書ききれなかった日本軍の兵器その3 擲弾筒と狙撃砲
《1》 狙撃砲
本砲は大正六年【1917年】に開始されたシベリア出兵において初めて実戦に投入され、過激派【ゲリラ】討伐などに使用された。
その後も中国大陸等で使用され、昭和十四年【1939年】時点でも本砲弾薬の調達が実施されるなど長期間にわたって配備されていた。
《2》 十一年式平射歩兵砲
開発に当たってはフランスのプトー37ミリ歩兵砲の影響を受けたといわれる。
本砲は戦車砲としても使用され、陸軍の保有するルノー甲型戦車の一部は本砲を装備していた。
なお本砲は大正11年【1922年】に開発された十一年式平射歩兵砲としばしば混同されるが。
本砲は車輪と防盾を有するなどより凝った造りになっているが、ただし実際の運用ではこれらを外して使用することも多かったために、後に開発される平射歩兵砲では当初から防盾や車輪を有さない構造となっていた。
また閉鎖機を含めた砲身重量は42キロと平射歩兵砲の28キロより重く、装薬量の多い砲弾を使用することから初速も530M/秒と平射歩兵砲の450/秒より大きな値である。
また開発に当たって影響を受けたとされるピュトー砲とも各部の造りや諸元が異なっており、同砲を単純に模倣したものではない。
発射速度は1分間に12発である。
《3》 九二式歩兵砲
日中戦争から太平洋戦域まで使用された兵器で、アメリカ軍も一定の評価を与えた。
馬引きと人力で基本は運び、ドイツやアメリカの歩兵砲や野砲と違い、トラック等の車両に牽引させる事は出来なかった。
山なりに弧を描くように弾丸が飛ぶ、射程距離が短く命中精度も低いが、斜めに砲弾が飛ぶので塹壕や戦車相手に斜め上から攻撃できる便利な兵器だった。
巧妙に隠蔽されたトーチカや洞窟からアメリカ海兵隊員に向けて射撃を行った。
射程距離こそ短いものの、山の上や丘の上に配備すると結構使えた。
《4》 九七式曲射歩兵砲
実戦における九七式曲射歩兵砲は、その軽量さや発射速度の速さ・発砲時の音や煙が少ない点が高い評価を得た。
しかし、ストークブラン式迫撃砲の本質的特徴である射撃精度の低さからくる弾薬消費の多さが好まれかった。
当初は、二線級師団の代用兵器として中国戦線の警備部隊に配備が進められた。
太平洋戦争勃発後は九四軽迫および九六中迫と同様に、南方戦線の要求から生産数が増加し、その軽便さを買われて海上機動旅団の主要重火器としても配備されるようになった。
砲弾は、同じくストークブラン社の迫撃砲をライセンス生産したアメリカ軍のM81 迫撃砲と安全に互換でき、日米双方とも敵国製弾薬の射表を用意していた。
《5》 十式擲弾発射筒
命中率&射程距離が低い為に、早々に八九式擲弾発射筒に交換されたが、信号発射用として砲兵隊等に使用された。
《6》 八九式擲弾発射筒
当時のグレネードランチャー的な兵器に、ライフル・グレネードと呼ばれる直接グレネードをライフルの先に着けるタイプと。
発射器を、ライフルの先に着けてから擲弾を装填するタイプがあった。
しかし、日本軍は専用の発射筒を開発して戦場に投入した。
一般のライフルグレネードは、150メートル~200メートル程の射程距離しか無いが、八九式擲弾筒は役600メートルもの射程距離を誇る。
威力も射程距離も小型の軽迫撃砲並みであり、カタログスペックだけならソ連の軽迫撃砲並み。
アメリカ兵は、ニーモーターと呼んで実際に膝に据え付けて発射し、足を負傷してしまう事故もあった。
中国国民党軍では、本発射筒を参考に二七式擲弾発射筒を開発して戦場に投入した。
八路軍では、国民党軍から滷獲した物と、日本軍から滷獲した物を小改良して、どちらも二七式と呼んで後の戦争でも使用した。
更に、沖縄戦では組織的に使用され、アメリカ軍にかなりの損害を与えた為に、アメリカ軍はベトナム戦争にて、グレネードランチャーを開発する事になった。
これ等以外にも、兵器は有りましたが書ききれないので代表的なこれ等で終わらせます。