正義の行方
二十五メートル先に追い求めてきた真実が、その十二メートル手前に死神が、鎮座していた。
昨日までは"偉大なる親父"の愛称で慕い、仲間として共に凶悪犯罪を破り続けてきた上官──情報管理局刑事課特捜部隊長ロッジ・ディンバードだ。
陰謀の暗影に滑り落ちた真実に王手を掛けた若き女性刑事──ミシェル・レファリアの行手を遮らんとしている。
頼りにしていた飛車が取られ、相手の手駒と化したそれが敵将を庇い、こちらに牙を向くように。
対テロリスト用強襲駆動外装を装着したディンバードは、レファリアを始末するために──愛娘と訣別するために──その場に構えていた。
立体駐車場の屋上だ。
暗雲の隙間から、三日月が影を引いた。
雷雨は悪罵を真似てコンクリートを激甚に叩く。
レファリアは相対する鋼鉄の巨兵を睨んだ。
《どうして、ダディの言い付けを破っちまったんだ?》
ディンバードが不出来な愛娘を叱るように言う。
豪雨を弾いて銀色に輝くフルフェイス型のヘルメットに隠された表情は見えなくとも、今日に至るまで、本物の父親さながらに親愛の情を抱かれていた柔和な壮年の髭面が、バイザーの奥で憤怒の形相に歪んでいることは想像に難くない。
ヘルメットは平べったい合金製の蜘蛛が前面のシールド部分を腹で覆い隠す構図で張り付いているようなデザインで、広げられた脚の隙間から覗くダイスの6の出目状に備えられた六つの複眼だけが、ディンバードの心情を映した。
警告色の真紅に、散り行く命の明滅だ。
「"事件から手を引け"という言い付けですか?」
レファリアは訊いた。
その意味を。
どうして自分たちが、互いに銃口を向けているのかを。
ディンバードが立ち塞ぐ背後に聳える情報管理局本庁に、なにが隠されているのかを。
真実を知るために、孤独な戦いへと身を投じてきた。
それが今では、正義に叛いたとして重罪を科されている。
悔しくて堪らなかった。
正義に裏切られたことが、ではない。
信念があると信じてきた師が──敬慕の"偉大なる親父"が──上層部が揉み消さんとする真実に手を伸ばした自分の口封じを請け負ってしまうような、権力に尾を振る犬畜生でしかなかった事実が、レファリアには受け入れられなかった。
《おまえはこれまで抱えてきた部下の誰よりも優秀だった。俺だって刑事課の特捜部に新米の女が配属されると聞いたときには耳を疑ったが、ダディとして認めよう、おまえの正義と実力は本物だ。だが──》
ディンバードは言葉を区切り、全てを否定した。
《おまえは刑事に向いてなかった》
突き詰めてそれが、対立の根因に他ならなかった。
ディンバードはたったそれだけの短いフレーズで、これまでに二人が築き上げてきた絆の如き相愛を一蹴する。
まるで破滅の呪文のように。
「……あなたが騙る正義は偽物です」
レファリアは食い下がった。
蔓延る悪に、暴かれるべき真実に、親父と呼んだ男に。
《正義に真偽なんてものはねえ。……そうだな、俺に言わせりゃ"色違いが無数にある"って表現がぴったりだ。おまえ、ジャーナリストと刑事の違いがわかるか?ジャーナリストはスクープならなんだろうと取り上げちまう。その愚行に誇りを抱いて、良かれと思ってやりやがるんだ。それが社会を歪ませちまう可能性なんて考えもしねえ。なんであろうと秘匿を嫌い、真実を崇拝する狂信者たちだ。だが俺たち刑事は違う。そうあるべきじゃねえんだ。なんでもかんでも暴こうとするな。この腐った俗世にはなあ、秩序のためにやむなく隠蔽されるべき事柄ってやつがあるんだ》
「それが、あのレポート──"贖罪の山羊"ですか?」
