朝もやの湖畔、炭火のかたわらで
夜明けのティベリア湖は、鈍い銀色の霧を深くたたえていた。
小舟の底に打ち寄せる波の音だけが、静寂を微かに揺らしている。シモン・ペテロは、引き上げたばかりの冷たい網を虚ろな目で見つめていた。
「漁に行ってくる」と口にした自分に、トマスも、ナタナエルも、ゼベダイの子らも、無言で頷いてついてきてくれた。だが、夜通し腕を軋らせて湖を漕ぎ回った結果は、一匹の収獲もない空の生け簀だった。
魚の一匹すら捕れぬ、ただの落ちぶれた漁師。
だがシモンにとって、その徒労こそがふさわしい罰のように思えた。
あの中庭の炭火の匂いが、今も鼻腔に焼きついて離れない。
震える手足を火にかざしながら、女中に「仲間だ」と指摘されたときの、魂が凍りつくような怯え。
――そんな人は知らない。誓って関係ない。あんな男など知らない。
三度。命惜しさに師を売り渡した舌の苦さ。その直後に響き渡った鶏の声。
そして、連行される最中にふと振り返り、自分をまっすぐに見つめたあの人の静かな眼差し。
怒りも軽蔑もなかった。ただ深い哀しみをたたえたその瞳の前に、シモンの誇りは粉々に砕け散ったのだ。「皆が見捨てても、私だけは命を捨てます」と息巻いた自分の浅ましさに、ただ号泣するしかなかった。
「……友よ、食べる物がないのですね」
朝もやの浜辺から、低く澄んだ声が水面を渡ってきた。
夜明けの薄明かりの中に立つその人影を、誰も見分けることができなかった。ただ疲れ果てた弟子の一人が、「ありません」と力なく答える。
「舟の右側に網を投げなさい。そうすれば捕れます」
疑う気力すらなく、命じられるままに網を右舷へと投げ入れた。
その刹那、張り詰めた綱が悲鳴を上げた。水面が激しく波打ち、無数の銀鱗が朝の光を弾いて跳ね踊る。あまりの重さに、男たちの腕を合わせても網を引き寄せることができない。
「主だ!」
ヨハネが息を呑んで叫んだ。
その一言がシモンの耳を貫いた瞬間、躊躇う隙など微塵もなかった。
裸同然で作業をしていたシモンは、上着を引っ掴んで身にまとうと、そのまま冷たい湖へと身を投げた。
波を蹴立て、無我夢中で水を掻く。岸までのわずか九十メートルほどの距離が、永遠のように思えた。
浅瀬を這い上がり、濡れ鼠のまま浜辺に立ち尽くしたシモンの目に飛び込んできたのは、小さな炭火だった。
赤く熾きた炭火の上に、魚が置かれ、香ばしい煙を立てている。その傍らには、柔らかなパンが用意されていた。
――炭火。
あの中庭と同じ、赤く爆ぜる火。
シモンの膝が激しく震えた。
(何を言われるのだろう)
「よくも抜け抜けと顔を出せたものだな」となじられるのだろうか。
己の醜い裏切りを暴き立てられ、大勢の前で這いつくばらされるのだろうか。
当然だ。そうされてしかるべきだ。相手を踏みにじり、嘲笑うことが世の習いであるならば、自分ほどその報いを受けるにふさわしい男はいない。
だが、火の向こうからかけられたのは、あまりにも穏やかな声だった。
「今捕った魚を少し持ってきなさい」
シモンは弾かれたように小舟へ駆け戻り、網を浜へと引き上げた。網の中には、驚くほど太った大きな魚が一五三匹もひしめき合っていた。それほどの大漁であったにもかかわらず、網の目はひとつも破れていなかった。
「さあ、朝食を取りなさい」
弟子たちの誰一人として、「あなたは誰ですか」と尋ねる勇気は持てなかった。尋ねる必要などなかった。それが主であることを、全員が魂の底で知っていたからだ。
主は静かにパンを取り、彼らに分け与え、魚も同じようにして手渡した。
シモンの震える手のひらにも、温かいパンと魚が載せられた。
責め苦の言葉など、ひとつもない。ただ、凍えきった身体に、炭火の温もりと朝食の滋味がじんわりと染み渡っていく。涙の塩気が、パンの甘みと混ざり合って喉を滑り落ちた。
食事が終わると、主は静かにシモンのほうへ視線を移した。
寄せる波の音だけが、砂浜を包み込む。
「ヨハネの子シモン、これら以上に私を愛していますか」
――これら以上に。
かつて自分が、「たとえ他の弟子たちがつまずこうとも、私だけは」と驕り高ぶって口にした、あの言葉の残骸だった。
シモンは顔を上げることができなかった。自らの愛の深さを誇る資格など、自分にはもう欠片も残されていないことを、誰よりも自分が知っていた。
「……はい、主よ。私があなたに愛情を抱いていることを、あなたは知っています」
大言壮語は消え去り、ただ絞り出すような告白だけが砂の上に落ちた。
主は言った。
「私の子羊を養いなさい」
そして、主は二度目に言われた。
「ヨハネの子シモン、私を愛していますか」
「はい、主よ。私があなたに愛情を抱いていることを、あなたは知っています」
「私の小さな羊を世話しなさい」
さらに、主は三度目に言われた。
「ヨハネの子シモン、私に愛情を抱いていますか」
三度。
あの中庭で、「知らない」と唾を吐きかけた回数と、寸分違わぬ三度。
シモンの胸は激しく痛み、悲しみに締めつけられた。
それは刃で傷口を裂かれるような痛みではなかった。自ら深く閉ざしていた罪の澱を、三度の慈しみによって、ひとつ、またひとつと丁寧に解きほぐされていく痛哭だった。
シモンは涙に濡れた顔を伏せ、震える声で言った。
