報告
少年の名は梔子疾風、少女の名は青葉碧といった。両名とも国立の退魔師養成学校、五行院学園高等部に通う二年生だった。十年前から世界各地で動物や機械に似通ったものに人間が襲われる事件が相次ぎ、死者も出るようになった。新種の動物か機械によるテロかと騒がれたが、銃弾や剣といった物理的攻撃が全く通用せず、紛争に比べれば死者数は圧倒的に少なかったものの未知の存在に成すすべもなく殺される、という事実が人に与えた衝撃は大きかった。
一時は人類の危機かと騒がれ宗教や神頼みに走る者が洋の東西を問わず続出した。
だが捨て鉢だったはずの神頼み的な戦法、お祓いやオカルト的な方法が意外なほど功を奏し、消滅する妖魔が世界各地で確認された。
だがそれらは戦闘用の魔法が少ない上にごく一部の人間が使えるに過ぎず、妖魔との戦いに投入するには数が圧倒的に足りなかった。一国に出現する妖魔は年間数千体だが、それらが使える人間は一国に数十人もいなかったためだ。
そこで汎世界的に伝わるオカルトやまじないを整理し、木火土金水の五属性に分類して国々・伝承者によってばらばらだった理論を統一して「ある程度の素質あるものならこれをこなせば一定の魔法を使えるようになる」というカリキュラムを作り上げた。
カリキュラムに沿って使えるようになるものを「魔法」と呼び、それまでの伝統的な魔術、呪術と区別している。
魔術・呪術は魔法にない技術も多いが、長年月の修行を必要とするために魔法に比べ今でも伝承者が圧倒的に少ない。
そして九年前に二十代から四十代までの全国民に魔法の適性検査を一斉に施し、適性のあったものから志願者を募りカリキュラムを施し、実戦に投入した。
数が増えたことによる効果は目覚ましく、妖魔が出現してもすぐに退治できるようになったために妖魔による犠牲者は一気に減った。
その後、魔法の威力を目の当たりにした人々から魔法を子供から教え、魔法のエリートを育て上げ、かつ魔法を妖魔との戦い以外にも役立てようという動きが活発になった。
そのために魔法習得のみにしぼった数カ月のカリキュラムに一般教養も加えて、国立の中高一貫校で教えることになった。そのひとつが五行院学園である。
現在、魔法を使える人間は魔法養成の学園卒業者、在籍者、初期のカリキュラムを習得し実戦に投入されたものを合わせ、この日本で約十万人である。
魔法を使い、妖魔と戦うことを生業にするものを「退魔師」、欧米では「ルシ・ハンター」と呼ぶ。本来は学園を卒業してから妖魔との戦いに投入されるのだが、学園長から認められたごく少数の生徒は退魔師見習いとしてこうして妖魔を狩って、国の治安に貢献している。
妖魔の霧散を確認すると、碧は携帯を取り出して番号を押す。
コール音なしですぐに相手が出た。
「退魔師見習い番号一二三五、青葉碧。どうぞ」
「こちら退魔庁。どうぞ」
「午後六時三十五分に姪浜市に出現した妖魔と交戦、これを撃退。軽傷一名、死者・重症者なし。報告終わり。どうぞ」
「状況把握。交信終わる」
電話が切られた。退魔庁とは妖魔がらみの事件を管轄する防衛省所属の国の部署だ。
碧は携帯をしまうと、ブレザーの下のポーチから包帯と軟膏を取りだした。
「はい、さっきあのクラゲみたいな妖魔にやられた腕出して」
出して、と碧は言いながらも自分で疾風の腕をまくっていく。引きしまった筋肉のついた肉体のうち、左腕と両足とに赤いバンドを巻いたように妖魔に締められた赤い跡が痛々しくついていた。
「まったく、いつも無茶して……」
碧は不満げな言葉を漏らしながらも、慣れた手つきで軟膏をチューブから絞り出して患部に薄く塗り、包帯を巻きつけていく。疾風が妖魔と戦う時はほぼ確実に負傷するので、応急手当は自然とパートナーである碧の役目となっていた。
「いつもありがとう。でもやってもらってばっかりだと悪いな、たまには自分でやるよ」
疾風がそう提案すると、碧は眉をしかめた。
「いいの、やりたくてやってることだから」
怒りながらも碧は包帯を両腕に巻き終えた。包帯がゆるゆるですぐ解けてきそう、などといったことはなかった。きつく巻いたわけでもないのに疾風の両腕にフィットし、外れることも腕の動きを妨げることもないという理想的な巻き方だった。
「いつもありがとう、碧」
疾風の言葉に碧はなぜか顔をそらせると、早足で歩きだした。
「待ってよ、碧」
疾風が慌ててその後を追いかけていく。
人と車が通れる二車線の舗装された道路。だがその両側は山桜の生える山であり、道路とは金網で仕切ってあるだけだった。山を切り開いて作られた道なので当然急坂であり、数少ないチャリ通の生徒は皆自転車を押して歩いている。
