捨てるはずののど飴を一粒食べたら、彼氏に50万円請求されました
ブラックフライデーの最終日。私は三十九度の熱を出しながら、彼氏の会社で二十時間近く働き続けていた。
声はすっかりかすれ、咳をするたびにティッシュに血がつく。喉の痛みに耐えかねて、作業台に置いてあった返品サンプルから、のど飴を一粒取り出した。
外箱が潰れていたため、翌日には廃棄することが決まっていた商品だ。中身は一粒ずつ包装されていて、封も切られていない。
飴を口に入れたところで、彼氏の黒田拓真に呼び止められた。
「紗季、それ、勝手に取ったよな?」
「え?」
振り向くと、拓真は経理担当を呼び寄せ、何か指示していた。
しばらくして私の前に置かれた紙には、信じられない金額が印刷されていた。
損害賠償請求額、五十万円。
「……何、これ」
「見ればわかるだろ。会社の商品を無断で使ったんだから、弁償してもらう」
「五十万円?」
「ルールはルールだよ。俺の彼女だからって、特別扱いはできないから」
私は三年間付き合ってきた男の顔を見つめた。
「拓真、私、今日ずっと熱があるんだよ。もう二十時間近く働いてるし、声だってこんなに……」
喉がひりつき、言葉の途中で咳き込んだ。
「それに、あれは捨てる商品でしょう? 飴一粒で五十万円なんて、本気で言ってるの?」
「そうやってすぐ恋人だからって話に持っていくの、やめてくれないか」
隣で返品書類を確認していた彼の母親、美佐江さんまで口を挟んだ。
「でもねえ、紗季さん。今日たまたま見つかっただけで、今までも何か持ち帰ってたんじゃないの?」
私は拓真を見た。
彼は母親を止めるどころか、経理担当に会社の振込先を私のスマホへ送らせた。
「先に払ってくれよ。スタッフも見てるんだ。俺の立場も考えてくれ」
私はネットバンキングを開き、指定された口座へ五十万円を振り込んだ。
入金を確認した拓真は、ほっとしたように笑った。
フォロワー五百万人の配信アカウント。拓真は当然のように自分のものだと思っているけれど、最初に作り、ここまで育ててきたのは私だった。
登録名義も、主な管理権限も、ずっと私の手元にある。
その夜、私は彼の会社を辞めることにした。
1
十分ほど前。
ブラックフライデー最後のライブ配信が終わったばかりのスタジオには、まだ何人ものスタッフが残っていた。
「紗季、何度も同じことを言わせないでくれよ。勝手に在庫を使ったんだから、責任は取ってもらう」
拓真は請求書を指先で叩いた。
「五十万円払ってくれれば、今回はこれで終わりにするから」
カメラマンも梱包担当も、作業の手を止めていた。私と目が合いかけたスタッフが、気まずそうに視線をそらす。
昨日の朝から、私はほとんど休まず働いていた。配信台本の確認、在庫の調整、クーポンの設定、ブランド担当者との連絡。商品を紹介する順番が直前に変われば、提案資料も配信用の表示も全部直さなければならない。
熱のせいで指先が冷たく、立っているだけでも足元がふらついた。
「そののど飴、返品されたものでしょう。外箱が潰れてたから、明日には廃棄するって……」
言いかけたところで咳が出た。
口元を押さえ、しばらくしてから続きを話す。
「どうして五十万円も払わなきゃいけないの?」
「廃棄する予定なら、勝手に食べてもいいのか?」
拓真は眉を寄せた。
「お前を見逃したら、ほかのスタッフに示しがつかないだろ」
彼は普段、カメラの前で商品を紹介する仕事をしている。
見栄えのいい衣装を着て、私が作った台本に沿って説明し、視聴者からの質問に答える。配信が終われば売上を確認し、そのまま帰ることも多かった。
裏方の仕事について、拓真から詳しく聞かれたことはほとんどない。
三年前、彼のネット販売は失敗寸前だった。
売れると思って仕入れた商品が倉庫に積み上がり、家賃さえ払えなくなっていた。消費者金融への返済は滞り、仕入れ先からは毎日のように催促の電話が来ていた。
そのころの私は、大手IT企業から運営管理職として内定をもらっていた。給与も条件もよく、入社するのを楽しみにしていた。
拓真が私の部屋にやって来たのは、雇用契約を結ぶ前日のことだった。
彼は夜遅くまで帰ろうとせず、私の向かいに座ったまま、どうすれば事業を続けられるのかと繰り返し尋ねてきた。
明け方になって、とうとう頭を下げた。
「紗季、頼む。俺一人じゃ、もう無理なんだ」
「でも、私、来月から仕事が始まるし……」
「わかってる。無理を言ってるのもわかってる。でも、お前なら立て直せると思うんだ」
目を赤くした彼は、私の手を握った。
「軌道に乗ったら、稼いだ金は二人で使おう。絶対に損はさせないから」
私は内定を辞退し、貯金を使って彼の事業を手伝い始めた。
最初はスタッフを雇う余裕もなく、電話もメールも返品対応も全部一人でこなした。倉庫が忙しければ梱包を手伝い、ブランドが値引きに応じなければ何度でも交渉した。
終電にノートパソコンを抱えて乗り込む日も珍しくなかった。
取引先との会食で無理をして、胃から出血し、救急外来に運ばれたこともある。昨年末の大型セールでは、発送作業が三日続き、倉庫で倒れてしまった。
撮影機材や広告費、商品保証金、倉庫の家賃も、私が何度も立て替えた。貯金が減ってからは、クレジットカードで支払ったこともある。
最初のころ、拓真は立て替えた倉庫代の一部を返してくれた。通帳にはその振込記録も残っている。けれど、売上が増えてからも運営報酬の話だけは後回しにされた。
今ではアカウントのフォロワーが五百万人になり、会社の売上も伸びた。
拓真はライブコマースで成功した若手経営者として知られ、美佐江さんはブランドバッグを買い、高価なアクセサリーを身につけるようになった。
私が着ているコートは、三年前に買ったものだった。
「そういえば、前からサンプルの数が合わないこともあったのよね」
