荒削りの理性
「ごきげんよう、綺麗なお嬢さん?」
ターウィンズは不敵に微笑んでいた。
蜘蛛が糸に捕らえた獲物に這い寄るとき、こんなふうに笑うのだろうと思わせる嘲笑だ。
それでいて、瞳は宇宙の図鑑を眺めている少年のようで、好奇心が煌々と渦巻いている。
"欲しい"と訴えるような、訝しい好奇心が。
「失礼しても?」
ターウィンズがレファリアの左隣で椅子を引いた。
時計回りにアクションを行うポーカーで、左側は絶対的に優位なポジションだ。
"おまえを狙っているぞ"
ターウィンズはそこが玉座だとでもいうように悠然と腰を落ち着かせ、レファリアの五倍近いチップ量で参加した。
レファリアは歓迎の意を表して頷き、一瞥する。
いかにも富裕層といった姿態だ。
金糸で幾何学模様の刺繍が施された黒色のシャツにオレンジ色のネクタイを合わせ、ぱりっとした純白のスーツですらりと長いスタイルをさらに細く演出している。
超高級品のアクセサリーやら腕時計やらをこれでもかと身に着けた華美なファッションは、傍にいるだけで余沢を授かれるのではないかと錯覚に陥るまでに眩しい。
ターウィンズは席に着いて早々に、最初からポーカーになど興味がないかのように、レファリアを口説き始めた。
実際、ポーカーに熱は込められていなかった。
ターウィンズはそっち側の境地に君臨する強者だ。
カジノには光と影とでもいうべき、二つの顔がある。
戦場としての顔と、社交場としての顔だ。
それはすなわち、憎悪と友愛が両立し、ときには交錯する唯一の場所だということを意味していた。
無論、ウェスタン・サルーンを除いて。
そして、貨幣を奪い合う戦場として訪れる者と、親睦を深める目的で訪れる者とでは、決定的な違いがある。
余裕だ。
社交場としてカジノを満喫する者たち──チップをばら撒くようにして時間を買う富裕層たちから見れば、戦場に赴く気迫でギャンブルに挑む者たちなど、卑しい山猿も同然の、白眼視すべき愚者以外の何者でもなかった。
貨幣の価値は、余らせた者と渇望する者とでは、絶対に分かり合えない。
たとえ、同じテーブルに座っていても。
ターウィンズはそれまでいた客と一線を画していた。
席に着いてから三ゲーム連続で、楽しそうに負けた。
三ゲーム連続で勝利を収めたサラリーマンを嘲るように。
「おっと、これはいけないや。運に見放されたかな?キミとボクとでは、勝負にならないかもしれないね?」
その言葉はまるで、砂漠で水を乞う者に、なぜ水道の蛇口を捻らないのかと訊くようで、サラリーマンを震撼させた。
ターウィンズにとって、ポーカーで遊ぶことは、レファリアを昂らせるための前戯でしかなかった。
四回目のゲームで造作もなく──赤子の手でも捻るように──それまでの三回で奪われた額以上のチップをサラリーマンから譲り受け、畏怖に駆られた敗北者が尻尾を巻いて離席する様子を、にこやかに眺めていた。
「キミの人生で、最も記憶に残っている経験はなんだい?」
ターウィンズがだしぬけに訊いた。
レファリアが五回目のゲームをKのスリーカードで制したときだった。
もっと素敵な経験があるだろうと、値踏みされているように感じられて、ねっとりとした不快感が背筋に走った。
「初対面にしては、それなりに失礼な質問じゃないかしら?幸福が絶望を上回るなんて、ありえないんだから」
記憶の中で最も鮮明な記憶──それは紛れもなく、恋人を亡くした日の悔恨──そのはずだった。
そうでなければならなかった。
だというのに、邪念が──恍惚として非晶質溶雷刀をしっちゃかめっちゃかに濫用する快感が──蘇り、悔恨を塗り潰さんと暴れた。
そこには力に溺れた醜悪な自分が、確かに存在した。
「序数と基数の違いさ」
