Ulteilskraft
振り返ったら、誰もいなかった。虚ろに広がる洞窟みたいに薄暗い廊下。足音もなく、気配もなく、みんないなくなっていた。だからマナは一人ぼっちになった。一人ぼっち。その認識は彼女を少し暗い気分にさせた。けれど、まあ、悪くはなかった。誰かがそばにいることで人は確かに強くなることが出来る。そして誰もがいなくなることで、自由を感じることが出来る。先ほどまで首筋を重くさせていた気詰まりのようなものは、すうっと消えていった。
錆びた非常階段。三階から見渡せる景色。中海沿いの寂れた街の一角と、雑木林が見える。梢から飛び立つ小さな鳥。弱った視力のせいで、細かいところまでは分からない。いや、見えたところで何も分かりはしない。マナは階段の手すりを掴んで、身を乗り出した。
山の方から吹いてくる風が、林を揺らす。日陰を滑り、小川の冷気を含んだ風は、打ち捨てられた病院に強くぶつかり、悲しい響きを奏でる。探索する際に開いてきた扉が穴となり、潜り込んだ空気が声となった。いたるところで誰かの泣き声がする。埃くさい施設内に、冷たい空気が流れて充満していく。
蝉の声が、ほとんどしなくなっていた。景色から、夏の鮮烈さが少しずつ失われていた。日に日に眩さが減っていく。日に日に気温が下がっていく。そうやって何もかもが動いて、立ち去り、何もなかったことになっていくのだ。眼下に見える林、道路はひび割れて、いたるところから雑草が伸びている。木々は複雑に絡み合い、不気味な陰影を描いている。干上がった池にはもはや鯉の姿はなく、根もとから折れた街灯の頭が突っ込まれている。駐車場にはスプレーで落書きがされていて、あちらこちらにゴミが落ちている。真っ白に灯る陽が全てを焦がすようでいて、しかし今日は冷たい。海水に浸したあとの美しいてのひらで子供の熱を冷ますように、きん、とした光が物質をくっきりと浮上させていた。
夏が、終わっていく。
夏休みは終わり、熱は冷め、人は死に、時間は過ぎていくのだ。
私は、一人ぼっちで、終わっていくのだ。と、マナは思った。あらゆるものが、事柄が、嘘くさく見える眼球で見つめながら、彼女は考えた。
引き返す。暗い通路に足を踏み入れる。自分の足音がはじめはあんなにうるさかったのに、今ではよく聞こえなかった。風のうなりが、山中の滝のように響いていたのだ。残響が反響し、音響が影響し、耳をふさいでいく。進めば進むほど、ぶよぶよの内臓の中を歩いている気がした。視界がどんどん奪われていく。自分と自分以外との境界が、次第に曖昧になっていく。301、302、303、大部屋の表示も、見えなくなっていく。
見えるか、見えないか、ぎりぎりとなった位置にあったナースステーション。マナはそのカウンターによじのぼり、腰掛けた。
持参していた水筒を鞄から取り出す。きゅぽん。アールグレイティー。良い香りだ。中身はまだ熱かった。ちょうどいい。寒くて仕方がないのだ。液体を口に含むと、舌が傷んだ。のどが焼ける。体温が異常なほど下がっていたことに気が付いた。汗をかき続けているのに、体内は冷えきっているのだ。
随分と遠くなった非常口の光。夏の気配は遥かに離れて、影は濃くなり、ずるりと滑る。
死んだら、こちらに向かうしかないのだ、私はこちらに向かうしかないのだ、と、浮かぶ思考。
光から放り出されたら、深い闇へと行くしかない。私は手放したのだから。手を離したのだから。こんなものはいらない、と、全てを否定したのだから。そんな人間には、何を与えるべきだろう? 私が神様なら、後悔と苦しみと渇望を与えるだろう、マナは水筒を空にして、暗闇の中、残り香を感じとる。
あんなに明るい世界、あんなに騒がしい世界、あんなに可能性がある世界。散々自由に選択をしておいて、結果が気に入らなければはいさようなら。世界は醜く壊れていて何の価値もない、と断定して、首を吊ってぶらん。だったら、作られた世界でまた生きていけるように、死んだあとは暗くて冷たくて身の置き場のない場所に行く方が建設的だ。あちらの方が万倍良かったと、渇望するように。希求するように。子どもは叱られなければ大人になれない。死にたがりは地獄に行くのがお似合いだ。
妄想だ。マナは笑って、また歩き出す。
妄想。彼女は姉に言いたいことがあってここに来た、姉が地獄に落ちてほしいわけでも、風の音をうめき声だと確信したいわけでもない。むしろ幸せでいてほしい。あるいは無でいてほしい。悲しまないでいてほしい。
死ぬ寸前、姉に下らない想像力と、恐怖心があれば。この暗闇の悲しさを理解して、ためらう感覚があれば。今も死なずに私の髪を撫でながら眠りにつかせてくれる夜が積み重なり、季節は巡っていたのかもしれない、マナは静かにそう思う。いや、無駄な話だ。死のうとする人は、死のうとする気持ちだけを友達にしている。感覚の放棄と、永遠の静寂だけが友達なのだ。それは人に許された最後の友達。
*
心臓の裏側がね、腐っているのよ、分かる?