ソファに座っていた美佐江さんが、返品一覧をめくりながら言った。
「身内だからって、何でも信用するのはよくないわ」
私は手元の伝票を握り直した。
「美佐江さんも、化粧品のサンプルを持ち帰ってますよね。お友達に配るって」
彼女が顔を上げた。
「あれは記録してあるんですか?」
「私は拓真の仕事を手伝ってるのよ。試供品を少しくらいもらって、何が悪いの?」
「でも、さっき会社のものは勝手に持ち出しちゃいけないって……」
「紗季さん」
美佐江さんの声が硬くなった。
「年上に向かって、そういう言い方をするものじゃないわ」
「紗季、もういいだろ」
拓真が割って入った。
「母さんのことは今、関係ない。早く払ってくれよ」
請求書がまた私のほうへ押し出される。
私は五十万円と印刷された数字を見て、スマホを取り出した。
2
経理担当から送られてきた口座へ、五十万円を振り込んだ。
入金完了の画面を保存し、手元に置かれていた請求書も撮影する。
「入金、確認できました」
経理担当が報告すると、拓真の表情が緩んだ。
「これから気をつけてくれれば、俺もこの話を蒸し返したりしないよ」
そのままスタッフのほうへ向き直る。
「みんなも覚えておいて。倉庫のものは勝手に使わないこと。紗季も例外にはしなかったんだから、今後も徹底してくれよ」
返事をする人はいなかった。
カメラマンは機材を片づけ、カスタマーサポートの担当者は上着を手に取った。誰もが早く帰りたそうにしている。
拓真は腕時計を見て、軽く手を叩いた。
「ブラックフライデー、お疲れさま。売上もよかったし、今日はもう上がっていいよ。振り返りは次の出勤日にやるから」
スタッフが帰り、スタジオには私たち三人だけが残った。
拓真は私に近づき、肩を抱こうとした。
「紗季、さっきはみんなの前だったからさ。経営者として、ああするしかなかったんだよ」
私は一歩離れた。
「そんなに怒るなって。今日はいい店を予約してあるんだ」
「お店?」
「海鮮も和牛もあるところ。母さんも一緒に行こう。せっかく目標も達成したんだから」
「私は行かない」
拓真が困ったように笑った。
「まだ怒ってるのか?」
「二人で行ってきて」
バッグを手にしていた美佐江さんが、またソファに座った。
「拓真がせっかく気を遣ってるのに、いつまでむくれてるの? もう済んだことでしょう」
彼女は私を見上げた。
「会社のものを勝手に使ったのは紗季さんなんだから。いつまでもそんな態度じゃ困るわ」
以前、美佐江さんが倉庫から化粧品のサンプルを何個も持ち出し、友人に配っていたことがあった。
商品が足りないとスタッフから相談され、私が在庫を調べ直した。
別の日には、美佐江さんが麻雀で負けたお金を拓真に頼み、会社の口座から補填させていた。その月は広告費が不足し、私が自分のカードで立て替えることになった。
「わかりました。これから気をつけます」
私がそう答えると、美佐江さんは満足そうに立ち上がった。
「そうよ。素直にしてればいいの」
拓真も笑い、私の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、この話は終わり。また次も頼むよ」
私は返事をせず、スマホに残った振込明細を確かめた。
弁護士に相談したら、まずあの五十万円を返してもらおう。
3
美佐江さんがドアのところで振り返った。
「そうだ、倉庫の段ボール、まだ山になってたわよね。明日回収が来るんでしょう? ちゃんと分別しておいて」
拓真も車の鍵を手に取る。
「来週はブランドとの打ち合わせもあるから、こっちの片づけも頼むよ。次も遅れるなよ」
まだ熱が下がっていない。喉も痛く、立っているだけで疲れる。
それなのに拓真は、私の体調について一言も尋ねなかった。
「わかった」
素直に答えると、彼は少し意外そうな顔をした。
「最初からそうしてればいいのよ」
美佐江さんが鼻を鳴らす。
「余計な面倒をかけないで、仕事を頑張ってちょうだい」
私は梱包台へ向かい、散らばった返品伝票をまとめ始めた。
「まったく、飴一粒のことで大げさなのよ」
背後から美佐江さんの声が聞こえた。
「まるで私たちが悪者みたいじゃない」
「紗季は昔からああだから。二、三日もすれば機嫌が直るよ」
拓真は面倒くさそうに答えた。
「でも、あの子を一人で倉庫に残して大丈夫なの?」
「何が?」
「また何か持って帰ったりしない?」
「心配しすぎだよ、母さん。防犯カメラがあるだろ。スマホからいつでも見られるし」
私は伝票を持つ手を止めた。
防犯カメラは、会社を始めて間もないころに設置したものだった。盗難防止のためだと言われ、私がいつも作業している場所の真上にも取りつけられた。
映像を確認すれば、商品の扱いも、私が何をしていたかもわかるはずだ。
それなのに拓真は、一度も確かめようとしなかった。
「母さん、今日はいい肉を食べよう。予約してある店、評判いいんだ」
「本当に優しい息子ね。お嫁さんをもらうなら、家のこともちゃんとできる人がいいわ」
二人の笑い声が遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなると、私は返品処理の棚へ向かった。
例ののど飴には「外装破損・廃棄予定」と書かれたラベルが貼られている。箱の中に残った飴は、すべて個包装のままだった。
私は外箱とラベルを撮影し、返品伝票を元のファイルに戻した。
五十万円の振込明細と請求書も、すでに保存してある。
作業台に置かれた腕時計を見る。
もうすぐ日付が変わる。
次の出勤日には、拓真は自分で仕事を回さなければならなくなる。
4
二人が帰ったあと、私は段ボールを片づける代わりに、ノートパソコンを開いた。
最初に確認したのは、会社と私の間で交わしたメールだった。
