書ききれなかった日本陸軍の武器、つまりオマケと言うか番外編
今回は小火器類を紹介しまして、次回は軽迫撃砲を紹介します。
拳銃
《1》 コルトM1903
米国製の拳銃で日本陸軍将校で、裕福な士官は購入していたらしい。
しかし、実物はスペイン製のパチ物が多かったとも。
南部式拳銃や十四年式拳銃が重かったため、将校には、小型で軽いので好まれた。
《2》 ルガーP08
日本陸軍将校に人気だったらしい拳銃だが、輸入はされていたようだが、高級品な為に数は少なかったと思われる。
蘭印にて、滷獲された、三千丁のルガーP08は、オランダ植民地軍が使用した物である。
同じく、三千丁のベ式機関短銃と共に、憲兵隊に配備された。
コレに、菊の紋章が彫られたとあるが、これは後世の創作である。
《4》 二十六年式拳銃
日本陸軍初の国産拳銃で、シングルアクション方式。
威力が低かったとも言われていたが、憲兵隊などで現役で使用されていた。
《5》 桑原製拳銃
騎兵隊向けに、片手で操作出来るように、シングルアクション・ダブルアクション両方出来るよう設計された、リボルバー式拳銃。
見た目は、二六年式拳銃と変わらない。
《6》 賓田式拳銃 (一式)
《7》 ハケ式 (二式)
一式は、不足する将校用拳銃として、製作された拳銃で三千丁が製作された。
二式は千五百丁作られ、戦局悪化の為に仮制式を飛ばして採用された。
コレ等で現存する物は余り無い。
《8》 南部式 (各種)
(1) 大型で通称 甲
(2) 大型で通称 乙 陸式
(3) 南武小型 丙
(4) 十四年式拳銃
これ等の内で、甲・乙は装弾数が八発であり、小型である丙は七発でした。
また、甲・乙は8ミリ弾を、丙は7ミリ弾を使用しました。
甲は、陸軍に導入されて複数が将校に購入された。
後に改良を施され、十四年式拳銃へと発展して、これが将校達に購入される様になった。
因みに、十四年式拳銃は直接、銃工である南武氏が関わった訳では無いので、南武十四年式拳銃とは言わないそうです。
南部氏は、元になった南武大型・小型の開発には携わってましたが、十四年式には関わらなかったので。
(2) 乙は、海軍に採用され陸式拳銃と呼ばれました。
(3) 直、十四年式小型(丙)は後のアメリカの拳銃であるスタームルガーに影響を与えた。
(4) 十四年式拳銃
陸軍に、正式採用されたが、南部とは言わない。
(5) 北支十九年式拳銃
改良品で、デザイン・構造は相違点が多くて、十四年式の非実戦的な部分の多くが改善されており。
大量生産を意識した構造で、生産も日本ではなく、日本軍占領下の中国・北平(北京)で生産された。
陸軍の十四年式拳銃は、前期型と後期型が存在しており。
それと、十四年式の前期型・後期型について。
前期型は、引き金を引く部分が丸く円形。
後期型は、引き金を引く部分の円が二重に重なった指を入れやすい形状でした。
更に、時期により十四年式も若干の形状の違いが有るらしいです。
詳しくはwikiや他のサイトを御覧に。
十四年式の記事の最後に、南武大型各種は、中国・タイ等に輸出されたらしいです。
《9》 日野式拳銃
1903年(明治36年)、特許が出された日野熊蔵陸軍中尉設計の拳銃。
世界でも珍しいブローフォワード機構を持ち、投資家の小室氏と組み、販売は小室銃器で行われたため小室式拳銃、日野ー小室式拳銃とも呼ばれる。
生産数は、僅か500丁の為に幻の拳銃となっている。
アメリカ・イギリスでも特許を取得している。
ブローフォワード式は、拳銃の後退するブローバックと似たような物だ。
銃身が固定されており、フレーム全体が前進する方式である。
つまり、拳銃本体を図で表すと。
ブローフォワード。 ←銃身・後部
ブローバック。 銃身・後部→
このようになる。
また、この銃は民間で販売されたが、戦後アメリカ兵が戦場で拾った物が発見された事から、極一部は下士官が実戦で使用したと思われる。
《10》 小型オルトギース拳銃。
関東憲兵隊に配備された、ドイツ製の拳銃。
《11》 アストラM100ピストル
