5話
この世界が乙女ゲームの世界だと気付いてから一ヶ月が過ぎた。新しいクラスにも慣れてきて、外部生の子も学校に馴染み始めていた。中でも真白さんはその可愛らしい容姿と優しく気が利く性格、ちょっと抜けてるところも相まって他クラスにも友達が多い。一方で真白さんは順調に会長とのイベントをこなしているようだ。この間中庭で一緒にお昼を食べているところを見かけたし、何度か会長がクラスに来て真白さんと教室を出て行ったのが話題になっている。どうやらそのまま生徒会室に行って生徒会の仕事を手伝っているらしい。
そんな二人を見て苛立っているような、悲しそうな目をした紅さんが今日も一緒に生徒会室へ行く会長と真白さんの後姿を見て口を一文字に引き結んでいた。
「なんですの、あの外部生!東雲様と馴れなれしく!」
「東雲様とみると近寄って行って、媚びようとしているのが丸わかりですわ!東雲様は紅様にお会いにいらっしゃているに決まっていますのに」
「そうですわ!東雲様だってご迷惑でしょうに、お優しいから言い出せないだけですわ」
誰が見てもイチャラブな二人が教室から離れた途端、紅さんを囲む取り巻きが一斉に悪口をまくし立てる。周りのクラスメイトがそれを見て睨んでて、おおお怖い怖い。
「皆さんおよしになって。わたくし、気にしていませんから」
「でも……!」
「さあ、わたくし達も帰りましょう。日舞のお稽古に遅れてしまいますわ」
戸惑う取り巻きを連れて教室を出ていく紅さん。気にしていないと言っていたけど、表情は暗かった。紅さん一行が居なくなってからは今度は数人のクラスメイトがこそこそと紅さん達の悪口を言い始めている。ああもう、こういうドロドロしたの苦手だ。
「涼子、私もう帰るね。涼子は?」
「私は図書室寄ってから帰る」
「じゃあまた明日ね」
携帯で平さんに連絡して、昇降口へ向かう。
「っと、そうだ」
先生に提出しなきゃいけないものがあったんだっけ。すっかり忘れていた。職員室を通るルートに変更して、2階へと降りる。もう、この学校無駄に広くて移動が大変なのがよろしくない。
角を曲がると、職員室に続く廊下の途中にぽつりと立った後ろ姿が見えた。スラリとした姿勢のいい立姿に黒いつやつやストレート。後姿だけでも紅さんは綺麗だなあ。職員室のある一角は生徒会室やら多目的室やら特別教室が集められていて他に生徒の姿は無い。1人生徒会室の前で立つ紅さんはどうも入るのをためらっているらしい。
なんだか面倒臭そうな雰囲気だな。紅さんはライバルキャラ、生徒会室前にいるってことはこれも何かのイベントなのかもしれない。中にいる会長とおそらく真白さんとの修羅場になんて巻き込まれたくないなあ。私モブだし。かといって、同じクラスの人を無視して行けるほどこの廊下広くないしな。紅さんど真ん中に立ってるし。しょうがない、巻き込まれないようにサッと挨拶してすぐ去ろう。急いでる風を装うのも忘れずに。
「紅さん、こんにちは」
「あら、更木さん。ごきげんよう。あっ私通行の邪魔になっておりますね。相すみません、今端に寄りますので」
やっぱり紅さんは生粋のお嬢様だなあ。気品が違うね。それにしても、今はいつものおっとり大和撫子な紅さんっぽいけど、前の食堂の件といい真白さんが絡むとキツイ感じになっちゃうのかな。
「いえいえ、邪魔じゃないですよ。わざわざありがとうございます」
「あの、もしかして生徒会室に御用ですか?それでしたらお頼みしたいことがあるのですが」
「えっいや~その先の……ああ、そういえば生徒会室にも用事があったようななかったような」
さらっと通り過ぎようと思いきや、必死な顔に見つめられて心にもないことを言ってしまった。生徒会室になんてちょびっとも用事は無いのだけど、必死さがにじみ出る瞳に見つめられて私の意思は簡単に曲がったのだった。だって、紅さんがあんまりに可愛いから。こんな美少女に潤んだ瞳で見つめられたら落ちない男はいない!私女だけど。
「本当ですか!一つお頼みしたいことがあるのです、よろしいでしょうか?」
「う、うん。まあ、私に出来ることであれば」
「この用紙を、会長の隆司さんにお渡し頂きたいのです」
そう言って一枚の用紙を手渡された。
「え、それだけ?渡すだけなの?」
なにお願いされるんだろうって身構えてたら、なんだそんな簡単なことですか。
「はい、お渡し頂ければそれで結構です。ああよかった、ちょっと生徒会室に入り辛くて……」
「それって……」
「ええ。最近隆司さんが真白さんと親しくされているようなので、お二人でいるところを見るのが怖いのです。情けないですね」
胸の前でギュッと手を握りながらうつむく紅さんは恋する乙女だった。紅さんってライバルキャラっぽくないな。どちらかというと主人公みたい。色の名前が入ってるし、会長の婚約者っていう立場からしてライバルキャラだと思ったんだけど、勘違いだったかな?