三年前、拓真には資金がなく、個人の動画アカウントは私の名義で作った。撮影機材や広告費も、私の貯金から出している。
その後、拓真が会社を設立し、商品を販売するようになった。
仕入れや在庫、商品の販売契約は会社が管理し、私は自分のアカウントで商品を紹介する。ライブ販売を始めてからは、ほとんど毎日のように配信を行っていた。
最初は数千人だったフォロワーが、今では五百万人に増えている。
画面に映るのは拓真だから、アカウントまで彼のものだと思っている人が多い。
けれど登録名義も、主な管理権限も、ずっと私の手元にあった。
正式な利用契約を結ぼうと提案したこともある。
「そんなの必要ないだろ。俺たち、いずれ結婚するんだし」
拓真は毎回そう言って断った。
私は現在の管理権限と配信予定を保存し、会社へメールを送った。
今後、新しい販促案件には協力しないこと。個人アカウントの利用についても、改めて協議を求めた。
すでに取引先と約束した案件もあるため、急にすべての仕事を止めるわけにはいかない。未処理の注文や問い合わせは、会社が引き続き対応できるようにしておく必要があった。
私は注文状況を整理し、今後のキャンペーン予定と一緒に引き継ぎ表へまとめた。
年末に向けては大型の販促案件も何件か決まっていて、会社はすでに取引先から多額の前払金を受け取っていた。引き継ぎ表には、その案件の期限と担当者も記載した。
それから、拓真個人に一時的に渡していた配信アカウントの管理権限を解除した。
会社のショップや注文データには手をつけていない。未発送の商品も、購入者の情報も、そのままだ。
ただ、拓真は私のアカウントから新しい配信を設定できなくなる。
利用権限をめぐって争いになる可能性はある。その点は、弁護士に相談するつもりだった。
引き継ぎ表を関係者へ送り、仕事用のメールからログアウトする。会社の機材や業務データは持ち出さず、自分が保管できる契約書と支払いの控えだけを確認した。
すべて終えたころには、深夜になっていた。
ノートパソコンを閉じ、しばらく椅子にもたれた。
三年間、何かトラブルが起きれば、私が解決するのが当たり前だった。
配送が遅れれば謝罪文を書き、ブランドから連絡があれば夜中でも返事をする。売上が伸びなければ商品を見直し、キャンペーンの条件を交渉し直した。
拓真に相談すると、たいてい同じ言葉が返ってきた。
「紗季に任せるよ。お前のほうが詳しいだろ」
スタジオを出ると、夜風が熱を持った頬に当たった。
拓真と暮らしていたマンションへは戻らず、市内のホテルに部屋を取った。
シャワーを浴びてベッドに腰を下ろすと、美佐江さんのSNSが更新されていた。
写真には和牛と刺身が並び、テーブルの端には拓真の高そうな腕時計が写っている。
「息子が頑張ってくれているおかげで、今日もおいしい食事。努力している人には、いいことがあるものね」
その下には、もう一文あった。
「人に迷惑ばかりかけているようじゃ、幸せにはなれないわよね」
私は「いいね」を押して、スマホを伏せた。
その夜は久しぶりによく眠れた。
翌朝、電話の音で目が覚めた。
画面には拓真の名前が表示されている。
通話ボタンに触れた途端、怒鳴り声が飛び込んできた。
「紗季! アカウントの管理画面に入れないんだけど! お前、何したんだよ!」
5
以前なら、拓真が困っていると聞いただけで飛び起きていただろう。
決済システムの不具合も、発送の遅れも、取引先からの急な連絡も、私が対応してきたからだ。
けれど今朝は、ホテルの枕にもたれたまま電話を聞いていた。
「昨日メールしたよ。これからのアカウント利用について、話し合いたいって」
「話し合いって……来週の配信はどうするんだよ!」
「注文データには触ってないし、発送も止めてない。そこは会社で対応して」
「配信の準備は?」
「今までみたいに、私が全部やるのはもう終わりにしたい」
「何だよ、それ。三年間、一緒にやってきただろ!」
「だったら、約束した報酬を払ってよ」
拓真の声が途切れた。
電話の向こうで誰かが話しかけている。拓真が苛立った声で「今、電話中だから」と答えるのが聞こえた。
「……紗季、頼む。とにかく戻ってきてくれ」
「戻って何をするの?」
「いつもどおりでいいんだよ。昨日のことも考え直すから」
「その件は弁護士に相談する」
「おい、紗季。弁護士って、そんな大げさな……」
彼が言い終わる前に電話を切った。
時計を見ると、もう十時半近かった。
普段なら、とっくにスタジオで機材を確認し、配信に使う商品の順番を決めている時間だ。
私はルームサービスで朝食を頼み、焼き魚と味噌汁を少しずつ食べた。
喉の痛みが続いていたので、フロントに近くのクリニックを教えてもらい、診察を受けることにした。
医師には薬を処方され、無理をせず休むよう言われた。熱が下がらなかったり、また血の混じった咳が出たりする場合は、改めて受診する必要があるという。
ホテルへ戻ると、スマホには何通ものLINEが届いていた。
「ブランドから電話が止まらない!」
「来週の配信、どうすればいいんだよ」
「お前、わざと会社を困らせてるのか?」
美佐江さんからもメッセージが来ていた。
「紗季さん、いきなり仕事をやめるなんて無責任じゃないかしら。ほかのスタッフにも生活があるのよ」
しばらくして、また一通。
「昨日は私も言いすぎました。それは謝るから、まずは拓真を助けてあげて」
今度は拓真から音声メッセージが届いた。
「紗季、昨日は俺が悪かった。五十万円のことも考え直すからさ。頼むよ、配信だけでも何とかしてくれないか」
最後まで聞いたあと、スマホをテーブルに置いた。
昼ごろ、カスタマーサポートの担当者から個人的に連絡が来た。
「藤沢さん、すみません。来週の配信が準備できなくて、取引先から問い合わせが来てるんです」
「引き継ぎ表は送ったよね?」