姉は感情のない目を寝室の壁に向けたまま、ぽつりと言った。腐っているのよ。痛かったのは最初だけ。受験前日みたいなざわざわした感じが、しばらく続いて、いつの間にか、心臓がぐちゃぐちゃに変わるの。悪くはないのかもしれない。幸せな気もするの。お姉ちゃんはね、苦しいの。毎日、苦しいの。本当は、何も喋りたくない。今もね。でも、あなたには聞いてほしい。まだ残っているうちはね、生きる力が。
生きてよ、とマナは言った。生きてよ、と。
生きたよ、と姉は言った。生きたよ、と。
マナ、お姉ちゃんはね、生きたの。生きたのよ。精一杯歩いて、走って、からっぽなの。ひきこもりの子がトライアスロンに参加して、中間地点で倒れているのと同じなの。そんな子に、フルマラソン走れなんて、あなたは言える?
棄権して、帰ればいいじゃない。とマナは言った。
どこへ? と、姉は言った。
ねえ、マナ。どこへ? 私は、どこへ帰るの?
ここよ。私たちのおうち。
私のおうちはね、なくなっちゃったの。ごめんね。
私じゃ、お姉ちゃんの生きる意味にはなれないの?
姉は寂しそうに微笑んだ。夏の明るさが夜に吸い込まれていく夕暮れみたいに、彼女の生命が鼻と眉間のあたりに引っ込んでいくような微笑みだった。
ごめんね。私が満たされるのは、何にもない、夢だけ。人間だけが消滅した街並みだとか。からっぽの病室だとか。永遠に回るレコードや。二度と開かないエレベーターみたいな。
私が、そばにいるのに。
私のそばにいてもいいのは、いてほしいのは、私の内側をどろどろに溶かしてくれる何かだけなのよ。救われたいんじゃない。何でもない何かになって、静かに眠りたいのよ。
心臓の裏側がね、マナ、私、腐っているの。姉はそう言って、マナを部屋から追い出した。ドアの向こうから押し殺した泣き声。チキチキチキ、とカッターナイフの音。低く長く伸びるうなり声。やがて静かになる。もう何度目かのリストカット。ドアに額を押し付けて、マナは泣く。静かに泣く。あの人はもう、戻ってはこない。耳を失ってしまったら、決して戻ってはこられない。死を友達にしてしまったら、誰とも交われない。それは世界を拒否して、新たな星に暮らすようなものだ。学ばない、知らない、見ない、聞かない、気にしない、終わりを求める快楽は、姉の中で膨張し、彼女を犯しきっている。
終わりは、最後の友達。一度気を許してしまえば、魂に絡みつき、剥がれない。何かが起きるたび、安定剤のように心を支配する。
死ねばいいんだ。甘くて優しい言葉。
何かあったら、死ねばいいんだ。全てが片付く魔法の言葉。
だって、もう無理だから、死ねばいいんだ。肩の重荷をおろす安心の言葉。
考えるのに疲れたから、死ねばいいんだ。死ねばいいんだ。死ねばいいんだ。
それさえ言えば、体の中の苦しみはやわらぐ。やわらぐ。やわらいでいるはずなのに、虚しさが血管の中を巡り、全身を腐らせる。死のリアリティが、背中に迫る。ぞくっとする。もう、危ない、と感じる。押して、引いて、死は揺れ動く。揺れ動きながら、近付いてくる。抵抗感が薄らぎ、死は親密な顔を見せはじめる。リアルな死が、怖くなくなる。唇の皮をめくる時みたいに、割れた爪を無理矢理剥がす時みたいに、にきびの芯を爪で引き抜く時みたいに、背筋をあわだたせる恍惚をともなう恐怖。あの感覚の向こうにしか、安らぎはない。夢ではなくなる。死は、非現実でも、逃げ場所でもない。生きることを諦めたんだ、という意識はなくなる。むしろ、生きる為に死ぬのだ、とすら考えている。ポジティブに、死をとらえている。ショッピングモールに欲しかった上着を買いに行くような気持ちで、首を吊りたくなる、そこに悲しみや苦しみは想起されてはいない。食後にチョコレートパフェを食べるようなことだ、生きて、死ぬというのは。
マナはそれを理解している。だから、姉をさがしている。姉の死んだ場所を。言いたいから。伝えたいからだ。
*
夜が訪れた。とある一室。ふわりと浮遊する月が、青白い空気をしみださせている。白い室内が、銀色に染まる。手を振ると、白いてのひらが輝く。網膜に軌跡が滲む。幻。幽霊のような肌。部屋の片隅に、茶色い汁のあとが残っている。歪んだカーテンレール。窓からさす月明かり、ほのかに浮かび上がる汚れ。
はは、とマナは笑う。ははは。ははは。
汁だ。姉は、汁になっている。
家のリビングに置かれた骨壷、おさめられている遺骨と、汚い汁。それが姉の全てだ。
一生懸命生きて。悩みながら生きて。泣きながら生きて。何とかしようともがいて。死に希望を見出して、幸せな顔をしながら家を出て、手に入れた終わりが、これだ。こんなものだ。こうなる為に、姉は生まれたのだ。
お姉ちゃん、とマナは言った。
私ね、一人ぼっちになっちゃった。一緒に来たみんなは、ぎりぎりになって怖くなってね、逃げたみたい。まだ、死と友達にはなれていなかったんだろうね。背中にはりついてきた友達を押しのけて、明るい街に帰っていったよ。どんな気持ちだろうね? 学校帰りの学生や、商店街のおばちゃんや、スーパーやコンビニの音楽の中に戻って、まだ死にたいだの何だの、あの人たちは呟くのかな?
