マドレーヌの黒い染み
家庭科はあたしの好きな科目の一つだ。専門学校志望クラスのあたしは、他の進学や就職クラスと違って授業内容に若干の余裕があるのが嬉しい。芸術科目の多さと家庭科の時間があるのは、あたしのクラスだけなのだ。
「セーイー」
調理室へ向かう途中で羽野ちゃんに会った。
「羽野ちゃん」
「いいなあ。今から調理実習なんでしょ。今日は何作るの?」
「マドレーヌでお茶会するんだよ」
羽野ちゃんがあたしの髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「いいなあ。私、職員室に呼び出しくらっちゃったの。日直なんて、なければいいのに。あ、そのマドレーヌ、もし持ち出せたら私にも頂戴」
「うん。いいよ」
気軽に応じると羽野ちゃんがあたしの髪に再び手を差し込んだ。けど今度はやさしく撫でられる。
「セイ、いい子ね。じゃあ」
軽く微笑して、羽野ちゃんがあたしから離れていった。そしてあたしは、意気揚々と調理室へ向かった。
そう、向かったはずだったのだ。
だけどあたしは今、校舎脇の木陰で小さく丸くなっている。そして腕の中の黒いマドレーヌに溜息を吐いた。腕の中の紙袋には情けない姿になっでしまったマドレーヌがある。オーブンの設定を間違えたのだ。これでは羽野ちゃんに渡すことが出来ない。普段ならこんな単純ミスなんてしないのに。それもこれも、あの教師のせいだ。
他の子たちが意中の人や、仲のよい男子に出来たお菓子をあげようと話していた。その中で誰かが宮田にあげようなんて、言い始めたのだ。冗談じゃない。動揺して設定を間違えたのに気付かないままオーブンを作動させてしまった。いてもいなくても、あたしの心に入ってくるのをやめて欲しい。だからつい、声に出していた。
「宮田のバーカ」
一度口に出すと、するすると続きが飛び出す。
「バカ。アホ。間抜け、じゃないスケベ。エロ。変態教師。もうあたしの前に出てこないでよ。嫌いなの。ホントに嫌いなのに……」
なんであたしのこと心配なんてしてるのよ。ずっと逃げてきた宮田に会ったのは二週間も前だ。なのにあたしは、あの時のことを思い出しては勝手に顔が熱くなる。どうして、そんなにあたしを気にするの。やめて欲しい。踏み込んでこないで欲しい。
「宮田なんて」
「私が何ですか」
「あ! わ!」
手の中から失敗作が零れ落ちそうになる。
「伊崎さん?」
声は後ろからする。でも振り向けない。振り向きたくないんじゃない、振り向けないんだ。
「伊崎さん、これは……マドレーヌですか?」
「きゃー! 駄目です」
手の中を覗けば一つ数が足りない。振り向けないなんていってる場合じゃなくなって、慌てて背後を振り向いた。自身の掌に収まっている物体を、宮田は神妙な顔つきで眺めていた。
「駄目です!」
奪い取ると宮田と目があった。ぎくりと体が強張る。すると宮田はあたしの様子に気付いたのだろう。小さく溜息を吐いて、微笑を浮かべた。
「何かぶつくさと唸っていたようですけど、これが原因のようですね。それと私がどう繋がってくるのかわからないのですが」
「か、関係ありません。先生には!」
「そうですか……」
「うっ」
目を伏せて哀しそうな表情を作られるとわざとだと解っていても胸が痛む。なんて厄介な人なんだろう。やはり振り向くべきではなかった。
「伊崎さん」
伏せた睫が揺れる。
「ところでそれは誰かにあげるように作ったのではないのですか」
宮田が注視しているのはあたしの腕の中。出来損ないのマドレーヌだ。お菓子で失敗なんて最近は全然していなかったのに、こんな時にこんなところを彼に見られたのがすごく悔しい。何故か借りを作ったような気分になってしまう。舌打ちしたい衝動に駆られ、それをしない代わりに険のある返答をした。
「そうですけど、それこそ先生に関係ないですよ。これは友達に渡しますから」
「友達に、ですか」
眼鏡の奥で目を瞬かせて、宮田は小首を傾げる。
「そうです」
「そうですか」
宮田が微笑してみえるのは錯覚だと思いたかった。彼の微笑にはどうしても裏があるように思えてならない。
「何か問題でもありますか」
憤慨して語気荒く答えると一層宮田の笑みが深くなる。
「いえいえ。問題は何もありませんよ。伊崎さんは本当に友人想いだと感心していたんです。けれどそれを友達にあげるつもりなんですか?」
腕の中のマドレーヌは確かに羽野ちゃんのためにと作ったものだった。
「見たところ少々、どころか焦げ付いているようですが?」
マドレーヌの表面には、黒い表面が隠れもせずに顔を出している。答えることが、出来ない。
「伊崎さん?」
悔しい悔しい悔しい悔しい――どうして!
