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白い吐息

濃い霧が山肌を包んでいた。夜の冷たさが車内にまで染み込み、湊の指先をじんわりと冷たくする。エアコンを入れる気にもならない。今の自分には、この冷気すら神経を研ぎ澄ます材料だった。


ハンドルの革の質感を確かめながら、湊は深く息を吸った。

白い吐息が車内灯にほんのり照らされ、揺らめく。


「父さん…ほんとにこれ、あの人が操ってた車なんだよな」


R32は答えない。ただ、エンジンの鼓動だけが細く低く伝わってくる。

小さく「ブルル…」と喉を鳴らすように震え、湊の掌に意志のようなものを押し返す。


ライトが霧を割り、白い煙の中を進む。

前方には蓮の影があった。黒い車体。きれいな初代NSX。

荒く運転するタイプじゃない。けれど、走りに“迷い”がない。


蓮は父の古い友人。

湊にとっては半分“謎”みたいな存在だ。

強いのか弱いのか、善なのか悪なのか、よくわからない。けれど声には深いものがあり、雰囲気には揺るぎがない。


そして、今夜。


蓮は湊をこの峠に呼んでいた。


「慧の息子なら、一度くらい“走りで答えてみせろ”。その車で、な」


唐突で、挑発でもあり、優しさにも聞こえた。


湊の心に引っかかるものは多すぎた。

父のこと。

車のこと。

自分がこの道に立っている理由。


アクセルを踏む。

R32の体がわずかに沈み、霧の中で「ヴン…」と低く応える。

鼓動。意思。


まるで生きてるみたいだ、と思う。

いや、生きてるんだと感じる。

鉄の塊であっても、乗る人と噛み合った瞬間に、呼吸が始まるような感覚がある。


峠最初の右ヘアピン。

湊はブレーキを軽く踏み、荷重を前に寄せる。

ステアを滑らせるように切り、リアタイヤの動きを手のひらで読む。


路面が冷たい。

霧で湿って少し滑りやすい。

けれど、R32は湊の動きに柔軟に応え、しっとりと路面を掴む。


「……よし」


小さく呟くと、車体が静かに共鳴する。

エンジン音が、湊の心拍とぴったり合っていく。


次の左カーブに滑るように入る。

霧で視界が悪いが、ラインは見えている。

父が何度も通った道。蓮と何度も走った道。


タイヤが路面をはじく時、かすかに「ギュッ」と鳴る。

その音が湊の気持ちを引き締める。


前を行く蓮は明らかに湊を試している。

加速も減速も、すべてが“ギリギリ少し余裕を残したライン”だ。


湊はその意図に気づいていた。


「本気出してないってことかよ…」


悔しい、でも燃える。


カーブが連続する区間に入った瞬間、蓮のテールランプが霧越しに揺れた。

湊はアクセルを絞り、車体を外に押し出すように進入する。

体が一瞬浮く。荷重が抜ける。

だが、それすら自分の呼吸のように扱える気がした。


R32が小さく「グルッ」と足元で鳴く。

怒ってるわけじゃない。

緊張を共有してるような声。


「大丈夫。行くぞ」


細く呟いてハンドルを切る。

霧が流れる。

路面の反射が揺れる。

湊の鼓動が速くなる。


蓮との差が縮まり始める。


峠中盤、緩いS字。

ここは実力差がバレる区間。ラインの読みが甘いと簡単に飛ぶ。


蓮は滑るように走る。

その姿が一瞬、湊には父の影と重なった。


“慧はね、車に愛されてたんだよ”


いつか蓮が言った言葉。

その意味が少しだけわかってきた。


車を無理やりねじ伏せるんじゃなく、

車の声を聞いて、

車の動きを尊重して、

誘うように走る。


湊はアクセルをほんのわずか戻し、車の重心が移るのを感じ取った。

R32が気持ちよさそうに体を預けてくるような感触がある。

それに合わせてステアリングを切る。


――すべてが一瞬噛み合った。


湊の体が軽くなり、R32は蓮の車の背中にふっと近づいた。


「…行ける」


心の奥に火が灯る。

霧の冷たさとは反対の熱。


最後の急勾配が迫る。

ここから先は“意思の勝負”だ。


湊はアクセルを踏み込む。

R32が深く息を吸い込んだような音を出し、

低く「ヴォッ」と震えた。


蓮のテールランプがすぐそこ。

追いつける。

追える。

父と同じ道を、自分も走れる。


霧が切れ、山の稜線が顔を出す。

峠の空気が薄くなり、風が吹き下ろす。

その風が湊の心を押し上げた。


蓮がちらりとミラーを見る。

たぶん驚いていた。

たぶん嬉しそうでもあった。


「慧の息子か…悪くねぇ」


湊は聞こえないはずのその言葉を、なぜか確かに感じた。


最後のストレート。

二台の車が霧の切れ間を突き抜ける。


夜の山に音が広がった。

エンジンの鼓動ではなく、

もっと深い“何かの声”のように。


湊はハンドルを握り直し、前を見据える。


父の遺したR32が、

まるで「行くぞ」と囁いている。


湊は答えた。


「うん。任せてくれ」


夜の峠を、二つの影が駆け抜けた。


父の記憶と、今の現実と、これからの物語が、

霧の奥で静かにひとつに溶けていくような夜だった。


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