かくれんぼの途中で、みんなが私を残してこっそり帰ってしまったみたい。分かる? お姉ちゃんがいなくなった夜、私は、壊れてしまったんだよ。あなたを脅していた人が、合鍵で入ってきたんだよ。ねえ、分かる? 私に、何が起きたか、何が始まったか、分かる? あなたが私に隠していた様々な出来事が、私に降り注いだの。私は、何にも知らずにいたのね。あなたは、こんな中で生きていたのね。
無理よ。それは、無理よ。私には、分かる。ようやく分かる。こうなることも、あなたは分かっていたのよね。だから余計に苦しかったのよね。いいの。いいのよ。私は、お姉ちゃんに文句を言いたかったわけじゃない。いろんなところからみんなを集めて連れてきたのも、私がここにいるのも、理由は一つなの。
お姉ちゃんが暗闇にいて、一人で泣いているのなら、私はそばにいてあげたいなと、そう思ったの。ねえ、生きていくって、板切れ一枚で海をさまようのと同じよね。しっかり泳いでいるつもりでも、嵐になれば無意味。一晩で全てが失われる。どちらに行けば助かるの? 何につかまれば助かるの? 凪なんて、そっちの方が幻よ。幸せなんて、そっちの方が幻よ。苦しみを友達にした方が、幸せなのよ。だって、彼の方が頻繁に現れてくれるんだから。そうシフトしたら、もう駄目みたいね。幸せがどれだけ素晴らしいものでも、永続はしない。夏祭りは終わるし、木々は赤く染まるし、蝉は死んでしまう。
お姉ちゃん、ごめんなさい。私、死にたくてたまらないの。ただそれだけなの。あなたの苦しみを理解しなかった私を許して。そばにいさせて。一緒に泣かせて。今なら分かるから。今なら、分かるから。
私、汁になりたい。
マナは床に突っ伏して泣いた。汁のあとをなめながら泣いた。ロープを持ってきていた。辺りを見回す。が、足場になるようなものが、何もない。考えてみれば、足場用のビールケースは、自殺志願者の仲間が持っていたのだ。嘘だ、嘘だ、マナは涙と鼻水をたらしながら、何度も病院内をさまよった。だが、どこにも、何にもなかった。からっぽの病院には、何にもなかった。
夜が明けてしまう。
遠くの空が、青みを帯びる。
何で、何で、何で、ここまできて。
一度家に戻らなければ。マナは走って入口に戻る。
が、そこにはさきほど、マナの異様な顔を見て死に恐れを抱き、泣きながら逃げ出した自殺志願者たちがいた。彼女らは号泣していた。
マナに抱きつき、生きよう、一緒に生きようよ、と叫んだ。
ふざけるな! 私は死ぬ為に来たんだ! 今更、今更! あんたたちは生きればいい、私はお姉ちゃんに会いたいんだ! そばにいてあげないと駄目なんだ! マナは彼女らを殴り、突き飛ばし、ふりほどく。
木々の奥。朝日が、すぅっと現れる。光の球が、鮮やかな橙を、金色をばらまく。葉と土の匂いが、マナの力を削ぐ。
一人にしてよ、崩れ落ちて、マナは言う。
頼むから。お願いだから。邪魔しないでよ。私の、私の勝手でしょう? みんな、死ぬ為にきたんでしょう? 私を置いて行ったのは、あんたたちでしょう?
名前も知らない他人たちが、下らない言い訳をはじめる。ああ、大事なシーンが台無しだ、とマナは思い、気が付く。
そうか、そうだ……私は、演じたかったんだ、と。姉に謝りたかった、それは本気だ。しかし、実際は死にたいのではなくて、膨らんだ感情を解放したかっただけなのかもしれない。本当に死にたければ、台無しだ、なんて思わない。
ああ、ああ、私は、何て醜い。何て醜い。滑稽な死を嫌がっている私は何だ。何がしたかったんだ。美しい死が良かった? 酔っているだけ?
馬鹿な、馬鹿な、そんなはずはない。
ないのか?
ないのか?
ないと言えるのか?
早く、早く死なないと恥ずかしい、と思った私は、何を目的としていたのか?
姉の為でも何でもない、マナは心臓がねじれるのを感じる。
泣く。泣き叫ぶ。のどが裂けるほど。自殺志願者たちが、マナを抱きしめて、街の方へと連れ去る。
からっぽの病院が、再び静けさに包まれる。
駐車場の醜い落書きが、くっきりと浮かび上がる。