第三話 それでも、死ななかった
ゴブリンの群れが、町の外れに押し寄せた。
「魔獣だ!」
「ゴブリンだぞ!」
悲鳴と怒号が入り混じり、人々が散り散りに逃げていく。
数は多い。
一体、二体……軽く見積もっても二十はいる。
人々が町の奥へ逃げていく中で――
彼の足が、わずかに前へ出た。
剣に添えられた手。
迷いというより、反射に近い動き。
(……まさか)
あの数に、一人で向かうなど――
そう思った瞬間、
彼は剣を握り、前へ出ていた。
「……待ってください!」
思わず叫ぶ。
けれど、彼は振り返らない。
構えは明らかに素人だった。
剣の位置も、足運びも不安定。
最初のゴブリンが、甲高い声を上げて突進する。
金属音。
剣が弾かれ、体勢が崩れる。
「……っ!」
棍棒が肩を掠め、血が飛んだ。
(――やっぱり……!)
胸が凍りつく。
けれど、彼は倒れなかった。
歯を食いしばり、剣を振る。
狙いは甘い。
それでも――刃は届いた。
一体、倒れる。
(……一体だけ)
すぐに次が来る。
二体目、三体目。
囲まれる。
剣は重くなり、息は荒く、
腕や脚には浅い傷が増えていく。
(……このままじゃ……)
その時だった。
彼は懐から小瓶を取り出した。
(……ポーション)
迷いなく栓を抜き、自分の口に流し込む。
次の瞬間――
血が止まり、傷が塞がった。
(……また……)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
それを、
自分に使うことも、ためらわない。
けれど、状況は好転しない。
ゴブリンは多い。
彼は強くない。
それでも。
致命的な一撃だけは、受けない。
倒れそうになりながら、
なぜか立ち続ける。
結果として――
五体。
彼の足元に、五体のゴブリンが倒れていた。
(……五体……)
その時。
「加勢するぞ!」
町の方から、力強い声が響いた。
鎧をまとった騎士たち。
町に滞在していた一団が、ようやく駆けつけたのだ。
訓練された動き。
連携。
数で押していたゴブリンたちは、
一気に崩れ、ほどなく討伐は完了した。
彼は、その場に膝をついた。
「……はぁ……
死ぬかと思った……」
冗談めいた声。
けれど、身体は小さく震えている。
二十体近いゴブリンの群れに向かい、
一人で前に出て、
致命傷を受けずに戻ってきた。
それが、どうしても理解できなかった。
騎士たちが周囲を確認し、
町の人々が恐る恐る顔を出し始める。
その中で――
「……エリシア」
名を呼ばれ、はっとする。
顔を上げると、
彼がこちらへ歩いてきていた。
足取りは重く、
服は汚れ、
腕にはまだ新しい傷。
「……怪我、してない?」
最初に気遣われたのは、
自分だった。
「私は……大丈夫です」
そう答えると、
彼はほっとしたように息を吐く。
「……よかった」
そして、苦笑する。
「正直……
かなり無茶だった」
「……はい」
否定はできない。
「でも……
放っておいたら、町に被害が出そうだったし」
言い訳のようでいて、
どこか当然のような口調。
「……運が良かっただけだと思う」
そう言って、頭を掻く。
その時だった。
「……あのっ!」
少女が駆け寄ってきた。
「……ありがとうございました。
おかげで、逃げることができました」
続いて、その父親らしき男性が、深く頭を下げる。
「日も、もう沈みかけています。
もし今晩、宿がお決まりでなければ――
お礼を兼ねて、ぜひ我が宿へ」
西の空は赤く染まり、
町は夕暮れに包まれていた。
「い、いえ……
そこまでしていただくほどのことは……」
「いえいえ。
娘だけでなく、町の者も救われました。
せめて、今夜くらいは」
しばし考え、
彼は小さく頷いた。
「……そこまで言っていただけるなら」
そして、こちらを振り返る。
「俺は、いいと思うけど……
どうかな?」
突然話を振られ、
一瞬驚いた。
けれど――
きちんと、こちらの意思を確認してくれている。
「……はい」
小さく、そう答えた。
胸の奥には、
まだ消えない違和感がある。
危険な人かもしれない。
常識が、少しずれている。
それでも――
今は、ここを離れる理由がなかった。
静かに、彼の隣を歩き出す。
ほどなくして辿り着いた宿で、
店主が穏やかに頭を下げた。
「お越しくださいまして、ありがとうございます。
ここ『月の宿』の店主、リゲイルです」
砕けた口調で笑いながら、
食堂へ案内される。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
「旅人さんには、
これまでにも色々会ってきましたがね」
湯気の立つ水を置き、
彼をちらりと見る。
「あそこまで、
自分の命を張って前に出る旅人さんは、
正直、あまり見ませんぜ」
「……そうですか?」
彼は、少し困ったように首を傾げる。
「確かに無理はしましたけど……
相手、ゴブリンですよ?」
その言葉に、
場の空気が一瞬、止まった。
「……ゴブリン、だから、ですかい?」
店主が静かに聞き返す。
「ええ。
怖い顔はしてましたし、
数もいましたけど……」
悪気はない。
本気で、そう思っている声音だった。
「旅人さん」
店主は、少しだけ声を低くする。
「この町じゃ、
ゴブリンは決して侮れる相手じゃありません」
「……そう、なんですか?」
「ええ。一体でも、人間より力がある。
動きも素早い。
油断すりゃ、命に関わります」
そこで、言葉が重ねられた。
「討伐は、普通は複数人です」
その瞬間、
彼の表情が固まった。
「……はっ」
小さく、息が漏れる。
思い出す。
ゲームの中でのゴブリン。
初期に相手する、雑魚キャラクター。
その感覚のまま――
剣を握っていたことに、
ようやく気づいた。
背中に、冷たいものが走る。
そして。
「…………え?」
「……ええええっ!?」
思わず声が出た。
「す、すいません!
考え事をしていて……」
視線は、どこか宙を彷徨っている。
――何かを見た。
その確信だけが、
場に残った。
暖炉の火が、
静かに揺れる。
こうして、
長い一日の夜は、
ゆっくりと始まっていった。




