キャラメルプディングの苦い嘘
隠れるようにして数学準備室に彼女がやってきたのは、放課後のことだった。
不快感に寄せた眉間の皺をそのままに彼女―伊崎セイ―は一直線に俺の傍まで歩いてきた。そしておもむろに茶色の小さな袋を突き出す。顔はあらぬ方向を向いている。 何かはわかっているが、あえて声に出して訊いてみる。
「これは何ですか」
彼女はむぅっと僅かに頬を膨らませる。
「先生が言ったんでしょう。チョコレートのお返しです!」
律儀な子だな。俺は微笑した。
「まさか本当にくれるとは思ってませんでした。ありがとうございます」
「友達の分も作るついでですから。それに他意はありません」
けして俺のほうを見ないようにして、彼女は答える。
そう、一月前のあの時から彼女は俺と一度として真正面から目を合わせない。当然の行動だろう。けれど少し面白くないのも事実だ。
「伊崎さん」
呼びかけると顔を背けたまま反応する。
「学習能力ないんですか」
彼女の袋を持った手がびくりと撥ねるが、もう遅い。伊崎の腕を掴んで自分の方に引き寄せる。一瞬彼女の目が俺を認め、また逸らされた。その表情は困惑。
「……本当に、まさかバレンタインのお返しをくれるとはね。伊崎は真面目だな」
呆れるような俺の声の調子に、彼女の頬に朱が混じる。
「せ、先生が言ったじゃないですか。貰ったからには返すのが礼儀だって。そりゃあ、先生が作ったり買ったりした物じゃないですけど、貰ったのは確かだから返したんですよ。……美味しいのもあったし」
あまりにも微笑ましい彼女の様子に、先日の会話が蘇る。
一週間ほど前のことだ。友人である女子生徒と廊下で話しこんでいた伊崎は、どうやらホワイトデーの話をしているらしかった。盗み聞きするつもりではなかったが、丁度近くで受け持ちの生徒と話をしていたら俺の耳にも聞こえてきたのだ。
「セイ、また今年も作るんでしょ? 今年は何にするの」
「なっちゃんは何がいい? 羽野ちゃんはマフィンが食べたいって言ってたけど、それでもいい?」
「マフィン! いいね。それにしてもいいなー。私じゃセイほど美味く作れないよ」
「そんなことないって。なっちゃんのマドレーヌも美味しかったよ」
「嘘でも嬉しい。ありがと。……あ、ごめん次、体育だ。着替えなきゃ。じゃ、またね」
「うん。また後でね」
塚山が伊崎から離れたところで、俺はそっと彼女の背後に立った。抑えた声で話しかける。
「伊崎さん」
びっくう、と音でも聞こえてきそうなほど目に見えて固まった彼女にくすりと笑う。
「随分楽しそうですね」
「……宮田先生、ななななにかかごごよごよ」
「いや、別に」
「それならああたしは、ひつ、し失礼させて……」
それを阻むように彼女の肩にポンと手を置いた。
「ひっ」
まるで飛び上がりそうな様子に声を出して笑いたい衝動に駆られる。物凄く楽しい。肩が震えそうになるのと、顔が緩みそうになるのを、この時の俺は必至で抑え込んだ。
「塚山さんにもバレンタインにお菓子をもらったんですね」
「そ、それが何か」
「いいえ。伊崎さんは友達にもすごく好かれているんですね。いいことですよ」
最近は男子ではなく女子が友達にチョコレートをあげる例も少なくない。
「それでホワイトデーにお返し、ですか」
「校則違反とでもいうんですか」
「いいえ。私に見付からないように遣り取りしてくれれば咎めませんよ。目の前で見せ付けられなければ教師だって何も言いません」
肩に置いた手から伊崎が安堵の息を漏らすのがわかった。それにしても俺と伊崎に誰も注意を払っていないのは助かった。おそらくまた数学の宿題について質問しているとでも思われているのだろう。
「ただ、ね。塚山さんや羽野さんにはお返しをして、私には何もナシですか。私だってあれを貴方にあげたのに」
意地悪く言うと、伊崎は俺の顔を見ないようにして肩に置いた俺の手を払った。
「あれは先生が押し付けたんじゃないですか。それに元々は先生がくれた訳じゃ……」
「でも、食べたでしょ?」
伊崎の動きが止まる。
「た・べ・ま・し・た・よね?」
「……食べました」
歯軋りでもしそうなくらい思いっきり顔を顰められる。噴出しそうになって、俺は彼女の顔から視線を逸らした。