ターウィンズはそう言い、手札を開いて♦︎Aを指差した。
「Aは一番強いカードだけれど、1でしかない」
「特定の記憶に対する固執が、比較を歪ませているって?」
「キミは潜在意識で基数としての1が、序数としても一番であることを望んでいる。けれども、現実は違う」
次にレファリアのスリーカードを指差した。
Aを殺したKだ。
「序数はある一点で優位性を示そうと、変遷の中で揺らぎ、ときには失墜する」
「それなのに、わたしはえらく悲観的なバイアスで、辛酸に絶対性を持たせようとしている」
「それがネガティブに考えるということさ」
「つまり、わたしは無意識に悲劇のヒロインを演じている」
「けれども、キミは演技が下手だ」
六回目のゲーム、レファリアは虚勢のレイズで挑んだが、ターウィンズに見透かされ、敗北を喫した。
記憶を覗く狂人の慧眼は、レファリアが想像していたよりも遥かに鋭く、レファリアを凌駕していた。
あるいは、カジノディーラーたちさえも。
「ポーカーは楽しくないのかい?」
隠し味程度に疑問符が添えられた確信が飛んだ。
ターウィンズの嗅覚は常軌を逸していた。
「キミはポーカーというゲームを、ギャンブルではなくコミュニケーションツールとして捉えている立場だと思ったが、ボクに妙な気があるようにも思える」
次の瞬間には、まだ誰も知らない世界の真実でも語り出してしまいそうな、堂々たる言動だ。
もしもレファリアが、ほんの些細にでも動揺していれば、途端に計画の全てが暴かれ、敗北していたに違いない。
ひんやりとした汗が頬を伝うが、平然を装い、
「不慣れで、ポーカーにも、ハンサムな紳士にも」
嘘を吐いた。
ターウィンズは意味深に頷いた。
傾聴する姿勢からは、そういう歌詞の音楽があるのかと鵜呑みにしているような素直さと、それを踏まえて、作詞者の心を丸裸にしてやろうと画策する気概の両方が感じられた。
どちらにしても、ターウィンズがレファリアが吐く言葉の全てを、それらで標本でも作成するかのように、遺漏なく集めて観察していることは明らかだった。
新しい手札が配られた。
「キミが過去の柵から逃れる方法は?」
矢庭にターウィンズが訊いた。
レファリアは考え、
「今夜を忘れられない記憶として彩ること」
提案する。
「完璧」
ターウィンズが合意、婦人はフォールドを選択した。
「映画が好き」
不意にレファリアが呟いた。
攻撃だ。
鋭い。
一瞬、ターウィンズの瞳孔が開いた。
「好みは?」
「ノンフィクション」
「最高だ」
静置で三巡した。
「どうやら、ボクらは息ぴったりみたいだね」
ターウィンズが予定調和を観測したような表情で言った。
表向きにされた両者の手札は互角だった。
「キミは宇宙を旅してみたいと思うかい?」
八回目のゲームが始まったとき、ターウィンズが訊いた。
奇妙な問いに、レファリアは警戒心を膨らませた。
配られた手札──♣︎3と♠︎6も安心からは離れている。
フォールドし、少し考えて、ノーと答えた。
イエスと答えた場合には、即座に冥王星の先まで誘拐されてしまいそうな気がして。
「どうしてだい?」
「割に合わないから、かしら?衛星軌道のクルーズ宇宙船巡回ツアーが十二日間で四十万ドル、内容は魅力的だけれど、金額に見合う体験だとは思えないわ」
そう答えた後で、ターウィンズが四十万ドルという金額をどう捉えているだろうかを考え、口を噤んだ。
しかし、
「同感だ。幸福は買えるけれど、値打ちが高い」
意外にもターウィンズは同調した。
