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サイケデリック

「芽依、あんた脱いだものは片付けなさいよ。」


幸大と過ごした部屋が辛くて辛くて、私は実家に舞い戻った。通勤には一時間半。決して楽ではないけれど。


家族は命を懸けていた恋愛が終わって喪失感をたたえながら帰還した娘について特段何も言わなかった。きっと単に縁がなくて結婚までいけなかったとしか思っていない。時間が経てば傷が癒えるとしか思っていない。



“続いての曲は人気沸騰中の5人組アイドルグループ、エルドラドの最新曲です。”


歌番組なんて見るのはいつぶりだろう。仕事が終わってばたばたと帰宅したらすぐにご飯の用意をして、そうして二時間もしたら幸大が遊びに来てご飯を食べて…。

思い出してはいけないのに、澱のようにふわっと、ちょっとした衝撃で二年間の日々が浮かび上がってきてしまう。


「かわいいじゃない、お母さんこの子好きだなあ。」


母親が唐突にテレビを指さしながら私の腕を引っ張った。


若い男の子たちが歌って踊っていた。ダンスはなかなか上手い。

そういえば中学の頃、母親と一緒にアイドルグループにハマっていて、二人で遠くまで遠征してコンサートを観に行ったっけ。双眼鏡を買ってステージを一生懸命見たっけ。


あの頃は大人になってこんなしんどい恋愛をするなんて思ってもなかった。ばかみたいに手放しに、大人になったらキラキラと紙吹雪が舞うステージで、キラキラとした笑顔で手を差し伸べてくれる、アイドルみたいな人と結婚するんだと思っていた。



曲はクライマックスを迎えて、左側で踊っていた子がセンターに入ってきた。一人だけピンマイクではなく、ハンドマイクを手にして、最後のサビに入る前の、一番歌唱力のいるパートを歌い上げていく。


カメラ越しに、マイクを離した後の彼が、にやっと笑った。電流が走ったみたいに、その歌声と目線に、私は止まってしまった。

テレビの向こうの何万人ものファンに向けた笑顔なのに、私は急にふっと、幸大との思い出BOXの中で、真っ暗で膝を抱えて泣いている私を見つけ出して、箱を開けて連れ出してくれたみたいな錯覚に陥った。




“康野裕太 エルドラド”


夜中じゅう検索して気づいたらプロフィールのまとめを書いてくれている誰かのブログを何個も何個もお気に入り登録して、写真を何百枚も保存していた。


ステージにいる顔も、バラエティ番組に出ているときの顔も、ファンがこっそり撮った移動中の素の表情も、自撮りした表情も、すべてがドストライクだった。こんなに胸が高鳴るのはいつぶりだろう。ステージ映像を動画サイトで山ほど見て、これまでにリリースされた曲は全部覚えてしまうほどに見た。


来月、コンサートがあることが分かったので、すぐさまチケットを取った。

私はうきうきしていた。あんなに辛いことがあったんだから、癒しがあってもいい。かっこいいアイドルのステージを見て、たまにはきゃあきゃあ言って騒いでもいい。私はうきうきしていた。



ニュース番組で堅苦しそうなキャスターの人が梅雨明けを宣言していた。思い出BOXの中で泣いている間に季節を一つすっ飛ばしてしまった。

幸大の上の子は幼稚園に入園しただろうか。あのかわいい奥さんと嬉しそうに寄り添って、入園式に行く幸大を想像した。慌てて、イヤホンを取り出して、エルドラドの曲を聴いた。裕太くんの声は中低音のややかすれた声で、弱いパートも強いパートもどちらもこなせる歌唱力だった。じんわりと私の心に染みわたるみたいに、裕太くんの歌を聴いていると落ち着いた。解毒剤みたいだった。



コンサートはもう来週に迫っていた。なにげなく検索窓に裕太くんの名前を放り込んで、ファンの人がどれぐらいいるか調べると、実際かなりいたし、熱狂的な人が多かった。

何より私が幸大と付き合い始めてすぐデビューしていたのに、私はこれまでエルドラドなんて聞いたこともなかった。今回のコンサートは2000人ぐらいのスタンディングの会場だけれど、去年はまだ数百人のライブハウスだったみたいだった。


惜しいことをしたな。ほんの三秒私はそう思って、でも悔しいままだったので一応立ち止まってみたけど、思い切りそのまま悔しがった。こんなに実りのない不倫なんかしている暇があったら、もっと小さい会場でエルドラドを観に行っておけばよかった。


