episode.3
裕太くんのファンの人と話してみたい。
単純な好奇心だった。裕太くんは五歳も年下だったし、ファンも若い人が多かった。
私は裕太くんがとても好きだったけれど、さすがにアイドルである裕太くんと、どうこうなりたいとか、そんな気恥ずかしいことは考えていなかった。
そりゃあ心の底では、もし万が一付き合えてしまったらどうする?!なんてことは、妄想しなかったと言ったら嘘になるけれど。それはあくまでアイドル雑誌を開いて、だれが一番タイプか、せーのって指さしていた中学の頃と同じ感覚だった。
ひとまず、深雪に裕太くんの話をできなかったモヤモヤを正当化したい気持ちもあって、SNSのアカウントを作った。
“#エルドラド好きな人と繋がりたい”
年甲斐もなく、ハッシュタグなんてつけて投稿した。芽依って名前は珍しくはないけれど、特定されてしまうのも地味に怖かったから、5月生まれだから芽依って由来をひねって、さつきというハンドルネームで登録した。
すぐに何人からかメッセージが来た。数日で私にはエルドラドを好きな仲間がたくさんできた。みんな私をさっちゃんと呼んでくれた。
エルドラドを好きなさっちゃん。
幸大と不倫していた芽依とは全く別の人格がインターネットの世界で友達をたくさん作っていく。私は恍惚とした。
ここにいる友達はみんな、エルドラドを好きなさっちゃんと友達だった。結婚しないのもできなかったのも、人のお城に気付かずに入り込んでしまったのも、そんなこと、話す必要もなかった。
裕太くんの話をして、エルドラドの話をした。恐ろしいほど気が楽だった。
そうしてそうして、仕事の合間の時間を、SNSの時間につぎ込んでいくうちに、コンサートの日、裕太くんとのツーショットの日が近づいていった。
ピピピピピピ。
目覚ましの音で目が覚めたんじゃなかった。本当はちっとも眠れなかった。
時計は朝の四時を指していた。オークションサイトでツーショットの権利は買ったけれど、そのチャンスが増えるならそれは喉から手が出るほどほしい。早く起きるぐらいでできるなら。
SNSで出会った友達はみんな、始発か、遠方から来ている遠征組は前日から会場に寝袋を持って並んでいるらしい。
私は焦った。裕太くんの前に何千人もの列ができて、手の届きそうなところにいるのにロープを張られて触れられないような、はいここまで、あなたのものではありません、とスタッフに肩を押さえられるような、そんな想像をして胸が苦しくなった。
“前回はメンバー一人あたり300人ぐらいだったんで、まあ500人以内に並べば、誰かしらのは買えるでしょう。在庫多いといいんですけどね~何周かできたらいいけどな。”
SNSで最初につながったミキちゃんという子は大学生だった。同じ裕太くんのファンで、彼女はデビュー当時からエルドラドが好きだった。でも最近好きになったばかりの新米の私を快く受け入れてくれた。
会ったことがないのに私たちは毎日連絡を取っていた。私は仕事の合間に、ミキちゃんは授業やアルバイトの合間に。エルドラドの動画や裕太くんの画像を送りあって、今日の待ち合わせを事細かに決め合って、いつしかミキちゃんとの連絡の頻度は親よりも深雪よりも増えていった。
“彼氏いないですけど、もう私彼氏よりさっちゃんと連絡取ってるかもって感じです”
“私も。彼氏なんて全然作ろうと思わなくなっちゃうよね。”
“ですよね~。正直もう現実の男がかっこいいとか思えなくなっちゃうんですよね。”
物販は十一時からだった。DVDは一枚7800円。一人当たり一会計上限三枚まで買える。一枚買うと箱から“特典券”を一枚引くことができる。ハズレはなくて、誰かしらかのメンバーの名前が書いてあって、その書いてあるメンバーとツーショットが撮れる、というルールになっていた。
夏と言えども朝の五時はまだ薄ら寒かった。ミキちゃんは想像していたよりも少しふっくらした、でも若い女の子だった。
焼肉屋さんでアルバイトをしているらしい、てきぱきとした子で、大きなトートバッグから折り畳みの椅子やらビニールシートやらひざ掛けやらを私の分も出してくれて、これから六時間並ぶ苦痛を全力で軽減しに行ってくれた。