「はい。でも黒田さんが、どうしたらいいかわからないって……」
私は必要な資料をもう一度送った。
「注文の発送は続けてね。返金や特典のことは、責任者に確認して。自分で判断して約束しなくていいから」
「わかりました。ありがとうございます」
彼女はほっとしたように礼を言った。
私は仕事用のグループ通知を切り、午後の予定を確認した。
弁護士へ見せる資料は、すでにまとめてある。
そのとき、拓真から新しいメッセージが届いた。
「二時に榛野駅前のカフェ。母さんも行く。お前も来いよ」
私は店の住所を返信した。
こちらにも見せたい資料があった。
6
午後二時、榛野駅前のカフェに入った。
拓真と美佐江さんは、すでに席についていた。
拓真は髪が乱れ、目の下にくまができている。美佐江さんも、いつものようにきれいに化粧をしていなかった。
私が近づくと、拓真は椅子から立ち上がった。
「紗季、どうするつもりなんだよ」
席につくなり、詰め寄ってくる。
「来週の配信は? いつアカウントを元に戻せるんだ?」
「今までみたいな働き方は続けない。報酬も立て替えたお金も、きちんと精算したい」
「今さら何を言ってるんだよ」
「今さらじゃない。何度も話したでしょう」
美佐江さんが口を挟んだ。
「お金、お金って……。あのアカウントだって拓真が頑張ったから人気が出たんでしょう?」
「最初に作ったのは私です」
私はバッグから資料を取り出した。
アカウントの登録記録と、初期の撮影機材を購入した際の明細。それから、当時の広告費の支払い記録もある。
「機材も広告費も、私が出したよね」
拓真は書類を見た。
「だからって、会社は俺が経営してるんだぞ」
「だから、会社を取り上げるなんて言ってないでしょ」
「じゃあ、何で配信できないんだよ!」
私は以前送ったメールを開いた。
「……契約の話、前にもしたよね」
「またその話かよ」
「ちゃんと決めておけば、こんなことにならなかったのに」
拓真は舌打ちした。
以前、私が契約書の案を用意したこともあった。アカウントをいつまで使うのか、報酬はいくらにするのか。難しいことを決めようとしたわけではない。
それでも彼は、結婚するのにそんなものは必要ないと言っていた。
美佐江さんが登録記録をのぞき込む。
「……ちょっと待って。登録名義、紗季さんなの?」
「そうだよ、母さん。でもそんなことより、配信が……」
「そんなことって、あんた!」
二人が言い争い始めたので、私は書類をそろえた。
拓真は苛立った様子で頭をかき、私をにらむ。
「お前、最初からこうするつもりだったのか?」
「何を?」
「俺が困ったときに、アカウントを使わせないようにするつもりだったんだろ!」
私は彼の顔を見た。
「三年前、頼まれて始めたときは、のど飴一粒で五十万円も取られるとは思ってなかったよ」
「それはもう謝っただろ」
「お金は返ってきてない」
拓真は何も言わなかった。
「今までの報酬も計算した。今日、このあと弁護士に見てもらうつもり」
「弁護士ですって?」
美佐江さんが声を上げた。
「三年も付き合ってたのに、本気でお金を請求する気なの?」
「昨日は、飴一粒に五十万円を請求しましたよね」
美佐江さんは口をつぐんだ。
私はバッグを持って立ち上がった。
すると拓真が慌てて呼び止めた。
「待ってくれ。結局、いくらなんだよ?」
私はもう一度椅子に座り、費用の明細を取り出した。
7
拓真は明細の一番下を見て、顔をしかめた。
「……一千七百五十万? 何だよ、この金額」
「三年間の報酬と、私が立て替えたお金。それから昨日の五十万円」
「報酬って……」
「月三十万円って約束したよね」
当時のLINEを見せた。
会社が軌道に乗ったら報酬を払う。拓真がそう書いたメッセージが残っている。
「覚えてるでしょう?」
「いや、あれは……会社が落ち着いたらって話だっただろ」
「もう三年たったよ」
私は明細の上から順番に指を滑らせた。
三年間の報酬が一千八十万円。撮影機材や広告費、倉庫の家賃、商品の保証金など、現在も未精算となっている立替金が六百二十万円。
それぞれの支払いには、振込記録や業務メールが残っている。
「昨日会社に払った五十万円も入れて、一千七百五十万円。今のところ、私が請求するつもりの金額はこれ」
拓真は明細を押し返した。
「冗談だろ! あの金は紗季が自分で出すって言ったじゃないか」
彼は声を落とした。
「俺たち、結婚するつもりだったんだぞ」
「結婚するなら、私のお金は全部会社に使っていいの?」
「そういう意味じゃ……」
「じゃあ、昨日の五十万円は?」
拓真は返事をしなかった。
美佐江さんが私の書類に手を伸ばした。
「こんな紙を並べて、うちの息子から大金を取ろうなんて!」
私はバッグを引き寄せた。
美佐江さんが身を乗り出した拍子に、腕がテーブルへ当たる。コーヒーカップが傾き、受け皿の中で音を立てた。
「触らないでください。ほかのお客さんもいますから」
騒ぎに気づいた店員が近づいてきた。
「お客様、大丈夫でしょうか?」
「すみません。もう帰るところです」
私は頭を下げ、席を立った。
拓真はまだ諦めなかった。
「紗季、アカウントはどうするんだよ!」
「会社で新しく作ることもできるでしょう。今のアカウントについては、弁護士を通して話して」
「そんな簡単に言うなよ。五百万人のフォロワーを、どうやって集め直せっていうんだ!」
「それを今まで私に任せてきたのは、拓真だよ」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「こんなことして、何になるんだよ」
「約束してたお金を、きちんと精算したいだけ」
私は店を出て、法律事務所へ向かった。
西村彩乃弁護士は、提出した資料を一つずつ確認してくれた。
とくに時間をかけていたのは、個人で立て替えた費用と、拓真が報酬を約束したメッセージだった。
