第5話 「偽れぬ過去 3」
ナイフが手から零れ落ちた。と思えば、鉄砲玉は男の右胸を貫通しており、軍服に血が広がり、何か言おうと口をぱくぱくさせながらその場に倒れた。もう一人の軍人は悲鳴を上げてすぐさま走って逃げていった。
「おい、無事か?」
聡明な低音の声は少し嗄れている。無精髭が生えていて、鉄帽の影からこちらを見下ろす目はまるで少年のようだった。それからさっきの軍人と劣らぬ屈強な肉体に武装を纏っている。防弾アーマーの左胸に日本の印がついていた。
顔面には何本もの傷跡が張っていた。数多の戦線をくぐり抜けてきたのであろう。
戦士は膝を地面につけ、未だ震えの止まぬテドウに目線を合わせて優しく言った。
「随分と肝が据わっている奴だ。普通だったら小便を垂らして泣いている所だぞ。あんな脅されても奴等を睨み返すとは大した男だ。それとも死を望んでいたのか?」
テドウは苛立ちや緊迫感、それに解き放たれた安心からつい声を荒げた。
「うるせぇ!どうだっていいんだよ。俺なんて生きてたってどうせ、そいつみたいになるだけなんだ。だったら死んだほうが良かった。なんで、俺のこと助けたんだよ!」
男は転がっている食料に目をつけると、それを拾い上げた。
「なるほど、そうか。盗んだのか」
テドウは獣のように身を起こして男に食ってかかろうとした。
「それは俺のもんだ!」
そんな小さな体を、男は容易く跳ね除けると、その頬に平手打ちをかました。荒野に乾いた音が鳴り響く。刺すような痛みに驚いて、涙は浮かばなかった。目を丸くして男を見遣る。
「野垂れ死のうが、生きようが一緒なんだろ?若造。ならこれは俺のもんだ」
男は続けて野菜を拾い上げた。
「触るな!」
テドウは男の腕に全力で噛み付いた。しかしそれも呆気なく振り払われる。男は野菜をすべて拾い集めると立ち上がって埃まみれの少年を見下ろした。
「若造。言葉には責任が伴う。この先、大人になる時にそれがてめえの人生を左右する事もある。死んだほうが良かったなんて思ってもない事を口にするな」
テドウの心はその言葉に大きく跳ねた。次の瞬間、開いた口から自分勝手に怒りを吐き出していた。
「大人!?なれるわけないだろうそんなもの!!今生きるだけでいっぱいなのに!何で、未来のことなんか考えなきゃならないんだ。皆いつか死ぬんだ。この国はもうダメだ。衰弱しきってる。一秒先すら考えられない未来に何が残されてる!」
こんな言葉を吐いた所で誰も答えてなどはくれない。テドウはどうしようもない感情から、さっきの兵士が落とした銃を拾って、男に向けた。
「それを返せ!そうでもしないとお前をここで殺す!!」
歯の隙間から、荒ぶる呼気が零れ落ちる。男は食糧を地面に置きながら、静かに言った。
「その前に水でも飲め。喉が乾いているだろう。ここに置いておく。好きなだけ飲んでいい」
そうして自分の腰元からボトルを取り出し、食糧と一緒に差し出した。テドウはすぐに銃を捨てるとボトルを両手で鷲掴み、口にいっぱい流し込んで水を飲んだ。その様子を見て、微笑を浮かべ無防備な頭をポンと優しく叩く。テドウはその手の感触を初めて知った。
「それだけの知能があるのなら大丈夫だ。お前はやっていけるさ。それにお前の言う通り、この国はもうすたれきっている。人間は何度も過ちを犯す。悔やむ事も大事だ。だが――」
男は歯を見せて笑うと、途方もない惨地を前にして言った。
「未来は何度でも、己の手でつくることが出来る」
テドウは男が指をさす方に視線を向けた。かつてここには、愛すべき生命の園が広がっていたのであろうか。それを壊すのも、つくるのも人間次第。地面には一匹の虫が歩いていた。その小さな体で生命の園を求めるかのように。テドウはその虫と自分を照らし合わせた。もう一度、生まれ変えることは出来るのか。人も自然も、生き物も。
「何年、何百年経とうがきっと作ってみせる。未来は永遠に衰えない。俺たちが諦めなければ」
太陽の光が雲の切れ間から差し伸びた。その光の暖かさを生まれて初めて感じとった。生きている。今、生きているのだ。
「この野菜は返してくるよ。それで、…一緒について来てくれるか?」
男は「ああ、もちろんだ」そう笑ってテドウの頭をぐりぐりと撫でた。
「俺も未来をつくりたい。本当は大人になるまで生たいんだ」
「ああ。大丈夫だ。お前の未来はまだ死んでないだろう。ただし、これからはてめえで言った言葉には責任を持つんだぞ」
テドウは小さく頷く。
「これからはオッサンの言ったとおり自分の言葉には責任とるよ」
「オッサン?俺の名前はドウリだ。若造」
「俺は若造って名前じゃない」
「なら名前は何だ?」
「…知らない。物心ついた頃には捨てられてたから。誰が俺を育てたのかも知らない」
「そうか。じゃあ俺がつけてやるよ。格好いい名前」
「本当か!?」
「おう。それじゃあ…うーん。テドウという名前はどうだ?」
「テドウ。…オッサンの名前にちょっと似てるね」
「何だ不服か?」
「いや、違う。う…うれし、うれしい…」
テドウは体中をくすぐられている何とも言えない感覚に俯いた。
「はっはっは!そうかそうか。今日からお父さんって呼んでもいいんだぞ。俺のこと」
「は!?呼ばねえよ。だって──」
失うことがまだ怖いから。その言葉は喉につっかえて吐き出せなかった。
それからドウリとテドウは二人並んで大地を歩き進めた。それぞれの目には目的地がはっきり映っており、ただ前へと足を一歩踏み出すだけだった。