恐る恐る応援ボードを作って、恐る恐るグッズ販売の列に並んで、恐る恐るペンライトを持ってタオルを首にかけて、そうしてエルドラドのコンサートは幕を開けた。




「花の咲かないタイプのサボテン?」

「そう、花の咲かないタイプのサボテン。」


深雪はおかしそうに手を止めて私を見た。大学一年の入学式で隣の席になってから、ずっと私たちは親友だった。


「結婚できるかどうかは女側が悪いんじゃないってわかったの。」


カブとエリンギとパプリカのオイルパスタをくるくると巻きながら、ふんふんと相槌を打ってくれる。


「結婚できる可能性がある男に時間を割けるかどうかに全てかかってるの。」

「それで芽依は、花の咲かないタイプのサボテンだって知らずに、水をあげ続けてたってわけね。」



エルドラドのコンサートはめくるめくような時間だった。

中盤でメンバー三人で披露したバラード曲。その歌いだしの裕太くんの声を聞いた時に、私は本当に本当に、その瞬間に本当に、何かしらの魔法の粉をかけられたみたいに、まるでうわごとを言うように、裕太くんのことしか考えられなくなってしまっていった。

マグマが押し寄せるように全身の鳥肌がぶわっと立った。花の咲かないタイプのサボテンに水をやっていた二年間がすっかり吹っ飛んでしまうほどに。すべてがばかばかしくなってしまうほどに。


コンサートの後に、メンバー全員とのハイタッチがついていた。

ステージに立っているアイドルが、テレビの中のアイドルが、私の目の前にいて、手に触れて、その目に映るという事象を、私は甘く見ていた。


順番が回ってくる時間は音もなくゆっくりと、しかし素早く流れていった。前に並んでいた女性ファンが、自分の名前の名札をつけていた。そんなものをつけていてどうするのだろうか。


アイドルに名前を呼んでもらいたい。よくわからなかった。だって彼らはテレビの中の人だった。彼らのステージがかっこいいことは十二分にわかっていたけれど、そんな一種アスリートのような、芸術のような、高尚なようなことと、自分の名前を呼んでもらうという恋人みたいなことが、どうしても結びつかなかった。


半信半疑でその女性ファンからもらった空の名札に自分の名前を書いた札を入れて胸につけた。会社の入館証のような名札に自分の名前が大きく揺れている。こんな歳になって、名札だなんて。気恥ずかしさでいっぱいだった。私は何を期待しているんだろう。スタッフに背中を押されてブースに足を踏み入れた時、ふわりといい香りがして、さっきまで夢の世界にいたアイドルがこちらを見て笑っていた。



「今日はありがとう、芽依。」



その瞬間、現実ではなかったはずの裕太くんの存在が、ぐぐっと現実になってしまった。


たったアイドルに、テレビの中の人に、何かの記念みたいに名前を呼んでもらっただけだった。ラジオ番組で投稿が読まれたみたいなもののはずだった。

それなのに、それがどれだけ破壊力があることなのか、私は甘く見ていた。呆然として会場の外のベンチに腰を掛けた。さっきまでダンスをしていた指先が、マイクを持っていたその手が、触れてしまった私の手を呆然と眺めて、


「今日はありがとう、芽依。」


を、何度も何度も再生した。頭の中で再生した。



幸大に何度も呼ばれて、愛おしくて愛おしくて結婚したくてたまらかったけれど、こんな手放しに、電流が走ったような衝撃はなかったんだろうか。あったんだろうか。私はわからなくなってしまった。

裕太くんがアイドルだからオーラがあるのか、それとももしかしたら幸大なんかよりももっともっと愛おしくて愛情があるからなのか、わからなくなった。

ばかみたいかもしれないけれど、私はわからなくなってしまった。



「じゃあ、これからは花の咲くタイプのサボテン、探しに行くのね。」

深雪はにこにこしていた。幸大との二年間が不毛な不倫でしかなかったことに、私以上にがっくりときていたのは深雪だった。

嬉しそうに楽しそうに、時にもどかしそうに、私は幸大との二年間を深雪に報告し続けていた。

私が、私の結婚式は。と、思う以上に、深雪は私の結婚式に参列する自分に、思いを馳せてくれていた。本当にそれほどまでに、深雪は私の親友でいてくれた。



エルドラドのコンサートは翌月にもあった。私は迷うことなくチケットをとった。コンサートの当日と翌日に、DVDを購入すればメンバーとツーショットの写真が撮れる、特典会があった。


“行きたい”


反射的に私はそう思った。

この前のコンサートに行く前までは、ステージで歌って踊る裕太くんが大好きだったはずだった。DVDは確かに欲しいけれど、それだけではなく、ツーショットの写真が撮れるという特典が、恐ろしく魅力的に感じてしまっていた。

もっと近くで見たい、それを証拠に残せるなんて。頭がくらくらした。


どのメンバーとツーショットを撮ることがができるかどうかはクジで決まるから、裕太くんの側に行って、ツーショットを撮れるかどうかはわからない状態だった。私はとてもやきもきした。もちろんエルドラドは全員かっこいい。五人とも歌も上手いし、ダンスも上手い。顔だって本当にキラキラしている。けれど、私はDVDを買ってツーショットを撮るなら、裕太くん以外はありえなかった。