「記録はかなり残っていますね。ただ、請求額は項目ごとに確認する必要があります」
「取り戻せますか?」
「根拠になる資料はあります。でも、今の段階で結果まではお約束できません」
西村先生は書類をそろえた。
「まずは正式な書面を送りましょう。アカウントの利用関係についても、相手方と協議する必要があります」
私は承諾した。
先生からは、既存の注文や業務データを勝手に削除しないこと、取引先や顧客の情報を外部へ公開しないことも注意された。
引き継ぎ表を見せると、今後も記録を残しておくよう言われた。
事務所を出るころには、外は暗くなっていた。
ホテルへ戻ると、拓真から何通もLINEが届いていた。
「弁護士なんか出して、俺を脅すつもりか?」
「今戻ってくれば、金の話もちゃんとする」
「本当に争うつもりなら、この業界で仕事ができなくなるぞ」
私はすべて保存し、西村先生へ転送した。
夜九時を過ぎたころ、大学時代の友人、小野寺真帆から電話がかかってきた。
「紗季、今すぐTikTok見て!」
「どうしたの?」
「黒田さんが動画を出してる。紗季が会社のものを盗んだって!」
私はアプリを開いた。
拓真の個人アカウントに投稿された動画が、急速に再生数を伸ばしていた。
タイトルには、こう書かれている。
「彼女に商品を無断で持ち出され、注意したらフォロワー500万人のアカウントを使えなくされました」
8
動画の中の拓真は、疲れ切った顔でカメラを見ていた。
背景には、誰もいないスタジオが映っている。照明はいつもより暗く、彼の顔には深い影が落ちていた。
「皆さんに、どうしてもお伝えしたいことがあります」
拓真は一度うつむき、少し間を置いてから話し始めた。
「うちの会社で運営を担当していた彼女が、突然仕事をやめてしまいました。それだけなら、まだよかったんですが……」
画面が切り替わり、配信用の操作卓が映った。
「ブラックフライデーが終わったばかりなのに、僕が使っていたアカウントの管理権限まで外されてしまって。新しい配信ができず、取引先にも迷惑がかかっています」
彼はため息をついた。
「在庫のサンプルを無断で持ち出したことを注意しただけなんです。責任者として見過ごすわけにはいかなかったので……」
五十万円を請求したことには、まったく触れなかった。
「三年かけて、ようやくフォロワー五百万人になりました。僕にもスタッフにも、大切なアカウントなんです」
拓真はもう一度カメラを見た。
「それなのに、彼女から一千七百五十万円を払えと言われています。正直、どうしたらいいのかわかりません」
続いて美佐江さんが登場した。
目元をティッシュで押さえ、何度も鼻をすすっている。
「紗季さんのことは、本当の娘みたいに思ってたんです。一緒に食事をしたり、困ったときには助けたりしてきたのに……」
彼女は涙を拭った。
「息子が一生懸命やってきた会社が、こんなことになってしまって。皆さんだったら、どう思いますか?」
私は動画を最後まで見た。
五十万円の件も、アカウントの登録名義も、正式な利用契約を結んでいなかったことも出てこなかった。
コメント欄は、私への非難であふれていた。
「三年も付き合って、こんな仕返しするの?」
「会社のものを勝手に持っていったなら、注意されて当然じゃない?」
「フォロワー500万人のアカウントを止めるなんてひどすぎる」
「注文した人の商品はちゃんと届けてほしい」
なかには、私を警察へ通報するべきだと書く人までいた。
やがて私のSNSアカウントが見つかり、以前の仕事の写真も拡散された。
知らない番号から電話がかかってくる。出るといきなり怒鳴られ、何も言わないうちに切られることもあった。
両親が暮らしている市の名前まで書き込まれていた。
私は着信を拒否し、投稿やメッセージを保存した。
西村先生に相談すると、まずネット上で言い争わないように言われた。
「説明するなら、資料を整理しましょう。事実と違う部分を一つずつ確認したほうがいいですね」
「自分のアカウントで話しても大丈夫ですか?」
「はい。ただ、公開する内容は事前に見せてください。お客様や取引先の情報は出さないようにしましょう」
私はパソコンを開いた。
三年前から、仕事のメールや支払い記録は日付ごとに保存していた。広告費、商品の保証金、倉庫の家賃。拓真が報酬を払うと約束したメッセージも残っている。
五十万円の請求書と振込明細もある。
それとは別に、会社の資金が拓真の私的な買い物に使われていた可能性を示す資料も見つかっていた。
最近一緒に仕事を始めた女性配信者への支出も含まれていたが、何のために支払われたのかは確認できていない。
西村先生からは、憶測で個人を非難しないよう注意された。
私は一晩かけて資料をまとめた。
銀行口座や顧客の名前、社員の個人情報が映る部分には加工を入れる。公開する必要のないメールや、第三者との私的なやり取りも外した。
翌日の午後、西村先生に確認してもらい、誤解されそうな表現を直した。
午後八時。
私は自分のアカウントでライブ配信を始めた。
視聴者が次々と入ってくる。
「盗んだものを返せ」
「アカウントを黒田さんに返しなよ」
「一千七百五十万円って、本当に請求したの?」
コメントが止まらない。
私は画面を確認し、ゆっくり口を開いた。
「こんばんは。藤沢紗季です。昨日の黒田さんの動画について、私からも説明させてください」
息を整える。
「今日は商品を売るための配信ではありません。少しだけ、話を聞いてください」
9
最初に、アカウントの登録記録を画面に映した。
「このアカウントを作ったのは私です。拓真が会社を設立してからは、会社の商品を紹介するためにも使っていました」
登録名義が私のままであることを示す。
「会社のショップや注文データには、手をつけていません」