「じゃあ、渡してくるね。ちょっと待ってて」
「すみません、ありがとうございます」
今度こそサッと会長に用紙を渡して、サッと去ろう。そう思って生徒会室のドアの前に立った瞬間、勢いよくドアが開いて中から小柄な姿が飛び出てきた。
「うわっ」
「きゃっっ」
幸い、開いたドアにはぶつかることはなかったけど、飛び出てきた真白さんをよけることは出来なかった。
バシャっと水音がしたと思って胸元を見ると、制服のスカーフに何か色水のようなものがかかって真っ白だったのがピンクのまだら模様付きになってしまった。ぶつかってきた真白さんはというと、さらに大きく水をかぶってしまったらしく白いブラウスまでピン
ク色になってしまっている。
「えーっと、大丈夫?」
私の方が早く放心状態から回復したからそう聞いてみると、真白さんの顔がみるみる内に青ざめて涙目になっていく。
「おいどうした?」
空きっぱなしになったドアからぬっと会長の頭が出てきて、私と目が合った。私の胸元と真白さんと床にこぼれたピンクの液体を見て察したらしく、呆れたような顔をした。
「あー、また鈴音がやらかした感じか?」
おっと会長、真白さんの呼びかたが名前呼びになってる。
「ごめんなさい!急いで片付けようとして、人がいると思わなくて、ほんとにごめんなさい!」
言いながら大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼす真白さん。上目使いで八の字眉で申し訳なさそうに泣いている真白さん、とっても可愛らしい。男だったら即惚れるね!
「これってなんですか?色水?」
まだらになったスカーフを指さして真白さんに聞くと、大きな瞳をさらに大きくしてハンカチを取り出した。
「スカーフが!ごめんなさい!ポスターを作っていて、筆洗い用の水入れなんです」
「ああ、なるほど」
絵具か。落ちるかなー。とかぼんやりと考えていたら、会長の手がぬっと出てきて落ちた水入れを拾って何処からか取り出した雑巾で濡れた床を拭いていく。
「鈴音がすまんな。こいつ、おっちょこちょいで目離すとすぐやらかすんだわ。悪気はないから許してやってくれないか」
「はあ。まあ」
床を拭いてる会長に見上げられ、そう言われればはいと返事をするしかない感じがする。実際は気が抜けたような返事が口から出てしまったけど。さすが攻略対象、雑巾がけしてる姿も格好いいな。
「鈴音も泣いてないで、片付けるなり着替えるなりしろ。ひどい顔だな、これで顔拭いてやる」
「やっ!会長!それ床拭いた雑巾じゃないですか!片付けます、片付けますから雑巾を顔に近づけないでください!」
私が空気のような存在だからって目の前でいちゃつかないで頂きたい。でも、なんか違和感あるな。ん?違和感と言えば、なんか後ろから凄まじい殺気を感じる。振り返ってみると、そこには私以上に空気な存在になっていた紅さんが黒いオーラをまとわせて立っていた。そういえば紅さんもいたんだっけ……。会長と真白さんを見る目がキリキリっと釣り上がってて、こ、怖い。
「隆司さ「会長!はいこれお渡しします。では失礼します」
奇跡的に無事だったプリントを会長に押し付けて、くるりと踵を返して足早に生徒会室前を離れる。途中で紅さんの手を掴んで引っ張って連れて行く。
「あ、あの、更木さん?どうなされました?どこへ向かっているのですか?」
1階に降りて、角のあまり生徒の出入りのないトイレへと入り、ドアを閉めたところで紅さんの手を離した。
「突然ごめんね。スカーフ早く洗いたくて」
まだら模様になったスカーフを外して、手洗い場で水洗いし始める。あ、この学校お湯出るんだっけ。お湯のほうが落ちるかな?