「さっちゃんこれ、プレゼントね。」
「プレゼント?私に?」
ミキちゃんは綺麗にラッピングされた小さなプレゼントを私にくれた。小学生の頃に友達にバレンタインデーのチョコをあげた時に使ったみたいな、手のひらサイズのビニールの包装に、裕太くんの写真を印刷してポケットティッシュに挟んだお手製ティッシュと飴が三つ入っていた。
「かわいい…いいの?私なにも用意してなくて…。」
「全然!気持ちなんで!」
ミキちゃんはにこやかに笑った。
その後並んでいる間にミキちゃんのところにはたくさんのファン仲間の子が遊びに来ては、プレゼント交換をやっていた。
ファン同士のこういった常識を知らないでうきうきと飛び込んでしまったことにぞわぞわとした不安を感じた。新米は新米らしく、きちんとルールに従って仲間に入れてもらわなくては。それがファンとして活動するための生命線なのだから。
結局ミキちゃんからアドバイスをもらって、近くにあったコンビニに走り、お菓子の詰め合わせを買って、コンビニのプリンターでシールサイズに裕太くんの写真を印刷してお菓子につけたので、そのあと会ったSNSの友達にはみんな何とか体裁よくプレゼントを渡すファンの振りをすることができた。首の皮一枚でつながったような気がして胸がきゅうと苦しくなって、喉の奥にひんやりした空気が流れていった。
「裕太、自引きできるかな~自引き運ないんだよなあ~」
ミキちゃんは列に並びながら化粧をはじめ、完璧に顔を仕上げていった。
私も真似していそいそと化粧をしていった。旅行みたいに全部詰め替えにして。
列を見渡すとみんな一心に化粧をするか、電池式のヘアアイロンで髪を巻いているか、朝ごはんを食べているかだった。遠足の朝を思い出した。少しずつ空は白んでいった。
私たちの並んでいる位置は前から30人目。誰かしらかは買えるので安心はしていても、ミキちゃんの言うとおり、裕太くんを“自引き”できなくては意味がないのだ。箱からくじを引くまでは安心はできない。三枚まで買えるのだからせめて一枚は裕太くんが出てもいいんじゃないか。私は楽観的にそう考えた。
「だめだ。交換枠、全然決まらないです、さっちゃん。」
携帯とにらめっこしていたミキちゃんがため息をついて、私の買ってきたお菓子をぼりぼりと頬張った。
「裕太、人気すぎて“求”ばっかですわ、しんどい。」
「もう交換探すの?」
「そりゃそうですよ~自引きできなかったら死ですよ死。」
ミキちゃんはこの世の終わりみたいな顔をしながら私の腕を引っ張った。
「さっちゃん、大人だから一応言っとくけど」
おじさんはうろうろしながら小さい写真ケースのようなものを持って私たちの顔をじろじろ眺めていた。
カバンから覗く応援ボードをさりげなく凝視し、ふっと何人かには迷いない足取りでぐんぐん近づいていく。
「ダフ屋から買うと相場吊り上がるし、売り上げにもならないし、まあその他にもいろいろあるから、さっちゃんがオタクのコミュニティ大事にするなら、やめといたほうがいいですよ。」
交代で四回トイレに行き、そのたびにコンビニで温かい飲み物かお菓子をお土産にして列に戻り、だんだんと化粧顔は完成し、あたりにはいろんな匂いの香水が立ち込めていた。
若くて経験値の少なさそうなスタッフがじわじわと増えて、私たちは何回か立たされて前の人との距離を詰めたりして列を整えさせられた。
初めてこんなことをする私でもわかった。ジリジリと確実にその瞬間は迫ってきていたのだった。だんだんとミキちゃんも私も無言になっていった。
「動いた」
ミキちゃんは手早く折りたたみ椅子とビニールシートとひざ掛けをトートバックにしまってぐぐっと伸びをした。
「さっちゃん、今日はこっから戦争ですかね、お互い健闘を祈りましょう。」
「そうね、お互い裕太くんを引けるといいよね。」
一瞬だけミキちゃんが呆れたような、同時に勝ち誇ったような顔をしたのが見えた気がしたけど、私はばかみたいにカバンの中に入っているたった一枚の裕太くんとのツーショットの権利のことを考えて、これからまだ増えるであろう、その権利のことを考えてうきうきとした。