コメント欄に疑問の声が混じり始めた。
「え、女性の個人アカウントだったの?」
「それ、昨日の動画で言ってなかったよね」
私は次の資料に切り替えた。
撮影機材の購入記録と、広告費の振込明細だ。
「三年前、拓真の事業は資金繰りがうまくいっていませんでした。私は内定をもらっていた会社への入社をやめて、仕事を手伝うことにしたんです」
当時のメールも、個人情報を隠した状態で表示する。
設備費や広告費、倉庫の家賃、商品の保証金。現在も未精算の金額を合計すると、六百二十万円になる。
「会社のために立て替えたお金です。三年間の運営報酬も、まだ受け取っていません」
拓真が報酬を払うと約束したLINEを見せると、コメント欄の流れが少し変わった。
「報酬もらってなかったの?」
「一緒に事業やってたのに、どういう契約だったんだろう」
「お金の記録はちゃんと残ってるんだね」
私は例ののど飴の写真を表示した。
外箱の「廃棄予定」というラベル。その横に、五十万円の請求書と振込明細を並べる。
「ブラックフライデーの日、私は三十九度の熱がありました。喉が痛くて、廃棄予定ののど飴を一粒食べたんです」
そこで振込記録を拡大した。
「拓真から五十万円を請求されました。こちらが実際に支払った記録です」
コメント欄が一気に騒がしくなった。
「五十万円!?」
「のど飴一粒で?」
「昨日の動画、金額を言ってなかったよね」
「振込記録だけじゃ、何のお金かわからなくない?」
そんなコメントが目に入った。
「そうですね。だから、こちらも見てください」
拓真から渡された請求書を拡大し、振込の日付と金額が一致する部分を示した。
「これが当日、会社から渡された書類です」
私は美佐江さんから届いたメッセージと、拓真が仕事用のグループで私を責めた記録も示した。
彼らは、私がほかにも高価なサンプルを持ち出していたと話していた。けれど、何がいつなくなったのか、具体的な記録を見せられたことはない。
「ほかにも持ち出したものがあると言うなら、その記録を見せてほしいと思っています」
少し間を置いた。
「この件は、すでに弁護士に相談しています」
コメントの流れが変わっていく。
「三年間働いて、報酬なしだったの?」
「会社に六百万円以上も立て替えてたのに……」
「男の人の動画だけじゃ、わからなかったね」
私は最後の資料を表示した。
会社の経費申請と、用途がはっきりしない支払いの記録だった。
高価なバッグや私的な買い物に使われたと思われるものもある。そのうちの一件には、最近仕事を始めた女性配信者が関わっていた。
私は彼女の名前や連絡先を伏せ、確認できている支払いだけを見せた。
「拓真からは、会社に余裕がないから報酬を払えないと言われてきました。でも、こういう支払いがあります」
記録を画面に残したまま、続ける。
「用途については、弁護士を通して確認しているところです」
視聴者の数はさらに増えていた。
謝罪のコメントも出てきたが、拓真を信じるという人もいる。私はどちらにも返事をせず、資料を片づけ始めた。
そのとき、スマホが震えた。
拓真からの着信だった。
私は配信のマイクを切り、電話に出た。
「もしもし」
「紗季! 今すぐ配信をやめろ!」
耳元に怒鳴り声が響いた。
「会社の帳簿なんか見せて、どうするつもりだよ! 取引先にも見られてるんだぞ!」
「今、ライブ中だよ。でも電話の声は流してない」
「だったら早く切れよ!」
「私のことを先に動画で話したのは拓真でしょう」
「だからって、そんなものまで見せる必要ないだろ!」
拓真はまだ何か言おうとしていたが、途中で言葉を飲み込んだ。
電話の向こうで、人の声がした。誰かに何か聞かれたらしく、拓真が小声で答えている。
しばらくして、彼の声が弱くなった。
「……悪かった」
私は黙っていた。
「昨日の五十万円は返す。だから、もうやめてくれ」
「五十万円だけの話じゃないよ」
「わかってる。じゃあ、あと百万円出す。それで何とかならないか?」
「その場で金額を決めないで。弁護士から届いた書類を見て」
「紗季、頼むよ。会社が潰れたらどうするんだ」
「その話も、弁護士を通して」
拓真は何度も会社へ戻ってほしいと繰り返したが、私は通話を終えた。
配信のマイクを戻し、画面へ向き直る。
「すみません。今、黒田さんから電話がありました。お金とアカウントのことは、今後、弁護士を通して話し合っていきます」
電話で話した内容を、視聴者に詳しく説明するつもりはなかった。
最後にもう一度、画面へ向かって頭を下げた。
「このアカウントで、今後、拓真の会社の商品を紹介することはありません。これまで配信を見てくださった皆さん、ありがとうございました」
配信を終了した。
翌日、拓真の動画には五十万円の請求について説明を求めるコメントが相次いだ。アカウントの登録名義をなぜ明らかにしなかったのかと尋ねる人もいた。
ブランド側からも連絡が入り、いくつかの新しいキャンペーンが見送られることになった。
すでに予定されていた販促活動についても、契約内容に応じて前払金の返還や補償を求める動きが出てきたらしい。
私は必要なメールを西村先生へ転送し、スマホを置いた。
その夜は処方された薬を飲み、早めに休んだ。
10
それから数日間、拓真と美佐江さんから電話が続いた。
怒鳴ったかと思えば謝り、今度は家族同然なのだから話し合おうと言ってくる。
私は一度だけ、今後の連絡は弁護士を通してほしいと返信した。
西村先生はすでに会社へ正式な書面を送り、未払いの報酬や立替金、五十万円の返金について説明を求めていた。
同時に、私の同意がない新しい広告でアカウントや肖像を使用しないよう、伝えてもらった。
会社側にも代理人がつき、双方で資料を確認することになった。
最初は、六百二十万円の立替金を一つずつ証明するのがいちばん大変だと思っていた。
