第35話 救われれた日 後編
そこへ足音。
「生きているか」
低く、穏やかな声。
それがヤンとの出会いだった。
目を覚ましたとき、天井があった。
白い布。
血の匂いはしない。
知らない匂い。
薬草と、木の匂い。
体を動かそうとして、痛みが走る。
生きている。
(……なぜ)
横に、男が座っていた。
「目が覚めたか」
「俺はヤンこの街の副ギルドマスターをしている。」
穏やかな声。
リーナは何も答えない。
視線を逸らす。
天井を見る。
「水は飲めるか?」
無視。
男は困ったように笑った。
「……喋らないか」
それでも怒らない。
ただ椅子に座っている。
数日。
リーナは一言も発さなかった。
名前も言わない。
どこから来たかも言わない。
食事も、置かれたら食べる。
聞かれても、答えない。
目だけが警戒している。
「警戒するのは当然だな」
男は独り言のように言う。
「裏の人間か?」
反応しない。
視線すら動かない。
ある日。
扉が開いた。
女性が入ってくる。
お腹が大きい。
ゆっくりと歩いている。
「あなたが噂の女の子ね?」
柔らかい声。
リーナはちらりと見る。
刃物を持っていない。
敵意もない。
それでも警戒は解けない。
「この人ね、いつもこうなの」
女性は笑う。
「困った顔して座ってるだけ」
ヤンが咳払いする。
「余計なことを言うな」
だが口元は緩んでいる。
女性は椅子に座り、スープを差し出す。
「温かいうちに飲みなさい」
リーナは動かない。
「毒は入ってないわよ」
冗談のように言う。
その言い方が、妙に自然だった。
数秒。
やがてリーナはゆっくり器を取る。
一口。
温かい。
それだけで、胸がざわついた。
意味がわからない。
「あなた、何歳?」
答えない。
「名前は?」
無視。
女性は微笑む。
「いいわ。話したくなったらで」
それ以上踏み込まない。
詮索もしない。
夜。
ヤンは椅子に座ったまま言った。
「追われているなら、ここにいていい」
「追っ手が来たら私が相手をする」
「ゆっくり休めばいい」
命令ではなかった。
提案でもなかった。
ただリーナを思って言ってるだけ。
リーナは目を閉じる。
(なぜ、放っておかない)
(なぜ、利用しない)
(なぜ、見返りを求めない)
理解できない。
だから怖い。
数日後。
女性が転びそうになった。
反射的に手を伸ばして支える。
「ありがとう」
にっこり笑う。
お腹の中で子どもが動いた。
その小さな命の鼓動を、リーナは初めて近くで感じた。
胸の奥の奥の何かがわずかに揺れる。
ほんの、わずかに。
その瞬間だった。
ヤンが静かに言う。
「守る側も悪くないだろう」
まだ刺さらない。
でも、揺れ始めている。
ここで初めて
“感情の芽”が生まれた。
それから間もなく。
雨の夜だった。
女性の陣痛が始まった。 呼吸が荒くなる。
ヤンが支える。
助産師もすでに来ていた
リーナは水を運び、布を絞り、震える手を必死に動かした。
逃げなかった。
目を逸らさなかった。
長い時間のあと――
小さな産声が響いた。 弱く、しかし確かに世界へ届く声。
部屋の空気が一変する。
「生まれた……」 ヤンの声が震える。
母親の腕に抱かれた小さな命。
赤く、柔らかく、壊れそうで。 それでも必死に息をしている。
リーナはただ見つめる。
(こんなにも……弱いのに) (こんなにも強い)
女性が優しく微笑む。
「リーナ」 その名を呼ばれる。
「あなたに最初に抱いてほしいの」
リーナは一瞬、固まった。 「……私に?」
「ええ」 「あなたに感じて欲しいの、」 震える手で赤ん坊を受け取る。
温かい。 心臓の鼓動が伝わる。 小さな指が、自分の指を握る。
ぎゅっと。 その力は弱いのに、胸を強く掴んだ。
涙があふれる。
止めようとしたが、止まらない。
(命は……つながる)
(奪うものじゃない)
(守るものなんだ)
赤子を抱いた夜のあと。
部屋には静かな疲労と、穏やかな幸福が満ちていた。
ヤンは何度も何度も赤子を見て、
そのたびに、照れくさそうに笑った。
「こんなに小さいのにな」
「声は立派だ」
奥さんは疲れた顔で、でも幸せそうに目を細める。
「あなたに似て頑固そうよ」
「それは困るな」
二人の他愛ないやり取り。
命が生まれた直後なのに、
そこにあるのは恐怖ではなく、優しさだった。
リーナは少し離れた場所からそれを見ていた。
胸がじわじわと熱い。
痛みとは違う。
殴られた痛みでも、刃の痛みでもない。
知らない感覚。
赤子が泣き出す。
ヤンが慌てる。
「どうすればいい」
「あなた、落ち着いて」
奥さんが笑う。
「抱いてあげればいいのよ」
不器用に抱き上げるヤン。
赤子は泣き止まない。
その様子を見て、奥さんが言った。
「リーナ、ちょっと抱いてみてくれる?」
驚く。
「……私が?」
「ええ」
「さっき上手だったから」
さっき。
最初に抱いたときのことだ。
恐る恐る腕を伸ばす。
赤子を受け取る。
胸に近づける。
小さな体がぴたりとくっつく。
鼓動が伝わる。
呼吸が伝わる。
赤子は、静かに泣き止んだ。
ヤンが目を丸くする。
「お前、才能があるな」
冗談めかして言う。
奥さんは微笑む。
「この子、わかるのよ」
「優しい人の腕の中は」
その言葉に、リーナは固まった。
優しい?
自分が?
何人も殺してきた手だ。
汚れている。
血を覚えている。
それなのに。
赤子は安心したように眠っている。
その夜。
リーナは眠れなかった。
自分の手を見つめる。
(この手で、何人も……)
それでも。
(この手で、守ることもできるのか)
答えはまだ出ない。
だが初めて、問いが生まれた。
日々は静かに続いた。
赤子は少しずつ大きくなった。
泣き、笑い、転び、また立つ。
ヤンは不器用にあやし、
奥さんは根気よく見守る。
「失敗してもいいの」
「この子が自分で立てるようになれば」
その言葉を聞いたとき、
リーナの胸に小さな痛みが走った。
失敗すれば殴られた自分。
立ち上がる前に叩き落とされた過去。
ここは違う。
失敗しても、怒られない。
失敗しても、見捨てられない。
やがて赤子が初めて立った日。
よろよろと歩いて、リーナの膝に倒れ込んだ。
小さな手が服を掴む。
笑う。
「……」
声が出ない。
胸がいっぱいになる。
ヤンが静かに言う。
「守る側も悪くないだろう」
今度は、少し刺さった。