「それなら、私にもくれていいんじゃないですか」
笑いで震えそうになる声をなんとか平静に保つ。急に顔を背けた俺に、彼女はやや訝る様子を見せたが溜息を一つ吐いて答えた。
「……わかりました。持って行きます。だからもう、行っていいですか」
彼女の足は今にも歩き出さんばかりだ。
「ええ。期待してますよ」
そう言って送り出すと伊崎は一目散に教室の中に戻っていった。それから一週間。そしてあのバレンタインから一ヶ月。彼女はまた数学準備室にやってきた。
細い腕。俺とは異なる女子のものだ。紅潮した頬を隠すように早口でまくしたてる彼女の様子が初々しい。
「本当に他意はないですから。他の皆と同じものですし、それよりもう今後一切あたしに関わらないで下さい。あ、あたしは先生に何も想ってないですから」
俺の手から抜け出そうとする伊崎。初めから俺を嫌っていた生徒は初めてだった。俺の顔に世間の女子一般は好意を抱くのが普通だったから。稀に気後れする人もいるにはいるが、付き合っていくうちにそれは軟化した。だけど彼女はあんなことをした後でも変わらず俺を嫌う。多少変化があったかもしれないが、確かな好意ではないのが面白い。
「そう。伊崎の態度はわかりやすい。だからこそ気になる」
えっ、と伊崎の小さな問う声が聞こえた。俺と目が合えばやはり逸らされる。
一月前、彼女にキスをした。それはただ、からかっただけで俺にその気があった訳ではなかった。ちょっと反応を見たいと思ったら予想外に面白い反応をしてくれて、子供のように俺の好奇心が膨らんだ。大人気なかったと自分でも思っている。だが、
「本当に貴方が欲しくなってきました」
言えば逃げられるとわかっているのに気持ちは勝手に言葉になる。力の限りの抵抗を見せて、伊崎は俺の手から自由を勝ち取る。突如消えた彼女のぬくもりを、今はひどく淋しく思う。
「あたしは逃げます!」
反射的に叫んだのか、本人さえも自分の言葉に驚いていた。
「……あ、あたしは先生に欲しいと思われたく、ないです。ただの先生と生徒で、何事もなく卒業してお別れして、終わりにしたい。だから」
彼女の足はじりじりとドアの方へさがっている。
「あたしは、逃げます」
俺は咄嗟に手を伸ばしたが、伊崎はそれを間一髪で避けた。行き場のなくなった手を宙に置いたまま、俺は彼女にひたと視線を据える。
「じゃあ、俺は追おう。貴方が逃げるのをやめるまでどこまでも」
楽しい。俺のものにはならないと宣言されているのに、こんなに避けられているのに、不謹慎にも楽しいと感じる俺が居た。俺は微笑っていた。心の底から。
「なっ……!」
俺の宣言と微笑に驚きが隠せないのか、伊崎は目を丸くする。そしてまだ彼女の手の中に絡みついたままのものに気づくと、困惑を顔にのせる。
「逃げないなら早速捕まえても?」
楽しさを表情に浮かべたまま言うと、彼女は力いっぱい袋を俺に投げつけて準備室から飛び出して行った。今日はまだ追わない。落ちたそれを拾う。中身は、どうやら無事らしい。綺麗にラッピングされているのを見て、自然と笑みが零れる。
お返しはプディングのようだった。製菓の専門学校に行こうとしているだけあって、さすがに出来はよさそうだ。メッセージカードに気づいて折りたたまれたそれを開く。
【宮田先生へ。
物凄く腑に落ちませんが、バレンタインのお返しです。ちなみにキャラメルプディングです。】
文面が伊崎らしい。しかもきちんと市販のものだけどスプーンが備え付けられているのも彼女の真面目な性格のなせる業だろう。一人くすくすと笑いながら美味しそうなそれを掬い取って口に運ぶ。
「……う」
けれど俺の舌をなぞるのは予想した甘さではなかった。裏切られたような気持ちになる。
苦い。味としては整っているのだろうけど、甘さが全くない。プディングとはこんなに苦いものだったかと思うほどに甘さが抜けていた。ちらと目に入ったカードの隅に先刻気づかなかったメッセージが残っているのが見えた。
【先生は甘いものが苦手なようなので甘くないものにしました。よく味わってくださいね】
腹の底から湧き起こってくる可笑しさが、俺の心を占拠した。