塔を真っ直ぐ見つめて言った。
「俺は、シヴァを抜ける」