これが五行院学園への通学路だった。五行院学園は家や道路で開発された低い山の山頂に立てられた学園で、バスも通っているのだが本数が少ない。学園行きのバスに乗り遅れた生徒は山のふもとの大通りまで通るバスに乗り、途中下車して歩いていくことになる。大通りから学園までは、徒歩で二、三十分かかる。
ただし学園近くに住める寮生だけは徒歩五分で行ける。遠方からも退魔師の素質のある生徒を集めてくるので寮もあるのだ。
バスに乗り遅れて通学路を歩いていた疾風は、前方に腰まで流れる黒髪と理想的なプロポーションを兼ね備えた少女を発見した。後ろから見る限りは。前方にまで回り込むと身長の割に育っていない部位がある。
「おはよー、碧……」
学園に出す報告書の下書きを一晩でまとめてきた疾風は、今にも落ちそうになる瞼を懸命に引き上げながら歩いている。
妖魔は退治してそれで終わり、というわけではない。妖魔の特徴や行動パターン、戦闘経過や被害などを報告書としてまとめ、提出せねばならない。
深夜にまで及ぼうとも、すぐに作成することが定められている。妖魔との戦闘のデータは一刻も早く収集する必要があるからだ。
パートナーである碧は手伝っていない。
碧は文才が絶望的なほど無く、読書感想文ですら疾風に代わりに書いてもらうくらいだ。一度無理言って報告書を書いてもらったことがあったが、「大変だった」の一言で済ませていた。それ以来疾風が徹夜してでも仕上げることにしている。
「おはよ、疾風」
碧は黒髪を翻しながら振り返り、気さくに挨拶を返す。
そのまま二人は横に並び、連れ立って学園へと歩を進める。他愛もないことを話しながら二人並んで歩く。二人の間隔が閉じたり開いたりすることは全くなく、一定の距離を保っていた。
特別なことを話しているわけではない。ただ学園であったことと昨晩あったことを話し、時に碧が極上の笑顔で笑うだけだ。
だが周囲の視線は刃物のような鋭さを帯びて疾風の全身に突き刺さる。
「畜生、疾風のやつめ、青葉さんとあんなに親しげに……」
「並んで歩くだとお?」
「俺なんて、俺なんて視界に入るだけで睨まれるのに」
「それ、ちょこっと羨ましいな。俺も睨まれたい」
「踏まれたい、罵倒されたい」
疾風の背筋に冷や汗が流れていく。眠気も吹き飛んだが、碧はどこ吹く風で疾風と楽しげに歩いていく。
二人にはほかの生徒と違う特徴が一つだけあった。通学路を行く生徒の中で二人とごく少数の生徒だけが、菊の花の隣に漢数字が書かれた意匠の銀色のバッヂを付けている。退魔師見習いとしてのバッヂで、見習いでない退魔師は金色のバッヂとなる。
疾風たちは漢数字の三が菊の花の隣にあり、数字は所属する班名を表していた。
このバッヂは金属性の魔法の使い手が作るもので、紙幣と同じように偽造防止の技術が施されている。
疾風と碧は先日の晩、妖魔との戦闘があった公園に差しかかった。展望台が設置されているので、道から百段近い階段を昇っていかないと辿りつかない、道から見上げるような位置に建てられていた。
「見に行く?」
「当り前よ」
碧は重々しく頷いた。
疾風は睡眠不足にもかかわらず、公園へのレンガ造りの階段を危なげなく登っていく。碧も疾風の横に並び、階段を上った。
「疾風、そんなに早く登ってきつくない? 戦闘の後、徹夜で報告書まで書き上げたのに」
かなり早いペースで登っているのに、碧は事もなげについてゆく。会話する余裕まであった。
「きついけど、碧より後に階段登るわけにもいかないし」
「あたしより後から登って、何かある?」
碧は首を傾げて考え込む。
「だから、その、見えるでしょ」
「見えるって、何が?」
疾風は顔を赤くして碧から視線をそらし、階段を登りはじめた。
「~っ!」
碧はスカートの裾を抑えて顔を真っ赤にして呟く。
「この、ムッツリスケベ……」
二人はやがて公園に辿り着く。公園は別の道から車が来られるので、駐車場が多い。端の方には四階建ての展望台がちょっとしたビルのように公園に建っていた。あそこに立つと通学路や下の姪浜市、さらに遠くの海が一望できる。
同じ場所でも、昼と夜では別の場所のように思える。昨日の夜は街灯の白い光で照らされていた公園も今は眩いばかりの朝日に照らされ、別の色を持っていた。
疾風は昨晩の戦いのことを思い出し、言葉もなく公園を見つめている。隣を見ると、碧も同じく重々しい顔つきをしていた。
碧の魔法であちらこちらの地面に亀裂が入り、公園の木の一本には白光の鎌で両断された跡が生々しく残っている。