昭和6=1937年、満州事変から終戦まで、日本の民間では国防献納運動が盛んでした。
これは、小学校をはじめとする学校や、企業、組合、団体、個人など。
これ等が募金によって、お金を集めて、陸海軍に兵器を寄贈=献納する運動です。
陸軍に献納された兵器には、愛国が、海軍に献納された兵器は、報国が打刻されました。
このアストラは、もちろん海軍にも献納されていました。
アストラなど、スペイン製のエイバルピストルだが。
これらは、大正末から昭和初頭の間に、約60万挺強が、日本の銃砲店に正規輸入されています。
そして、神戸を中心とする悪質銃砲店が、国内遠隔地や海外日本領の銃砲店に転売しました。
これに関して、警察の帳簿点検の目をくぐり=籍抜け、されました。
そして、当時日本の租借地だった大連などを経由して、中国に密輸されました。
この密輸が、刑罰が緩く利益が大きかったこと&中国の内戦を煽ることが国益にかなう。
そう考えられたという背景があります。
その残余が国内の銃砲店に滞留しており、このような献納拳銃や将校用私物拳銃としてですが。
日本軍に利用されるとともに、中国に密輸された物が再び日本兵に鹵獲されるなど。
こう言った経緯で、日本軍用になった物もあるようです。
《12》 試製一式軽機関銃。
一型。
南部麒次郎率いる南部銃製作所にて研究されていたもの。
実質的には九九式軽機の小改良版である。
空挺部隊向けに簡素化された分解機構の実装や、発射速度の高速化などが行われた。
二型。
東京瓦斯電気工業で研究されていたもの。
元々は、九二式普通実包&九九式普通実包の混用を可能とする為に開発されていた物である。
そして、装弾機構は、九二式重機と同じ保弾板が用いられていた。
甲と乙があり、後者のみ後脚を装備。
銃床を取り付ける位置が、九九式軽機の握把根本付近から機関部後端に変更された。
これにより、より連射の衝撃を受け止めやすい直銃床へと進化した。
三型。
型をベースに名古屋陸軍造兵廠にて研究されていたもの。
実質的に九九式軽機の戦時省力型とも呼べる物だが。
装弾機構は、製造が容易なZB26Z軽機型の長方形箱弾倉を採用していた。
しかし、制式採用には至らなかった。
銃床は、二型と同じ直銃床型となっていた。
《13》 試製三式軽機関銃。
1943年=昭和18年頃に開発。
九九式軽機の戦訓や試製一式軽機で得られた知見を集約した改良型である。
また、帝国陸軍が開発した最後の軽機関銃。
実質的には、九二式/一式重機をも置き換えうる、日本初の汎用機関銃とも呼べる物であった。
装弾機構は、九二式重機と同じ保弾板を採用して、九二式普通実包を用いる事も出来た。
銃床は、試製一式軽機三型の直銃床を、更に細身にした物を採用している。
九九式軽機&試製一式軽機と、機能上の差異は、後脚が銃床から握把先端へと移設された。
この事で、これにより握把は従来式ピストル型から細長い棒状型へ変更されている。
九九式軽機の生産が優先された事や、用途が先行量産された、一式重機と重複する事。
等々の理由から、ごく少数製造に留まった。
《14》 試製超軽機関銃。
1938年に採用試験が実施されたが、不採用。
試製超軽機関銃の審査結果。
精度は、九六式軽機関銃に劣る。
部品の破損多い。
製造が難しい。
日本特殊鋼製の競作中であった、試製自動小銃丙型を、軽機関銃へ改造した試製超軽機関銃。
トグルアクションのガスオペレーテッドと、かなり珍しいタイプ。
試製自動小銃丙号だが。
かなり特殊な構造であり、ガス圧とトグルを併用した、ディレードブローバックだった。
その内部機構は、試製超軽機関銃も同様である。
見た目は、戦後に登場する、ベレッタBM自動小銃&M14バトルライフルに似ている。
軽機関銃と言うより、自動小銃に見えるが、時代を先取りし過ぎており、見事に不採用となった。
左側を開き、銃身を出せる防盾としても機能する防弾ベストに載せられた写真がある。
また、カテゴリーが軽機関銃なので、二脚を装備している。
《15》 試製四式車載重機関銃。
この銃は、第二次世界大戦中に、大日本帝国陸軍が試作した、車載機関銃=重機関銃。