「先生は、あたしを苛めてそんなに楽しいんですか! もう関わらないで下さい。解ってます。これは失敗作なんです。羽野ちゃんに約束したのに、持ち出せなかったと嘘をついてあたしは惨めに謝らなくっちゃいけないんです。もう、もうこれ以上あたしに、関わらないで下さいよ」
涙が零れそうだ。宮田の顔を見たくなくて、俯く。そうすれば必然的に目に入るのは出来損ないのマドレーヌだ。本当に惨めだ。
あたしはおもむろに出来損ないの一つに噛り付いた。苦い。焦げて味なんてわからない。がむしゃらに口の中に放り込む。全部食べてやるんだ。意地になって別の一つも掴んだ。
「やめなさい」
どこからともなく現れた宮田の手が、あたしの手を止める。
「伊崎、やめろ」
ひどく汚い顔をしていたと思う。あたしは泣きそうになりながら顔を上げた。
「そんな嘘つかなくてもいいように、俺が何とかしてやる」
「え」
眉尻を下げた宮田にあたしの滲んでいた涙も引っ込んだ。というかいつの間にか頬に宮田の手が添えられていた。ててて、ていうか顔が間近にあるんですけ――
「おべんと、ついてる」
今、口の端に何か柔らかいものが触ったような。
「まだ残ってるな。もらっていいか」
にやり笑い、あたしの唇を宮田の指がなぞった。瞬間、あたしは総毛だった。
「も、もももら、もらわ」
「いいんなら、もらっちゃうよ?」
「もらわなくっていいです!」
あたしは全身を使って第一級危険人物から離れた。鳥肌がおさまらない。
「ああ、折角作ったのにな」
声に、手の中のものまで落としていることに気付いた。前にもこんなことがあった気がするのだけれど、そんなこと構っていられない。どうしたらいいだろう。あたしはじりじりと宮田と距離をとったまま行動に迷う。宮田がその出来損ないのマドレーヌを拾い、顔を上げた。あたしと視線がかち合った。
「これは俺がもらおう」
あっと思ったときには既に宮田がマドレーヌを口に入れていた。しかもそれは地面に投げ出されたものだ。
「うん。なんだ、食べれるじゃないか。三時のおやつにもらっていこう」
あたしに向かって目尻を下げる。今度は邪気のない笑顔に見えた。でもあたしは不安そうな表情をしていたらしい。
「心配するな。捨てたりしないさ。全部俺が食べてやる。羽野には、空腹の男に奪い取られたとでも言っておけばいい」
そう言って宮田はさらに、土が付いて汚れているはずのそれを齧る。美味しくないのに、それはあたしも口に入れたのだから自信をもって言える。それなのに宮田は嫌な顔を見せない。不味い物を食べたような顔を見せない。
「そうだ。伊崎さん、そろそろ教室に戻りなさい。次の授業に遅れますよ」
微笑を湛えて、宮田があたしの横を通り過ぎる。すれ違い様、宮田の手があたしの頭に軽く触れた。まるで労うような、励ましのような手の平のやさしさ。振り返って彼の後姿を呆然と眺めた。
振り返らない。
振り返るかと思われた背中は遂に校舎の中に消えるまで、一度も振り返らなかった。何を期待したんだろう。
「……あたし、助けられた?」
彼が居なくなって漸く行動の意味を悟った。そもそもの発端は彼の話題のせいで失敗したマドレーヌ。しかしまた彼のおかげで羽野ちゃんに少なくとも嘘はつかなくてよくなった。悔しいと思っていたのに、今になると何か違う感情が渦巻いているような感じがする。
この気持ちを表す言葉が見付からない。宮田に対してあたしはどう思っているのか、収拾が付かない。でも一つだけ言えることがある。
土くれの付いた出来損ないじゃない。例えあの宮田であっても食べてもらえるなら、美味しいマドレーヌを食べて欲しかったと思ったことだ。