Rの試運転
薄いオイルの匂いが漂う整備工場の奥、冷たい金属の棚に囲まれたスペースに、Rが静かに横たわっていた。
ライトの白光がボディを切り取って、どこか生き物みたいな影を落としている。
蓮は工具箱を開いたまま、しばらくその影を見つめていた。
湊の胸に引っかかっていたのは、その視線の深さだ。
ただ機械を見ているんじゃない。
まるで、これから一緒に旅へ出る仲間の鼓動を探っているみたいな、あの独特の静けさ。
「……改造は、ここからが本番だ」
蓮がぽつりとつぶやいた瞬間、周囲の空気が少し変わる。
整備士たちも冗談をやめて、蓮の動きに視線を寄せた。
湊は父・慧の名が出た戦いの予告みたいな流れに心がざわつきつつ、Rへと歩き寄った。
Rのフロントはわずかに震えて、低く息を吐くみたいな音をこぼした。
くぐもったブルル…とした響き。
それは、誰にでも聞こえるわけじゃない。
クルマを“モノ”じゃなく“生き物”として感じた者だけが拾える、あの繊細な声。
湊は、そっとボディに触れた。
ほんのり温かい。
まるで、少し緊張している生き物の皮膚みたいだった。
蓮は湊の横に立ち、レンチを構えながら言った。
「湊。お前の走りを確かめる前に、Rも準備を済ませておきたい。……慧と戦う前に、どうしても仕上げておきたい改造がある」
「改造って、どこを?」
湊の問いに、蓮はボディラインをなぞりながら答えた。
「魂を乗せる場所だ。
慧の血を継いでるお前と走るなら、こいつの中にも“覚悟”を刻んでおく必要がある」
響く言葉に、湊の喉がきゅっと鳴った。
改造というより儀式に近い。
蓮は作業用グローブをはめ、フロントの奥からパネルを外した。
金属の擦れる音が軽く反響する。
その奥で、Rがひとつ、小さく高い声をあげた。
キュイ…とした、少し不安そうな鳴き声。
「大丈夫だ。すぐ終わる」
蓮はそう語りかけるように手を動かし続けた。
湊が横で見守っていると、蓮の動きはどんどん研ぎ澄まされていく。
慎重で、丁寧で、でも早い。
人の心臓を扱う医者みたいな集中だった。
やがて、内部のケーブルにひとつ新しい配線がつながれると、Rのボディがふっと明るく脈打つ。
光が走り、少し大きなブルウン…という震えが工場の床まで伝わった。
「今ので、Rに“覚悟”が入った」
蓮の声は穏やかだけど強い確信を帯びていた。
「覚悟?」
湊が訊くと、蓮は手を止めて湊の方を向いた。
「慧を……お前の父を想う気持ちは、ずっと隠してきた。
だが、湊。お前がその力を本気で知る時が来る。
ただの“走り”じゃない。
魂の衝突だ。
その向こうに立つために、Rもお前も準備が必要だ」
湊は息を呑んだ。
蓮の言葉の重みが、やけに胸に沈む。
Rが静かにブルル…と喉を鳴らす。
それは、蓮と湊の会話を聞いているかのようだった。
蓮は工具を置き、湊の肩を叩いた。
「次はお前の番だ。走れ、湊。
慧の息子がどれだけ強いのか、俺に見せてくれ」
湊は深く息を吸い、Rのキーを手に取った。
運転席のドアを開ける。
夜の冷たい空気が、中にすっと流れこんだ。
シートは少し硬くて、でも妙に落ち着く。
まるで“おかえり”と言ってくれてるみたいだった。
キーを挿す。
静寂が一瞬、張り詰める。
そして──
キュルルル……ボッ……ボボボボッ……!
黒いRが、長い眠りからゆっくり目を覚ました。
RB26の声は、低くて、喉の奥で燃えるようで、
だけどまだ完璧じゃない。
寝起きの声みたいに少しざらついている。
湊は丁寧にアクセルを踏み込み、
エンジンの鼓動を確かめるように回転を上げる。
その度に、
ヴォ……ヴォン……
と、Rは自分の声を探すように唸った。
親方が助手席から言った。
「湊、いいぞ。
こいつ、本気で走りたがってる。」
◆
走り出したのは、長野の深夜道路。
誰もいない農道。
薄い霧。
遠くの山が黒い影だけ置いている。
湊はゆっくり1速に入れて、車を進める。
足回りを固めたばかりのRは、路面を噛む音がいつもより明確だった。
ザッ……ザッ……
まるで“歩き始めた”って感じの音。
2速。
エンジン音が少し伸びていく。
ゴォォ……
Rの声が、どこか嬉しそうに聞こえる。
湊の胸が熱くなる。
「親方……父さんも、こんな音を聞いてたんだよね。」
親方は窓の外を見ながら言う。
「慧はな、Rが喋ると笑うタイプだった。
“今のちょっと不機嫌じゃね?”って、よく言ってたよ。」
湊はアクセルを少しだけ深く踏む。
Rが、一瞬息を吸い込んだように感じた。
そして──
バァァァァァンッ!!
黒いRの声が一気に鋭くなり、
深夜の道路に伸びていった。
回転が上がるほど、RB26の鼓動が滑らかになり、
眠りから完全に覚醒していくのが分かる。
湊は気づいてしまった。
——Rは、湊に“走ろう”と言っている。
3速。
Rのリアが軽く震え、タービンが高い声で歌う。
ヒュィィィン……!
4速。
夜風が一気に入り込み、シートが背中を押しつける。
ゴオォォォォ……
親方が笑った。
「湊、お前……顔が父さんに似てきたぞ。」
「そんなん言うなよ……緊張する……」
「緊張していい。
慧も最初は同じ顔してた。
それでもアクセルを踏んだ。
だから“伝説”になった。」
湊は指先に力をこめた。
Rは、父の形見じゃない。
ただの機械でもない。
これは“魂”だ。
湊がアクセルを深く踏み込むと、
Rが答えるように吠えた。
バロォォォォオン!!
霧の中、黒い影が一瞬で駆け抜けていく。
風が車体を撫で、タイヤが路面と会話する。
湊は思った。
——走るって、こんなに生きてる感覚なんだ。
親方が静かに言う。
「湊。このRは……
お前を次のステージに連れてくぞ。」
湊は黙ってハンドルを握った。
黒いRは、その夜、
父がかつて見た景色を、
湊に初めて見せた。
そして湊は確信した。
——蓮と走る時、この“声”が必要になる。
——このRじゃなきゃ、ダメなんだ。
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