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王子殿下の断罪は茶番でしたので、書類三十八枚で精算させていただきます

作者: 杜陽月
掲載日:2026/03/30

【案件】契約書を読まなかった王子の婚約破棄処理

【担当】元法務部主任の悪役令嬢

【処理方針】書類による即日完結。コメディ短編・約4,000字・ハッピーエンド。

 この案件は、半年前に結審している。

 ——なのに今夜、わざわざ書類一式を持ってきたのは、相手が台詞を用意してくるとわかっていたからだ。


 夜会の灯りに照らされた華やかなドレスの列。その中で、カタリナ・フォン・クラウゼヴィッツだけが、異様に膨らんだ革鞄を抱えている。


 令嬢の手には似つかわしくない、使い込まれた仕事道具。中身を知っているのは、この広間でただ一人。


 (この鞄の中身は、前世で言えば損害賠償請求書の束。あの頃は人の分を書いていた。今日は自分の分)


 カタリナは、鞄の留め金に手をかけた。


 前世、藤堂(とうどう)かたりは大手企業の法務部主任だった。


 契約書を読まずにサインして泣きついてくる案件は月に二件はあった。「こんな条項があるなんて知らなかった」——その台詞を何百回聞いたか、もう覚えていない。


 あの頃は仕方なく助けていた。それが仕事だったから。


 転生して最初にしたことは、自分の婚約条項書を隅から隅まで読むことだった。


 読んで、目を疑った。


 違約金の算定基準が曖昧。慰謝料条項に上限の記載なし。領地間協定の解除条件にいたっては、一方的破棄の場合に破棄した側が全額負担。


 ——前世なら、新人でも差し戻す水準だった。


 半年かけて、条項を整えた。全三十八条。そのすべてに、王子殿下ご自身の署名をいただいた。もちろん殿下は一行も読まずにサインなさった。


 目の前に差し出された羊皮紙(ようひし)に、一瞬の躊躇もなく羽根ペンを走らせる。前の世界でも、この世界でも、契約書を読まない人間は同じ顔をしている。


 準備は、とうに終わっている


 (契約書を読まずにサインする人間の末路を、前の世界で何度も見てきた。——今回は、助けてあげない(・・・・・・・)


 全三十八条。一枚の漏れもない。


 ——と、広間に声が響いた。


「——カタリナ・フォン・クラウゼヴィッツ! お前との婚約は過ちだった。私はここに、真実の愛に従い、婚約の破棄を宣言する!」


 第一王子エーリヒが、隣に立つ聖女フローラの手を取り、高らかに宣言した。


 広間がどよめく。フローラが目を伏せ、エーリヒが満足げに顎を上げた。


 盛大な舞台装置。殿下はこの瞬間のために何日もかけて台詞を練り、立ち位置を確認し、鏡の前で表情を作ったに違いない。フローラの手を取る角度まで計算していたかもしれない。


 ——それはきっと、契約書を読む時間よりもずっと長かっただろう。


 広間の貴族たちが息を呑んだ。令嬢はどう出るか。泣くのか、叫ぶのか、それとも崩れ落ちるのか——視線がカタリナに集中する。


 (——案件発生。では、手続きに移りましょう)


 カタリナは鞄から最初の書類を取り出した。


「承知いたしました。では、手続きに移ります」


 広間が、静まり返った


 誰もが、泣き崩れる令嬢を待っていた。涙を浮かべ、どうして、と声を震わせる。あるいは膝から崩れ落ちる。——貴族社会の断罪劇とは、そういうものだ。


 少なくとも、エーリヒの台本ではそう書かれていたはずだった。


 だが、カタリナの目は乾いている。涙の代わりに手にしているのは、色とりどりの付箋が貼られた書類の束だった。


「……泣かないのか?」


 エーリヒの声に、困惑がにじんだ。


 自分が主役の叙事詩に、台本にない登場人物が割り込んできた。その名は、事務処理(・・・・)


 契約の話が始まった途端に目が泳ぐ——前世の会議室で何度も見た、あの顔だった。


 カタリナは答えなかった。


 答える代わりに、一枚目の書類を広げた。該当箇所に引いた赤線を、指で示す。赤線の横には細かな注釈が並んでいる。条文番号、参照先、算定根拠——半年分の仕事が、一枚の紙の上に凝縮されていた。


 広間の灯りに照らされた赤い線は、まるで手術の切開線のようだった。正確で、容赦がない。


「第十二条、一方的破棄における違約金条項です。金額はこちらに」


 淡々と読み上げた。仕事の報告をするように、ただ事実だけを。


 示された金額を見た瞬間、エーリヒの顔から血の気が引いた。


 王家の年間歳入の何割にあたるか、殿下は計算できただろうか。おそらくできていない。数字を読み取ること自体に、数秒を要していた。


 一歩、後ろによろめいた。広間の灯りの下でもわかるほど、明確に、顔から色が失せていく。


「こんな額——こんなものにサインした覚えはない!」


 声が裏返った。書類をひったくるように掴み、署名欄に目を走らせる。


 嘘だ。こんなものは偽造だ。そう叫びたかったのだろう。だが——


 ——紛れもなく、自分の筆跡だった。


 (異議申し立ては案件の進行を止めない。手続きは続行中)


