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伝説の匂い

夜の長野、山間の細い県道に、黒いR32のエンジン音が低く唸る。湊の手に握られたハンドルが微かに震えるのは、緊張からではなく、車自身――父から受け継いだこのR32の心が彼に語りかけているからだった。車の声は、闇の中で鼓動のように響き、湊の心臓と共鳴する。


「今夜は……俺の番だな」湊は小さくつぶやく。アクセルを踏むと、R32はそれに応え、タイヤがアスファルトをしっかりと捉えて音を立てる。まるで「よし、任せろ」と答えるかのように。


だが、その前方に、漆黒のシルエットが浮かんだ。鋭いヘッドライトが闇を切り裂き、低い唸りをあげる。蓮の車だ。彼は長野で伝説的と呼ばれた走り屋、湊の父・慧と互角に渡り合った男。今、湊の実力を確かめるべく、夜の峠に現れたのだった。


「湊か……慧の息子……」蓮の声は冷たくも、どこか懐かしい響きを持つ。「お前が父の心を受け継いでいるか、見せてもらおう」


湊はハンドルを握り直す。R32が微かに軋む音、タイヤが路面を噛む感触、すべてが生き物のように彼に語りかける。「心を込めろ……この道を、父の声を、俺たちの走りを伝えろ」と。




蓮の車もまた、ただ速いだけではない。カーブの向こうから、微かなタイヤの声、排気音のリズム、すべてが湊に挑戦状を叩きつけてくる。湊は目を閉じて深呼吸し、父の教えを思い出す。「車は機械じゃない、心で走れ」


「父さんの車…ちゃんと操れるかな」

小さく呟くと、R32が低く震え、微かに「ブルヴぅん…」と答えた。車の声は控えめながらも、湊の心を励ますように感じられた。手に伝わるステアリングの重み、シートから伝わる微細な振動、ペダルからの反応。すべてが車と心の会話だ。


最初のヘアピンカーブ。湊はアクセルを少し戻し、タイヤのグリップを確かめながら慎重に回る。リアがわずかに滑る瞬間、心拍が跳ね上がるが、すぐに修正する。車と体が一体になった感覚。過去に父がこの道を駆け抜けた瞬間の記憶が、心の奥に重なる。


霧の中、ライトに照らされるアスファルトだけが現実。湊は息を整え、カーブごとにアクセルとブレーキを微調整する。速度が上がるたびに、R32の挙動に体全体で応える。手足、腰、肩、目。全神経を集中させ、車と心が一体になる瞬間。


「父さんはこんな風に、この峠を駆け抜けていたのか…」

胸に懐かしい感覚が広がる。父の車と向き合う自分、蓮との距離を詰める自分。勝負だけではなく、父の想い、伝説、信頼のバトンのようなものが、体の奥に伝わってくる。


長い下り坂。湊はR32のエンジン音を聞き分けながら、アクセルとブレーキを微妙に操作する。「ギャァァァ!」とリアがかすかに滑る。けれど、車と心を一体化させることで、危なげなく曲がり切る。風が耳元をかすめ、タイヤとアスファルトの摩擦が手に伝わる。車はただの機械ではなく、生き物のように湊の意思に呼応する。


霧が濃くなり、視界は一層限られる。前方の蓮の車は、暗闇の中で微かに光を放つ。湊は一瞬迷いそうになったが、深呼吸し、車と呼吸を合わせる。「負けられない」心の奥底で叫ぶ。R32が低く唸り、路面を踏みしめる音が微かに響く。


峠の中盤、長い連続カーブ。湊は体をしなやかに使い、ハンドル操作を最小限に抑える。アクセルの踏み込みとブレーキの微調整だけで、リアを安定させながら曲がる。車の声は控えめだが、湊の意識はすべてそれに集中する。路面のわずかな凹凸、霧の湿度、風の強さ…全てが情報として返ってくる。


そしてついに最後の下り坂。霧は薄れ、遠くにゴールの標識が見える。湊は心の奥で覚悟を決め、アクセルを一気に踏み込む。R32は低く唸り、リアがわずかに滑るが、体と呼吸を合わせて修正する。風が耳元をかすめ、路面の振動が全身に伝わる。


ゴールを超え、峠に静けさが戻る。湊はハンドルに残る微かな振動を感じ、呼吸を整える。車はまだ鼓動を残している。前方の蓮はわずかに離れ、暗闇に吸い込まれていった。湊は小さく笑い、胸に広がる達成感を噛みしめる。


「これからも、父さんの車を、俺が走らせる」

峠の霧と夜風の中、湊はR32を見つめ、心の中で父に誓う。伝説は終わらない。父の意思、蓮の想い、そして自分自身の挑戦が、これからも峠の夜に響き続けるのだ。


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