ティーカップが傾くとき
「特秘レポートNo.79──"贖罪の山羊"」
ノックバーが呟いた。
"星に手を伸ばして"から少し離れたホテルだ。
それまで、不正に掌握した防犯カメラと壁一面に設置したモニター群を駆使して"星に手を伸ばして"の状況をリアルタイムに覗き見していたが、呟いた途端に回転式のデスクチェアをぐるりと回し、背後でソファに座り、優雅に読書と紅茶を嗜むマーチライトに身体を向けた。
薄暗い部屋で、モニター群から漏れた青色光が、マーチライトの繊細な輪郭をくっきりと晒した。
「少し、雑談に付き合ってよ、マーチライト?」
口調はのんびりとしていたが、眼光はいつになく強烈で、剃刀のように鋭いそれが、マーチライトを射抜いた。
「ポーカー観戦には飽きてしまいましたか?」
マーチライトが本を閉じた。
「僕みたいな多動症は、監督には不向きなのさ。試合を眺めていると、身体が疼く。だから代わりに、雑談で気を紛らわそうってわけ」
ノックバーはそこで言葉を区切り、コメディアンがパンチラインを言う前にそうするように、咳払いをした。
「僕らの依頼主は、なぜターウィンズの記憶を求める?」
質問が繰り返された。
「マーチライト、あんたは依頼主のプライバシーを口実にはぐらかしたが、本当はあんたの都合なんじゃないのかい?」
言葉を聞いた途端、マーチライトの瞳の奥で、いつしか垣間見せた炎が揺れた。
それはもはや、ノックバーに対する殺意と言い換えても差し支えない攻撃性の色で燃焼している。
「──どこまで調べましたか?"覗き魔"」
それでも、依然として言葉遣いは丁寧だ。
「今回の計画が少しきな臭いと感じて、情報管理局のデータバンクを覗いたんだ。あぁ、ほら、随分と昔に"記憶屋"って呼ばれてた指名手配犯がいたことを思い出してさ。今回の件と似てるだろう?──そしたら、未解決で抹消された事件の記録──特秘レポートNo.79──"贖罪の山羊"に辿り着いたってわけ」
マーチライトの瞳が一段と火力を増した。
「記録も消されていたはずですが?」
「消されていたからこそ、覗きに成功したのさ。ハッキングの基本はゴミ漁りだ。捨てたモノほど管理は雑になる」
ノックバーはしたり顔になり、男性にしてはえらく華奢な人差し指でトン、トン、と顳顬を優しくタップした。
「どうやら、私はあなたを見縊っていたようですね」
「賞賛はいらない、代わりに答えが欲しい」
ノックバーは右手を銃の形にして、
「破損していた古いレポートだ。僕も全貌は掴めていない。僕が調べた限りで、"記憶屋"──今のターウィンズと同じような犯罪で荒稼ぎしてた変態野郎は情報管理局に逮捕され、第二審を控えていた時期に獄中で自殺した」
マーチライトに向けて発砲する真似をした。
「奇妙なのは、"記憶屋"の自殺後、この件の捜査は不自然に打ち切られ、記録が消され始めた。──つまり、自殺自体が情報管理局による捏造……僕の予想では"記憶屋"もまだ生きてる。もしかしたら、そこでポーカーをしている彼かも」
モニターを振り返り、次はターウィンズを撃った。
「さらに不思議なことに、捜査が打ち切られた後も継続を訴えていた刑事課特捜部から二名、殉職者が出ている」
ノックバーは銃身を表す指を少しだけ横に動かした。
今度は指すだけで、撃ちはしなかった。
「一人はミシェル・レファリア元刑事、残念ながらもう一人は名前が消されていた。──そして、"記憶屋"の事件に関する第一審で弁護を担当したのは、ヴェリオルト・シャンディ──これまた僕らのメンバーだ」
ノックバーはマーチライトに向き直り、訊いた。
「偶然かい?」
マーチライトは沈黙を返した。
「レファリアが生きている時点で、レポートはでたらめだ。けれど、確実な情報は手に入れられる。そう、きみからだ。仲介人のきみが今回のメンバーを集めた。"記憶屋"の亡霊を狩るハンターとして。公的には死んだはずのレファリアと、シャンディを。そうなると、キミも"贖罪の山羊"に関与している可能性が高いと考えるのは必然さ。もしかすると、クランペットやラミル──裏で暗躍している七人目も」
マーチライトは動かない。
あるいは、それが最も有効な行動であるかのように。
「"贖罪の山羊"について教えてくれるかい?マーチライト?──そうだな……まず、きみは誰なんだ?」