「大戦が終わって間もない頃、合衆国は宇宙開発産業に無制限の国家予算投入を決議した。あの時代に、人類史上初となる有人の月面着陸を成し遂げることは、なによりの名誉で、資産価値には変え難い功績として、世界中が夢に見ていたからだ。キミも知っている通り、歴史はいかなる時代も、初めに未踏の地を踏んだ開拓者たちが築き上げてきた。だから、一番に月面に旗を立てた国がその先の未来を掴む、そう信じられていた時代だ」
「そうして、わたしたちは熾烈な競争の中で星を渡る技術を発明した。持て余すことになるとは思いもしないで」
ターウィンズは頷いた。
「あれから一世紀が過ぎた今では、月に行く意味は失われている。もしかすると、初めからなかったのかもしれない」
「そうね、次に宇宙船が必要になるのは、エイリアンと邂逅したときになるかしら?」
黙々とディーリングを執り行うラミルを瞥見した。
「エイリアンがいないから、負債を抱えているのさ」
ターウィンズは慨嘆し、フォールドを選択した。
オールインを選択した合衆国の間違いを是正かのようだ。
「だから仕方なく、冗談みたいな価格設定のツアープランを打ち出して、どうにか負債を返そうと足掻いてる」
レファリアも同意し、フォールドを選択した。
「そう、つまり、現行の宇宙旅行は適正価格じゃないんだ」
レファリアは頷き、静かに待った。
シャッフルが終わり次第、新しい手札が配られるように、耳を傾けてさえいれば、ターウィンズの饒舌は止まらない。
ポーカーをプレイしているが、気分は神経衰弱だ。
他愛ない会話の中で、互いを詮索していた。
神経衰弱で、カードを取ろうと伏せられたカードを表向きにするとき、相手に新しい情報を与えてしまうように、発言の全てが諸刃の剣と化している。
レファリアは迂闊な失言を憂慮して細心の注意を払うが、反対にターウィンズは発言を躊躇しない。
好機を待つ蛇と、果敢に襲う鷲の闘いだ。
「もう一つ、質問しても?」
ターウィンズが訊き、レファリアが頷く。
「このカジノの最高配当がいくらか、知っているかい?」
「百二十万ドル、一ヶ月も宇宙にいられるわ」
超高額スロットコーナーの天井から吊されたモニターに、その数字は映し出されている。
ふらふらとフロアを歩いていたとき、目にしていた。
「挑戦したことは?」
レファリアは首を横に振った。
「カジノはトランプだけ」
「賢明だ。スロットの還元率は平均して九十六パーセント、バカラよりも低いし、ポーカーみたいに実力が介入する要素もない。焼けた人が最期に辿り着く愚かな遊びさ」
──それでも、と区切り、ターウィンズは続けた。
「体験してみたいとは思わないかい?宇宙まで飛んでいってしまうほど激しいアドレナリンの爆発──その極致を」
そのとき、ラミルが五枚目を開いた。
出揃ったカードは♣︎J、❤︎4、❤︎9、♠︎2そして、♦︎5だ。
フォールドしていなければ、ストレートが成立していた。
結果論だ。
しかし、そうもロジカルには考えられなかった。
ターウィンズに勝ちたいという気持ちが芽生えている。
"あのとき勝負していれば"
その愚鈍な思考は、まさに最高配当の幻想を追い、破滅するギャンブル中毒者のそれだというのに──体験してみたい──興奮に飢えた脳が暴走気味にターウィンズの言葉にイエスを返し、反射的に抗不安剤を煽った。
枯渇していた快楽が脳内に雪崩れ込み、天界へと続く階段をスキップで登るような高揚感に抱擁され、安心を得る。
「宇宙旅行と最高配当、共通点は?」
9のワンペアで婦人を制したターウィンズが訊いた。
質問の意図よりも先に、逃した勝利を意識させられた。
煩悩を振り払い、
「……体験したくても、手を出すべきじゃない幸福?」
呆然と訊いた。
ターウィンズはより一層不気味に嗤い、
「そう、それがボクの商売なんだ」
はっきりと、疚しさなど微塵も含まない態度で、言った。