ところが経理資料を調べるうちに、拓真が私的な買い物に会社の資金を使い、取引先への支払いも遅らせていたことがわかってきた。
私が担当していたライブ配信は中止となり、ブランド側からは説明を求められた。
新しいキャンペーンを見合わせる会社も増え、前払金の返還や補償を求める連絡も続いているらしい。
すでに購入された商品は倉庫から発送されていたが、セール中に約束した特典や問い合わせへの対応は遅れていた。
ある日、拓真が電話をかけてきた。
「紗季、頼む。何回か配信してくれないか」
以前よりずっと弱々しい声だった。
「少しでも金が入れば助かるんだ。今月の支払いさえ乗り切れれば、何とかなるから」
「もう会社の仕事はしないよ」
「そんなこと言わないでくれよ。三年間、一緒にやってきたじゃないか」
「協力が必要なら、弁護士を通して条件を出して」
拓真は少し黙った。
「……一千七百五十万円、返してほしいんだろ?」
「うん」
「会社が潰れたら、どうやって払えばいいんだよ!」
「それは弁護士と話して」
「俺が破産したら満足なのか!?」
私は通話を切った。
後日、西村先生から、会社が追加融資を受けられず、人員と倉庫を減らすことになったと聞いた。
以前は次々と商品を仕入れていた倉庫も、今では使っていないスペースが増えているらしい。
一方、私のところには別の仕事の依頼が来るようになっていた。
以前から付き合いのあったブランドは、商品選びや配信の準備を実際に担当していたのが私だと知っていた。
独立して仕事をするなら、ぜひ相談したいという連絡が何件も届いた。
私は新しい仕事の予定を手帳に書き込んだ。
ただ、また商品を売る仕事だけを続けるのも、少し違う気がしていた。
三年間、さまざまな人と仕事をしてきた。
恋人と一緒に事業を始めたものの、報酬を決めていなかった人。パートナーのために広告費を立て替え、あとから貸したお金なのか贈ったお金なのかわからなくなった人。
真帆に相談すると、彼女はすぐに答えた。
「紗季、今までの経験を動画にしたら?」
「仕事の経験?」
「そう。契約のこととか、お金の管理とか。恋人と一緒に事業を始めて困ってる人もいるでしょ」
私はしばらく考えた。
「それなら、話せることがあるかも」
「それに、紗季は配信の仕事も詳しいじゃない。黒田さんの話だけしてるのは、もったいないよ」
電話を切ったあと、さっそく新しい動画の構成を考え始めた。
ホテルに泊まり始めてから、約一週間がたっていた。
拓真と暮らしていたマンションへ戻る気はなく、そろそろ短期で借りられる部屋を探そうと思っていたところだった。
新しい動画を公開する前日、ホテルのフロントから電話があった。
「藤沢様、お二人のお客様がお見えですが……」
「どなたでしょうか」
スタッフが二人の特徴を説明する。
途中まで聞けば十分だった。
拓真と美佐江さんだ。
11
ホテルのロビーへ下りると、二人がソファのそばに立っていた。
拓真は以前よりずっと痩せ、頬がこけていた。無精ひげが伸び、目の下には濃いくまがある。
美佐江さんも、あのブランドバッグではなく、果物の入った袋を手にしていた。
私を見るなり、拓真が駆け寄ってきた。
「紗季! 頼む、戻ってきてくれ!」
「拓真、ここホテルだから。大きな声を出さないで」
「配信だけでもいいんだ。少しでいいから、手伝ってくれないか」
彼は私の手をつかもうとした。
私は腕を引いた。
「会社には戻らないって、何度も言ったよね」
「取引先からの請求が一億円近いんだ。もう払えない。倉庫のものも機材も、全部売ったって足りないんだよ……!」
拓真は声を詰まらせた。
「年末の案件だって、もう前払金をもらってる。今さら全部中止になったら……」
「それは会社で対応して」
「頼む、紗季。もう一回だけでいいから」
私が首を振ると、拓真はその場に膝をついた。
ロビーにいた客が驚いて足を止めた。
「株だって渡す。会社の株でも何でも渡すから……!」
美佐江さんまで頭を下げた。
「紗季さん、ごめんなさい。私、ひどいことを言ったわ」
彼女は果物の袋を差し出してきた。
「もう会社のことに口出ししないから、拓真を助けてあげて」
私は受け取らなかった。
「前は私のことを泥棒だって言いましたよね。会社で食べさせてもらってるくせにって」
美佐江さんの手が止まった。
「それは……あのときは気が立ってたのよ」
「そうですか」
「本当に反省してるの。ねえ、紗季さん。三年も一緒にいたんでしょう? もう一度、やり直してくれないかしら」
「もう別れています。会社にも戻りません」
美佐江さんは慌てたように拓真を見た。
「だったら、結婚の話をちゃんとすればいいじゃない。拓真だって、そのつもりだったんでしょう?」
彼女は私に向き直った。
「結婚してくれたら、私はもう二人のことに口を出さないわ。ねえ、考え直してくれない?」
「その話も、もうしないでください」
拓真が顔を上げた。
「お前、そこまで俺を追い詰めたいのか?」
ついさっきまで謝っていた男が、今度は私を責めるように見つめている。
「会社の借金は、拓真が経営している間にできたものでしょう」
「お前だって一緒に仕事してただろ!」
「私に責任があるなら、弁護士を通して言って」
拓真は唇を噛んだ。
美佐江さんはまた泣き始め、どうか息子を見捨てないでほしいと繰り返した。
私はフロントへ声をかけた。
「申し訳ありません。こちらのお二人とは、もうお話ししないことにしています。対応をお願いできますか」
ホテルのスタッフと警備員が近づき、二人を出口へ案内した。
拓真は最後まで何か叫んでいたが、私はエレベーターに乗った。
数日後、ホテルを引き払い、家具つきの短期賃貸マンションへ移った。
拓真と暮らしていた部屋に残した荷物も、必要なものだけ業者に運んでもらった。新しい部屋では、動画の準備と仕事の打ち合わせを続けることにした。
