チョコレートのあまい罠
サイト本館でも置いていますが、ちょっとこちらにも転載。
あたしを呼んだのは隣のクラスの担任教師だった。
名前を宮田という。あたしは彼がひどく苦手だった。黒の艶っぽい髪はなだらかな波を打って、ノンフレームの眼鏡の奥にはやさしげな目元が覗く。顔の部位は正確にシンメトリーを成し、美形だと褒める女子生徒がいるのを知っている。人柄もよく、宿題を大量に出す以外は教え方も丁寧でやさしい先生だと評判である。彼の教える授業は確かにわかりやすく、よく通る声はあたしでさえ聞き入ってしまう。年も25とまだ若い方で年の差なんてという猛者も結構いるらしい。けれど、あたしは苦手なのだ。
「伊崎さん、寄って行きませんか」
宮田はやさしく笑って手招きをする。さっさと帰宅すればよかった。内心行きたくないと思いながらもそうできないのは、あたしの性格に因るものだ。誘われるままに鞄を手にして数学準備室に足を踏み入れる。宮田の机の上には大量のチョコレートが乗っていた。そういえばバレンタインというものが世間にはあったのだ。
「本当は禁止なんですけど、いつの間にか置かれてしまってね」
校則で禁止だと知っているためか、いい訳めいたことを彼は口にする。一体何のためにあたしを呼んだのだ。
「中を見れば誰が送ったかわかるんじゃないですか」
誰が渡したのかを知りたいのかと思って提案すれば、宮田はそうじゃないんですと微苦笑を浮かべる。この顔を思い切り横に引っ張ってやりたくなる。
「もう見ました。ここにあるのは送り主不明のものなんです。返すことが出来ないから仕方なくもらうことにしました。けれど私は甘いものが苦手なんです。もらっていきませんか」
「あたしがですか?」
甘いものは好きだ。だけど誰かが宮田のためにと送ったものをおいそれと貰う訳にはいかない。何よりそれが誰かにばれたときのことを考えると恐ろしくてたまらない。
「伊崎さん、甘いもの好きでしょう? 私の代わりにもらってやってください」
なんて事を言うのだ。
「い、いやです。これは全部先生にと贈られたものでしょう? だったらあたしは手にとれない。先生が全部食べてください。そうじゃないとあたしは……」
見付かった時が怖いから手を付けたいとは思わない。
「あたしは……? 何です?」
宮田の目があたしを捉える。何でか背筋が冷えた。
「……怖くて手を付けられません」
小さな声で続きを答える。時々見られていると感じることはあった。それが初めは誰か分からなくて、気のせいだと思っていた。でもその視線の主が宮田だと気づいてしまった。威圧するでもない、粘つくものでもない、ただ見ている。見られている。その視線がすごく苦手だ。
「どうして怖いんですか」
わざとなのか、天然なのか、宮田は無邪気に答えを求めてくる。
「先生はご自分がどれほど生徒に慕われているか知らないんですか」
「…知ってますよ。生徒が私に向けてくる視線に熱のこもったものが含まれていることは。ですが、それだけです」
「それだけ? あの子達は先生に本当に!」
何故だか彼女たちの弁護がしたくなってあたしは声を荒げた。顔を上げた瞬間、宮田の視線とかち合う。
「私は彼女たちに興味はありません。伊崎さん、いいから持っていきなさい」
宮田は急に鋭い目つきであたしを見、両手いっぱいのチョコレートを押し付けた。気圧されてつい受け取ってしまったチョコレートは甘い香りだけでなく気持ちもきっと詰まっている。
「………」
どうしたらいいのか、手を広げたまま暫く呆然としていた。たくさんのチョコレート群はあたしの手の中。でもこれはあたしに向けられたものではないし、もらいにくい。
「そんなに困った顔をしないで下さい」
あたしの下がった眉に宮田が溜息を吐く。
「あなたが欲しくなってしまいます」
はい?