 流れるような書体。王家の紋章入りの封蝋(ふうろう)まで、丁寧に添えられている。半年前、カタリナが差し出した書類に、何の疑いもなく押したあの封蝋。


 エーリヒの手が、かすかに震えた。署名から目が離せない。自分の手で書いた文字が、自分の首を絞めている。


 広間のざわめきが、遠い潮騒(しおさい)のように耳の奥で鳴っていた。


 広間の奥から、一人の男が静かに一歩前に出た。


 王城書記官ハインツ。その手には封蝋の施された原本が収められている。王家の公式記録の管理者であり、この場における法の証人。


「……殿下。こちらの書類には、殿下ご自身のご署名と王家の封印がございます。手続き上、有効でございます」


 声は静かだった。広間の隅にまで届くか届かないかという声量。だが、その一言は、エーリヒのどんな大演説よりも重く広間を支配した。


 署名がある。封印がある。手続き上、有効。——それ以上、何を言う必要があるだろう。


 広間が、水を打ったように静まり返った


 エーリヒの視線が、隣に立つフローラへ向かった。


「フローラ! お前なら何とか——」


 すがるような声だった。


 真実の愛。運命の相手。聖女の力があれば、この窮地を救えるはず——エーリヒの目は、まだ物語の主人公の目をしていた。


 どんな試練にも救いはある。愛の力が、書類ごときを吹き飛ばしてくれる。そう信じきった目。


 フローラは、エーリヒの顔と書類を交互に見た。困惑が、その優しい顔を歪めている。


「わ、私は……違約金とか……ごめんなさい、私にはわからないです……」


 小さく首を振った。目に涙が浮かんでいる。助けたいのに、助け方がわからない。


 善良で、純粋で、人の傷を癒す力を持つ聖女。——だが、聖女の癒しの力では、契約書は消せない。


 エーリヒの顔から、最後の希望が消えた。


 広間の空気が、完全にカタリナの側に傾いた。貴族たちの視線が変わっている。もはや断罪劇の観客ではない。事務手続きの傍聴人の目だった。


 何人かは、腕を組み、小さく頷いている。——婚約条項は法的契約だ。この場にいる貴族なら、誰でも知っている常識。知らなかったのは、王子だけ。


 カタリナは次の書類をめくった。仕事の打ち合わせで次の議題に移るように、何の感慨もなく。


「続きまして、第十五条。公衆の面前における一方的破棄に対する慰謝料条項です」


「もういい、こんな茶番は——」


 エーリヒが叫んだ。


 だが、その声が広間に消える前に、再び静かな声が響いた。


「第十五条にも、殿下のご署名が確認できます」


 ハインツの一言。


 今度は説明すら添えなかった。「殿下ご自身のご署名と王家の封印がございます。手続き上、有効でございます」——最初のとどめに添えた丁寧な前置きが、もう要らない。


 同じ罠に、二度目はより速く落ちる。


 エーリヒの顔から、怒りが消えた。抗議も、反論も、叫びも。代わりに残ったのは空白だった。自分の署名が自分を縛る——その事実だけが、繰り返し目の前に突きつけられる。


 茶番と呼んだこの場で、茶番を演じていたのは自分の方だったと、ようやく気づいた顔


 カタリナは書類を整え、鞄の中を一瞥した。


 違約金計算書、慰謝料の根拠書、領地間経済協定の解除書——まだ、十分すぎるほど残っている。


「あと二十六枚ございますが、お席にお掛けになりますか?」


 丁寧な声だった。心からの気遣いのような、穏やかな微笑みすら浮かべて。


 それが、この広間で最も残酷な一言


 二十六枚。たった二枚でこの有様なのに——あと、二十六枚(・・・・)


 広間にいる誰もが、同じことを考えただろう。あの書類のすべてに、殿下がお読みにならなかった条項が記されている。そしてそのすべてに、殿下ご自身の——。


 エーリヒは、もう何も言わなかった。立ち尽くしたまま、視線が虚空をさまよっている。


 隣のフローラも、両手で口を押さえたまま動けない。真実の愛が救えるものと救えないものがあることを、この聖女は今日初めて知ったのだろう。


 広間の貴族たちから小さな溜息が漏れた。同情か。呆れか。あるいは、その両方か。


 ——カタリナには、どうでもよいことだった。


 静寂の中、カタリナは残りの書類の束を丁寧に揃え、鞄に戻した。角を合わせ、付箋がずれていないか確かめ、留め金を閉じる。


 それは、一日の業務を終えた事務員が机の上を片づけるのと、まったく同じ所作だった。


 一礼する。


 本日予定していた通知手続きは、すべて完了した。残りの二十六枚は、しかるべき手順で、しかるべき期日に処理すればよい。


 急ぐ理由はない。——なにしろ、殿下はもうどこにも逃げられないのだから。


「——以上で手続きは完了です。定時(・・)ですので、失礼いたします」


 背を向けた。


 大広間の扉に向かって、一度も振り返ることなく歩いていく。革鞄の中では、二十六枚の書類が主人の帰りを待っている。


 革靴の足音だけが、静まり返った広間に響いていた。


お読みいただきありがとうございます。

本日の業務は定時で完了しましたが、鞄の中にはまだ二十六枚の書類が残っております。

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——定時退社にご協力ください。

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― 新着の感想 ―
前世はシゴデキ社員みたいな顔をして 38分の2だけ仕事を片付けてドヤ顔で「定時ですから帰ります」は「おもしれー女」過ぎるでしょ しかも王子殿下はパーティーにおける婚約破棄の段取りの時間をしっかり組ん…
面白かったです♪ が、38枚と2+26枚の関係が分かりませんでした。
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