《そうだ。あの事件記録は……いや、あの事件自体、抹消される必要がある。余計な掘り起こしはするな》
ディンバードの言葉がレファリアを刺激した。
「ふざけるな!……ふざけるな!ふざけるな!……ッ!」
喉を内から裂く激昂があった。
「……隠蔽?……抹消?だからあの人が死んだ……ッ!」
《……同情する。決して裏返されてはいけねえ、裏向きのカードに見惚れちまったヤツは、不幸になる運命だ。でもな、今のおまえがやろうとしてることは墓荒らしと同じだ。ボーイフレンドの死因を探るなんて、馬鹿のやることなんだよ》
ディンバードの怒声は激しく肌を打つ豪雨よりも冷たく、闇夜を裂く稲妻よりも鋭利に、レファリアの心を抉った。
駆動外装の両腕──上腕部にアームリングを付けているようなリング状の突起がある怪腕がだらりと持ち上げられた。
ファイティングポーズの先端では、関節が三つある機械指が左右に六本ずつ、次の瞬間には鉤爪に仕込まれた電磁熱糸を射出してレファリアを射抜けるよう構えられている。
命を奪う準備が、整っていた。
「……権力者に媚を売って!おまえなんかクズだ……ッ!」
迸る言葉を吐血が追う。
身体から零れた熱が、刻々と体力を削ぐ。
四肢には力が入らない。
『警告:生命活動に深刻な異常を検知。体温:三十四──恒温機能にエラーを検知。心拍:数百五十六、血圧──』
活性数値を他人事のように読み上げる特殊部隊愛用の胴衣──補助装備は、レファリアの命が短いことを告げている。
既に全身の痛覚は輪郭を喪い、身体中に刻まれた無数の傷から反響していた痛みは、身体の芯を侵食する一つの鈍い痺れへと統合され始めている。
それでも、愛刀の柄を離さない指先の感覚だけは、異様なまでに研ぎ澄まされていた。
死の兆候──惨憺たる有様だ。
恋人に見捨てられ、恩師に裏切られ、剰え雨曝しで烈風に殴られている。
《おまえさんのボーイフレンドも、刑事には向かない根っから誠実なヤツで──》
レファリアには拡声器を介して耳に届く言葉を遮り、全てを終わらせるために必要な余力が、残されていなかった。
《──そんなあいつを、オレは愛していた》
呆然と立ち尽くし、ぼんやりと駆動外装を見据える。
斬るべき敵だ。
そう思ったとき、獰猛と奮い立つ気概に駆り立てられた。
まだ、死ぬわけにはいかない。
その一心で、愛刀──非晶質溶雷刀の出力を最大まで跳ね上げ、尖っていない剣先を駆動外装へと向けた。
《おまえと同じように、オレを"偉大なる親父"と呼んでくれたあいつを死なせちまった後悔は、今でも悪夢として蘇る》
鋭くない刃が炸裂音を響かせながら青白い火花を散らし、プラズマの鞘を形成して熱を放ち始める。
降り頻る瘴雨は刃先に触れて即座に蒸発を余儀なくされ、むわっとした水蒸気が極寒の夜風に熱の亀裂を生んだ。
《そしてオレは今日、もう一度その後悔を味わう》
放電とその反応熱によりあらゆる金属の切断さえも可能とする鈍器の刀──柄が付いた蛍光灯のような特異な形状と、叩き付けて熱切断する戦術を想定した異端なスタイルから、規格外出力の電撃殺虫機と揶揄される非晶質溶雷刀もまた、レファリアの手中で命を奪う準備が整っていた。
《さようならだ、レファリア》
耳障りな甲高い金属音の連なりが轟いた。
駆動外装から射出された高圧電流の鋼線──上腕部の突起に収納されていた十二本の電磁熱糸が鉤爪のノズルから亜音速で撃ち出され、一直線にレファリアを襲う。
レファリアが左に跳躍して避けた刹那、飛び退いた空間を電磁熱糸の群が穿ち、ソニックブームが鼓膜を叩いた。
体躯が宙で揺らぎ、倒れ込むように前転して着地する。