それから数か月後、金銭とアカウントをめぐる争いは、裁判所での手続きに進んだ。
西村先生と一緒に提出したのは、立替金の振込記録、業務上のメール、最初のアカウント登録資料、報酬についてのLINEなどだった。
拓真側は、私が出したお金の一部は交際中の贈与であり、運営の仕事も恋人同士の協力だったと主張した。
けれど、報酬を約束したLINEは残っていた。会社の帳簿にも、私が機材代や広告費、商品保証金を立て替えた記録がある。
アカウントについても、私個人の配信アカウントと、黒田の会社が管理するショップや在庫を分けて確認する必要があった。
登録名義だけでなく、これまでの利用実態や、双方でどのような約束をしていたかも争点になった。
何度か期日を重ね、双方の代理人が話し合いを続けた。
最終的に、未払いの報酬と立替金について、裁判上の和解が成立した。
会社の負担分と拓真個人の負担分を分け、支払総額は一千七百五十万円。あの五十万円も含まれている。
ただし、支払いは分割だった。
決められた期日に払われなければ、必要な手続きを取れるように和解の条件も定められた。
拓真は書類への署名を終えると、椅子に座ったまま動かなかった。
隣にいた美佐江さんは顔色が悪く、帰るよう促されたところで突然倒れた。スタッフが駆け寄り、医療機関へ連絡する。
私はその場を離れた。
建物を出る前、西村先生が今後の支払い手続きについて説明してくれた。
「約束どおりに払われなければ、こちらで対応します。もう直接交渉する必要はありませんから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
外では小雨が降っていた。
私は傘を開き、駅へ向かった。
12
拓真は結局、一千七百五十万円を払いきれなかった。
黒田の会社は主要な事業を停止し、債務整理を始めた。ブランドや物流会社からの請求も続き、会社の資産を処分しても、すべての支払いを済ませるには足りなかったらしい。
私は西村先生に依頼して必要な手続きを進め、回収できた分から支払いを受けた。
残りについては、債務処理の状況を確認しながら対応することになった。
拓真がローンで買ったポルシェは売却され、代金は車の残債やほかの支払いに充てられた。
母子が住んでいた高級マンションも、家賃を払えなくなって引き払ったという。
真帆から聞いたところでは、美佐江さんは脳血管の病気で入院し、退院後もリハビリが必要になったそうだ。
拓真は母親の面倒を見るため、榛野市内の古いアパートへ移った。
昼間は配達の仕事をし、夜は催事の売り場などで臨時の仕事をすることもあるらしい。
拓真から高価なバッグを贈られていた女性配信者も、会社の資金問題が表に出ると、別の事務所へ移ったという。
私は個人アカウントで、新しい動画を投稿し始めていた。
最初に取り上げたのは、事業のために自分のお金を立て替えたとき、どんな記録を残しておくべきかという話だった。
次は恋人同士のお金の貸し借りについて。
その後も仕事の報酬や契約、ネット上の誹謗中傷への対処など、自分の経験を交えながら話していった。
法律に関わる内容は、必ず西村先生やほかの専門家に確認してもらった。
ライブコマースの仕事についても、いくつかシリーズを作った。
商品の選び方、ブランドとの交渉、配信前の準備。長時間働くときの体調管理については、自分が無理をして倒れた経験も話した。
動画への反応は予想以上によかった。
以前からのフォロワーには、商品を買うために登録していた人も、拓真の配信を楽しみにしていた人もいる。
新しい動画のコメント欄には、自分の職場や交際相手とのお金の問題について相談する人が増えていった。
フォロワー数は少しずつ伸び、やがて八百万人を超えた。
私は新しいチームを作り、運営スタッフと動画編集者を雇った。
全員と契約を結び、報酬と仕事の範囲を最初に決めた。毎月の支払いを欠かさず、自分の報酬もきちんと帳簿につけるようにした。
ある日、新人スタッフが笑いながら聞いてきた。
「藤沢さん、また売上を全部仕事につぎ込んだりしませんよね?」
私は笑って答えた。
「投資はするよ。でも、一円残らず記録するから」
それから半年後。
私は新しく買ったメルセデスで、鷺森市にある工場へ向かっていた。
生活用品を製造している会社で、新商品のプロモーションについて打ち合わせる予定だった。
事前にサンプルを取り寄せ、提案書も準備してある。
古い商店街の近くまで来たところで、前方の信号が赤になった。
ブレーキを踏むと、交差点の脇に配達用のバイクが見えた。
乗っていた男は使い込んだ制服を着ていて、背中には汗がにじんでいる。車体の後ろには、配達用のボックスが二つ取りつけられていた。
そのバイクが曲がろうとしたとき、路肩に停まっていた高級車と接触した。
車の運転手が降り、ドアについた傷を確かめる。
バイクの男も慌てて停車し、ヘルメットを脱いで何度も頭を下げた。
見覚えのある顔だった。
拓真だ。
以前よりずっと痩せ、日に焼けた顔には疲れがにじんでいた。運転手がスマホで傷を撮影している間も、拓真は繰り返し頭を下げ、必要な費用は負担すると説明していた。
私は車から降りなかった。
信号が青に変わり、後ろから短くクラクションが鳴る。
前を向いてアクセルを踏んだ。
ナビは、目的地まであと十数分だと告げていた。
真帆からメッセージが届いていた。午後の打ち合わせが終わったら、一緒に夕食を食べないかという誘いだった。
次の赤信号で停車し、返信する。
「いいよ。打ち合わせが終わったら連絡するね」
道沿いには新しくオープンした店が並び、午後の日差しがガラス窓に反射していた。
再び信号が青になる。
私はそのまま工場へ向かって車を走らせた。