永遠のような沈黙が二人を蝕んだ。
それでも、マーチライトは動かなかった。
嗜んでいた紅茶もすっかり熱を失っていた。
どちらも、死んでしまったかのように、冷たくなった。
やがて、マーチライトがゆっくりと言葉を紡いだ。
大した言葉ではなかった。
「動かないで下さい、"覗き魔"」
インサイドポケットから抜いた拳銃でがちりと音を立て、ノックバーに向け、そう告げた。
悠然とした動作だ。
まるで、チェスで自分の番に相手の駒が動くことはない──そうしたルールに則り、詰めている。
「……僕らは、捨駒だったわけか」
「抵抗しなければ、手荒な真似は致しません」
向けられた銃口はチェックメイトを意味していた。
「信用ならないね、あんたは僕らを騙していた」
「強者は歩兵を無碍には扱いません」
ノックバーが両手を上げ、降伏した。
銃の形をしていた右手は崩されていた。
不健康な白い肌の手が、白旗のように揺れた。
「あなたはもう少し利口に付き従うべきでした。俗世には、秩序のためにやむなく隠蔽されるべき事柄が存在します」
「"騎馬の耳に賛美歌"という言葉を知っているかい?無駄だという意味さ。僕はハッカーだ。隠された情報を裸にして、それを売る。知りすぎた果てに撃たれるなら、本望だ」
ノックバーは目を見開き、言った。
決して退くことはしない、歩兵のような物言いだ。
「全てが上手くいけば、こうして睨み合うこともなかったでしょう。この際正直に話しますが、私はあなたを結構気に入っていましたから、非常に残念です」
「そりゃあ、残念だ」
ノックバーは両手を上げた状態でゆっくりと立ち上がり、
「僕も、できることなら揉め事は避けたかった」
次の瞬間、強襲した。
突進だ。
マーチライトがぎょっとして撃ったが、遅い。
弾丸を半身で回避し、低い姿勢のタックルを炸裂させた。
ノックバーが強姦のように覆い被さり、力を受けたソファは縦方向に九十度回転し、テトリスでL字のブロックが回転したときのように、背もたれを下にして床を叩いた。
「──馬鹿な真似を……ッ!」
マーチライトの瞳に咲く業火が、憤懣の色を噴いた。
しかし、業火を形にする触媒──すなわち銃はタックルの衝撃で手を離れ、床に投げ出されている。
マーチライトは釣り上げられた魚のように暴れたが、馬乗りになったノックバーも譲らない。
ノックバーが右手でマーチライトの左手首を掴み、反対の拳をマーチライトの頬に打ち込んだ。
骨に皮を張ったようなガリガリの身体から繰り出された一撃にしては、不自然に重く、鈍い音が響いた。
マーチライトがそれまでの高雅な振る舞いとは一転した醜い唸りを上げ、右手でノックバーの左手首を掴み返したそのとき──ぐにゃり。
ノックバーの左手が急に、形を変えた。
逆光が、それを照らした。
ノックバーの左手の指が無数に分裂し、茹でられたパスタのように、柔らかく、くねくねと畝り始める奇怪な現象を。
「──硬化皮膚の転用さ……ッ!僕と握手ができると思ったなら、大間違いだね!」
ノックバーが肩で息をしながら言った。
Tシャツから覗く肩より先は、茹でられたパスタの束──先端が五十二本に枝分かれした金属製の触手と化していた。
それをマーチライトの右手からつるりと抜き取り、逆にツタのように巻き付けた。
「──キーボードにあるキーの数は……?」
ノックバーは訊いた。
マーチライトは考えようともしなかった。
身を捩り、踠き、触手を絡めた寝技に必死で抗う。
答えが百四で、全てのキーに指を常駐させるために、両腕をそれぞれ五十二の機械触手に分裂する硬化皮膚の義手に魔改造したエピソードなんて、聞いている余裕はない状況だ。
「退きなさい──」
絶叫するマーチライトの顔面に、頭突きが叩き込まれた。
「紅茶の淹れ方と喧嘩のやり方、両方を知ってる人はいない──きみは前者で、僕は……どっちでもない!」
ノックバーも格闘の経験はなかった。
動きは完全に素人のそれだ。
それでも、マーチライトは苦戦を強いられた。
全て機械触手が原因だ。
「──貴様……ッ!」
急に右手に巻き付けられていた機械触手が解かれ、自由を与えられた。
しかしそれは、これまで小屋に軟禁されていた犬が突如として野に放たれたも同然だ。
思考が断たれ、マーチライトが困惑していると、離された機械触手が俊敏に織られ、拳となって振り注いだ。