「主よ、あなたは全て分かっています。私があなたに愛情を抱いていることを、知っています」
裏切りも、醜い保身も、己の底知れぬ弱さも、そして今なお消えぬ不格好な慕情さえも、あなたには何一つ隠すことができない。
主は、泣き崩れるシモンを静かに見つめ、告げられた。
「私の小さな羊を養いなさい」
糾弾も、嘲弄も、そこには存在しなかった。
もし主が己の正しさを盾にシモンのみじめさを晒し上げていたなら、男の心は暗闇の中で二度と息を吹き返さなかっただろう。
だが主が与えたのは、焼けた魚と、裏切りの傷を塞ぐための「三度の赦し」だった。弱さを知り、己の限界に打ちのめされた者だからこそ、傷つき迷う羊たちの痛みに寄り添うことができるのだと、主は砕かれた器に新たな命を吹き込んだのだ。
「はっきり言っておきますが、あなたはもっと若かった時、いつも自分で服を着て、歩きたい所を歩き回りました。しかし年を取ると、手を伸ばし、服を着せられ、望まない所に連れていかれます」
それは、シモンがやがてどのような最期を迎え、神の栄光を現すことになるのかを告げる言葉だった。
己の意志で歩み、己の力に誇っていた男は、やがて他者に身を委ね、愛のために命を差し出す者へと変えられていく。
「引き続き、私の後に従いなさい」
立ち上がった主の背中を、シモンは涙を拭いながら見上げた。
ふと振り返ると、かつて最後の晩餐で主の胸元に寄り添っていたあの愛する弟子が、静かに後をついてくるのが見えた。
「主よ、この人はどうなりますか」
思わず口をついて出たシモンの問いに、主は優しく、けれど厳かに答えた。
「私が来る時まで彼がいることが私の願いだとしても、あなたにどんな関係があるのですか。あなたは、引き続き私の後に従いなさい」
他者と比べる必要はない。ただお前は、お前に与えられた赦しと愛の道を歩めばよいのだと。
朝の光がティベリアの湖面を満たし、冷たい靄は黄金の輝きの中へと溶け去っていった。
砂浜に残された大きな足跡を、シモンは震える足で、しかし一歩ずつ、しっかりと踏みしめて歩き出した。自分を縛りつけていた悔恨の縄目は、すでに朝の炭火のぬくもりとともに、すべて解き放たれていた。
◇◇◇
### 異聞・夜明けの湖
夜明けの湖に、小舟が戻ってきた。網は空だった。
岸には、炭火が熾っていた。その向こうに立つ人影を見た瞬間、ペテロは息を呑んだ。
十字架で死んだはずの主が、そこにいた。
「主よ……」
「シモン。お前は、皆が私を見捨てても自分だけは決して見捨てないと言ったな」
ペテロは答えられなかった。
「それから、お前は三度、私を知らないと言った」
静かな声が、朝の湖に響く。
「私は恐れていたのです」
「知っている。だからこそ、問うているのだ。お前は人々の前で私の名を語り、彼らを導くと言った。だが、自分の身が危うくなると、私との関わりまで否定した」
主は、炭火のそばに置かれたパンを指した。
「食べなさい。これは、お前を許すための食事ではない。お前が自分の言葉を思い出すためのものだ」
ペテロの手が震えた。パンに触れることはできなかった。
「お前に私の羊を託すことはできない」
主は、ペテロから目をそらさなかった。
「お前は、私の後に従わなくてよい」
その言葉が、鶏の声より深く胸に突き刺さった。
舟の仲間たちは岸へ上がった。主は彼らに向き直り、別の者に羊たちを託した。誰もペテロを責めなかった。誰も彼の代わりに弁解しなかった。
かつて「私だけは」と誇った男は、湖畔に一人残された。
朝日が昇る。主は振り返らない。
空の網を抱えたペテロは、ようやく知った。失ったのは、名誉だけではない。自分が口にした大言壮語が、いま自分の居場所を奪ったのだ。
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異聞・夜明けの湖
夜明けの湖に、小舟が戻ってきた。網は空だった。
岸には、炭火が熾っていた。その向こうに立つ人影を見た瞬間、ペテロは息を呑んだ。
十字架で死んだはずの主が、そこにいた。
「主よ……」
「シモン。お前は、皆が私を見捨てても自分だけは決して見捨てないと言ったな」
ペテロは答えられなかった。
「それから、お前は三度、私を知らないと言った」
静かな声が、朝の湖に響く。
「私は恐れていたのです」
「知っている。だからこそ、問うているのだ。お前は人々の前で私の名を語り、彼らを導くと言った。だが、自分の身が危うくなると、私との関わりまで否定した」
主は、炭火のそばに置かれたパンを指した。
「食べなさい。これは、お前を許すための食事ではない。お前が自分の言葉を思い出すためのものだ」
ペテロの手が震えた。パンに触れることはできなかった。
「お前に私の羊を託すことはできない」
主は、ペテロから目をそらさなかった。
「お前は、私の後に従わなくてよい」
その言葉が、鶏の声より深く胸に突き刺さった。
舟の仲間たちは岸へ上がった。主は彼らに向き直り、別の者に羊たちを託した。誰もペテロを責めなかった。誰も彼の代わりに弁解しなかった。
かつて「私だけは」と誇った男は、湖畔に一人残された。
朝日が昇る。主は振り返らない。
空の網を抱えたペテロは、ようやく知った。失ったのは、名誉だけではない。自分が口にした大言壮語が、いま自分の居場所を奪ったのだ。