本銃だが。
従来の九七式車載重機関銃に代わる銃器。
さらに故障が少なく、命中精度に優れる機関銃として、開発が始められた。
原型となった機関銃は、航空機用であるドイツのラインメタルMG15とMG17だ。
前者は、既に陸軍で、九八式旋回機関銃として、国産化=ライセンス生産されていた。
後に、海軍でも、一式旋回機銃として、国産化=ライセンス生産された。
1940年=昭和15年、9月。
立川の陸軍航空技術研究所=技研から、MG15とMG17が貸し出されて、射撃試験が行われた。
また、1941年=昭和16年1月には、7.7ミリ銃身に換装した車載型の試験が行われた。
また、3月には薬莢と薬室の設計を改良。
4月には、試製重機関銃Ⅰ型と言う名で、全体の設計が開始された。
その後、1942年=昭和17年3月までに実用試験を完了させる計画であった。
しかし、果たせず、1944年=昭和19年6月に、試製四式車載重機関銃の名でだが。
伊良湖射撃場での試験が記録されているが、終戦までに実用化されることはなかったという。
開発系譜を擬人化して喩えると。
M15とMG17は、MG30の発展型である。
また、MG30は、MG34の前身なので、MG15とMG17はMG34のいとこにあたる。
試製四式車載重機関銃は、MG15とMG17の子供である。
なので、MG34のいとこ甥、或いはいとこ姪にあたる。
これらも、フィリピン・沖縄・硫黄島で末期の兵器不足から極少数が実戦投入されたんだろうか。
《15》 九八式旋回機銃 (MG15)
弾薬が、主力の機関銃と互換性が無く不便なことと、【この問題は乙型で解消】。
構造が複雑なために生産性が悪かったことからわ数百丁しか生産されなかった航空機用の機関銃だが、一部が地上用の機関銃として転用された。
給弾方式は、サドルマガジン式。
転用された物は、奇妙な形状の二脚を装備している。
YouTubeでは、鉄製ストック。
wikiでは、ストック無し。
地上用やインドネシア博物館の写真では、木製ストックを備えている。
正直、デブにゃーちゃんは良く分からないです。
いや、鉄製ストックのはMG15の物を流用したのかも知れませんし、或いは銃その物を輸入した実物かも知れないです。
それから、甲型と乙型のどちらかが、ストックの有り・無し~~なのか素人にゃ分からないって、こってすわ。
(;゜∇゜)
(1) 甲型
7、92✖️57mmモーゼル弾を用いる最初の生産型。
乙型の採用に伴い、甲型として区別された。
(2) 乙型
放熱構造を簡略化して、銃弾を八九式固定機関銃や八九式旋回機関銃と同じ八九式普通実包7、7✖️58SRに変更した。
(3) 一式旋回機銃
.303ブリティッシュ弾を用いるため同じMG15のライセンス生産品でも、弾薬に互換性が無い。
(4) 試製四式車載重機関銃
戦車の車載機関銃として開発された機関銃で、MG15やMG17が開発のベースになった。
次回は日本軍の小銃か、迫撃砲&手榴弾類を語りたいと思います。
《16》 試製九十八式重機関銃
役、千五百六丁も生産された水冷式の機関銃であり、満州~ソ連国境に多数が配備された。
一部は、タイに輸出されている。
直、現在では水冷式の機関銃は、中機関銃と呼称されている。
《17》 一式重機関銃
九二式重機関銃に変わる、中隊用の重機関銃として開発配備されたが、九二式の生産が優先された為に、製造・配備数が足りず余り活躍出来なかった。
一応、実戦にはそれなりに配備された様である。
《18》 九一式車載軽機関銃。
十一年式軽機を車載用に改造したもので、基本的な構造は同様である。
初期型は二脚を付けたまま車載した。
後に、防弾器=銃身被筒が制定された事により、二脚を着脱式とし、車載時には取り外した。
車内では、基本的に短銃床=床尾が無いものを用いたが。
長銃床=十一年式軽機と同様式で、やや短い床尾がある物に付け替えることも可能だった。
装填架の高さを増すことで、5発挿弾子の収容数を9個=計45発に増やした。
また、狭い車内で取り扱う都合上、装填架と銃との結合方法を改め、装填架を後方から装脱できるようにした。