幸いに屋上には車が停められていない。
ガソリン車が一台でもあれば大惨事は免れなかった。
レファリアの背後で重力に引き摺られ、コンクリートの床面との間に激烈な摩擦を生じさせる電磁熱糸がエンジンでも穿とうものなら即座に爆裂していたに違いない。
しかし、その程度の幸いに意味なんてなかった。
無人島に漂流して、そこに毒蛇がいるかは問題ではない。
死に瀕していることが真に問題なのだ。
レファリアは最後の力を振り絞り、前に駆けた。
逡巡している余裕はない。
駆動外装の右腕が水平に振るわれ、先の一撃で垂れた状態の電磁熱糸がレファリアを横薙ぎに鞭打った。
咄嗟に刀身を縦にして突き出し、死の鉄糸から身を護る。
十字に交錯した互いの武器が悲鳴に似た摩擦音を轟かせ、耳朶を震わせた。
堰き止められた途方もない運動エネルギーの濁流が手首を介して伝わり、身体が傾ぐ。
体幹が支えを失い、雨に濡れた床面に打ち倒された。
慣性でバウンドして、転落防止の金網に激突して止まる。
『警……ッ告:──ピッ──生命活動に深 な異──』
補助装備が沈黙した。
左半身の感覚が完全に消え、意識は心地良さを覚える。
肺が風船のように破裂したのか、空気が喉を通らない。
《最後のチャンスだ。過去を消せ。それが約束できるなら、おまえを助けてやる》
伏したレファリアの耳に、ディンバードの声が届いた。
駆動外装がコンクリート床の上を滑走する駆動音が続き、至近距離で停止する。
片方が潰れ、雨に滲んだレファリアの目には、今にも自分を踏み潰さんとする駆動外装の脚部ホイールだけが映った。
首を動かし、全貌を捉える力はもうない。
動くかさえ不明だ。
《おまえは死なせるには惜しい逸材だ。なあ?レファリア、わかるだろう?真実から目を背けろ》
"俺におまえを殺させるな"
父親として最悪のエゴイズムを、ディンバードは吐いた。
レファリアはぴくりとも動かない。
もはやディンバードの行いは、墓標を前にして弔いの言葉を唱えているのとなんら変わらなかった。
駆動外装の両腕がレファリアに伸びた。
電磁熱糸は掃除機が電源コードを巻き取るときのようにしゅるしゅると引っ込められ、姿を消している。
鉤爪が骸も同然のレファリアの脇腹を掴んだ。
食べ終えたスパゲッティボウルに指を突っ込み、こびりついたトマトソースの一滴までもを行儀悪く舐め回すように、レファリアが育む命の残滓にまで手を掛けようというのだ。
しかし、同時にそれは、枯れゆく薔薇を救わんと、最期まで水を与えるようでもあった。
レファリアは拒んだ。
これまで手にしてきた全てを手放した今でも、"それ"は右手に握られている。
力だ。
非晶質溶雷刀が迅った。
執念が壊れた身体を傀儡にして、荒れ狂った。
真実なんてどうでもよくなっていた。
生に対する貪欲な執念──死んでたまるか──それだけがレファリアに取り憑き、暴虐を許した。
そのとき初めて、"殺意"を理解した。
それは死刑囚が希望した最後の晩餐のように、死を目前にして"もっと味わいたい"と心が滾るほど甘美で、レファリアを絶頂に導いた。
凡庸な人生で、初めて何かに夢中になれた気がした。
その刹那の花火のような刺激も、あっさりと断たれる。
駆動外装の肩部装甲が、叩きつけられた非晶質溶雷刀の刃──決死の一撃を弾き返した。
跳ね返りの衝撃が手首を砕き、非晶質溶雷刀を落とした。
一縷の望みが虚無となり、潰える。
ディンバードがレファリアを屋上の端へと運び、ゴミでも棄てるように、夜の海へ向けて鉤爪を離した。
ディンバードが最後に口にした言葉が、レファリアに届くことはなかった。