黒い心臓
夜の勝負が終わって、湊はまだ胸の奥がじんと熱いままだった。
蓮に勝ったとか負けたとか、そういう結果よりも、
“父が残したRが、自分の手でちゃんと走った”
その確かな手応えが、身体にずっと残っていた。
でも、蓮のNSXとぶつかった時、ほんの一瞬だけ感じた違和感。
父のRの足まわりが、道路の細かい凹凸に負けてわずかに跳ねた。
エンジンは吠えているのに、シャシーが追いつけていないように思えた。
その夜、湊は家に戻らず、車を“ある場所”に走らせた。
◆
町の外れに、鉄と油の匂いが染みついた古い工場がある。
看板には、黒いスプレーで大きく《黒鉄》とだけ書かれている。
灯りはいつも暗く、普通の車屋とは全然違う。
でも——走り屋の間では、噂は有名だった。
「速さのためなら、夜明けまで黙ってレンチを振るう変人がいる」。
シャッターを軽く叩くと、中から金属を擦る音が止まり、
ゆっくりと人影が近づく。
「お前、慧の息子か。」
姿を現したのは、がっしりした体格に、煤で黒くなった手。
白髪まじりの短髪で、目つきは鋭い。
しかしその目は、湊の背後にある黒いRを見ると、少しだけ細くなった。
「……そいつの声、さっきから聞こえてた。
“もっと走れる”って唸ってやがる。」
湊は驚いた顔をした。
言葉にこそしないが、湊自身も同じものを感じていたから。
「走ったんだろ。峠か? で、足がよれた。違うか?」
「……はい。あの時、Rが少しだけ暴れました。」
「だろうな。
慧の時代のままじゃ、今の路面の剛性には合わん。
昔はそれで十分速かったが……時代は進む。
でも——機嫌のいい音してるよ。
こいつ、まだまだ化ける。」
男はにやりと笑い、胸を叩いて名乗った。
「黒鉄の大将、皆は《親方》って呼ぶ。
覚えておけ。今日からこいつは、俺とお前の共同作業だ。」
湊のRは、工場のライトに照らされてゆっくりと入っていった。
ボディの黒が、金属灯の下で深い海みたいに沈む。
親方は一周ぐるっと歩き、手で撫で、耳を近づけてエンジンの金属音を聞く。
機械に話しかけているようで、湊は少し不思議な気持ちになる。
「湊。
こいつの声が聞こえるなら、お前は才能がある。
車ってのは鉄じゃねえ、生き物だ。
良い声で鳴かせてやるために、人間が努力するんだ。」
レンチの金属音が、カン、カン、カシャン、とリズムよく鳴りはじめた。
◆
親方の作業はとにかく速い。
迷いが一切ない。
アッパーマウントとショックを外し、ブッシュ類を確認し、
古くなっていた部分を一つひとつ丁寧に診断する。
「足回りを現代仕様に合わせる。
でも“慧のR”から外れすぎないようにチューニングする。
真っ直ぐ走るだけなら硬くすりゃいいが……
慧はな、柔らかいとこを残してたんだよ。
人みたいにしなやかで、意思があった。」
湊は黙って聞いていた。
胸の奥がじんと熱くなる。
「お前、まだ知らねえんだろうけどな……
慧のR32は、人の鼓動と合う車だった。
だから皆“黒い心臓”って呼んでたんだ。」
親方は微笑む。
「継ぐ覚悟できてるか?」
湊は、迷わず頷いた。
「……もっと強くしてやりたい。
父のRを、現代で走らせてやりたいんです。」
その声を聞いたのか、ライトに照らされたRのフロントが
わずかにきらりと光ったように見えた。
親方は大きく頷き、コンセントにつなげられた電動工具を手に取った。
「よし、夜明けまでやるぞ。
まずは骨と足から叩き直す。
——湊、手伝え。」
「はい!」
工場の空気が一気に生き返った。
金属の火花が散り、Rの黒いボディに反射する。
湊の鼓動と、親方の呼吸と、Rのかすかな金属の響きが