それら戦場の傷跡を残す部分には立ち入り禁止の柵が設けられ、工事現場の作業服を着た男たちがせわしなく動き回っていた。
疾風たちの他にも何人か野次馬がおり、監督らしき初老の男が彼らが近づけないように注意を促していた。
「君たち、ここはしばらく立ち入り禁止だ。昨夜妖魔との交戦があってね……」
監督らしき男性はそう言いかけたが、疾風たちの胸についた銀色のバッヂを見ると慌てて言い直した。
「そのバッジと、番号…… 君たちが昨夜妖魔と交戦したのかな?」
疾風は頷き、碧はそうです、と答える。
監督らしき男性は多少おびえたような態度をとった。
その後互いの仕事や昨日の妖魔との戦いについて少し言葉を交わす。
「それにしてもなんで妖魔、なんてものが出たのかね? わしの若い頃にはおらんかったが。妖魔でなく妖怪、口裂け女だのトイレの花子さんだのは聞いたことがあるが、それで友人が死んだことはなかった」
「授業でも色々と説を聞きました。民俗学のように人の負の感情が集まってできたという説、環境破壊による生命の突然変異という説、他にもありますけど未だ仮説の域を出ませんね」
「まあ、どっちにしてもあたしたちのやることは変わりませんので。全力で妖魔を狩って皆さんをお守りする、それだけです」
疾風と碧は努めて丁寧に礼儀正しく話す。初めは警戒していた監督らしき男性も話が進むうちに声と表情から大分硬さが取れた。
疾風たちがこうして気を使うのにはわけがある。
数年前、退魔師が酒に酔った勢いで暴れて、魔法で家を半壊させたことがあった。
その事件はニュースやネットで大々的に取り上げられ、妖魔の出現以降ずっと英雄扱いされていた退魔師への世間の風当たりが急激に強くなった。それ以前は退魔師を批判するだけで世間から袋叩きにされるような状況だったのに一時的にだが全く逆の世論になった。
五行院学園の制服を着ているだけであからさまな警戒をされたほどだ。
それ以来退魔師同士でも自主規制が強くなり、一般人の前でうかつに魔法を発動させようものならしばらくはイジメの対象となる。
退魔師や退魔師見習いは一般人の退魔師への親和性を育てることも重要な任務と位置付けられた。
空気を異常に気にする日本人の国民性ゆえか、これ以来日本では他国ほど魔法を悪用するような事件は起きてはいない。同時に、問題視されていた退魔師のエリート意識が大分薄まり、今ではなりたい職業ランキングの上位五位に入るほどでしかない。
魔法は新しい学問ゆえに若者に人気があるが、元来のエリートコースである医者や官僚を志す学生も多い。
疾風たちと監督はたがいに礼を言い合って別れた。その後二人は地形を見直したことを踏まえ、昨晩の戦いの反省を行う。その内容を疾風は報告書に追加した。
時間がたってから見つめることで見えてくるものもあるからだ。実戦からは少しでも多く教訓を集める、それが生き延びる要諦であった。
疾風と碧は校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えて教室へ向かう中途職員室に寄った。報告書を担当の教師に提出しにいくのだ。
担当の荒垣雷電という教師は職員室の一番奥の席に座り、スチール製の机に雑然と積まれた文献の中で茶をすすっていた。疾風と碧が近寄ってくるのに気づき、椅子を回して向き直る。年齢は五十歳ほど、白髪の交じった顎髭を生やして頭は坊主頭。顔の形は某アンパンヒーローのごとく丸く、体つきも柔道をやっていたせいか丸っこく耳が柔道の有段者らしく潰れている。だが目は武道家に似合わぬ柔和な光を称えている。
疾風の傷と無傷の碧を見て、
「ご苦労だったな」
と一言だけ声をかけた。
そっけない態度だったが、疾風にはありがたかった。
碧と協力して妖魔を撃退したという誇りはある。だが無傷の碧と自分を比べるとどうしてもコンプレックスが湧きあがる。
慰められると惨めになるし、長々と精神論でも聞かされると鬱陶しくなる。嘲笑されるのは慣れているがそれでも気分がいいものじゃない。結局はスルーするのに近い態度が一番気楽だった。
それでも荒垣は冷淡な教師というわけではない。怪我の程度が酷い時は心配して傷を見てくれる。時には実戦と研究を踏まえた助言もくれる。
荒垣は報告書をぱらぱらとめくって一通り目を通すと、すぐ机のPCと分厚い妖魔関係の資料に目を移した。
それから猛烈なブラインドタッチでキーボードを叩きレポートを作成していく。国立の学園の教師として国に提出するためのものだろう。
荒垣がキーボードを叩き始めるともう何も耳に入らなくなる。疾風と碧の二人は「失礼します」と一礼してその場を後にした。