よく調べれば、DVDの販売は当日だけでなく、事前販売もあった。うっかりしていて事前販売の日は過ぎてしまっていた。慌ててオークションサイトを検索するとコンサートのチケットが四枚ぐらい買えるほどの値段がついていた。


私は血の気が引いた。私以外に、裕太くんとツーショットを撮りたい人がたくさんいて、その価値はコンサートのチケット四枚分に匹敵するほどであるということに、私は気絶しそうになった。

そうこうしている真にも値段はちりちりとせり上がっていって、うっ、と思う間にその権利は売れていってしまった。


震える手を必死に抑えながら、オークションサイトを血眼になって見た。コンサートのチケット五枚分に匹敵する値段のものが、まだ売れずにそこに残っていた。さすがに相場としても高いのか、みんな用心しているみたいだった。

ちりちりと値段が上がるほどに、私の心拍数もあがっていった。


“DVDを何枚も買っても、当たらなかったらそっちのほうがもったいないじゃない。”

“これを買えば絶対に裕太くんとツーショットが撮れるのよ”

“どうせ買うなら、値段が上がらないうちの方がいいじゃない。”


悪魔のようなささやきが私の中にたくさん立ち込めた。次の瞬間カードを握っていた。

決済してしまった。

SOLDと書かれたその商品を見て、私は満足していた。不思議と、やってしまったという怖い気持ちはなった。裕太くんとツーショットを撮ることが確約されたのが、恐ろしく嬉しかった。




「私ね、幸大みたいに花の咲かないタイプのサボテンだった男に時間を割いてしまった自分に死ぬほど後悔してるの。」

「知らなかったんだから。芽依は悪くないよ。」

「しばらくは一人でいよっかなと思って。」

「そう…。」


深雪は悲しそうな顔をした。なんだか、どうしてだろう。私は言えなかった。


本当は、深雪に話したかった話は、そんな、幸大との不倫への後悔なんて陳腐なことではなかった。

結婚したくて、結婚というお城に住みたくて、そうしたらきっと幸せだと思って、そんな幸せのお城に住むことをモチベーションにして、日々を生きながらえていた自分に気づいてしまったことを、どうやって伝えようか悩んでいた。



 恋愛じゃなくて結婚がしたかった。そして幸大は恋愛じゃなくて逃避がしたかった。ずれたまんまの歯車が変な風に合って、二年間からからと時間を刻んでいた。

不審に思うことも、恋愛が結婚というゴールのための赤い絨毯に過ぎないと割り切ってしまっていたから、ばかみたいに気づきもしなかった。



ただのOLなのに。私は結婚というお城のモチベーションがなくなってしまったら、どうやって生きたらいいかわからなくなってしまった。

生きるコストを捻出するためだけに働くぐらいなら死んでしまいたかった。それは幸大が愛おしいからではない。


幸大を失ってしまった自分がかわいそうで、不倫をしてしまった自分が、この二年間ばかみたいに花の咲かないタイプのサボテンに水をやってしまった自分がかわいそうで、

人のお城に勝手に入って、自分のものだと勘違いして、モチベーションなんかにして生きてしまった自分がかわいそうで、

あんなにがんばったのに結婚できなくなってしまった自分がかわいそうで、

そんなとてつもないかわいそうのために消費するカロリーがあまりに高くて、とてもじゃないけど生きていけそうになかった。


 ぱらぱらとぽろぽろと涙を流して自分を責めて、親の作ってくれた晩ごはんがおいしいだとか、深雪が友達だと言ってくれるだとか、お風呂のお湯があったかいだとか、そういう、いくばくかの日々の楽しみだけを食い潰してぎりぎりと春から夏を生きてみたけれど、もう限界だった。


 今すぐ幸せがほしい。燃費のいい、すぐに体に染みわたる幸せがほしい。

早く早く、チャージしないと死にたくなってしまう。不倫相手と別れて、会社に行って息をしているだけなのに、私は今にも燃料切れをしてしまいそうだった。



 そんな時に、裕太くんに出会ってしまった。舌が溶けるほどに甘いのに、体に悪いものは何も入ってしない、魔法のような栄養剤だった。

本当にすぐに回復した。笑ってしまうぐらい。燃費が良かった。裕太くんのくれる幸せはコスパが良かった。そのサービスの対価だけを払えば、すぐさま幸せにしてくれた。


あるかわからない結婚のために、不安を抱えることも、こうして別れたら見るだけで涙が止まらなくなって憎くなってしまうプレゼントを積み重ねることも、思い出にえぐられて時間を取られることもない。使った分だけ即、チャージしてくれた。


 そんな素晴らしい栄養補給の方法に出会ったことを、どうやって心配をかけずに深雪にいったらいいか、私はずっと頭を悩ませていた。深雪は寂しそうに悲しそうに、単に失恋して傷心の私を眺めていた。

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