ひとつのリズムみたいに重なり合っていく。
外は静かな深夜。
工場の中では、ある一台のRが“新しい命”を得ようとしていた。
そして湊は知る。
ここから先が、父の背中を追う物語ではなく、
自分自身のRとの物語の始まりになることを。
夜明け前。
黒鉄の工場には、まだ白い朝日は差し込まない。
不思議と、時間の流れが外の世界と違って見える。
金属の匂いと油のあたたかい香りが入り混じるこの空間は、
まるでRのための“臓器室”みたいだった。
湊の手は油で黒く染まり、親方の横で工具を受け取ったり、
取り外した部品を並べたり、簡単な作業をこなしていた。
「……よし。足と骨はこれで一旦決まった。」
親方が額の汗を腕で拭いながら言った。
湊のRは、床の上でまるで静かに眠っているように見えた。
だが、その下からは微かに金属がひそひそ喋るような音がして、
“まだ終わりじゃないぞ”と主張しているような気がした。
親方はフロントのボンネットに手を置き、
軽く叩くようにして言った。
「湊。今日の本番はここからだ。
こいつの心臓(RB26)、一回開ける。」
湊はごくりと唾を飲み込む。
父の車を、ついに“中”まで触る時が来た。
「親方……壊したりしたら……」
「壊すために開けるわけじゃねえよ。」
親方は笑った。
「覚悟しろ。
RB26の機嫌は人間より難しい。
でも機嫌取れた時の声はな……
人を奮い立たせるんだ。」
◆
工具の音が変わった。
今までの“カン、カン”という外側の作業とは違い、
内臓に触れるような、
“キュ…コン…コン”という繊細な音が工場に広がる。
親方はプラグを外し、カムカバーをゆっくり外す。
隙間から赤黒い金属の光が見えた瞬間、
湊の胸はじんと熱くなる。
「……これが、父さんの見てた景色……」
親方は横目で湊を見て、
少しだけ優しい声を出した。
「そうだ。
慧は走り屋だったが、細かいところは丁寧だった。
このエンジン、まだ生きてる。
ただ……時代の空気が合わなくなってる。」
親方はライトを近づけて中を覗き込む。
湊も隣で、息を止めて見つめる。
その時だった。
Rのエンジンから、微かな鼓動のような音がした。
“コン……コン……”
金属同士が寒さで縮んだ時に鳴る音かもしれない。
でも湊には、まるで父が眠い声で返事をしたように聞こえた。
「……聞こえた?」
湊がつぶやく。
親方はにやっとした。
「お前にはちゃんと聞こえるんだな。
慧もそうだった。
こいつは“喋るエンジン”だよ。
調子いい時は喉を鳴らすし、
不安な時は咳みたいな音を出す。」
湊はボディにそっと手を置いた。
「大丈夫。絶対に直す。
もう一度……思いっきり走ろう。」
Rがかすかにボディを震わせた。
親方が小さく頷いた。
「よし。やるか。
一気に最新のバランス取りしちまうぞ。
RBの機嫌が整ったら……お前が思ってるより、ずっと速くなる。」
◆
夜明け近く、工場の扉から薄い朝焼けが差し込む。
親方は工具を置き、深く息をついた。
「……湊。」
「はい。」
「このR、まだ“戦闘仕様”にはしてねえ。
だが……
お前の父の魂は、ちゃんと息を吹き返しつつある。
あと少しだ。」
湊は黒いボディを見つめ、静かにうなずく。
Rの金属は、さっきよりも暖かい気がした。
まるで心臓が一度鼓動を取り戻したようだった。
「次は?」
湊が聞くと、親方はニヤッと笑う。
「次は……心臓に火を入れる。
深夜の試運転だ。
走らせる場所は……お前の好きに選べ。」
湊は胸の奥に熱いものを感じた。
——父が残したRに、新しい命を入れる瞬間が近い。