照準眼鏡=光学照準器が付属した。
射距離300メートル設定、倍率は1.5倍であった。
銃の上部に塗油装置があり、銃中心軸から右に偏って装着された。
この照準眼鏡は、十一年式には無かった。
車輌から取り外して、高射具に載せ、高射機関銃として用いることもできた。
車輌から取り外して通常の軽機関銃として用いる事もできた。
その際には防弾器と照準眼鏡を外して、二脚と長銃床を取り付けた。
1932年=昭和7年から、1936年=昭和11年にかけてだが。
陸軍造兵廠名古屋工廠で、2000挺余りが生産された。
八九式中戦車。
九二式重装甲車。
九四式軽装甲車。
~~等々に搭載されていたが、後に九七式車載重機関銃の登場で改編された。
生産された数が2000挺余りとあるので、装備していた車両から外されて使用された例は少ないだろう。
また、改編されたとあるが、初期生産型から取り外されて、九七式車載重機関銃に付け替えられたか。
それとも、時期生産型から九七式車載重機関銃を搭載した車両が生産されたのは不明である。
《19》 九七式車載重機関銃。
本銃を装備した車両だが。
交換用の予備銃身。
復座バネ。
整備用具を収めた箱。
二脚。
~~等々が載まれている。
二脚は車体・砲塔より外した本銃を、軽機関銃として地上戦闘で使用する際に装着する。
また、砲塔上部に高射機関銃架=対空機関銃架がある場合だが。
本銃を銃架に載せて、対空・対地射撃を行うことができる。
本銃は、1930年代後期以降の帝国陸軍主力車載機関銃としてだが。
主力新鋭機甲兵器。
九五式軽戦車、ハ号。
九七式中戦車、チハ。
九七式軽装甲車、テケ。
~~等々などに搭載された。
そして、日中戦争=支那事変から太平洋戦争=大東亜戦争。
また、第二次世界大戦、終戦時に至るまで使用された。
それから、大戦後期に開発された兵器。
三式中戦車、チヌ。
四式中戦車、チト。
五式中戦車、チリ。
および、試製新砲戦車=甲、ホリなども本銃を搭載ないし、搭載予定であった。
以下の車両には、九七式車載重機関銃が搭載されたんだろうか。
■ 九一式広軌牽引車。
大日本帝国陸軍が、1931年=昭和6年に採用した、鉄道部隊用の装輪装甲車である。
タイヤによる路上走行だけでなく、鉄輪に交換する事で線路上を走行可能である。
~~という特徴を持っていた。
■ 九五式装甲軌道車《95しきそうこうきどうしゃ》。
中国大陸で鹵獲された、チェコスロバキア製のZB26軽機関銃を原型とする武器。
試製B号軽機関銃を改造した車載型、甲号を作り上げた。
その後、1937年=昭和12年、7月に完成した
大日本帝国陸軍が、1935年=昭和10年に採用した鉄道用装甲車。
軌道走行用・鉄輪のほかに無限軌道を備え、軌道外走行も可能だった。
略称はソキ、装甲と軌道の頭文字である。
少数が、ビルマ戦線に投入された。
オマケ。
試製対空戦車、 ソキ。
大日本帝国陸軍=日本陸軍が、第二次世界大戦中に開発した対空戦車である。
搭載火砲は、20ミリ機関砲を連装とした、ソキ砲II型であり、ソキ車とも呼ばれる。
もちろん、ソキとは別物である。
さて、対空戦車である、ソキ車だが、これ以外は日本軍の鉄道車両である。
動力車。 牽引車。
~~と言われており、鉄道部隊では武装したかったが、他部隊からは武装を禁止された。
理由は、武装すると装甲車となり、他兵科の兵器となるからである。
よって、ソキ&九五式装甲軌道車には、武装が搭載されていない。
回転銃塔には、代わりに機銃マウントだけが搭載された。
これは、平時だと武器マウントに装着せず、軽機関銃を載せるためであった。
そして、非常時には武器マウントから用意に、軽機関銃は取り外されて、乗員に使用された。
この軽機関銃に、九六式軽機関銃・九七式軽機関銃を装着したかは不明である。
しかし、ソキでは、十一年式軽機関銃を乗員が使用していたらしい。
もしかしたら、九七式を乗員が装備していた可能性も否定できない。
⭐️ 試製A型。
後に、九六式軽機関銃に発展・正式採用された。