第35話 救われた日 前編
親の顔も、名前も、覚えていない。
覚えているのは、冷たい石畳の感触と、
腹の奥を焼くような空腹だけ。
盗みを働けば殴られ、
見つかれば蹴られ、
逃げれば石を投げられた。
それが日常だった。
泣けば弱いと言われ、
笑えば気味が悪いと言われる。
生きるとは、痛みに耐えることだった。
そんな彼女を拾ったのが、旅をする行商の一団だった。
荷馬車を連ね、街から街へと移動する商人たち。
表向きは物資を売り歩く穏やかな一行。
だがその正体は――
暗殺を生業とする裏の組織だった。
彼らは都市を転々としながら標的を消し、痕跡を残さず去る。
孤児のリーナは“使える”と判断された。
子どもは警戒されない。
近づける。
刺せる。
最初に与えられたのは食事と寝床。
その代わりに教え込まれた。
気配を殺す方法。
足音を消す歩き方。
影に溶ける呼吸。
急所の位置。
一撃で殺す角度。
感情は邪魔だと殴られながら覚えさせられた。
失敗すれば痛めつけられる。
成功すれば頭を撫でられる。
それだけが評価だった。
最初の任務は“殺すことへの躊躇を消すためのもの”だった。
街角で転ぶ。
泣きそうな顔をする。
すると誰かが必ず近づく。
「どうしたんだい?」
優しい声。
その瞬間。
胸に短剣を突き立てる。
老人の目から光が消える。
それだけ。
理由もない。
標的ですらない。
ただ“殺す”ことに慣れさせるための儀式だった。
「よくやった」
初めて褒められた。
その瞬間、胸が温かくなった。
嬉しかった。
それがすべてを壊した。
(殺せば……褒められる)
それが生きる意味になった。
そこから先は早かった。
子どもという姿は最大の武器だった。
護衛を油断させる。
標的に近づく。
急所を刺す。
逃げる。
人を殺しても何も感じなくなった。
感じるのは達成感だけ。
褒められるため。
痛い目に遭わないため。
生きるため。
やがて任務は本格化していく。
護衛付きの商人。
貴族。
裏切り者。
政治の駒。
失敗は許されなかった。
そしてある日、彼女は組織の頂点に会う。
仮面をつけた男。
感情のない目。
声は冷たく、淡々としていた。
アサシンのセンスを極限まで磨き上げた存在。
この集団の絶対的王だった。
「使えるな」
それだけで価値が決まった。
リーナは切り札になった。
だがある任務で罠にかかる。
情報が違った。
護衛が多すぎた。
逃走中に深く斬られる。
走れなくなった。
血が止まらない。
仲間は振り返らなかった。
「使い物にならない」
それだけ残して去った。
雨の路地裏。
血に濡れながら倒れていた。
(ああ……終わりなんだ)
褒められなくなった瞬間、価値は消える。
それが世界のルールだった。