黄色と赤がチカチカする特設販売スペースにはきっとエルドラドなんて毛ほどの興味もないような、充実した大学生活を送っている風の、気怠い男の店員が五人立っていた。彼らの後ろには段ボールが山のように積まれていた。
「これ、並び直せる…」
ミキちゃんははっとしてスマホで電卓を開いた。財布を開け、いそいそと何かを打ち込みながら電話をしている。
そうして遂に順番が来た。
「おひとり様上限三枚までになります。」
そうだ、三枚までって言っても何枚買うか決めてなかった。
ふと我に返って周りを見渡す。
しかし、黄色と赤の袋は均一サイズで、よく見れば段ボールの中のその袋は、全部もう中身が入った状態でセットされていた。
そして気怠い男の店員たちはそれしか教わっていないみたいに口々に“2万5749円になりまーす”と再生していた。後ろに並んでいる高校生風の女の子に舌打ちをされた。
「2万5749円になりまーす」
店員は無表情のまま白い箱を私の前に乱暴に置いた。
「さっちゃん、私二回目先行ってますね」
突然隣のレーンにいたミキちゃんが視界に入ってきたけれど、次の瞬間彼女はもう走り出していた。
この箱の中に裕太くんに会える権利が入っている。手の震えが止まらなかった。目を閉じて一枚引くと裕太くんではない、勲太くんというメンバーだった。私は一気に焦った。残りの二枚も一気に引いた。
どれぐらい時間が経っただろう。
さっきまでは十一時に物販が始まって買い終わったらコンサートまで二時間ぐらいあるし、ミキちゃんを誘ってランチにでも行こうと思っていた。だけれど、ミキちゃんの姿はそもそもなかったし、どこいる?って送ったメッセージの返信も当然なかったし、私はこうして携帯に顔を突っ込みながら交換を探し、また元居た列の最後尾につけていた。
「あの、おひとりですか?」
頭の上から声が降ってきて、慌てて顔を上げると、ツヤツヤのまっすぐなボブヘアの、おとなしそうな女性がこっちを見ていた。黒白のギンガムチェックのシャツにベージュの長めのスカートをはいて、やや厚底のスニーカーを履いて、品の良い綺麗なメイクをして。
私よりは若いだろうけれど、不思議なことに直感で、ミキちゃんやさっきの後ろの高校生に比べたら、まだ私がこれまでいた世界に近い人間に見えた。
「あ、はい、よかったらここどうぞ」
少し場所を開けて、私たちは二列で並んだ。朝はあんなに寒かったのにもうすっかり汗が染みる時間帯になっていた。
「誰ファンなんですか?」
「裕太くんです」
「あー裕ちゃんかわいいですよね。私、裕ちゃん運やたらついてるんで、いつも引いちゃうんですけど、あの子は弟にしか思えないです。」
携帯を触る彼女の爪先を見ると淡いブルーに染まっていた。
「もしかして勲太くんですか?」
「あ、なんでわかったんですか?」
「ネイル…」
「ああ…さすがに若い子みたいにメンバーカラーコーデとか気恥ずかしいですけど、ちょっとだけ…」
「あの、自引き、しました?今回」
賭けのつもりだった。裕ちゃん運がついているという彼女の発言が耳の中にこだました。
「いや、今回事前も行けなかったし、さっき引いたのはそれこそオール裕ちゃんで。」
頭がくらくらした。ものすごい獲物が目の前にいるような、そんな気がして私の頬はカッカとした。
そんなこんな感情の動きがものの0.2秒ぐらいだったんじゃないかと思うぐらいに素早く私は彼女に取引を持ち掛けた。
「私さっき引いたの、二枚勲太君だったんですけど、もしも交換決まってなかっ「え、交換してください。」
さっきまでの落ち着きが一瞬で吹き飛ぶぐらいに彼女は大きな目を見開いた。
「なんかそんな気がしたんです、パッと見たときに、裕ちゃんファンかなあって、仲良くなりたいなあって。私人見知りだし、あんまり年下の子とSNSで交換約束するのとか怖いし、ちゃんと会ったことある人と繋がりたかったから、その…嬉しくて。思い切って声かけてみてよかったです。」
早口でまくし立てる彼女は私の腕を嬉しそうに掴んで向日葵みたいに大きな笑顔で笑った。