チカチカと白飛びする意識を右手に集め、反撃に転じて振り回したときには、再び巻き付かれ、捕縛されていた。
端正な面貌がひどく腫れ上がり、口からは血が溢れた。
身体は鈍痛に支配され、痛覚が薄れ始めている。
危険な状態だということは、まさに今、生涯で初めての殴り合いをしているマーチライトも、痛感していた。
反撃を諦め、喉に力を込めた。
「助けなさい!」
力の限り、金切り声を上げた。
口煩く罵りたい激情に駆られたが、救援を優先した。
今度はノックバーが面食らい、素早く顔を上げて周囲を見渡した。
部屋の入口から、それは来襲した。
人影だ。
しかし、蜘蛛のように疾い。
手には鋭利な銀色の影。
十メートルの距離が瞬間でゼロにまで詰められ、絡み合う腕の隙間を縫い、ノックバーの肩を狙う刺突が宙を穿つ。
ノックバーは反射でマーチライトの拘束を解き、敏捷な動きで機械触手を格子状に変形させ、防御に転用した──が、間に合わなかった。
ノックバーは確かに、機械触手を操り、コンバットナイフが殺到するよりもコンマ数秒早く肩部の前に防御策を展開していたが──痛覚の遮断が間に合わなかった。
灼けた刃がテニスラケットの打球面を刺すようにして格子状の指を貫き、三十本あまりを切断された激痛が、百四に細分化された神経細胞を介してノックバーを襲い悶絶させた。
血は出ない。
視界でピンク色の爆発が起き、失禁する。
想定を超越した痛み──指を三十本同時に切り落とされるという、本来であれば絶対に起こり得ない痛みに対して起きた脳のエラーだ。
歯を軋ませ、痙攣する腕に命を賭け、何本残されているかもわからない機械触手を襲撃者に向けて振り回した。
襲撃者はその断末魔にも似た攻撃を歯牙にも掛けないで刃を引き、再度肩部に突き立て、五十二本の神経を統括する、鎖骨付近の神経に深傷を負わせた。
動きには全く無駄がなかった。
躊躇も。
精錬された軍隊のナイフ格闘術だ。
指揮を失った機械触手が虚しく宙を游ぎ、だらんと力なく垂れ下がると同時に、ノックバーは泡を吹いて失神した。
マーチライトが倒れ込んできたノックバーの上体を鬱陶しそうに押し除け、飛び散った繊維状の機械触手を払い落としながら悪態を吐いた。
「──何を呑気に見ていたのですか……?」
ノックバーに対してよりも、突如として現れた、光を吸う黒色のぴっちりとしたラバー製の胴衣──補助装備に身を包んだ男に対して、怒りを表していた。
「どこまでやるか、見ていたまでだ」
男が言った。
泰然自若を体現したような青年だ。
決して大柄ではないが、逞しく、力強い。
鍛え抜かれた体躯に、肝が据わった目をしている。
「……"覗き魔"が本当に私の命を奪うつもりなら、早々にあの厄介な触手で絞殺していたでしょう。あなたから見ても、明白でしたかと思いますが?」
マーチライトは仰向けで大の字になり、息を整える。
身体の節々が痛み、起き上がれない。
男はノックバーの肩部から刃を抜き、すっと立ち上がり、マーチライトを見下ろして言った。
「オレが見ていたのは、ヤツだけじゃない」
「──"殺せ"と命じた場合には、私を見捨てましたか?」
「オレは殺意を肯定しない」
「それが、正義というやつですか?」
「親父からの教えだ」
マーチライトが掠れた笑いを漏らした。
「訓戒を鵜呑みにするのも、それなりに愚かな行いですよ」
「イヴは蛇の幇助を咎めるべきだったか?」
「さぁ、どうでしょう?」
マーチライトが何か大切なモノを諦めたように囁いた。
「──私は知恵の実を食べさせられた立場ですから」
「…………"覗き魔"は?」
「拘束して下さい。彼にはまだ重要な仕事が残っています。少々計画に手を加える必要が生まれましたが……どのみち彼はカメラの掌握を終えた後、ターウィンズの記憶の所在が判明するまで待機でした。昏睡していても問題ないでしょう」
男は部屋を歩き、マーチライトの銃を拾い上げ、言った。
「撃たれる覚悟で特攻してきたヤツを、どう従わせる?」
マーチライトがぱんぱんに腫れた顔で目を細めた。
「彼が目を覚ましたとき、銃よりも非情なモノで脅します」
男はマーチライトに向けて銃を放り、頷いた。
マーチライトがにんまりと口角を釣り上げたとき、
「期待していますよ──七人目の共犯者として」
瞳の奥を焦がしていた業火は消えていた。