「それはわかりますが、何故わたくしも連れて?」
「紅さんの顔を見たら、あの場には居ない方がいいかと思って。……勝手にごめんなさい」
あのまま会長達のところに残していったら今度こそ修羅場になりそうだったし、それを知りながらその場を去るのもなんだか気分が悪かった。もしかしたら大事なイベントをぶち壊してしまったのかもしれないな。私の勝手な判断だし、紅さんだってあの場で言いたいことがあったに違いない。それでも、私の勘があの場から紅さんを連れ出せと言っていた……気がした。
「いいえ、お気遣いありがとうございます。確かにあのままあの場に居たら醜態を晒してしまったかもしれません。更木さんへの仕打ちについ頭に血が上ってしまいました」
「へ?私?あの二人がいちゃついてたのにイライラしたわけでなく?」
「勿論それもありますわ。更木さんをほったらかしにして、お二人で仲睦ましげに……!」
怒りに震える紅さんの拳が震えている。お願いだから殴らないでね……?
「く、紅さん落ち着いて」
「あら、すみません。すぐに頭に血が上ってしまう癖が昔からありまして……。お恥ずかしいかぎりですわ。それに、わたくしも更木さんをほうっておいたのと変わりませんわね。こうして洗面所へお連れすることなんて少しも頭になかったのですから」
「今まで紅さんておっとりした大和撫子ってイメージだったんだけど実は違ったんだね。正直ギャップが超怖い。あ、落ちてきた」
お湯でゴシゴシとこすっているとまだらだったスカーフが元の真っ白なスカーフに戻っていった。ギュッと絞って、丁寧に折りたたむ。生地が傷んでそうだけど、見た目そんなに変わらないかな。柊高校の制服ってスカーフ一枚とっても凄い高い。前世の勿体無い精神がこういうところで出ちゃうんだよなあ。あれ?そういえば紅さんが黙っちゃったけどどうしたんだろう。
……もしかしてもしかしなくても私すごい失礼なこと言っちゃったような。
「あの、ごめんなさい、私なんか失礼なこと言ったよね。イメージと違うとか、勝手なこと言っちゃってごめんなさい。あと、さっきから言葉遣いも悪くてごめんなさい。私、昔から敬語とか改まった言葉遣いが苦手なんだ。目上の方には自然と使えるようになったんだけど、同級生だと思うとつい。強引に連れてきたのに不快な思いさせちゃったね。ごめんね」
ちらりと紅さんを見ると、下を向いて肩を震わしていた。げ、すごい怒ってる……。
「ふふっ」
あれ?よく見ると紅さん笑ってないか?下向いて肩震わして、目じりに涙浮かべながら笑ってないか?
「ふふふっああ、面白い。笑ってしまってごめんなさい。今まで面と向かって怖いと言われたことがなかったものですから」
「私、そんな失礼なこと口走ってました!?ほんとすみません……」
「全然構いませんわ。むしろ陰でヒソヒソされるよりすっきり致しました。それと、言葉づかいも気にしていません。わたくしのこれは幼い頃からそういう風に教育されてきたというだけで、どちらかというと同級生の方とは敬語抜きで気さくにお話ししたいと思っておりますの」
「そうなの?失礼だって怒らない?」
「ふふ、わたくし更木さんに随分怖いイメージを持たれてしまったようですね」
「いっいやっそんなことはっ!」
勢い任せで紅さんを連れて来ちゃったけど、やっぱり良かったかも。こうして話してみると紅さんって面白そうな人だし。
「連れて来て頂いて本当に良かったですわ。こうしてお話してるとあのお二人のこともさほど気にならなくなってきました」
「そっか、良かった。今私も紅さんと話せて良かったなーって思ってたところ」
トイレの窓から傾きかかった日が差し込んであたりをオレンジ色に染め始めた。少し遅くなるとメールはしたけど、あんまり待たせちゃ平さんに悪い。
「じゃあ紅さんまた明日」
「ええ、また明日。そうだわ、先ほどのスカーフはもう一度柔軟剤を使って洗ってから陰干ししたほうがいいですよ」
「わかった。ありがと」
校門まで紅さんと話しながら歩き、それぞれの家の車へ別れる。
「おかえりなさいませお嬢様」
「ただいま戻りました。遅くなってすみません」
「いいえ、お嬢様をお待ちするのも仕事ですから」
「ありがとうございます」
平さんの丁寧な受け答えにつられてこちらも丁寧に返しつつ車に乗り込んだ。車のシートに身を沈めると、イベントに巻き込まれてちょっと緊張気味だった気持ちがほぐれるのがわかった。なんだか急にお腹が空いてきたな。今日の夕飯はなんだろう。
ご一読ありがとうございました。