浮いていた目が宮田を捕らえる。宮田はあたしの顔を見て、我慢出来ないとくつくつ笑い声を漏らす。だって今なんて言った。あたしが欲しいと聞こえたんですが聞き間違いですよね、先生。言葉にならない言葉を目で訴えれば、さらに笑って咳き込まれた。
「先生。何を」
「すごい真面目」
あたしの言葉を遮って宮田が微笑する。それは授業中に見せるものとは少々異なってみえた。
「初めて見た時の伊崎の印象。俺なんか眼中にありませんってひたすら黒板凝視して、俺になびかない女子生徒がいるんだって知った。普通は少なからず好意が含まれてるのに、すごく迷惑そう。さっき呼び止めたときもそんな顔してた」
「そんなことは……ないですよ」
あるけど。でも言えるわけもない。言葉遣いが若干変化した事にも気づいたが、気づかないふりをした。
「あるでしょ。伊崎、俺が嫌いなんでしょ」
「いえ……」
「き・ら・い・でしょ?」
間近に宮田のどアップ。チョコレートを抱えているから落としてはいけないと動きを何とかこらえる。
「う、はい」
この美形顔を何とか遠ざけて欲しくてつい肯定してしまった。言ってから血の気が引く。
「い、今のはちがくって! 嫌いじゃ、ないですから。全然。好きですから、先生の事」
必死に言い繕うと彼は顔をあたしに近づけたままにっこり笑う。
「熱烈な愛の告白。教師と生徒の恋愛はご法度。でも伊崎がどうしても言うならば受けて立とう」
何を言うのだ、この男は。そんな事を考えている間に宮田の手があたしの顎にかかる。何度も言うがあたしの手は今チョコレートを抱えて塞がっている。だから、睫が結構長いなんてのんきに思う余裕もなく、あたしの唇は奪われていた。頭の中は真っ白で、このチョコレートはどうすればいいんだ、なんて現実逃避をしようとあたしの脳が現在の状況をないものと考える。でも実際あたしの目の前には宮田の秀麗な顔が留まっている。ちらりと宮田の目があたしを捉えて微笑む。一気に顔の熱が上昇。暴発。
「ぎゃあー」
可愛くない悲鳴を上げてあたしは腕の中に納まっていたチョコレートを宮田に向かって投げつけた。
「ななななななになににをするんですか! キ、キキキ……な、なにを」
「伊崎、どもりすぎ。何ってキスしたんだ」
「わかってますよ! されましたもん! だから、ななななんで、キキ、キ……」
「キス」
「そ、それをどうしてするんですか。信じられない」
何で。どうして。ぐるぐるとその疑問が頭の中を回る。あたしが投げつけたチョコレートを拾いながら事も無げに答える宮田。
「うーん。なんでだろうね。でも俺、好きな子以外にこんなことしないよ」
なんという問題発言。それってことは、そういうことなのか。他の答えが何かないかと導き出された一つの答えを否定したいあたし。宮田は顔を真っ赤にして頭を抱えるあたしをくすくすと笑う。
「なんなら、もう一回してみる?」
意地悪だ。かあーっと熱がさらに上がる。
「し、しません!」
「おや、残念」
「もう帰ります!」
「送って行きましょう」
「結構です!」
気をつけて帰りなさい、という宮田の声に押されながらあたしは数学準備室から抜け出す。全速力で下足箱まで走った。追ってきてはいないようだ。途中で力尽きて壁に手をつき息を整える。一体なんだったんだろう。なんで行き成り豹変したんだ。どうしてあたしなんだ。考えて悩んでも答えなんて絶対出ない。その答えは宮田しか持っていないんだから。どうしよう。明日からどうしよう。数学の時だけ保健室に行く事は出来ないか。でもそんなの怪しまれる。それよりもいっそ学校を休むとか。いやいやそれも駄目だ。他の授業を宮田のためだけに潰すような真似出来ない。とにかく顔を見なければいいんだ。ひたすら黒板にだけ目を向けよう。そうだ、いつものあたしはそのはずだ。宮田なんて眼中に入れちゃいけない。ああ、でも声を聞かないと授業にならない。とにかく宮田を避けよう。幸いあたしのクラス担任ではないんだから数学の授業さえどうにか乗り切ればきっと何もおこらない。今日のことは忘れよう。ほら今すぐに。はい、忘れた。
「は……」
忘れよう、と思いつつ手を叩いて気づく。手に何も持っていない。鞄は一体どこに行ったのだ。何処って先刻まで居た場所しかない。チョコレートをぶちまけた時に一緒に投げてしまったんだ。最悪だ。鞄の中には財布も定期も携帯も教科書も筆記用具も全て入っている。おまけに宮田の出した宿題も。戻りたくない。でも鞄は必須だ。廊下で葛藤していると間の抜けた放送音が校舎に響く。
『2年7組の伊崎セイさん、至急数学準備室に来てください。
繰り返します。
2年7組の伊崎セイさん、至急数学準備室に来てください』
なんてことだ。ピンポンパンポンと外れた音を鳴らすスピーカーを睨む。あたしがこんなことされたら出向かなきゃと思うことを宮田は知っているらしい。ああもう、腹をくくるよ。
情けなく肩を落としてあたしは走ってきた廊下を戻る。その足取りは重すぎてなかなか進まない。漸く着いた数学準備室の前でも足を止める。なんだか、このドアを開けたら最後通告でもされそうな気がする。でも、と何とか恐れで震える手を取っ手にかける。思い切ってそのドアを開けば、中に居たのはやはり例の男。
「こんにちは。伊崎さん」
女子生徒にフェロモンを撒き散らす微笑を、あたしは見た。